勿論、ヴォルテールの「カンディード」のように「圧縮感」と「抽象性」が作品の価値を高めることもあるが、あれも宗教性の無い作品である。ただ、あれだけのスケールの話が圧縮されたところに妙味があるわけだろう。たとえば「ヒロイン」(らしさはないが)が戦争で敵の兵士たちに輪姦される場面も、ただその事実を述べるだけで、その時の様子も感情表現もほとんど無かったと思う。(今確認すると、ヒロインの語りで描かれ、感情表現もあるが、読者にはその出来事の「事実」だけが伝わる印象だ。なお、輪姦ではないが、その後多くの男の間を転々とする。)つまり、新聞が事件を3行でまとめたようなものだ。我々の人生の事件も、主観性を排除したら、すべて3行記事なのである。その事実を教えるところが「カンディード」の特長なのかもしれない。
「宗教性」に話を戻すと、宗教性は物語に「宇宙的感覚」を与えるというのが私の考えだ。私には現代の長編小説がすべて宇宙感覚が欠如しているように思われるわけである。作者自身が何かの宗教を信じていると、その作品に宇宙感覚があるという気もする。宮沢賢治などがそれだ。別の見方をすれば、現代の小説家は、人間の生にも死にも意味は無いと思いながら、キャラの生死をいろいろ装飾して書いているだけではないか、と思う。昔の作家でも、たとえばバルザックには宗教や神の問題は出てこないと思うが、だから彼が巨大なスケールで作品世界を創造しても、そこには「宇宙感覚」は無いわけだ。ブロンテ姉妹やJ・オースティンも同じである。あくまで、人間世界を面白く描いている作家たちだ。
理屈の上では私は無神論者だが、しかし「ドストエフスキー体験」は、他の作家とはかなり異なるのは確かだと思うし、それが彼が心からロシア正教を信じていることから来ているという気はする。宗教という補助線が入ることで、個人の事件が主観的な些末なものから、客観的(全人類的)で宇宙的な背景を持つという気がするわけだ。個人の運命が、読者を含む全人類の運命の象徴になるわけで、それがドストエフスキーの作品の異様な吸引力の理由ではないだろうか。
・関東軍本部の門を入る銀三郎。
・本部通路で真淵大佐と出会う銀三郎。お互い、複雑な表情で見つめ合う。
・本部の後ろの公園の小さな丘に登るふたり。木陰のベンチに腰を下ろす。
真淵「お前にここで会うとは思わなかった」
銀三郎「俺もだ」
真淵「今となっては、どれもこれも昔の話だが、理伊子さんのことは俺にはまだ忘れられん」
銀三郎「ひとりの女にそれほど執着できるのは、俺にはむしろ羨ましいよ」
真淵「あの事件でいったい何人の人間が死んだだろうか」
銀三郎「これから死ぬ人間の数に比べたら些細なものさ」
真淵「そうだ。その戦争を俺たちが起こすのだ」
銀三郎「それが日本のためになると?」
真淵「当たり前だ。日本が世界の大国になるためには通らねばならない試練だ」
銀三郎「その利益を得るのは、少なくとも兵士やその家族ではないな。俺は、兵頭のアナーキズムを馬鹿にしていたが、今のような風潮だと、それに賛成したい気になるよ」
真淵「それだのに志願して兵役に就いたのか?」
銀三郎「少なくとも、家にいるよりは刺激が得られるだろうからな」
真淵「札幌事件、つまり佐藤富士夫殺しの犯人は結局兵頭だったのか?」
銀三郎「さあな。自殺した桐井という男が、自分が犯人だと書き残していたらしいが、あのふたりは親友だった。話に無理がありすぎる。桐井の自殺死体が利用されたのだろう」
真淵「まあ、誰が犯人でもいい。理伊子さんが殺された件でも、群衆の誰が石を投げたのか分からずじまいだ。その辺の浮浪者が犯人だとされたが、あれは警察が適当に捕まえたのだろう」
銀三郎「放火事件では藤田という浮浪者と、富士谷、栗谷という社会主義者が犯人だとされて処刑されたが、真相は不明だ」
真淵「兵頭は上手く逃げたものだな」
銀三郎「少し延命しただけさ。関東大震災の時に、警察に逮捕されて、署内で殺されたようだ」
真淵「そうか。それは知らなかった。あまり新聞は見ないのでな」
銀三郎「理伊子さんや佐藤夫婦の死はもう十年も前になるのか。往時茫々だな」
真淵「お菊さんはどうなった?」
銀三郎「病気で死んだよ。一生俺の看護婦をすると言っていたが、自分が先に死にやがった」
真淵「軍人になれば、少なくとも個人的な看護婦も妻もいらん。そこが取りえか」
銀三郎「俺などは、誰よりも先に死んでいていい人間なんだがな」
真淵「お国のために死ねばいいじゃないか」
銀三郎「兵頭が言っていたらしいが、国とか政府というのは幻想らしい。その幻想を利用して上の国民が下の国民を支配しているんだとよ」
真淵「不敬な思想だな」
銀三郎「あれは、すべての人間が平等な世界を作りたいという夢を持っていたらしいがな。馬鹿だよ。あいつは自由な世界を作りたいとも言っていたが、自由と平等が両立するはずは無いじゃないか。この世界は誰かが誰かを支配することで動いているだけだ」
ふたり、少し沈黙する。
真淵「俺も、貧しい人々をその境遇から救いたいという気持ちはある。そのために国が強く豊かになる必要があるんだ」
銀三郎(嘲笑の表情を浮かべて)「他の国から奪ってか」
真淵「それが弱肉強食の世界なのだ」
銀三郎「強いものが弱いものの肉を食って栄える社会だな。弱者にとっては、まあ、一種の地獄だよ」
真淵「弱者は強くなる努力をすればいいのだ」
銀三郎「そして強者は弱者を食っていっそう強くなるわけだ。永遠の闘争か。俺たちは幸い強者の階級に生まれたが、そうでなければ、兵頭と同じ思想になったかもしれん」
真淵「……そうかもしれんな」
ふたり、黙って遠くを見る。町の尽きるところには地平の果てまで広がった平野がある。そして、その上の白雲を浮かべた青空に午後の日が傾いている。
(ラストシーン別案)
丘の上のふたりを見下ろすようにカメラがゆっくりと上昇し、雲の上に突き抜ける。そのままカメラは飛翔しながら雲の上に太陽が輝く様を映す。その間、ヘンデルの「ラルゴ」が流れている。
そして
(「終」の字が出て、終わる)
日本の軍歌[編集]
軍歌の分類[編集]
日本の軍歌の歴史[編集]
明治初年-日清戦争[編集]
日本最初の軍歌は東征軍の進軍歌『トンヤレ節』であるとされる[1][2]。俗謡調[2][3]の官製軍歌[1]であった。1869年に横浜に薩摩藩の軍楽隊がつくられ、軍によって正式に軍歌がつくられるようになった[3]。その最初のものは海軍儀制曲『海ゆかば』で、『続日本紀』から引用した大伴家持の古歌に東儀季芳が曲を付けた雅楽調であるが、海軍軍楽師瀬戸口藤吉がその旋律を『軍艦行進曲』のトリオ部に採用したため[3]、信時潔作曲の『海行かば』とよく混同されることがある[7]。
東京大学文学部長や文部大臣を歴任した外山正一は1882年、5年前の西南戦争を題材に「抜刀隊」という名の詩を発表、詩詞において、国民の一体感や士気の高揚を目的として制作した旨を述べた[8]。外山はジャンルとしての軍歌の確立に向けて活動し、清国との外交関係が悪化しはじめた1885年、「軍歌」という名の楽曲が制作され、一般国民が容易に歌唱・作詞ができるような平易なメロディーが特徴づけられた。また「抜刀隊」がシャルル・ルルーの作曲を得て初演された[9]。
当時は作曲の技能を持ったものが少なかったことから、既存のメロディに歌詞をあてはめた、「替え歌」が多くつくられた[10]。
日清戦争[編集]
1894年に日清戦争が勃発すると、新聞社が軍歌を公募するなど、軍歌は一気に国民規模のエンターテインメントへと変貌する。それまで政府批判を主な題材に用いていた演歌師も国権論に舵を切り、この風潮を支えた。ただし、それまでのエリート中心の厳選された楽曲と較べると、歌詞が稚拙であったり、民衆受けのするアジテーションが前面に押し出されたりするなど、平均的な作品の質は低下せざるを得なかった[11]。
戦時下での軍歌は、それまでの作品とは異なり、戦況を題材にした具体的な歌詞によるものが多くなる。よって、はやりの軍歌の変遷はニュースの側面を持ち、軍歌の歌詞で戦況を追いかけることができるようになった[12]。また、戦闘で軍功を挙げた兵士を題材にした楽曲もつくられた[13]。
日清戦争の2年間で、制作された軍歌は1300曲、軍歌集は140冊にのぼった[14]。
日露戦争[編集]
1904年の日露戦争は、日清戦争直後の三国干渉以来の対抗感情(「臥薪嘗胆」)が国民の中に堆積しており、開戦直後から楽曲発表が相次いだ。その多くは大衆娯楽として量産され、完成した作品から小出しに販売されるような形態で売り出された。この結果マンネリ化し、既存の作品の焼き直し感は否めず、軍歌研究家の堀内敬造は、この時期の軍歌を日清戦争期と較べて「軍歌の不振期」と位置付けている[15]。
この時期の軍歌は、個別の戦闘を謳ったニュース調のものよりも、特定の軍人を謳ったキャラクター重視の作品が受け、後世にも残った[16]。
大正時代[編集]
日露戦争以降、日本が大きな戦争を体験することはなく、オリジナルの軍歌が流行することは少なかった。兵科ごとの曲や、軍学校の校歌や寮歌の類が目立つ。
一方で、国民に広く膾炙したそのメロディを転用した替え歌がはやり、メロディの本来の出自とは無関係に盛んに借用された。「日本海軍」の替え歌として反戦歌や労働歌、革命歌など、原曲の趣旨とは正反対の歌詞が当てはめられることも増え、更には日本の施政下にあった朝鮮半島における独立派のゲリラ軍が軍歌に流用した例[17]、辛亥革命の革命歌が日清戦争の際の軍歌を流用した例もあった[18]。
また、第一次世界大戦の主戦場となったヨーロッパにおいては盛んに軍歌が制作され、日本においても当時の欧米の流行歌として娯楽の対象になった[19]。
日中戦争期[編集]
満州事変後、世論やメディアは事変を積極的に評価し、レコード会社はこれに便乗して軍歌を量産し始めた。1932年には爆弾三勇士の顕彰歌が乱発し、メディア各社が公募を行うなど、最終的には20曲近くに達した。
一方で、国内クーデターである五・一五事件を賛美する軍歌も発表されたためこれが大問題になり、1934年、出版法を改正、レコード検閲が開始された。ただし、内務省内の検閲当局は小規模であり、すべてのレコードを検閲することは不可能であったため、「内閲」(レコード会社内部での事前チェック)と「懇談」(当局とレコード会社側でのすり合わせ)という運用方針を確立し、阿吽の呼吸で効率的にレコード市場が国策に深く関わるようになる[20]。
太平洋戦争期[編集]
太平洋戦争開戦とともにさらに数多くの軍歌・戦時歌謡が作られた。公募は戦争末期まで多く行われ、戦時下にあった外地にあっても相当数の応募が存在した。1942年に戦況が暗転し始めると、「海行かば」が国歌に次ぐ「国民の歌」に指定されるなど、大政翼賛会主導の下、「国民皆唱運動」が行われ、軍歌は名実ともに総力戦体制の一翼を担うようになった。更に、歴代の軍歌のリバイバルやレコード会社の統合再編、敵性音楽の禁止など、「上からの軍歌」の様相が強くなった[21]。
・同様に労働運動の激化を伝える新聞記事。
・政治の堕落を批判する新聞記事。
・関東大震災を伝える新聞記事。
・(昭和に入り)「515事件」を伝える新聞記事。
・「226事件」を伝える新聞記事。
・シナ事変勃発を伝える新聞記事。
「ほのぼのとおのれ光りてながれたる蛍を殺すわが道暗し」
「たたなはる曇りの下を狂人はわらひて行けり吾を離れて」
「ダアリヤは黒し笑ひて去りける狂人は終にかへり見ずけり」
「監房より今しがた来し囚人はわがまへにて少し笑みつも」
「紺色の囚人の群笠かむり草刈るゆゑに光るその鎌」
「たたかひは上海に起こり居たりけり鳳仙花紅く散りゐたりけり」
「ひた走るわが道暗ししんしんとこらへかねたるわが道くらし」
(斎藤茂吉「赤光」より)