忍者ブログ
[1015]  [1014]  [1013]  [1012]  [1011]  [1010]  [1009]  [1008]  [1007]  [1006]  [1005
これから幾つか、創作の土台となる基本思想を考察して明確にしておくつもりだが、それは或る意味、哲学でもある。我々があまりに当然だと思っていることを、改めて、それは当然なのか、と考察しようということだ。まあ、さほど考察ネタがあるとは思わないので、二つか三つで終わるかもしれないが、一応「創作のための哲学」という項目を立てておく。
忘れないように書いておくと、「少数者による多数者の支配の原理・手段」というのもその一つである。

だが最初はまず、「戦うことの意味」を考えたい。
意味も何も、人はふつう戦いに「巻き込まれる」のであり、自分の意志で戦いを起こす、あるいは参加するのは稀である。後者(参加)はたとえば戦争(広義のそれ)が勃発した際に起こる。前者はその戦いによって経済的利益を得る資本家や支配階級が積極的に戦いを起こすことなどである。だが、それは「戦う当事者」の問題ではないので、ここでは深くは追究しない。

だが、フィクションにおいて男は(稀に女も)ほとんど常に「戦う人間」である。そこにどういう意味があるのか、というのがここでの主な考察主題だ。
もちろん、創作側から言えば単純に「戦いは面白い」からであることは明白だ。いろいろな冒険、危険、スリルに満ち、感動的場面も作りやすい。人間性の本性も出る。特に相手は悪、こちらは善、とするなら受容者(読者・観客)の共感も得やすい。そして、たとえフィクションでも「死」の切実さは読者や視聴者を興奮させやすいのだ。

では、現実とフィクションを問わず、戦う当人は「何のために」戦うのか。
1:自分の生命や身体、財産を守るため。
2:自分の家族、恋人、友人を守るため。
3:自分の属する組織や国家を守るため。
4:戦うこと(暴力・殺人)が好きで楽しいから。
5:戦いでカネ(利益)を得るため。
6:国家や組織に強制されてやむなく。

まあ、ほかにもあるだろうが、これくらいにして後で思いついたら付け加える。
この中で、4は稀少な例だろうが、実は武道漫画の本質はこれである。自分の中の暴力衝動の解放と満足が勝負の勝ち負けでとどまれば武道やスポーツであり、殺人に至れば戦争だ。
6が、徴兵された兵士の大多数だろう。その内心の葛藤を描けば反戦小説や反戦漫画になる。
5は、たとえば「ブラックラグーン」や「ゴルゴ13」の世界である。ハードボイルド小説にもしばしばこの種の「殺し屋」は出てくる。そして受容者はそのクールな殺し屋(或る種の「超人」として描かれる。)たちをカッコいいと思うのである。いや、これは非難しているのではない。ただ、受容者のそうした「暴力や殺人への嗜好」を直視して論じた人は少ない気がする。べつにPTA的モラルだけの問題ではなく、大きな社会的影響が、案外そこにあるかもしれない、という話だ。

で、以上3つを除けば、他の3つが「何かを守る」でくくられるのは面白い。6もそのひとつであると言える。徴兵を拒否したら非国民扱いされ、自分も家族も生きづらくなるのが明白だから、自分や家族を守るために徴兵に応じるわけだ。
つまり、或る種のサイコパス(武道家も軽度サイコパスと私は見ている。いや、勝敗が基本要素のスポーツ、つまり勝負事を好む人間も広い意味ではそれに属するかもしれない。)を除けば、人は「自分やその関係者を守る」ために戦うわけである。
何を当たり前のことを仰々しく書いているのだ、と言われそうだが、哲学とはそういうものだ。
「当り前のこと」が本当に当たり前か、丁寧に検証していく作業が哲学なのである。

通常の冒険ものとたとえばゾンビ物との違いは、前者がふつう自分から積極的に戦いに参加するのに対し、後者は「襲撃されて、その防御としてやむなく」戦うということだろう。そのため、私などから見れば、後者にはホラー性やスリラー性はあっても「爽快感」は少ないように思う。そもそも、明るい美しい自然の中でゾンビと戦う映画やドラマはあまり無いのではないか。美しい野原や陽光とゾンビは似合わない。ゾンビ物の「束縛感」「閉塞感」とその舞台は対応しているようだ。
つまり、「戦う」とは言っても、その「快感」(見る側の快感)は戦いの種類(戦に至る状況や戦いの必然性)や相手によって異なるのではないか、という「断片的思想」をここで提出したわけだ。
ただし、私が途中で視聴放棄したアニメだが、「ゴブリンスレイヤー」などは、相手がゾンビ的存在だのに、主人公側が積極的に戦いを挑むわけで、これは「害虫駆除」アニメと言うべきかと思う。「ゴーストスイーパー」の類だ。「GS美神」の非コメディ版と言える。ただし、「ゴブリンスレイヤー」は視聴にうんざりするほど欠点は多かったが、「戦略」の面白さを追求した姿勢だけは私は良いと思っている。
この「害虫駆除」というのは、実は「殺し屋もの」と共通性があり、殺し屋たちが殺す相手はたいてい社会の悪的存在に描かれている。そうでないと視聴者に不快感を抱かせることを作り手側は熟知しているからだ。「必殺シリーズ」と言うか「仕置人シリーズ」などもそれで、殺される奴はたいてい悪い奴である。だが、現実には政権や上級国民にとって都合の悪い野党政治家などが暗殺されるのであり、そこは現実とは大違いである。

「戦うことの意味」については、考察は不十分(たとえば仲間うちの戦い、内ゲバの問題など)だが、長くなったのでこれくらいにしておく。



PR
この記事にコメントする
color
name
subject
mail
url
comment
pass   Vodafone絵文字 i-mode絵文字 Ezweb絵文字
プロフィール
HN:
冬山想南
性別:
非公開
P R
忍者ブログ [PR]

photo byAnghel. 
◎ Template by hanamaru.