物語創造のメカニズム
1 オブセッション(強迫観念)
創造の土台にあるのが、このオブセッションである。創造におけるオブセッションとは、何かが自分にとって切実に感じられるという気分である。実際、それは創作者にとって重要だと本能的に思われ、したがって、それについて考えることやそれに時間を費やすことは意義があると感じられる。このオブセッションが無い創作活動は、ただのルーティンワーク的作業になる。大多数の二流創作家の仕事が尻すぼみになるのも、このオブセッション無しで物を作ろうとするからである。
どのような人間にもあるオブセッションは、性欲と恐怖である。したがって、性と恐怖は物語的芸術の柱である。
性欲の一つの形態が恋愛である。恋愛とは美化された性欲である。しかし、美化するという行為はけっしてつまらないことではない。逆に、美化されない現実はそのままでは芸術的なものにはならない。
エロスとタナトスの欠如した作品は、一般人の本能を引きつける要素がない。笑いの芸術はその両者を欠いたものが多い。したがって、高度な感覚を持った人間でないと笑いの芸術は理解できない。笑いの芸術では性も死も笑いの対象であり、したがって人間存在そのものが高い次元で客観視されている。そのようなメタ意識が笑いを理解するには必要なのである。粗野な、野獣的人間は笑いを理解できない。
2 自らの作った虚構に没頭できる能力
創造において一流と二流を分ける部分が、この虚構への没頭、言い換えれば「熱」である。天才的創作者は、自らの作った虚構に没頭する。その没頭している時間は彼らに充実感を与える。だから、彼らはたいていワーカホリック的に長時間の仕事を平気でやる。たとえ報酬がなくても彼らは自分の好きな仕事をやるだろう。実際、天才的創作者の得た報酬は、彼らの費やした時間と努力に対して、驚くほど微々たるものである。しかし、実は仕事自体が彼らにとっては第一の報酬であったのだ。
物を作る能力と、それを売って報酬を得る能力は、まったく別である。
3 問題とその解決
あらゆる創造は、突き詰めると「問題の発見とその解決」である。そのうち、より重要なのは、「問題の発見」である。これはいわば、虚空の中から物体を取り出すような行為であり、神の天地創造に等しい。
適切な問題を発見すれば、後の創作行為はルーティンワークに近い。
もちろん、「問題のいいかげんな解決」では一流の創造にはならないが、すぐれた問題は、それ自身の中にすぐれた答えを蔵していると思われる。
宮崎駿(だけの創造ではないが)の初期の傑作「未来少年コナン」において、ヒロインのラナにテレパシー能力を与えたのは、通常ならば蛇足とされるだろう。しかし、ドラマの最終段階において、ラナのテレパシー能力が無いと、この物語はあれほど見事に完結しなかっただろう。そこまで見越して、つまり最終ステージから逆算してラナにテレパシー能力を与えたのか、それとも直観的にそういう設定でスタートして、それをうまく利用して最終場面に持っていったのか、そのどちらであるかは不明だが、創作者の物語への没頭はしばしば「問題への奇蹟的な解答」を呼びよせるものだと思われる。
物語的芸術における「問題」を言い換えれば、「物語の基本設定」である。どのような人物が、どのような状況にいるか、ということだ。その人物や状況の設定は、ありえないようなものでもよい。たとえば、考えるだけで人を殺す能力がある人間でもいい。ある小学校全体が異次元に飛ばされるという状況でもいい。
読者は、そういう基本設定自体は、それをフィクションの特性として容易に受け入れる。だが、その設定からはありえない事柄が生じると、読者はそれを駄作であると判定する。
「デス・ノート」の基本設定は、「ありえない話」である。だが、その進行はすべて合理的である。最初の設定(あるいは途中で追加された、あるいは途中で明らかにされた設定も含め)を裏切るようなご都合主義は無い。読者は、その物語に参加し、その合理的進行と問題の合理的解決に酔いしれるのである。
4 物語芸術における創造のセオリー
少年漫画における一番単純なストーリー展開は、「勝負と勝利」の連続である。これを「バクマン」では「王道バトル物」と呼んでいる。この方式だと、「強敵の出現」「それをいかにして倒すかという問題の発生」「特訓や援助によって強敵を倒す」の繰り返しで、いくらでも物語を続けることができる。しかも、大多数の読者にとっては、自分が感情移入している主人公の勝利は自分自身の勝利の快感と同一なのである。したがって、「読む者に快感を与える」という最大のサービスが確実に保障されている。だから「王道」なのである。後はそれにお色気と笑いをまぶせば、それでいい。
だが、年少の読者ならそれでいいが、ある程度の批判精神を持った読者には、そういう「営業セオリーで作った作品」は鼻につくものである。
手塚治虫は、そういう「王道バトル物」はおそらく一度も書いていないだろう。
それは、そこには彼のオブセッションが存在しないため、彼に創作させる熱を与える要素が存在しないからである。
「王道バトル物」に近いが、そこに作者のオブセッションが加わって傑作になったものが「あしたのジョー」である。丹下段平というキャラクター、力石徹というキャラクターには、通常の「王道バトル物」には無い、「赤い血」が流れている。それは主人公のジョーにしても、その他の脇役にしてもそうである。つまり、梶原一騎は物語を愛していたし、「営業セオリー」で物語を作ろうなどとは少しも考えていなかったのだ。物語要素の順列と組み合わせで物語を作るなど、彼は考えていなかった。(彼が物語を常に人生論として描いたのは、「巨人の星」の主人公の名前を「飛雄馬」=ヒューマンとしたことからも分かる)彼はジョーという野性的少年がボクシングを通じて人生と格闘する姿を描きたかったのだ。もちろん、「あしたのジョー」は「強敵の出現」とその「対策」「勝利」の連続という、見かけは「王道バトル物」そのものだ。だが、それは力石の死後の話だ。力石徹が死んだ時点で、この話はほとんど終わっていたのである。それが魅力的キャラクターを生み出すことの功罪である。
小説の話だが、「銀河英雄伝説」でヤン・ウェンリーが死んだ後、もう一人の主人公、おそらく真の主人公であるラインハルトの生にはほとんど意味がなくなる。これは力石が死んだ後のジョーに似ている。主人公を上回る魅力のあるライバルは、もはや物語の実質的主人公なのである。ならば、それが死んだら、物語は終わりだろう。
王道バトル物の話はここまでとする。
5 なぜ物語を書くのか
山岸凉子は短編の名手だが、彼女はなぜ物語を語るのだろうか。
あるいは世界一長い小説である「グイン・サーガ」を書いた栗本薫は、なぜ物語を語るのだろうか。
この両者にあるのは、「物語愛」とでもいうべきものである。短編で無数の名作を書いた山岸凉子も、長編小説を延々と書き続けた栗本薫も、物語が好き、という一点で共通している。そしてそれはあの膨大な物語群を生み出した日本最大の天才、手塚治虫も同じである。
彼らはみな、物語が好きなのである。おそらく、他人の作った物語を読むのも見るのも好きだろうが、自分の中にある物語を形にするのがもっと好きだったのだ。
では「自分の中にある物語」とは何か。
それは、広い意味での「人生の可能性」ではないだろうか。
物理的・社会的に縛られた自分の人生とは別に、すべてが可能な世界が物語の中にはある。その世界を作り、その世界の中の登場人物と生きることで、彼らはもう一つの人生を生きているわけだ。他人の作った物語よりも、自分の作った物語のほうが性に合うのは当然だ。
つまり、ヴァーチャルな生こそが彼らの実人生以上の快感を彼らに与えていたのではないか、と推測できる。
リラダンの言葉を借りれば、「生活などは召使にまかせておけ」ということである。これはランボーも同様のことを言っている。「我々の人生とは(行為などではなく)我々が考えたその中身だ」と。
そしてまた、それは優れた物語を読む時の我々の気持ちでもある。
優れた物語を読む時、我々は「高次元の生を生きている」のである。
もちろん、そこには「現実」は無い。実際の肉体も実際の自然もない。
実際の肉体や実際の自然、つまり現実以上の価値あるものはありえない、と考えるのも一つの考え方だろうし、むしろそのほうが一般的な共感を得るだろう。
だが、我々は優れた芸術に触れることで、「より高次元の生」を知るのである。
これは、優れた詩や絵画に触れることで、人格が変わるということでもある。それだけ芸術とは凄いものなのである。たとえば、ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」を読む前と読んだ後では人生や世界の見方に大なり小なり変化が生じるだろう。これは人格が変わったということだ。べつに宗教的になったり道徳的になったりするということではない。「ドストエフスキーの目と頭」の一部があなたに転移して、物の考え方がそれ以降は少し変わってくるということだ。これが芸術の力である。場合によっては全人格の大変容が起こることもある。それが幸福な変化であるとばかりは限らないが。
話を物語に戻す。
物語とは高次元の人生である、と定義しよう。現実には不可能な「人生の実験場」、それが物語だ。つまり、物語を読まない人間の人生はリアルな、その人の等身大の人生で終始する。それも必ずしも悪くはない。しかし、我々は自分の人生以外に、頭の中でヴァーチャルな人生を生きることができる。それが物語だ。
この麻薬に取りつかれると、物語の無い人生、フィクションの無い人生に耐えきれなくなることもある。いわゆる「本に読まれる」状態だ。
それもまた困りものだが、限定され、不自由の極みである現実人生よりも楽しい人生を味わえることは、この世における大いなる恵みの一つである。
なぜ物語を書くのか。
それは、書き手にとって、それが楽しいからである。たいていの場合、自分の現実人生以上に。
したがって、物語を考えることが楽しくないなら、その人は物語作者としては大成できないだろう。
6 キャラクター
物語芸術におけるキャラクターとは何か。
それは、第一に作者の分身である。しかし、作者自身ではない。だから、作中人物を殺したり、悲惨な目に遭わせたりすることも作者はやる。
「赤毛のアン」の中には、アンが自分を悲劇のヒロインに見立てる場面がしばしば出てくる。悲劇は、それが本当に自分の身の上にふりかかったら、これほど悲しく苦しいものはないはずだ。しかし、アンが自分を悲劇のヒロインに見立てることで快感を得ているのは確かだ。これはなぜだろうか。
あるいは、お芝居としての悲劇を見る観客は、そこに何かの快感を得ているはずだ。それは何か。
「あなたは他人がひどい目に遭うのを見て面白いのですか?」と彼らに聞いたら、彼らは「自分はそんな残酷な人間ではない」と、憤然とするだろう。しかし、実際には彼らは悲劇を見て楽しんでいるのである。それが可能なのは、それが他人の身の上だからだ。
他人とは言っても、それが現実の人間の身の上なら、見る側も平静ではいられないだろう。しかし、芝居や小説の人物ならば、我々はそれがフィクションであると知っているから、その悲惨な身の上も平気で見ていられる。いや、平気ではない。我々は自分が感情移入をした人物の身の上を平静に見ることはできない。フィクションの中の好きな人物には幸せになってもらいたいし、嫌いな人物が悲惨な目に遭うと快哉を叫ぶ。
映画の初期の時代に、スクリーン上の悪漢にピストルを撃った観客がいたそうだが、その気持ちは誰にでもある。
これが、フィクションは第二の現実である、ということだが、フィクションの中の人物は、我々の愛憎の対象になるのである。その愛憎の感情が、ドラマを見る快感の土台だ。
アンの話に戻ると、アンは悲劇のヒロインがひどい目に遭うからそれを好んでいるわけではない。悲劇のヒロインとは、たいてい美女であり、気立ても良い。自分がそういう人物であったら、と空想するのがアンは好きなのだ。そして、ヒロインの受ける悲劇的運命は、「それを味わわなくてすむことの幸せ」を彼女に感じさせ、それがフィクションであることは彼女に「安全なスリル」を味わう機会を与える。
ある作家が書いていたが、作者が主人公を美男だとも美女だとも書いてないのに、読者は必ず主人公を美男か美女だと思い込むそうである。
それがフィクションのお約束だから、とも言えるが、実は読者の「そうあってほしい」という願望の反映だろう。自分が感情移入した人物と自分を同一化しているのだから、それが美男美女であってほしいのは当然だ。
「タッチ」の主人公は、最初、何の取り柄も無い男として周囲から馬鹿にされている。ところが、ヒロインの南は最初から主人公に肩入れしている。これは非常に巧妙なやり方である。ヒロインがさえない主人公に肩入れしているということは、主人公に潜在的能力や魅力があることを示している。勘のいい読者はすぐにそれを読み取って、主人公と自分を同一化する。そうすれば、主人公への周囲の無理解は、読者にとって「俺の真価を知らない周囲の連中の反応」と同一になるのである。これが読者にとって快感であることは言うまでもない。「今でこそ俺はさえない存在だが、いつか俺の才能や魅力をみんな知ることになるぞ」というわけである。まあ、そんな日はまず永遠に来ないのだが、「タッチ」を読んでいる間はそういう妄想に包まれ、快感を感じているわけだ。そもそも、現実人生では南のような子がすぐ近くにいるはずもない。
7 物語作成の技術
物語とは、突き詰めれば「問題と解決」である。さらに加えれば、「問題と解決と報酬」だ。主人公の身の上に起こる様々な問題を主人公が解決することで主人公は報酬を得る。それを読む者は、主人公に感情移入しているために、問題解決の快感と報酬取得の快感を得るわけである。『高慢と偏見』は、結局のところ、主人公の男女がすったもんだしたあげく、結ばれるというだけの話だ。しかし、作者の腕によって、読者はこの話に引きずられて、どんどん先へ先へと読み進め、その間「物語を読む快感」を得続けるのである。
作り手の側から言えば、「物語作成の技術」とは「問題作成の技術」である。
推理小説などは、その問題を数学的論理性の問題に特化し、キャラクターはその説明の道具となったものだ。もちろん、キャラクターで読ませる推理小説も多いが、本質と基本は「奇抜な謎」にある。
例題1「バレリーナとしては致命的な身体的欠陥を持った少女はバレーの世界でどう生きるか」解答「創作バレーの開拓者としてバレーの世界で成功する」(「テレプシコーラ」)
もちろん、「テレプシコーラ」は複雑な作品であり、影の主人公である少女は本物の天才だが、性格破産者の父親を持ち、極貧の家庭で生きている。彼女を支えるのはただバレーへの情熱だけである。昔のドラマなら、こちらが主人公になっていただろう。だが、彼女は顔も醜いのである。さらに、主人公の姉は、すべてに恵まれた才能を持ちながら、学校ではいじめに遭い、しかもステージでの事故でバレリーナとしては再起不能になる。
こうしたさまざまなトラブルに満ちた三人の少女の半生がドラマにならないわけはない。
つまり、ドラマとはトラブル(難問)から生じるのである。
作者というものは、作中人物を平気でトラブルの中に投げ込む冷酷さが必要だと言える。言い換えれば、人生の暗黒を見つめることができる強靭な神経が必要なのである。
(未完)
これは、主人公や作中人物の「愛情と執着の対象」と、作者自身の「愛情と執着の対象」に分けて考えるべきだろう。
なお、「物事を分けて考える」のは、私がデカルトの「方法序説」で学んだ基礎的思考法である。「分けて考える」ことを大袈裟に言えば、「分析」である。分析して考えたことを最後にまとめる「分析と総合」が思考法の基本であるのは言うまでもないと思うが、それ以外に「直観」という大物がいて、宗教的な啓示などはそれである。だから、宗教者は(表面では論理めいた言い方をしていてもその内実は直観だから)論理では説得できない。
主人公や作中人物に愛情や執着の対象が創作上必要であるのはかなり必然的であり、それが無ければ主人公が行動する意味はない。たとえ敵から攻撃されて防御するだけの場合でも、自分の生命への執着があるから防御するのであり、それが無ければ大人しく殺されて話は終わりだ。
物事への執着からの解放を自分の思想の根底とした釈迦の生涯を手塚治虫が「ブッダ」で描くことがなぜ可能だったかと言うと、釈迦の生涯は「人生の根本意義は何か」という問題を解くことへの執着だったからである。
では、作者自身には「愛情と執着の対象」は必要か、と言えば、これも必要である。それは創作自体への愛情と執着だ。それが無ければ創作する意味は無い。ただし、創作の才能は別の話で、創作自体への愛情も執着も無いが、創作の才能はある人間もおり、逆に、才能は無いが創作への愛情と執着はある人間もゴマンといる。私もそのひとりだ。
私は性欲とか物欲とか名誉欲が希薄な人間なので、人間がそういうものを求めて大騒ぎする姿を想像するのも苦手なのである。つまり、「エロ・グロ・バイオレンス」という、大衆小説の三要素が苦手なのだ。だが、壮大な想像の飛躍は好きなので、SFとか思弁的小説は好きだ。昔の小説で言えば、スィフトやヴォルテール、あるいはマルキ・ド・サドの一部の小説などである。(サドの「虚栄の塔」など、実に壮大な哲学小説である。)
とすれば、私自身が書くべきものも、スィフトかヴォルテール、あるいはサドの作品を目標にすべきだろう、と、ここでやっと結論が出たようだ。
だが、書く能力は無いが、書きたい小説というのがあって、それが歴史小説である。特に、「壬申の乱」を中心にした大和朝廷の話と、第一次世界大戦直前を舞台にした政治的冒険小説は、才能のある作家にぜひ書いてもらいたいし、私自身が書けたら、素晴らしいだろうな、と夢見ている。
創作に一番大事なのは、読者や視聴者の興味を惹いて、先へ先へと読みたい、視聴したい気持ちにさせることで、私は小説の場合はそれを「小説エンジン」と呼んでいる。
で、それは地球の運命のような大袈裟なものでなくてもいいので、毎度引き合いに出すが、オースティンの「高慢と偏見」は、漱石(訂正:サマセット・モームである。)も言うように、特に大きな事件があるわけでもないのに、次のページ、次のページへと読者を引っ張っていく。その正体を大雑把に言えば、ベスとダーシーの恋が成就するか否かという、実に平凡そのものの「問題」なのである。ところが、問題自体は簡単だが、その解答に至るのは容易ではない。そこに読者の興味も増大していくのである。
この種の問題を考えるのは一見容易そうだが、全然そうではない。面倒臭がりの人間(私もそれだ。)だと、結ばれるのが難しいなら、あきらめたら? と考え、先を続ける気もしないのである。つまり、クロスワードパズルを作るようなものだ。作ること自体が面白いと思う人間でないと、作れないのである。恋愛に興味のある人間でないと面白い恋愛小説は書けない。
まあ、私は戦い(戦略)には興味はあるから、書くとしたら恋愛ではなく戦いの物語を書くべきなのだろう。
しかし、「敵と味方」というテーマだとあまり深い考察になりそうもない。なぜ、このテーマを思い付いたのかも覚えていない。そもそも、私は「味方の中にも敵がいて、敵の中にも味方がいる」というような話はあまり好きではないのである。ただし、「敵だった相手が、心を入れ替えて味方になる」話は嫌いではない。その好例が「未来少年コナン」のモンスリーである。
敵として実に手ごわい相手だけに、味方になった時の嬉しさは大きい。これは視聴者が嬉しいのである。主人公側に感情移入しているからだ。
これがゲーム(RPG)だと、敵の時は恐ろしく強いが、味方になるとまったく頼りにならない奴ばかりで、ゲーム制作者はどういう考えでそのパターンが多いのか、精神分析をしたいくらいであるww
私は、「問題と解決」は、創作の基本だと思っている。何かの問題があり、その解決の過程を書いていくのは論文だが、実は小説や脚本でも同じだ、ということだ。
たとえば、幼いころから巨人という球団に入ることを夢にし、それを実現した投手が、実は身長が低いために球が軽く球威がないという「問題」に直面したら、どうするか。当然、変化球の習得に取り組むだろう。これが、「巨人の星」の「問題と解答」だ。
あるいは、命に代えてもいいとまで愛する女性が人妻で、しかも相手が貞潔で不倫が不可能ならどうするか。「自殺する」のが答えである。これが「若きウェルテルの悩み」の問題と解答だ。
その解答が正解かどうかは問題ではない。問題が読者に切実に感じられ、その解答が感動的ならそれでいいのである。
そして、問題と解答は作品全体を貫くこともあれば、部分部分が小さな問題と解答で長々と続いていくこともある。読んだことは無いが「ワンピース」などはそれだろう。ただし、一応、「ワンピースとは何か」という謎(問題)が話の底流にはあるようだ。
私が一番面白く思っているのは、昔の三流漫画家(一応、流行漫画家でもあった。)のひとりが、話の作り方を聞かれて、「主人公をほとんど解決不可能な困難な状況に投げ入れて、そこでその回の終わりとし、酒を飲みに出る。そして、次回の締め切りが近づいたら、その難問に取り組み、頭を振り絞って打開策、解決策を考える」というものだ。これは、第一に、「引き」という、連載物のセオリーを見事に実現している。作者自身が問題の解答を知らないのだから、読者はその「謎(引き)」に夢中になるだろう。次回が待ち遠しくてたまらなくなるはずだ。そして、作者としては、切羽詰まれば知恵は出るわけで、多少強引でも前回の「問題」に答を出せばいいのである。
なお、私が一番面白く思うのは、「問題をホッタラカシにして酒を飲みに出る」という部分だ。そこにこそ、本当の知恵があるとすら思う。つまり、「煮詰まった状態」では頭は堂々巡りするだけで、知恵は出ない。そこでいったん頭を空っぽにする、ということが大事になるのではないか、ということだ。(別の言い方をすれば、自分が酒を飲み遊んでいる間に「無意識」という見えない仲間に仕事をさせるのである。)
で、人間の場合には文明が発達したために、その根源的本能が見えなくなり、「自己犠牲」などの倫理が自己保存本能を上回るようにさえなったわけだが、それを一概に否定すべきだとは私は思わない。そこにこそ人間と他の動物の違いがあり、価値があるのではないかと思うからだ。
倫理とは「禁止の体系」である、という言葉は実に見事な定義であり、すべて「あれをするな、これをするな」である。そのように、人間を不自由にさせるものが人間の文明になぜ必要だったのか、いや、あるいはそれこそ人類の文明の根本要素だったのではないか、と私は思っている。
動物には倫理は無い。人類にだけ倫理がある、というこの事は、もっと重視されていい。
だが、ここでは、自己愛、つまり自己保存本能はすべての動物のもっとも根源的本能だ、というところから出発しよう。
自己保存本能が根源的本能だから、自己保存に成功することは当の個体に快感を与えるようにできている、というのは自然なことだ。それは「死への恐怖」とセットである。
だから、あらゆるフィクションは生を快とし、死を不快とすることを大前提とするのは当然だ。死が快感なら、主人公は登場した瞬間に自殺したらいいwww
そして、自己の生を守るには、超人であることが一番いいに決まっている。
超人とは、並みの人間を超えていることだ。場合によっては、人間の根本条件すら超える「スーパーマン」も想定される。(その、弾丸をも跳ね返す「スーパーマン」は、なぜか女性とのセックスも可能らしいwww 彼の皮膚は実に都合よくできているようだwww)
まあ、難癖はともかく、人(特に男)は超人に憧れるものである。あらゆる漫画の主人公は何かの意味で超人なのである。
そして、それは人間の自己愛の本能から来ている、と、平凡だがここでは結論しておく。