物語創造のメカニズム
1 オブセッション(強迫観念)
創造の土台にあるのが、このオブセッションである。創造におけるオブセッションとは、何かが自分にとって切実に感じられるという気分である。実際、それは創作者にとって重要だと本能的に思われ、したがって、それについて考えることやそれに時間を費やすことは意義があると感じられる。このオブセッションが無い創作活動は、ただのルーティンワーク的作業になる。大多数の二流創作家の仕事が尻すぼみになるのも、このオブセッション無しで物を作ろうとするからである。
どのような人間にもあるオブセッションは、性欲と恐怖である。したがって、性と恐怖は物語的芸術の柱である。
性欲の一つの形態が恋愛である。恋愛とは美化された性欲である。しかし、美化するという行為はけっしてつまらないことではない。逆に、美化されない現実はそのままでは芸術的なものにはならない。
エロスとタナトスの欠如した作品は、一般人の本能を引きつける要素がない。笑いの芸術はその両者を欠いたものが多い。したがって、高度な感覚を持った人間でないと笑いの芸術は理解できない。笑いの芸術では性も死も笑いの対象であり、したがって人間存在そのものが高い次元で客観視されている。そのようなメタ意識が笑いを理解するには必要なのである。粗野な、野獣的人間は笑いを理解できない。
2 自らの作った虚構に没頭できる能力
創造において一流と二流を分ける部分が、この虚構への没頭、言い換えれば「熱」である。天才的創作者は、自らの作った虚構に没頭する。その没頭している時間は彼らに充実感を与える。だから、彼らはたいていワーカホリック的に長時間の仕事を平気でやる。たとえ報酬がなくても彼らは自分の好きな仕事をやるだろう。実際、天才的創作者の得た報酬は、彼らの費やした時間と努力に対して、驚くほど微々たるものである。しかし、実は仕事自体が彼らにとっては第一の報酬であったのだ。
物を作る能力と、それを売って報酬を得る能力は、まったく別である。
3 問題とその解決
あらゆる創造は、突き詰めると「問題の発見とその解決」である。そのうち、より重要なのは、「問題の発見」である。これはいわば、虚空の中から物体を取り出すような行為であり、神の天地創造に等しい。
適切な問題を発見すれば、後の創作行為はルーティンワークに近い。
もちろん、「問題のいいかげんな解決」では一流の創造にはならないが、すぐれた問題は、それ自身の中にすぐれた答えを蔵していると思われる。
宮崎駿(だけの創造ではないが)の初期の傑作「未来少年コナン」において、ヒロインのラナにテレパシー能力を与えたのは、通常ならば蛇足とされるだろう。しかし、ドラマの最終段階において、ラナのテレパシー能力が無いと、この物語はあれほど見事に完結しなかっただろう。そこまで見越して、つまり最終ステージから逆算してラナにテレパシー能力を与えたのか、それとも直観的にそういう設定でスタートして、それをうまく利用して最終場面に持っていったのか、そのどちらであるかは不明だが、創作者の物語への没頭はしばしば「問題への奇蹟的な解答」を呼びよせるものだと思われる。
物語的芸術における「問題」を言い換えれば、「物語の基本設定」である。どのような人物が、どのような状況にいるか、ということだ。その人物や状況の設定は、ありえないようなものでもよい。たとえば、考えるだけで人を殺す能力がある人間でもいい。ある小学校全体が異次元に飛ばされるという状況でもいい。
読者は、そういう基本設定自体は、それをフィクションの特性として容易に受け入れる。だが、その設定からはありえない事柄が生じると、読者はそれを駄作であると判定する。
「デス・ノート」の基本設定は、「ありえない話」である。だが、その進行はすべて合理的である。最初の設定(あるいは途中で追加された、あるいは途中で明らかにされた設定も含め)を裏切るようなご都合主義は無い。読者は、その物語に参加し、その合理的進行と問題の合理的解決に酔いしれるのである。
4 物語芸術における創造のセオリー
少年漫画における一番単純なストーリー展開は、「勝負と勝利」の連続である。これを「バクマン」では「王道バトル物」と呼んでいる。この方式だと、「強敵の出現」「それをいかにして倒すかという問題の発生」「特訓や援助によって強敵を倒す」の繰り返しで、いくらでも物語を続けることができる。しかも、大多数の読者にとっては、自分が感情移入している主人公の勝利は自分自身の勝利の快感と同一なのである。したがって、「読む者に快感を与える」という最大のサービスが確実に保障されている。だから「王道」なのである。後はそれにお色気と笑いをまぶせば、それでいい。
だが、年少の読者ならそれでいいが、ある程度の批判精神を持った読者には、そういう「営業セオリーで作った作品」は鼻につくものである。
手塚治虫は、そういう「王道バトル物」はおそらく一度も書いていないだろう。
それは、そこには彼のオブセッションが存在しないため、彼に創作させる熱を与える要素が存在しないからである。
「王道バトル物」に近いが、そこに作者のオブセッションが加わって傑作になったものが「あしたのジョー」である。丹下段平というキャラクター、力石徹というキャラクターには、通常の「王道バトル物」には無い、「赤い血」が流れている。それは主人公のジョーにしても、その他の脇役にしてもそうである。つまり、梶原一騎は物語を愛していたし、「営業セオリー」で物語を作ろうなどとは少しも考えていなかったのだ。物語要素の順列と組み合わせで物語を作るなど、彼は考えていなかった。(彼が物語を常に人生論として描いたのは、「巨人の星」の主人公の名前を「飛雄馬」=ヒューマンとしたことからも分かる)彼はジョーという野性的少年がボクシングを通じて人生と格闘する姿を描きたかったのだ。もちろん、「あしたのジョー」は「強敵の出現」とその「対策」「勝利」の連続という、見かけは「王道バトル物」そのものだ。だが、それは力石の死後の話だ。力石徹が死んだ時点で、この話はほとんど終わっていたのである。それが魅力的キャラクターを生み出すことの功罪である。
小説の話だが、「銀河英雄伝説」でヤン・ウェンリーが死んだ後、もう一人の主人公、おそらく真の主人公であるラインハルトの生にはほとんど意味がなくなる。これは力石が死んだ後のジョーに似ている。主人公を上回る魅力のあるライバルは、もはや物語の実質的主人公なのである。ならば、それが死んだら、物語は終わりだろう。
王道バトル物の話はここまでとする。
5 なぜ物語を書くのか
山岸凉子は短編の名手だが、彼女はなぜ物語を語るのだろうか。
あるいは世界一長い小説である「グイン・サーガ」を書いた栗本薫は、なぜ物語を語るのだろうか。
この両者にあるのは、「物語愛」とでもいうべきものである。短編で無数の名作を書いた山岸凉子も、長編小説を延々と書き続けた栗本薫も、物語が好き、という一点で共通している。そしてそれはあの膨大な物語群を生み出した日本最大の天才、手塚治虫も同じである。
彼らはみな、物語が好きなのである。おそらく、他人の作った物語を読むのも見るのも好きだろうが、自分の中にある物語を形にするのがもっと好きだったのだ。
では「自分の中にある物語」とは何か。
それは、広い意味での「人生の可能性」ではないだろうか。
物理的・社会的に縛られた自分の人生とは別に、すべてが可能な世界が物語の中にはある。その世界を作り、その世界の中の登場人物と生きることで、彼らはもう一つの人生を生きているわけだ。他人の作った物語よりも、自分の作った物語のほうが性に合うのは当然だ。
つまり、ヴァーチャルな生こそが彼らの実人生以上の快感を彼らに与えていたのではないか、と推測できる。
リラダンの言葉を借りれば、「生活などは召使にまかせておけ」ということである。これはランボーも同様のことを言っている。「我々の人生とは(行為などではなく)我々が考えたその中身だ」と。
そしてまた、それは優れた物語を読む時の我々の気持ちでもある。
優れた物語を読む時、我々は「高次元の生を生きている」のである。
もちろん、そこには「現実」は無い。実際の肉体も実際の自然もない。
実際の肉体や実際の自然、つまり現実以上の価値あるものはありえない、と考えるのも一つの考え方だろうし、むしろそのほうが一般的な共感を得るだろう。
だが、我々は優れた芸術に触れることで、「より高次元の生」を知るのである。
これは、優れた詩や絵画に触れることで、人格が変わるということでもある。それだけ芸術とは凄いものなのである。たとえば、ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」を読む前と読んだ後では人生や世界の見方に大なり小なり変化が生じるだろう。これは人格が変わったということだ。べつに宗教的になったり道徳的になったりするということではない。「ドストエフスキーの目と頭」の一部があなたに転移して、物の考え方がそれ以降は少し変わってくるということだ。これが芸術の力である。場合によっては全人格の大変容が起こることもある。それが幸福な変化であるとばかりは限らないが。
話を物語に戻す。
物語とは高次元の人生である、と定義しよう。現実には不可能な「人生の実験場」、それが物語だ。つまり、物語を読まない人間の人生はリアルな、その人の等身大の人生で終始する。それも必ずしも悪くはない。しかし、我々は自分の人生以外に、頭の中でヴァーチャルな人生を生きることができる。それが物語だ。
この麻薬に取りつかれると、物語の無い人生、フィクションの無い人生に耐えきれなくなることもある。いわゆる「本に読まれる」状態だ。
それもまた困りものだが、限定され、不自由の極みである現実人生よりも楽しい人生を味わえることは、この世における大いなる恵みの一つである。
なぜ物語を書くのか。
それは、書き手にとって、それが楽しいからである。たいていの場合、自分の現実人生以上に。
したがって、物語を考えることが楽しくないなら、その人は物語作者としては大成できないだろう。
6 キャラクター
物語芸術におけるキャラクターとは何か。
それは、第一に作者の分身である。しかし、作者自身ではない。だから、作中人物を殺したり、悲惨な目に遭わせたりすることも作者はやる。
「赤毛のアン」の中には、アンが自分を悲劇のヒロインに見立てる場面がしばしば出てくる。悲劇は、それが本当に自分の身の上にふりかかったら、これほど悲しく苦しいものはないはずだ。しかし、アンが自分を悲劇のヒロインに見立てることで快感を得ているのは確かだ。これはなぜだろうか。
あるいは、お芝居としての悲劇を見る観客は、そこに何かの快感を得ているはずだ。それは何か。
「あなたは他人がひどい目に遭うのを見て面白いのですか?」と彼らに聞いたら、彼らは「自分はそんな残酷な人間ではない」と、憤然とするだろう。しかし、実際には彼らは悲劇を見て楽しんでいるのである。それが可能なのは、それが他人の身の上だからだ。
他人とは言っても、それが現実の人間の身の上なら、見る側も平静ではいられないだろう。しかし、芝居や小説の人物ならば、我々はそれがフィクションであると知っているから、その悲惨な身の上も平気で見ていられる。いや、平気ではない。我々は自分が感情移入をした人物の身の上を平静に見ることはできない。フィクションの中の好きな人物には幸せになってもらいたいし、嫌いな人物が悲惨な目に遭うと快哉を叫ぶ。
映画の初期の時代に、スクリーン上の悪漢にピストルを撃った観客がいたそうだが、その気持ちは誰にでもある。
これが、フィクションは第二の現実である、ということだが、フィクションの中の人物は、我々の愛憎の対象になるのである。その愛憎の感情が、ドラマを見る快感の土台だ。
アンの話に戻ると、アンは悲劇のヒロインがひどい目に遭うからそれを好んでいるわけではない。悲劇のヒロインとは、たいてい美女であり、気立ても良い。自分がそういう人物であったら、と空想するのがアンは好きなのだ。そして、ヒロインの受ける悲劇的運命は、「それを味わわなくてすむことの幸せ」を彼女に感じさせ、それがフィクションであることは彼女に「安全なスリル」を味わう機会を与える。
ある作家が書いていたが、作者が主人公を美男だとも美女だとも書いてないのに、読者は必ず主人公を美男か美女だと思い込むそうである。
それがフィクションのお約束だから、とも言えるが、実は読者の「そうあってほしい」という願望の反映だろう。自分が感情移入した人物と自分を同一化しているのだから、それが美男美女であってほしいのは当然だ。
「タッチ」の主人公は、最初、何の取り柄も無い男として周囲から馬鹿にされている。ところが、ヒロインの南は最初から主人公に肩入れしている。これは非常に巧妙なやり方である。ヒロインがさえない主人公に肩入れしているということは、主人公に潜在的能力や魅力があることを示している。勘のいい読者はすぐにそれを読み取って、主人公と自分を同一化する。そうすれば、主人公への周囲の無理解は、読者にとって「俺の真価を知らない周囲の連中の反応」と同一になるのである。これが読者にとって快感であることは言うまでもない。「今でこそ俺はさえない存在だが、いつか俺の才能や魅力をみんな知ることになるぞ」というわけである。まあ、そんな日はまず永遠に来ないのだが、「タッチ」を読んでいる間はそういう妄想に包まれ、快感を感じているわけだ。そもそも、現実人生では南のような子がすぐ近くにいるはずもない。
7 物語作成の技術
物語とは、突き詰めれば「問題と解決」である。さらに加えれば、「問題と解決と報酬」だ。主人公の身の上に起こる様々な問題を主人公が解決することで主人公は報酬を得る。それを読む者は、主人公に感情移入しているために、問題解決の快感と報酬取得の快感を得るわけである。『高慢と偏見』は、結局のところ、主人公の男女がすったもんだしたあげく、結ばれるというだけの話だ。しかし、作者の腕によって、読者はこの話に引きずられて、どんどん先へ先へと読み進め、その間「物語を読む快感」を得続けるのである。
作り手の側から言えば、「物語作成の技術」とは「問題作成の技術」である。
推理小説などは、その問題を数学的論理性の問題に特化し、キャラクターはその説明の道具となったものだ。もちろん、キャラクターで読ませる推理小説も多いが、本質と基本は「奇抜な謎」にある。
例題1「バレリーナとしては致命的な身体的欠陥を持った少女はバレーの世界でどう生きるか」解答「創作バレーの開拓者としてバレーの世界で成功する」(「テレプシコーラ」)
もちろん、「テレプシコーラ」は複雑な作品であり、影の主人公である少女は本物の天才だが、性格破産者の父親を持ち、極貧の家庭で生きている。彼女を支えるのはただバレーへの情熱だけである。昔のドラマなら、こちらが主人公になっていただろう。だが、彼女は顔も醜いのである。さらに、主人公の姉は、すべてに恵まれた才能を持ちながら、学校ではいじめに遭い、しかもステージでの事故でバレリーナとしては再起不能になる。
こうしたさまざまなトラブルに満ちた三人の少女の半生がドラマにならないわけはない。
つまり、ドラマとはトラブル(難問)から生じるのである。
作者というものは、作中人物を平気でトラブルの中に投げ込む冷酷さが必要だと言える。言い換えれば、人生の暗黒を見つめることができる強靭な神経が必要なのである。
(未完)
現実の事件や人物はすべて入れないことにして、単に「悪霊」の日本版ということでやってみるか。
ピョートルは「兵頭耀丞(ようすけ)」にする。父親は兵頭教授(浪輔)
シャートフは「佐倉藤夫」
まあ、いつでも政党指導者はいい加減な行動を取るということしか下の記述は読めない。それは左派政党指導者に特に多いようだ。しかし、それは社会主義や共産主義という思想とは関係の無いことである。保守政治家や大資本家が左派活動家にカネを出した例も多い。つまり、ある程度の左派活動は社会支配に利用できるということだろう。
人民戦線(じんみんせんせん、仏: Front Populaire)とは、反ファシズム、反帝国主義、反戦主義を共同目標とする集団である。その起源はフランスの労働階級における統一戦線から発展したものであるが、「人民戦線」という言葉は1935年の第7回コミンテルン世界大会においてブルガリア共産党の指導者ゲオルギ・ディミトロフによる提唱の後に一般化した[1]。フランス・スペイン・チリでは政権を掌握し、労働改革・社会改革などを実現した。
人民戦線が結成された国々[編集]
イギリス[編集]
1936年12月に自由党のリチャード・アクランド、マルクス主義者のジョン・ストレイチー、労働党のG.D.H.コール、保守党のロバート・ブースビーがイギリス人民戦線を結成し選挙では一定の成功を収めたものの、政権獲得には至らなかった[2]。
フランス[編集]
1932年8月、作家のロマン・ロランやアンリ・バルビュス、アンドレ・ジッド、アンドレ・マルローらの呼びかけによってアムステルダム国際反戦大会が開催され、38カ国から2196人が参加し、翌33年6月、パリのプレイエル会館で第2回大会が開催された。この運動は、アムステルダム・プレイエル運動と言われる反戦・反ファシズム運動として発展した(日本からは片山潜が発起人として参加)。そのような状況下の1934年2月6日、前年にドイツでナチスが政権を掌握したのに刺激されて、右翼・ファシストが議会を攻撃する事件(1934年2月6日の危機)が起こった。当時、フランス社会党とフランス共産党は分裂し、対立していたが、この2月6日事件を機に、反ファッショ勢力の結集と行動の統一がはかられ、社会党系の労働総同盟の提唱したゼネラル・ストライキに共産党系の統一労働総同盟も参加し、共同行動が発展した。これに急進社会党が加わり、1936年4月に行われた議会選挙で人民戦線派が圧勝し、社会党のレオン・ブルムを首班とする人民戦線政府の成立に至る。
フランス共産党書記長のモーリス・トレーズによれば「人民戦線政府は労働者及び農民の政府の先駆であり、ソビエト主権確立、無産者独裁、社会主義革命の準備であらねばならぬ。しかしながら今日は未だそれらの実現のための条件は具わっておらぬ」と目標と現実を分析しているが、フランスではプロレタリアの指導に盲目的に服従することはない中産農民層がその人口の大きな部分を占め、その民主主義意識が共産主義をファシズム反対ということ以上には評価しなかった。フランス共産党は1936年6月初めにはフランス全土のストライキ騒動に対して社会党、労働総同盟などと協力してストライキ中止指令を出したり、同年10月中旬アルザス=ロレーヌ地方の共産党の示威集会を政府の要求により集会の数を制限したことなどに見られるように反ファシズムに重点を置いたことで人民戦線維持のための消極的努力をしている[3]。
フランスの場合、知識人の果たした役割が大きく、有給休暇(バカンス)・労働者の組合の地位向上(マティニョン協定)・週40時間制の実施・ランジュバン・ワロンの教育改革など重要な労働・社会立法を行ったが、先に成立していたスペイン人民戦線への軍部の反乱(スペイン内戦)に対して態度を明確に出来ず、また共産党と急進社会党が決裂したことによって、1937-1938年に解消されるに至った。
スペイン[編集]
1936年1月、共和主義左派・社会党・共産党・マルクス主義統一労働者党(POUM)の間で協定が結ばれ、2月の選挙で勝利して、共和主義左派のマヌエル・アサーニャを首班とする人民戦線政府が成立した。しかしその後、反ファシズム・ファシズム両勢力の間の抗争が激化し、モロッコで軍部のフランコが反乱を起こし、それをナチス・ドイツのヒトラーとファシスト・イタリアのムッソリーニが支援した。対する人民政府側もソ連が支援に乗り出し、第二次世界大戦の前哨戦の様相を呈した。スペインは内戦状態となり、人民戦線を支援する国際義勇軍も派遣された(スペイン内戦)。
このスペイン内戦は3年間にわたり続いたが、この内戦を通じて人民戦線政府は転覆され、その後は長くフランコ独裁体制が続いた。
この人民戦線政府に対しては、アナーキスト(CNT急進派)やトロツキスト(ここではPOUMも含むが、POUMは厳密にはトロツキストではない)は「反ファッショ戦争を社会主義革命へ」と主張し、スペイン共産党はソ連の援助の下で、これらの革命派に対する粛清に狂奔した。内戦の過程で、ナチス・ドイツの義勇航空隊の無差別爆撃(ゲルニカ爆撃)に抗議して、ピカソの『ゲルニカ』が描かれた。またマルローの『希望』やヘミングウェイの『誰がために鐘は鳴る』はこの時の内戦に人民戦線側から取材したものである。
チリ[編集]
1937年、急進党・社会党・チリ共産党・労働組合などが人民戦線として結束、翌1938年の大統領選挙で急進党のペドロ・アギーレ・セルダを当選させた。1941年末にアギーレ・セルダが大統領在任のまま死去すると、人民戦線は民主主義同盟と改称して、引き続き急進党のフアン・アントニオ・リオスを当選させた。
しかし、1946年の大統領選では社会党が同盟から離脱して、独自候補を立てた。急進党と共産党は引き続き同盟を維持して、急進党のガブリエル・ゴンサレス・ビデラを当選させた。ところが、ビデラは1948年に、アメリカ合衆国の圧力などもあり、突如として共闘していた共産党を非合法化し(民主主義防衛法)、チリの人民戦線は名実ともに崩壊した。
コミンテルンの人民戦線[編集]
コミンテルンから1928年に除名されたレフ・トロツキーは、ナチスが伸張していた1930年の時期にスターリンが提唱しドイツ共産党が実践していた「社会ファシズム論」(社会民主主義はファシズムの双生児であり、ファシストより優先して打倒すべき対象とする理論と方針)を批判して「ナチスと対抗する社会民主主義と共産党の統一戦線」を呼びかけた。しかし、トロツキーの呼びかけは一顧だにされず、ドイツ共産党がナチスと敵対するどころか同盟を組んでストライキなどを行い、ナチスが政権を獲得、ドイツ共産党は社会民主党諸共非合法化により消滅する。
「反共・ソ連抹殺」を掲げるナチス・ドイツに対する危機感から、スターリンは「社会ファシズム論」から人民戦線の推進に路線転換するが、トロツキーはこのスターリンの転換を「社会主義革命の全面的放棄によるブルジョア政党との野合=統一戦線の戯画化」と批判する。実際に人民戦線運動時のフランス共産党は、巻き起こるストライキ運動を「権利獲得運動」に抑え、社会主義革命に直結させるような方針は控えたと言える。あるいは、レオン・ブルムの首班指名に協力し、閣外からブルム内閣を協力し続けることになる。
あるいは、スペイン共和国政府においてスペイン共産党は、その支配地域において地主制の廃止や工場の労働者所有を推進し「反ファシズム戦争を社会主義革命へ」を掲げるアナーキストや非コミンテルン系のマルクス主義政党(CNT急進派、POUMなど)に対して、一貫して「革命より反ファシズム戦争の勝利を優先するべき」あるいは「急激な革命は中産階級を反ファシズムの戦線から離反させる」と主張した。スペイン共産党は、共和国支配地域では「ブルジョア政党」も含めたアサーニャを首班とする人民戦線政府に参加する一方で、スペインに潜入したソ連の秘密警察の援助の下でCNT急進派、POUM、CNT-FAIなどの社会主義革命派を弾圧し、数多くの活動家を抹殺する。
アメリカでは、1936年の大統領選の際、人民戦線戦術に基づいてアメリカ共産党がノーマン・トーマス率いるアメリカ社会党に対し、共同での出馬を呼びかけたが拒否されている。当時、共産党の路線はニューディールに対する批判的支持を掲げるなど愛国主義的・ポピュリスト的であり、この路線は当時の党首アール・ブラウダーの名前から「ブラウダー主義」と呼称される。
人民戦線運動は1935年7月、モスクワで開催されたコミンテルン第7回大会で提唱され、コミンテルンの方針転換をもたらしたが、1939年8月にソ連のスターリンが独ソ不可侵条約を締結することで終結させられる。コミンテルン(スターリン)の方針は、反ファシズムよりも「アメリカ・イギリス帝国主義への反対」が強調され、コミンテルン支部の各国共産党と反ファシズム運動内部に混乱がもたらされた。また、フランス共産党は党員の3分の1が「独ソ協定」に反発して離脱し、政府からは「利敵団体」として非合法化された。
1940年のナチス・ドイツによるフランス侵攻という段階に至っても、(のちに捏造される伝説とは違って)フランス共産党は反ナチ・レジスタンス運動を開始するどころか、当初は占領当局に機関紙『ユマニテ』の発行を請願し、アナーキストやトロツキストの名簿をナチスに渡したりしている。
1941年のナチス・ドイツのソ連侵攻によって、フランス共産党も武装してレジスタンスを開始する。フランス共産党のレジスタンスは「ドイツ兵を一兵でも多くソ連から引き離せ」というスターリンの指令によって、その開始の当初からナチ将校の射殺を繰り返す激しい戦術を採用する。それに対するナチス側の弾圧も「疑わしきは処刑」と熾烈を極めたことから、フランス共産党は「銃殺を恐れぬ党」としてフランス社会で権威を取り戻すことになる。また、フランス共産党は「愛国主義とインターナショナリズムの融合」をレジスタンス運動におけるスローガンに掲げ、ドゴール派らブルジョアジーのレジスタンス組織とも協調した。あるいは、レジスタンスの大衆組織として「国民戦線」を結成し、主に中産階級の取り込みを図った。
1944年にナチスを放逐した国民的なレジスタンス運動は、共産党の権威の高まりとあいまって「ブルジョアジーすら社会主義を希求する」と言われたような状況を現出させる。しかし、モスクワに亡命していたフランス共産党の指導者モーリス・トレーズは帰国するなりレジスタンスの武装解除を命じ、資本主義体制再建に協力することになる。
イタリアでも同様の現象が起こり、反ファシズム・パルチザンとして武装した小作農民による土地占拠と農民自治の動きをイタリア共産党は武装解除させ、イタリアキリスト教民主党との協調による資本主義体制再建に手を貸した。戦後のフランス・ドゴール政権ではフランス共産党の書記長トレーズが、またイタリアでは共産党のトリアッティがいずれも副首相として入閣した。
あるいは、この「反ファシズム世界戦争」の時期には、植民地での民族解放運動にスターリンは反対する。それは「反ナチス同盟」によるアメリカ・イギリスとの協調を最優先にしたスターリンの考えに基づくものであり、アメリカ共産党が広島・長崎への原爆投下を「反ファシズムの正義の行為」と賞賛し、戦後の日本共産党がGHQを一時的に「解放軍」と規定したような情況を作り出すことになる。
以上のことから、「人民戦線」戦術とは、ソ連が自由主義諸国に影響力を持つため、資本家・中産階級と共産党、あるいはアメリカやイギリスなどとソ連が協調する統一戦線政策という側面がある。これは、フランス、イギリス、アメリカにおける共産主義勢力の拡大といった一定の成功を収めた。
人民戦線運動の発想は、戦後の仏伊における挙国一致政権や1970年代チリの人民連合・連合政権などの統一戦線・政党間共闘などにも継承されている。日本においては、日本共産党の1970年代での「民主連合政府」の提案や、「『核兵器には資本家でも反対する』からその一点で共闘する」という1980年代の「反核統一戦線」、2010年代の「国民連合政府」の提案などで、この人民戦線の方法論が受け継がれている。
(以下引用)
第三期[編集]
1928年2月9日から2月25日までモスクワで開催された執行委員会(Executive Committee of the Communist International)の第9回会合(Plenum)には27か国から92名の代表が参加し、いわゆる「第三期」(Third Period)を開始し、それは1935年まで続けられる予定であった[18]。コミンテルンは資本主義体制が最終的崩壊の段階に入っていること及び全ての共産党の正しい在り方は高度に攻撃的、軍事的、極左(Ultra-left)路線であることといったことを宣言している。特にコミンテルンは全ての穏健な左翼会派を「社会主義ファシスト」と表現して、共産主義者は穏健な左翼会派の破壊のために尽力するよう主張した。1930年以後のドイツにおけるナチの活動拡大により、この姿勢はドイツ社会民主党を主要な敵として扱うドイツ共産党の戦術を批判していたポーランド人共産主義者で歴史家のアイザック・ドイッチャーなど多くの者と多少の論争となった。
第6回コミンテルン大会は1928年7月17日から9月1日にかけてモスクワで開催され、57か国から532名の代表が出席した。スターリンが直接に指導し、ニコライ・ブハーリンの「日和見主義的立場」を除き、資本主義戦後発展第三期は資本主義的安定の矛盾を発展させ資本主義的安定をさらに動揺させ、資本主義の一般的危機を激化させるべきとする第三期論を決定した。
共産主義者の帝国主義戦争への反対運動は一般平和主義者の戦争反対運動とは根底が異なり、共産主義者は戦争反対運動をブルジョワ支配階級の絶滅を目的とする階級闘争に必要なものとテーゼに記され、ブルジョワジー絶滅のための革命のみが戦争防止の手段であり、さもなくば帝国主義戦争は避けがたいものとされ、それが勃発した場合に共産主義者はいわゆる敗戦革命論[19]に基づき、(1)自国政府の敗北を助成すること、(2)帝国主義戦争を自己崩壊の内乱戦に転換させること、(3)民主的な方法による正義の平和は到底不可能であり、戦争を通じてプロレタリア革命を遂行することが政治綱領となった[20]
この大会においても植民地の世界における統一戦線の方針が修正されている。1927年、中国国民党は中国の共産主義者を攻撃し、そのため植民地の国々における地元ブルジョワジーとの同盟を形成するという方針の見直しにつながった。しかし、大会では中国国民党を一方とし、インドのスワラジ党(Swaraj Party)とエジプトのワフド党を信頼できない同盟ながら敵ではないと考慮して他方とした区別がなされた。大会はインドの共産主義者に地元のブルジョワジーと英国の帝国主義者間の矛盾を利用することを求めた[21]。
第7回コミンテルン世界大会と人民戦線[編集]
7回目であり最後の大会は1935年7月25日から8月20日にかけてモスクワで開催され、そこには57か国、65の共産党から510名の代表が出席している。会議はファシズム反対、戦争反対の議論に加え、資本主義攻勢反対の一国的及び国際的統一戦線及び人民戦線の徹底的展開並びにその効果的活動方針を決定している。スポーツ・宗教などの活動にも浸透することが求められた[22]。
主な報告はディミトロフによってなされ、他の報告はパルミーロ・トリアッティ、ヴィルヘルム・ピーク、ドミトリー・マヌイリスキーによった[23]。大会は公式にファシズムに対する人民戦線を承認した。この方針の主張は共産党ならばファシズムに反対する全ての会派と人民戦線をなすこと、及び共産党自身が労働者階級を基盤とする会派との統一戦線を形成することを制限しないことであった。コミンテルンのどの国家の部局からもこの方針に対する目立った反対はなく、特にフランスとスペインにおいては人民戦線政府につながるレオン・ブルムの1936年選挙とともに重要な結果となる。
統一戦線はコミンテルンの根本政策とした決議の第一には、コミンテルンはそれまでの諸団体との対立を清算し、反ファシズム、反戦思想を持つ者とファシズムに対抗する単一戦線の構築を進め、このために理想論を捨て各国の特殊事情にも考慮して現実的に対応し、気づかれることなく大衆を傘下に呼び込み、さらにファシズムあるいはブルジョワ機関への潜入を積極的に行って内部からそれを崩壊させること、第二に共産主義化の攻撃目標を主として日本、ドイツ、ポーランドに選定し、この国々の打倒にはイギリス、フランス、アメリカの資本主義国とも提携して個々を撃破する戦略を用いること、第三に日本を中心とする共産主義化のために中華民国を重用することが記されている[24]。コミンテルンの主な攻撃目標にされた日本とドイツは1936年11月25日に日独防共協定を調印した。
大粛清とコミンテルン[編集]
1930年代のスターリンによる大粛清はソ連国内及び海外にいたコミンテルン活動家に影響を及ぼした。スターリンの指示により見かけ上はコミンテルンとして活動するソ連秘密警察、対外諜報員及び情報提供者がコミンテルンに徹底的に送り込まれた。「ミハイル・アレクサンドロヴィチ・モスクビン」という偽名を使っていたその指揮官の1人であったメール・トリリッセルは実際には後に内務人民委員部(NKVD)となるソビエトOGPUの対外部局長官であった。コミンテルンのスタッフメンバー492人の内133人がスターリンの命令で大粛清の犠牲者になった。ナチス・ドイツから逃げたり、あるいはソ連に移住するよう説得された数百人のドイツ人の共産主義者と反ファシズム主義者は粛清され、また1000名以上がドイツに送還させられている[25]。フリッツ・プラッテンは1942年にニャンドマで銃殺され[26]、インド(ヴォレンドラナート・チャットパディア)、朝鮮、メキシコ、イラン及びトルコの共産党の指導者が処刑された。11人のモンゴル人民革命党指導者の内、ホルローギーン・チョイバルサンだけが生き残った。数多くのドイツ人共産主義者がヒトラーに引き渡された。概して、欧米の民主主義国家の共産党指導者は粛清を免れ、ファシズムや植民地の共産党指導者が粛清された。レオポルド・トレッペルは、「全ての国の党活動家がいた宿舎ではだれも朝の3時まで寝なかった。…ちょうど3時に自動車のライトが見え始めた。…我々は窓の傍で、どこにその車が止まったか確かめようと待った」と、この頃を振り返った[27]。
日本共産党とコミンテルンテーゼ[編集]
1922年に日本共産党が承認された(日本共産党はコミンテルン日本支部となる)。
- 22年テーゼ(草案)
- コミンテルンのゲオルギー・サファロフ(元ジノヴィエフ派、後に粛清)により執筆され、当面する日本革命を「ブルジョア民主主義的任務を広汎に抱擁するプロレタリア革命」とした。
まあ、DS(グローバリスト)が現在進めている「大資本による世界政府」は、国ごとの政府を消滅させる意味では無政府主義だと言えるし、資本による支配は、労働者による支配の陰画ではある。
(以下引用)
アナルコ・サンディカリスム (英語: Anarcho-syndicalism)あるいは無政府組合主義(むせいふくみあいしゅぎ)は、社会主義の一派であり、労働組合運動を重視する無政府主義のこと。アナルコは無政府主義、サンディカは労働組合のことである。アナルコ・サンディカリスムという名称はサム・マイアウェリングによって始められた。
議会を通じた改革などの政治運動には否定的で、労働組合を原動力とする直接行動(ゼネラル・ストライキなどいわゆる『院外闘争』)で社会革命を果たし、労働組合が生産と分配を行う社会を目指した。労働組合至上主義。
19世紀末にフランスで労働組合を拠点とした革命を主張する革命的サンディカリスムが興った。20世紀に入ってアナキズムと合流し、アナルコ・サンディカリスムとなり、フランス・スペインなどで盛んになった。
日本でアナルコ・サンディカリスムの影響を受けた思想家には大杉栄がいるが、大杉の虐殺後、マルクス主義が左翼運動の主流になり、アナキズムは反サンディカリスムの純正アナキズム(八太舟三)が主流となる。