小説、あるいは脚本の本質を「事件」と見做して、事件とはどういうものか、数学的に考察してみたい。
おそらく、事件とは「人物×欲望×行動」という積で表現されるものかと思う。で、その人物や欲望や行動が複数になって、事件が複雑化するわけである。物語とは「a× b× c+ d× e×f+ g× h× i」のような積と和の総合だろう。ただし、その中の欲望因子であるものが「b=e=h」であったりするわけである。つまり、3人が同じ女に恋着したり、同じ宝物を狙ったりすることもある。そして、ひとつの場面での個々の行動と、次の場面での個々の行動は変化するから、この積と和の連続は無限に展開する。変わらぬもの、あるいは基本的に変わらぬ物は、人物の個性(キャラクター)である。長編小説では人物のキャラが変わったりもするだろうが、映画やテレビドラマで人物のキャラが変わるのは反則行為だろう。ただ、善人と思われていたキャラが実は悪人だったというのはキャラの変更ではない。単に「偽善者」というキャラだったのである。
ただし、注意したいのは、寺田寅彦が言っているように、実は映画では「筋」というのはさほど大事ではない。大事なのはシーンであり、シーンとシーンの連続から来る興味である。だから、名作と言われる名画は名シーンが必ずある。キューブリックの映画などは最初から最後までが名シーンである。二流の作品は、シーンとシーンの間に「たるみ」がある。
おそらく、事件とは「人物×欲望×行動」という積で表現されるものかと思う。で、その人物や欲望や行動が複数になって、事件が複雑化するわけである。物語とは「a× b× c+ d× e×f+ g× h× i」のような積と和の総合だろう。ただし、その中の欲望因子であるものが「b=e=h」であったりするわけである。つまり、3人が同じ女に恋着したり、同じ宝物を狙ったりすることもある。そして、ひとつの場面での個々の行動と、次の場面での個々の行動は変化するから、この積と和の連続は無限に展開する。変わらぬもの、あるいは基本的に変わらぬ物は、人物の個性(キャラクター)である。長編小説では人物のキャラが変わったりもするだろうが、映画やテレビドラマで人物のキャラが変わるのは反則行為だろう。ただ、善人と思われていたキャラが実は悪人だったというのはキャラの変更ではない。単に「偽善者」というキャラだったのである。
ただし、注意したいのは、寺田寅彦が言っているように、実は映画では「筋」というのはさほど大事ではない。大事なのはシーンであり、シーンとシーンの連続から来る興味である。だから、名作と言われる名画は名シーンが必ずある。キューブリックの映画などは最初から最後までが名シーンである。二流の作品は、シーンとシーンの間に「たるみ」がある。
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ネットテレビで「第三の男」と「かもめ」を見て、どちらも途中までの状態で中断して今この考察をしているのだが、前者は映画的に完璧な名作で、後者はただの「芝居の映画化」であるという違いがあるようだ。で、映画的であるとは何かというと、「無駄なシーンが無い」ということだ。後者も悪い作品ではないが、「名シーン」はひとつも無い。単に19世紀ロシアらしい身なりをした俳優たちが俗物的欲望の結果悲劇に陥る話を演じるだけで、観客は誰に感情移入すればいいのか分からない。これは原作の芝居そのものも同じだっただろうが、まあ、観客ごとに思い入れする役があったのだろう。これは別に「第三の男」に人格高潔な人物が出るという話ではない。描かれるのは、ハリー・ライムという稀有な悪役の存在によって恋愛と友情の崩壊が起こるだけである。まあ、そういうものを描くのが文学なのである。つまり「人生の真実」がそこにあるわけだ。
ただ、そういうのとは切り離して、「第三の男」はすべてのシーンが意味を持っていて、たとえば些細な会話が思わぬ結果を招き、時には無関係な人間の死を招くというサスペンス性がある。つまり、平凡な人間の生活も運命的悲劇が隣り合わせであるわけだ。
まあ、「かもめ」の中で、ニーナが若い作家志望の男に「あなたの作品は、主人公がしゃべりつづけるだけ。事件を描きなさいよ」と忠告する場面があり、これは文学志望者の陥りやすい欠陥の代表的なものかもしれない。私の作品も、そういうものがおおい。論じるのは楽なのである。
「事件」が物語には必要だが、それには複数の人物と事件の焦点(誰かが欲しがる物や物事)が必要で、それを考えるのは、哲学的思考で頭が一杯の若者が苦手とするところだろう。
で、場合によっては、まず死体を出してから話を考えるという忙しい流行推理作家もいそうな気がするwww
ただ、そういうのとは切り離して、「第三の男」はすべてのシーンが意味を持っていて、たとえば些細な会話が思わぬ結果を招き、時には無関係な人間の死を招くというサスペンス性がある。つまり、平凡な人間の生活も運命的悲劇が隣り合わせであるわけだ。
まあ、「かもめ」の中で、ニーナが若い作家志望の男に「あなたの作品は、主人公がしゃべりつづけるだけ。事件を描きなさいよ」と忠告する場面があり、これは文学志望者の陥りやすい欠陥の代表的なものかもしれない。私の作品も、そういうものがおおい。論じるのは楽なのである。
「事件」が物語には必要だが、それには複数の人物と事件の焦点(誰かが欲しがる物や物事)が必要で、それを考えるのは、哲学的思考で頭が一杯の若者が苦手とするところだろう。
で、場合によっては、まず死体を出してから話を考えるという忙しい流行推理作家もいそうな気がするwww
私が小学五年生から剣道を習い始めたことは前に書いたが、私とほとんど同時に祖父の道場に入門した女の子がいた。祖父の数少ない門弟の飯島直哉という人の娘で、私と同じ小学五年生の飯島尚(なお)という子である。背の高さが私とまったく同じで、運動神経のいい子らしく、私と手合わせしたら、ほとんど彼女に私は負けていた。特に小手を打つのが上手く、上段からでも中段からでも下段からでも簡単に相手の小手を打つ才能があった。ただ、接近戦が嫌いなようで、私が体当たりすると「卑怯だ!」と怒ったものである。と言われても、遠距離戦だと私は簡単に小手を打たれるのだから、接近戦に持ち込んでゴチャゴチャした試合にするしか尚に勝つ方法が無かったのである。私たちの試合は祖父ではなく母の明里が指導したが、母も私の「体当たり戦法」を下品だ、と叱ったりした。しかし、祖父はニヤニヤしているだけで、それには文句を言わなかったのである。
「剣道の試合なら上品も下品もあるだろうが、実際の剣なら、どんな形でも相手の体に剣が触れれば大怪我になる。体当たりも、それが自分に有利なら使って悪いことはない」
というわけである。
それでというわけではないが、私は立木に座布団を縄で巻いて、体当たりの練習などもした。幸い骨がまだ柔らかいので骨折などしたことは無かったが、今思えば、乱暴な練習をしたものである。この体当たりの練習が、後に私が別のスポーツをやった時に案外役に立った気もするが、それは別の話だ。
しかし、剣道よりも、私の興味を惹いたのは、少年野球だった。
そのきっかけは尚だった。彼女がクラスの男子に誘われて少年野球のチームに入るついでに、私を誘ったのである。もしかしたら道具運びなどに利用するつもりだったかもしれないが、私も少年漫画などを見て野球というスポーツに興味を持ち初めていたので、その誘いに乗ったわけだ。
「剣道の試合なら上品も下品もあるだろうが、実際の剣なら、どんな形でも相手の体に剣が触れれば大怪我になる。体当たりも、それが自分に有利なら使って悪いことはない」
というわけである。
それでというわけではないが、私は立木に座布団を縄で巻いて、体当たりの練習などもした。幸い骨がまだ柔らかいので骨折などしたことは無かったが、今思えば、乱暴な練習をしたものである。この体当たりの練習が、後に私が別のスポーツをやった時に案外役に立った気もするが、それは別の話だ。
しかし、剣道よりも、私の興味を惹いたのは、少年野球だった。
そのきっかけは尚だった。彼女がクラスの男子に誘われて少年野球のチームに入るついでに、私を誘ったのである。もしかしたら道具運びなどに利用するつもりだったかもしれないが、私も少年漫画などを見て野球というスポーツに興味を持ち初めていたので、その誘いに乗ったわけだ。
私が初めて竹刀を手にしたのは小学5年の時だった。竹刀の握り方もその時に教えられた。考えていた握り方と違って、親指や人差し指は軽く握る(というより浮かす)感じで、小指と薬指で強く握れ、と教えられたのだが、これはほかの流派も同じなのかどうか、私には分からない。その時に、親指と人差し指で強く握ると、腕の上側の筋肉がこわばり、竹刀の動きの柔らかさが無くなると祖父は教えたが、その感じは最初のうちはよく分からなかった。だが、確かに、親指と人差し指で強く握ると、突きをする時に、突きの届く距離が1寸くらい短くなる気がした。つまり、自分の突きを自分で止めてしまう感じだ。
そして、それ以外に祖父が教えたことは、「構えなど気にするな」「飛んだり跳ねたりするな」という2点であった。これは、それまでに見たことのある忍者アニメや忍者漫画と正反対の教えで、侍同士の戦いは、最初に恰好よく構えて、相手が攻撃してきたら派手に飛んだり跳ねたりして攻撃を避けるのがほとんどだったからだ。「足元が定まっていないと、打ちこみがいい加減になる」「飛んだり跳ねたりしている間、空中にあるお前の動きは次の体の位置が決まっているということだ。つまり、相手がそこを狙えば、簡単に打たれることになる。普通に歩くように動き、相手の動きを予測して、そこを打てばいいのだ」
確かに、祖父が道場破りを相手にした時を思い出すと、祖父はほとんど構えらしい構えをせず、相手にスタスタと近づいて、ポンと打って終わり、ということが多かった。相手がなぜそんなに簡単に打たれるのか、見ている私には不思議でならなかったものだ。
名人というものは、相手の視線の動き、足の位置、体の構えなどから、相手が次にどういう行動に出るか、「読める」ものらしい。幕末の寺田何とかいう名人の試合がそれだったらしい。
まあ、そうは言っても、祖父は幼い私を剣道の道に進ませる気はほとんんど無かったようで、最初の教え以外は、「自分で工夫しろ」と言うだけだった。それに、剣道よりも、学校でやる運動競技の練習をしたほうが当座の役に立つと思っていたのだろう。つまり、私自身の生活の質という奴をちゃんと配慮していたわけだ。
低学年の間私が学校での運動が苦手で劣等感を持っていたことは前に書いたが、3年になった時から祖父は私の運動能力向上の手助けをしたわけである。その効果は半年くらい経ってからメキメキ現れてきた。まず、4年になると走力がクラスでも上位になった。もちろん、私より速い子は何人かいたが、クラスのベスト5くらいまでは上がってきたのである。何も走る訓練をしていない子供が普通なのだから、これは当然の結果だろう。クラスの上位の子は、家庭の方針で何かのスポーツをやっている子供ばかりだった。ある意味では、こういう「不平等な競争」というのが学校体育や学校教育の本質かもしれない。
そして、それ以外に祖父が教えたことは、「構えなど気にするな」「飛んだり跳ねたりするな」という2点であった。これは、それまでに見たことのある忍者アニメや忍者漫画と正反対の教えで、侍同士の戦いは、最初に恰好よく構えて、相手が攻撃してきたら派手に飛んだり跳ねたりして攻撃を避けるのがほとんどだったからだ。「足元が定まっていないと、打ちこみがいい加減になる」「飛んだり跳ねたりしている間、空中にあるお前の動きは次の体の位置が決まっているということだ。つまり、相手がそこを狙えば、簡単に打たれることになる。普通に歩くように動き、相手の動きを予測して、そこを打てばいいのだ」
確かに、祖父が道場破りを相手にした時を思い出すと、祖父はほとんど構えらしい構えをせず、相手にスタスタと近づいて、ポンと打って終わり、ということが多かった。相手がなぜそんなに簡単に打たれるのか、見ている私には不思議でならなかったものだ。
名人というものは、相手の視線の動き、足の位置、体の構えなどから、相手が次にどういう行動に出るか、「読める」ものらしい。幕末の寺田何とかいう名人の試合がそれだったらしい。
まあ、そうは言っても、祖父は幼い私を剣道の道に進ませる気はほとんんど無かったようで、最初の教え以外は、「自分で工夫しろ」と言うだけだった。それに、剣道よりも、学校でやる運動競技の練習をしたほうが当座の役に立つと思っていたのだろう。つまり、私自身の生活の質という奴をちゃんと配慮していたわけだ。
低学年の間私が学校での運動が苦手で劣等感を持っていたことは前に書いたが、3年になった時から祖父は私の運動能力向上の手助けをしたわけである。その効果は半年くらい経ってからメキメキ現れてきた。まず、4年になると走力がクラスでも上位になった。もちろん、私より速い子は何人かいたが、クラスのベスト5くらいまでは上がってきたのである。何も走る訓練をしていない子供が普通なのだから、これは当然の結果だろう。クラスの上位の子は、家庭の方針で何かのスポーツをやっている子供ばかりだった。ある意味では、こういう「不平等な競争」というのが学校体育や学校教育の本質かもしれない。
これから私が書こうとしているのは、一種の自叙伝ということになるかと思うが、自叙伝の例に漏れず、その内容は嘘ばかりである。そもそも、自分が見たり聞いたりしたことが、現実と一致しているかどうかという保証は無いし、その上に人間というものは自分可愛さに、どうしても自分の都合がいいように記憶の中の出来事を歪曲するのが当然だからだ。
まあ、この文章は私の一生の一区切りの記念に書いているので、実は読者を想定していない。どういう一区切りかというと、私にとって生きる上で大きな存在であった祖父が先日亡くなったのである。その法事が終わり、やっと周囲が静かになったので、私自身に関する祖父の思い出を回顧しているうちに、それを文章にしたほうが良さそうな気がしてきたわけである。
かと言って、私自身が祖父を最初に見た時の思い出など、あるはずがない。気が付いた時は、祖父がいつも近くにいたわけだ。で、祖父のほかに私の母である明里(あかり)がいつもそばにいた。父は私が物心ついた時には既に亡くなっていたのである。
祖父の名前は正木龍三と言う。剣道界の一部では多少知られた存在だったらしいが、何かの流派に所属することはなく、自分で小さな個人道場をやっていて、その息子の和也(私の父)が道場に所属していた美人の娘さんと相思相愛になって私が生まれたらしい。まあ、実際、母は37歳の今も、なかなかの美人で、学校の参観日などではいつも人目を惹いたものである。
なお、祖父の道場には門下生はほんの数名しかいない。看板には「二天一流」と書いてあるが、これは言うまでもなく宮本武蔵が自分の剣法の名とした名前だ。祖父はその宮本武蔵の「五輪の書」と「兵法三十五箇条」を自分で読解してそれを考究し、自分なりの「二天一流」を工夫したわけである。
たまに物好きな「道場破り」が現れるが、だいたいは大学の剣道部レベルで、ほんの一合か二合も竹刀を合わせないうちに祖父に打たれていた。祖父の着物(道着を付けないで普通の着物の時もある。)に相手の竹刀が触れたことすらなかったのだが、まあ、これは相手が弱かっただけだろう。全日本剣道大会に出るレベルの道場破りは私は見たことが無いが、祖父の門下生の梶原武治という人は、警視庁の警部だが、全日本剣道大会で上位になったことがあるらしい。ただ、二刀流ではなく、ふつうに一本の竹刀で試合したようだ。この人は巨漢なので、体格に圧倒されて負けた相手も多かったのだろう。
で、道場破りに来る者の中には私の母が目当てでくる馬鹿もかなりいて、祖父に負けた後で入門を申し込むこともあったが、「では、この明里と試合して勝ったら入門を許そう」と祖父に言われ、母と対戦するのだが、これも母が負けたためしがない。
ということで、我が道場の経営はまったく謝礼とかが取れないのだが、どこかの誰かの援助で、家も道場も潰れないで済んでいたようだ。一説には或る右翼の大物が援助していたという話もあるが、祖父は政治嫌いなので、おそらくデマだろう。
そういう家系だから、この文章を読む人がもしいたら、「この『主人公』はきっと、その祖父とやらから英才教育を受けて、剣道の天才になるという話だろう」と既に推測していると思うが、けっしてそんなことはない。私が竹刀を持ったのは、やっと10歳になってからである。祖父の持論として「筋肉や骨格の出来上がらないうちに激しい運動をさせてはならない」という考えからである。
祖父から教えられたのは、むしろ学問である。と言うより「勉強の仕方」だ。
私は物心ついた時から既に個室を与えられていたが、その壁には「五十音表」と「教育漢字表」が貼られていた。母が、その五十音表を指して「あ、い、う、え、お」と何回か読み上げながら文字を指したが、私が受けた家庭教育はほとんどそれだけである。後は、振り仮名付きのわずかな漢字の入った幼児向けの童話を数冊与えられた。当然、好奇心に駆られ、私はそれらの童話を何度も読み返し、小学校に上がる前にひらがなとカタカナ、そして簡単な漢字をかなり覚えていた。
祖父が教えたのは「字の書き方」である。とにかく、印刷された活字に似せて、ゆっくり丁寧に書くことを毎日30分ほど命じられた。使った筆記具は2Bの鉛筆である。
書いたノートは祖父に提出し、点検を受ける。雑に書いた部分は祖父が赤ペンを入れる。そして何も言わないで返すだけだが、祖父を畏怖している私は、二度と雑な字を書かなかった。
小学校に上がる前に一年生の教科書が販売され、それがすべて居間の机の上に置かれた。祖父と母は、それを最初から最後まで丁寧に読んでいた。
祖父は難しい顔をしていた。教科書内容があまり気に入らなかったのだろう。
「まあ、自分で読んで、意味の分からないところに付箋を貼って、授業の時に先生に聞きなさい」というのが祖父の言葉だ。
母も言った。「分からないことを分かるようにするのが授業だから、授業が終わってまだ分からなかったら、先生に聞くのよ。先生がいなければ、職員室に行きなさい。とにかく、分からないことをそのままにしておいてはダメ。」
「まあ、小学校の範囲くらいで分からないことがあるようではやはり良くないだろう」と祖父が続ける。
「次の授業でやる部分は必ず先に目を通しておくのよ」と母。
まあ、そういうことで、私は小学校では常にトップの成績だったらしいのだが、全校共通テストをした記憶は無いから、毎回のテストの総合的な得点でトップだったということだろう。もちろん、祖父や母の言うように、小学校の勉強くらいで分からないことがあるのは恥ずかしいと思っていたから、学校でトップだろうが誇る気持ちはまったく無かった。
その代わり、体育は苦手だった。
これは私が早生まれだったためもあり、他の生徒より成長が遅く筋肉もついていなかったためだと今は分かるが、それと同時に、やはり祖父の方針のために、重い運動をしてこなかったためだと思う。
祖父は、私が運動で劣等感を持ち始めたらしいことに気がついて、やり方を変えることにした。軽い運動だが、それを日常的にやらせることにしたのである。まず、学校まで走って通うこと。ランドセルは祖父が自転車で運び、学校の近くで私に渡した。ランドセルを背負って走れるものではないからだ。
そして、庭を使って、物を投げる練習である。ボールの類だけでなく、重い石でも刃物でも大きな枝切れでも何でも投げるのである。それで、体全体を使って投げるということを覚えた。しかも利き手の右手だけでなく左手でも同じ練習をした。
同じく庭を使っての幅跳び、高跳び。
まあ、要するに、体を健康に頑丈に発育させるのが主眼で、運動能力は付録である。
祖父は剣道だけでなく空手の知識もあったから、ラジオ体操代わりに、空手の型も教えてくれた。つまり、基本的な「突き」「受け払い」「蹴り」などだ。
「突き」は、相手に当たったところで止めるのではなく、相手を「打ちぬく」つもりで打ちなさい。「蹴り」は外れたら、即座に別の蹴りを別の足で続けなさい。とにかく「居つく」のが勝負では危険を招くのだと覚えなさい。
というのが祖父の教えだが、剣道より先に、武道全般の心構えを教えたわけだ。「観と見」という心構えもかなり早い時期に教えられた記憶がある。
「観は、広く全体を見ること、見は集中して見ること。常に、このふたつの見方をしなさい。たとえば、集中して絵を描いていても、心の一部は周囲の状況を観の目で見るわけだ。地震などがあったら、どう行動するか、普段から考えておくわけだ。」
まあ、この文章は私の一生の一区切りの記念に書いているので、実は読者を想定していない。どういう一区切りかというと、私にとって生きる上で大きな存在であった祖父が先日亡くなったのである。その法事が終わり、やっと周囲が静かになったので、私自身に関する祖父の思い出を回顧しているうちに、それを文章にしたほうが良さそうな気がしてきたわけである。
かと言って、私自身が祖父を最初に見た時の思い出など、あるはずがない。気が付いた時は、祖父がいつも近くにいたわけだ。で、祖父のほかに私の母である明里(あかり)がいつもそばにいた。父は私が物心ついた時には既に亡くなっていたのである。
祖父の名前は正木龍三と言う。剣道界の一部では多少知られた存在だったらしいが、何かの流派に所属することはなく、自分で小さな個人道場をやっていて、その息子の和也(私の父)が道場に所属していた美人の娘さんと相思相愛になって私が生まれたらしい。まあ、実際、母は37歳の今も、なかなかの美人で、学校の参観日などではいつも人目を惹いたものである。
なお、祖父の道場には門下生はほんの数名しかいない。看板には「二天一流」と書いてあるが、これは言うまでもなく宮本武蔵が自分の剣法の名とした名前だ。祖父はその宮本武蔵の「五輪の書」と「兵法三十五箇条」を自分で読解してそれを考究し、自分なりの「二天一流」を工夫したわけである。
たまに物好きな「道場破り」が現れるが、だいたいは大学の剣道部レベルで、ほんの一合か二合も竹刀を合わせないうちに祖父に打たれていた。祖父の着物(道着を付けないで普通の着物の時もある。)に相手の竹刀が触れたことすらなかったのだが、まあ、これは相手が弱かっただけだろう。全日本剣道大会に出るレベルの道場破りは私は見たことが無いが、祖父の門下生の梶原武治という人は、警視庁の警部だが、全日本剣道大会で上位になったことがあるらしい。ただ、二刀流ではなく、ふつうに一本の竹刀で試合したようだ。この人は巨漢なので、体格に圧倒されて負けた相手も多かったのだろう。
で、道場破りに来る者の中には私の母が目当てでくる馬鹿もかなりいて、祖父に負けた後で入門を申し込むこともあったが、「では、この明里と試合して勝ったら入門を許そう」と祖父に言われ、母と対戦するのだが、これも母が負けたためしがない。
ということで、我が道場の経営はまったく謝礼とかが取れないのだが、どこかの誰かの援助で、家も道場も潰れないで済んでいたようだ。一説には或る右翼の大物が援助していたという話もあるが、祖父は政治嫌いなので、おそらくデマだろう。
そういう家系だから、この文章を読む人がもしいたら、「この『主人公』はきっと、その祖父とやらから英才教育を受けて、剣道の天才になるという話だろう」と既に推測していると思うが、けっしてそんなことはない。私が竹刀を持ったのは、やっと10歳になってからである。祖父の持論として「筋肉や骨格の出来上がらないうちに激しい運動をさせてはならない」という考えからである。
祖父から教えられたのは、むしろ学問である。と言うより「勉強の仕方」だ。
私は物心ついた時から既に個室を与えられていたが、その壁には「五十音表」と「教育漢字表」が貼られていた。母が、その五十音表を指して「あ、い、う、え、お」と何回か読み上げながら文字を指したが、私が受けた家庭教育はほとんどそれだけである。後は、振り仮名付きのわずかな漢字の入った幼児向けの童話を数冊与えられた。当然、好奇心に駆られ、私はそれらの童話を何度も読み返し、小学校に上がる前にひらがなとカタカナ、そして簡単な漢字をかなり覚えていた。
祖父が教えたのは「字の書き方」である。とにかく、印刷された活字に似せて、ゆっくり丁寧に書くことを毎日30分ほど命じられた。使った筆記具は2Bの鉛筆である。
書いたノートは祖父に提出し、点検を受ける。雑に書いた部分は祖父が赤ペンを入れる。そして何も言わないで返すだけだが、祖父を畏怖している私は、二度と雑な字を書かなかった。
小学校に上がる前に一年生の教科書が販売され、それがすべて居間の机の上に置かれた。祖父と母は、それを最初から最後まで丁寧に読んでいた。
祖父は難しい顔をしていた。教科書内容があまり気に入らなかったのだろう。
「まあ、自分で読んで、意味の分からないところに付箋を貼って、授業の時に先生に聞きなさい」というのが祖父の言葉だ。
母も言った。「分からないことを分かるようにするのが授業だから、授業が終わってまだ分からなかったら、先生に聞くのよ。先生がいなければ、職員室に行きなさい。とにかく、分からないことをそのままにしておいてはダメ。」
「まあ、小学校の範囲くらいで分からないことがあるようではやはり良くないだろう」と祖父が続ける。
「次の授業でやる部分は必ず先に目を通しておくのよ」と母。
まあ、そういうことで、私は小学校では常にトップの成績だったらしいのだが、全校共通テストをした記憶は無いから、毎回のテストの総合的な得点でトップだったということだろう。もちろん、祖父や母の言うように、小学校の勉強くらいで分からないことがあるのは恥ずかしいと思っていたから、学校でトップだろうが誇る気持ちはまったく無かった。
その代わり、体育は苦手だった。
これは私が早生まれだったためもあり、他の生徒より成長が遅く筋肉もついていなかったためだと今は分かるが、それと同時に、やはり祖父の方針のために、重い運動をしてこなかったためだと思う。
祖父は、私が運動で劣等感を持ち始めたらしいことに気がついて、やり方を変えることにした。軽い運動だが、それを日常的にやらせることにしたのである。まず、学校まで走って通うこと。ランドセルは祖父が自転車で運び、学校の近くで私に渡した。ランドセルを背負って走れるものではないからだ。
そして、庭を使って、物を投げる練習である。ボールの類だけでなく、重い石でも刃物でも大きな枝切れでも何でも投げるのである。それで、体全体を使って投げるということを覚えた。しかも利き手の右手だけでなく左手でも同じ練習をした。
同じく庭を使っての幅跳び、高跳び。
まあ、要するに、体を健康に頑丈に発育させるのが主眼で、運動能力は付録である。
祖父は剣道だけでなく空手の知識もあったから、ラジオ体操代わりに、空手の型も教えてくれた。つまり、基本的な「突き」「受け払い」「蹴り」などだ。
「突き」は、相手に当たったところで止めるのではなく、相手を「打ちぬく」つもりで打ちなさい。「蹴り」は外れたら、即座に別の蹴りを別の足で続けなさい。とにかく「居つく」のが勝負では危険を招くのだと覚えなさい。
というのが祖父の教えだが、剣道より先に、武道全般の心構えを教えたわけだ。「観と見」という心構えもかなり早い時期に教えられた記憶がある。
「観は、広く全体を見ること、見は集中して見ること。常に、このふたつの見方をしなさい。たとえば、集中して絵を描いていても、心の一部は周囲の状況を観の目で見るわけだ。地震などがあったら、どう行動するか、普段から考えておくわけだ。」
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冬山想南
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