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一応、最初に考えたテーマの最後の「愛情と執着の対象」について考察してみる。

これは、主人公や作中人物の「愛情と執着の対象」と、作者自身の「愛情と執着の対象」に分けて考えるべきだろう。

なお、「物事を分けて考える」のは、私がデカルトの「方法序説」で学んだ基礎的思考法である。「分けて考える」ことを大袈裟に言えば、「分析」である。分析して考えたことを最後にまとめる「分析と総合」が思考法の基本であるのは言うまでもないと思うが、それ以外に「直観」という大物がいて、宗教的な啓示などはそれである。だから、宗教者は(表面では論理めいた言い方をしていてもその内実は直観だから)論理では説得できない。

主人公や作中人物に愛情や執着の対象が創作上必要であるのはかなり必然的であり、それが無ければ主人公が行動する意味はない。たとえ敵から攻撃されて防御するだけの場合でも、自分の生命への執着があるから防御するのであり、それが無ければ大人しく殺されて話は終わりだ。
物事への執着からの解放を自分の思想の根底とした釈迦の生涯を手塚治虫が「ブッダ」で描くことがなぜ可能だったかと言うと、釈迦の生涯は「人生の根本意義は何か」という問題を解くことへの執着だったからである。

では、作者自身には「愛情と執着の対象」は必要か、と言えば、これも必要である。それは創作自体への愛情と執着だ。それが無ければ創作する意味は無い。ただし、創作の才能は別の話で、創作自体への愛情も執着も無いが、創作の才能はある人間もおり、逆に、才能は無いが創作への愛情と執着はある人間もゴマンといる。私もそのひとりだ。
私は性欲とか物欲とか名誉欲が希薄な人間なので、人間がそういうものを求めて大騒ぎする姿を想像するのも苦手なのである。つまり、「エロ・グロ・バイオレンス」という、大衆小説の三要素が苦手なのだ。だが、壮大な想像の飛躍は好きなので、SFとか思弁的小説は好きだ。昔の小説で言えば、スィフトやヴォルテール、あるいはマルキ・ド・サドの一部の小説などである。(サドの「虚栄の塔」など、実に壮大な哲学小説である。)

とすれば、私自身が書くべきものも、スィフトかヴォルテール、あるいはサドの作品を目標にすべきだろう、と、ここでやっと結論が出たようだ。
だが、書く能力は無いが、書きたい小説というのがあって、それが歴史小説である。特に、「壬申の乱」を中心にした大和朝廷の話と、第一次世界大戦直前を舞台にした政治的冒険小説は、才能のある作家にぜひ書いてもらいたいし、私自身が書けたら、素晴らしいだろうな、と夢見ている。
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