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第6回 推古天皇と蘇我氏

○仏教伝来

 大伴金村失脚後、欽明天皇の朝廷で勢力を激しく争ったのが蘇我氏と物部氏でした。
 その火種の第1ラウンドが、538年に百済から伝わった仏教の取扱い。この時は百済の聖明王から金色に輝く釈迦像と仏典がサンプル品として届いただけでしたが、この新しい宗教について、渡来人の子孫でもあった蘇我稲目は受容を推進しようとし、一方で物部尾輿(おこし)は反対の姿勢を明確にしました。
 *余談ですが、私的では522年に司馬達等が自宅の草庵に仏像を安置して礼拝していた、という記録があります。

 なぜ蘇我氏は仏教受容を推進したのか。
 すなわち、人には仏教を伝えたくせに、自国ではあまり仏教が盛んでなかった百済が衰亡の一途をたどり、逆に仏教信仰が盛んで多くの寺を建てていた新羅が栄えていたのを見て、「これは仏教の力だ」と蘇我氏は考えたのです。さらに、次々と朝鮮半島から渡来人が流入する中で、人々をまとめ上げる宗教として日本古来からの神祇信仰だけではなく、仏教が必要である、と考えたのです。

 こうして蘇我氏と物部氏の争いはエスカレート。
 欽明天皇没後、その息子の敏達天皇用明天皇が相次いで病死し、後継者を誰にするかで大激突しました。尾輿から代替わりした物部守屋(もりや)は欽明天皇の息子である穴穂部皇子を、稲目から代替わりした蘇我馬子はその弟である泊瀬部(はせべ)皇子を推薦し、激突しました。

 そして587年、蘇我馬子は穴穂部皇子を暗殺するという強行策に打って、さらに豪族をまとめ上げ、物部守屋を激戦の末に討ち取ることに成功したのです。当初は蘇我氏側が劣勢でしたが、ここで神秘的な力を発揮したのが14歳の厩戸皇子(うまやどのみこ)、いわゆる聖徳太子だったといわれます。用明天皇の息子である彼は、木で仏像を彫り、兵士達の心の拠り所とすることで大幅に士気を高め、一気に戦局を覆した・・・ようです。どこまで本当か解りませんけれども。

 こうして蘇我馬子は泊瀬部皇子を即位させ(崇峻天皇)、さらに飛鳥(現在の奈良県明日香村)の地に法興寺(現在の飛鳥寺)を建立し仏教の拠点としました。

 また、蘇我馬子は592年、「あいつはオレの言うことをきかねえ」と崇峻天皇を暗殺し、欽明天皇の娘で、敏達天皇の后だった炊屋姫(かしきやひめ)を即位させました。これが、推古天皇です(当時39歳)。そして、19歳の聖徳太子を摂政につけ、さらに娘を嫁がせ義理の息子とし、馬子は朝廷の大実力者として政治を行うのです。


飛鳥大仏 【国指定重要文化財】
 文化財の指定名称としては、「銅造釈迦如来坐像(本堂安置)1躯」。飛鳥寺の本尊で、少なくとも頭部は創建当時の模様。最近の研究ではその他大部分も創建当時のまま、とする説もあります。

○推古朝の政治

 さて、推古天皇の下で朝廷の体制がさらに整えられていきます。
 まず603年、都を飛鳥の小墾田宮(おはりだのみや)へ移します。なお、小墾田宮の正確な場所は特定されていません。

 そして、これまでの姓を使った授位のあり方に変えて、冠位十二階の制が定められます。これは、徳・仁・礼・信・義・智の6つをベースに、それぞれ大小に区分。つまり、合計12の位を設置し、豪族達は冠の色と飾りで自分達の朝廷内での等級が一目瞭然で区別されることになったのです。また、これは才能や功績によって上がることが出来るため、豪族達のやる気を引き出します。

 もっとも、蘇我氏のような有力氏族は自分達の地位が脅かされる危険があるため、反発が予想。
 そのため、有力な豪族は対象としませんでした。また、長い年月をかけて位は13,19、26,48,そして逆戻りで30階に落ち着いています。

 そして604年に聖徳太子の肝いりで憲法17条を発表します。
 これは、今の憲法とは異なるもので、朝廷内における人々の心構え、すなわち倫理規定を定めたものです。和をもって貴しとなし・・・とか、仏教を篤く敬えとか・・・全国の人民はすべて大王を主とあおげとか・・・。こうして、豪族達を地方の有力者から朝廷の役人へと次第に性格を変貌させていくことになるのです。考えてみれば、かなりの改革ですね。

 ただし、実際に施行されたかまでは記録に残っておらず、不明です。

 また、聖徳太子と蘇我馬子は歴史書である「天皇記」「国記」の歴史書の編纂にも乗り出します。
 これによって、これまでの歴史が不明にならないように文字で後世に残し、同時に現政権の正統性も強調する狙いがあったのだと思います。ちなみに、蘇我馬子の子孫は後ほど述べる通り天皇に対する反逆者として滅亡に追い込まれたため、必然的に蘇我馬子についての功績も小さく描かれていますが、こうした大きな改革を蘇我氏の力無くして実現できたとは思えず、聖徳太子と蘇我馬子の二人三脚で新たな国家体制を意欲的に整備していったと考えられています。

○隋との外交

 さて、これまで百済を通じて大陸の文物を取り入れ、互いに積極的に使者を交換していた大和政権でしたが、中国ではこの頃、ようやく小国分立状態が解消され、隋という大陸全土を統一した国家が誕生していました。そこで607年、聖徳太子は小野妹子を中心とした使節(=遣隋使)を送ることにしました(それに先立ち、中国の歴史書「隋書」には600年にも倭国からの使者が来た、と記されています)。

 この時、聖徳太子は日本側がへりくだった交渉を嫌い、対等に交渉せよと指示しました。そのため、日本側の国書には「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙(つつが)無きや」と記しました。つまり、我々日が昇る国の天子が、日が没する国の天子にお手紙差し上げます。お元気でしょうか?と記したわけです。

 これを見た隋の皇帝である煬帝(ようだい 位604~618年)は「野蛮人が、無礼な!」と激怒します。何しろ、隋は日が沈む国と書かれた上に、相手は自分達のトップを、隋の皇帝と対等に”天子”という名称で表現しているのです。しかし、隋は朝鮮半島の高句麗と戦っていたこともあり、わざわざ日本を敵に回すこともないと考え、翌年、外国の接待係だった名門出身、斐世清(はいせいせい)を使者として日本に派遣しています。ただし、隋から送られた国書の方も過激な内容だったようで、小野妹子は「途中で奪われました」と言って朝廷には提出しませんでした。

 ともあれ、こうして隋との国交が樹立した大和政権は、斐世清を隋に送り返すと同時に、高向玄理(たかむこの げんり/くろまろ)、南淵請安(みなみぶち しょうあん)、および僧である(みん)らを留学生として派遣し、長期にわたり学習させました。彼らは後の政治改革で少なからぬ役割を発揮しています。

○新羅との戦い

 一方、これまで通り朝鮮半島との関係も非常に重要なものでした。
 特に新羅との関係が非常に重要。562年に新羅が任那(加羅)を滅ぼして以降、日本と新羅の関係は腹のさぐり合い状態で、時には新羅が日本に仏像などを送っていましたが、591年には「任那を復興しよう!」と、日本は九州の筑紫へ2万人の兵士を派遣し、その時を伺い始めました(結局、3年後に撤兵)。

 さらに600年には任那の残存勢力でしょうか、これが新羅と戦ったようで日本は救援へ。新羅を破ることに成功します。
 1回目と思われる遣隋使はこの時に派遣されていますから、新羅問題に関する外交を展開したのではないかと思われます。その後の第2回目で小野妹子が派遣されることになりますが、日本と隋を対等に考えた外交を展開したのは、もしかしたら第1回目の遣隋使での出来事が影響しているのかも知れませんね。日本側の記録に残っていないのも何か怪しい(笑)。

 さらに602年、聖徳太子の弟である来目皇子(くめみこ)を将軍とし、2万5000人を新羅遠征軍として派遣することが決定。来目皇子は軍事を担当する大伴氏配下の来目氏による軍事教育を受けており、軍事のエキスパートだったとか。・・・ところが、いざ朝鮮半島へ!と、九州の筑紫で準備していたところ病に倒れ、亡くなってしまいました。遠征は中止に。聖徳太子の悲しみは相当なものだったでしょうね。なにしろ、来目皇子は聖徳太子と父も母も同じでしたから。

 これ以後は目立って大きな戦争はしなかったのか、新羅が任那と共同でしばしば使者を日本へ送るようになり、仏像などが送られています。また、高句麗も同様で、僧が来日したり、610年には隋に攻められたことから、日本に救援を要請。この時、派遣されてきた曇徴(どんちょう)という僧侶は、儒教の専門家でもあり、さらに彩色、紙、墨の製造法も伝え、飛鳥文化に大きな影響を与えています。また、水力を利用した臼の製造実演も行っています。
 
 それから、高句麗は618年、隋が滅亡したことをいち早く報告。この時、ラクダも送ったそうですが、当時の人達のインパクトはどんなものだったでしょうか。気になるところです。・・・と、書いたところで聖徳太子が亡くなった後、623年には蘇我馬子が新羅に軍を遠征しているではありませんか。勢力を拡大する新羅に対し、これ以後も百済、高句麗、さらには隋の後に中国を統一した唐との間であの手、この手で外交が展開されます。

○聖徳太子と仏教

 聖徳太子といえば、とにかく仏教を篤く信仰し、保護した人物でした。
 物部守屋との戦いで木彫りの仏像を作ったことは先に述べた通りですが、この戦いで勝利したことを感謝し、593年、難波の地に四天王寺(下写真)を建立しています。




 そして607年頃には、聖徳太子が住居を構えた斑鳩(いかるが)に、法隆寺(下写真)を建立。その名の通り、仏法が隆盛になることを願ったものです。




▲法隆寺
法隆寺の魅力は、西院伽藍が古代からしっかりと変わらず残っているところ。流石に聖徳太子の時代のまま・・・とまでは言えないようですが、少し後の7世紀後半の再建時からは変わらぬ姿の様子。

 さらに、仏教に対する勉強会も熱心に主宰し、高句麗から来日した僧の恵慈(えじ)ら共に様々な仏法を研究。特に、「法華経義疏(ほけきょうぎしょ)」などを発表しました。これに、維摩経義疏(ゆいま)・勝鬘経義疏(しょうまん)を加えた「三経義疏」(さんぎょうぎしょ)と総称される仏教注釈書が、聖徳太子のグループの成果のようです。

 こうして、蘇我馬子と協力、晩年はかなり圧力を受け政治から遠ざかったとも言われる聖徳太子は、馬子よりも早く622年に死去。のちに聖人君主のように描かれるようになる彼ですが、実のところは非常に謎めいた存在で、果たして本当にいたのか?という説も有力に唱えられています。

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第5回 大和政権の成立と発展

○吉備地方の服属

 さて、このように東アジアを巻き込みながら勢力を拡大した大和政権でしたが、依然として吉備地方で強大な力を持っていた吉備一族が、大和政権に従いつつも不穏な動きを見せていました。特に、吉備下道臣前津屋(きびのしもつみちのおみ さきつや)は大泊瀬幼武大王(雄略天皇)に対して反抗的な態度を取っていたため、大泊瀬幼武大王は物部(ものもべ)一族に命じ、吉備一族70人を皆殺しにしました。

 ところが、大泊瀬幼武大王が亡くなると再び吉備一族は立ち上がります。
 中心となったのは、なんと大泊瀬幼武大王の妃であった吉備稚媛(わかひめ)と、大王との息子である星川皇子。この吉備稚媛は、吉備田狭(たさ)の妻だったのですが、田狭が大泊瀬幼武大王によって任那(伽耶)に追いやられている隙に、大王に奪われ妃にさせられたのです。

 そこで、当時有力な王位継承者だった白髪(しらは)王子に代わって、自分の息子を、大王にすることで吉備一族の再興を企むのですが、この動きを察知した大連(おおむらじ)大伴室屋(おおとものむろや)は、渡来人の一族である東漢掬直(やまとのあやの つかのあたい)を討伐部隊として差し向け、吉備一族と合流した吉備稚媛達を敗死させました。

 これにより、とうとう吉備一族は大和政権に屈服するようになり、5世紀末から吉備での巨大古墳造営がピタリと止みました。また、この頃から「大王」は連合政権の盟主から、いよいよ大王の下に各地の豪族が従う、という形に変貌します。もっとも、その下では物部氏、蘇我(そが)氏、大伴氏、平群(へぐり)氏が、それまで大王と密接な親類関係にあった葛城氏に代わって、熾烈な主導権争いをしていたようです。

○氏姓制度

 さあ、そこで大和政権の大王と豪族の政治的な組織関係を見ていきましょう。
 まず豪族ですが、彼らは(うじ)と呼ばれる血縁的な繋がりを持った一族の集団を形成していました。その首長のことを氏上(うじのかみ)といいます。そして、氏には独自の名前が付いており、平群氏、蘇我氏、葛城氏のような地名からついた氏名や、大伴氏、物部氏など自分達が大和政権内で掌握していた職務からついたものなど色々です。

 この豪族に対し、大王は姓(かばね)という、政権内での地位を表すものを与えました。
 すなわち、一定の地域に基盤をもつ豪族には(おみ 葛城氏、吉備氏など)を、さらに特定の職務を持つ豪族には(むらじ 大伴氏、物部氏)、さらに大和とその周辺以外・・・例えば関東や九州などの有力豪族には(きみ)、それ以外の一般の豪族には(あたい)です。

 そして、さらに臣と連を持つ豪族うち、「特に有力な」者には大臣(おおおみ)、大連(おおむらじ)が与えられます。

 一方、大和政権の儀式や政務を行う朝廷。
 ここの職務は、伴造(とものみやつこ)と呼ばれる豪族、とそれをサポートする品部(しなべ/ともべ)呼ばれる人々が行いました。こういう役職は専門性が要求されるので、最新の大陸の知識を持った渡来人達が就任することが多かったようです。そして、政治上、経済上の要地には屯倉(みやけ)と呼ばれる直轄地を各地に設け、田部(たべ)と呼ばれる農民に耕作させていました。

 また、豪族内部に目を向けてみますと、有力な豪族は田荘(たどころ)と呼ばれる私有地と、部曲(かきべ)と呼ばれる私有民を所有し、さらに奴(やっこ)と呼ばれる奴隷もいました。

(引用者注:部曲(プゴク)は、新羅高麗賤民である。つまり、「部曲」という漢字が先にあり、それに日本人が「かきべ」という読みを当てたので、「曲部」ではなく「部曲」という不自然な、漢字と読みの不一致が生まれたのだろう。当時は漢字の知識が浅かったのだと思う。今のカタカナ書き英語のようなものだ。)(引用者曰く:「奴(やっこ)」は「屋子」つまり、武士時代の「家の子」と同じだと思う。「やこ」が発音の便宜上、「やっこ」となり「奴」という、「奴隷」の実情にふさわしい字を当てたのではないか。)

 ちなみに、こうした制度は百済のシステムを元に構築されたようです。
 と言うのも、百済は高句麗の猛攻や加羅北部の反乱に対し、度々日本に救援を要請。それを承諾する代わりに百済や中国から人材を日本に派遣させ、彼らは儒教を伝えたり、暦学や医学、薬学など様々な学術分野の改善に貢献していたのです。


額田王

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
下居神社にある額田王の歌碑

額田王(ぬかたのおおきみ、ぬかたのきみ、生没年不詳。女性)は、飛鳥時代日本皇族歌人天武天皇の妃(一説に采女巫女)』)、額田部姫王(『薬師寺縁起』)とも記される。

係累他[編集]

『日本書紀』には、鏡王の娘で大海人皇子(天武天皇)に嫁し十市皇女を生むとある。鏡王は他史料に見えないが、「王」称から2世 - 5世の皇族(王族)と推定され、一説に宣化天皇皇子の火焔皇子の曾孫といい[1]、この場合は威奈(猪名/韋那)氏の同族である。また、近江国野洲郡鏡里の豪族で壬申の乱の際に戦死したともいう。

生年は不詳であるが、まず孫の葛野王669年(天智天皇8年)の生まれであることは確実である。このことから、娘の十市皇女の生年は諸説あるが、648年(大化4年)から653年(白雉4年)頃の間の可能性が高い。更に遡って、額田王は631年(舒明天皇3年)から637年(同9年)頃の誕生と推定される。

出生地に関しては大和国平群郡額田郷や島根県東部(出雲国意宇郡)に求める説がある。

『万葉集』『日本書紀』に見える鏡姫王(鏡王女)を姉とする説もあるが(本居宣長玉勝間』)、それは「鏡王女」の表記を「鏡王の女(むすめ)」と解釈したもので無理があるとの意見もある。また、表記の解釈は同様で「鏡王の女(むすめ)」とは額田王自身のことを指すのではないかという新説も提出されている[2]

十市皇女の出生後、天武天皇の兄である中大兄皇子(天智天皇)に寵愛されたという話は根強いが確証はない。状況証拠は『万葉集』に収められた歌のみである。特に

  • 茜指す紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る(巻1・20・額田王)
  • 紫の匂へる妹を憎くあらば人妻ゆゑに我恋ひめやも(巻1・21・大海人皇子)

の2首などをめぐって天智・天武両天皇との三角関係を想定する理解が一般にあるが、池田弥三郎山本健吉が『萬葉百歌』でこの2首を宴席での座興の歌ではないかと発言して以来、こちらの説も有力視され学会では通説となっている[要出典]。晩年の王の歌としては持統天皇吉野行幸に際して弓削皇子と交わした贈答歌があり、行幸の時期からして60歳前後までは確実に生存していたと推測されている。従って没年は大まかなところ、690年頃としか言えない。

古事記の記述から推測すると、「袁本杼(をほど)」
は中国の姓名だろうと思う。「をほど」という名前の音韻はまったく日本語らしくない。昔と今の日本語が違うといっても、名前らしくなさすぎる名前である。おそらく「袁」が姓だろう。百済人か新羅人か、中国人ではないか。中国人から帰化した朝鮮人が日本に渡来したとも思える。
武烈天皇が暴君だったという話は継体天皇の出自の怪しさを誤魔化す意図だと思う。

(以下引用)

『古事記』では越前の名前は全く出て来ず「近江」から迎えたとある事を指摘している[5]。 「天皇(武烈)既に崩りまして、日続知らすべき王無かりき。故、品太(応神)天皇の五世孫、袁本杼(をほど)命を近淡海(ちかつおうみ)国より上り坐しめて、手白髪(たしらか)命に合わせて、天下を授け奉りき。」[6]

『日本書紀』によれば、506年に大変な暴君[注 4]と伝えられる武烈天皇が後嗣を定めずに崩御したため、大連・大伴金村、物部麁鹿火、大臣巨勢男人ら有力豪族が協議し、まず丹波国桑田郡(現京都府亀岡市)にいた14代仲哀天皇の5世の孫である倭彦王(やまとひこのおおきみ)を推戴しようとしたが、倭彦王は迎えの兵を見て恐れをなして山の中に隠れ、行方知れずとなってしまった。

次に大伴金村が「男大迹王、性慈仁孝順。可承天緒。(男大迹王、性慈仁ありて、孝順ふ。天緒承へつべし。男大迹王は、慈しみ深く孝行篤い人格である。皇位を継いで頂こう。)[7]」と言い、群臣達は越前国三国(現福井県坂井市三国町あたり)(『古事記』では近江から迎えたとある)にいた応神天皇の5世孫の男大迹王を迎えようとした。 臣・連たちが節の旗を持って御輿を備えて迎えに行くと、男大迹王には大王の品格があり、群臣たちはかしこまり、忠誠をつくそうとした。しかし、男大迹王は群臣のことを疑っており、大王に即位することを承知しなかった。 群臣の中に、男大迹王の知人である河内馬飼首荒籠(かわちのうまかいのおびとあらこ)がいた。荒籠は密かに使者をおくり、大臣・大連らが男大迹王を迎え入れる本意を詳細に説明させた。使者は3日かけて説得し、そのかいあって男大迹王は即位を決意し、大倭へ向けて出発したという[8]。 その後も、男大迹王は自分はその任にないと言って何度も即位を辞退するが、大伴金村らの度重なる説得を受けて、翌年の507年、58歳にして河内国樟葉宮(くすはのみや、現大阪府枚方市)において即位し、武烈天皇の姉にあたる手白香皇女皇后とした。 継体が大倭の地ではなく樟葉において即位したのは、樟葉の地が近江から瀬戸内海を結ぶ淀川の中でも特に重要な交通の要衝であったからであると考えられている[9]。 しかしその後19年間、なかなか大倭入りせず(大倭に入れず?)511年筒城宮(つつきのみや、現京都府京田辺市)、518年弟国宮(おとくにのみや、現京都府長岡京市)を経て526年に磐余玉穂宮(いわれのたまほのみや、現奈良県桜井市)に遷った。 翌年に百済から請われて救援の軍を九州北部に送ったものの、新羅と通じた筑紫君・磐井によって反乱が起こり、その平定に苦心している(詳細は磐井の乱を参照)。

崩年に関しては『日本書紀』によれば、531年に皇子の勾大兄(後の安閑天皇)に譲位(記録上最初の譲位例)し、その即位と同日に崩御した。『古事記』では、継体の崩年を527年としている。没年齢は『日本書紀』では82歳。『古事記』では43歳。都にいた期間は、『日本書紀』では5年間。『古事記』では、1年間程である。

対外関係としては、百済が上述のように新羅や高句麗からの脅威に対抗するために、たびたび倭国へ軍事支援を要請し、それに応じている。また、『日本書紀』によれば、継体6年(513年)に百済から任那の四県[注 5]の割譲を願う使者が訪れたとある。倭国は大伴金村の意見によってこれを決定した[注 6]

継体や勾大兄皇子、金村は軍事的な外交を行った。任那は百済や新羅からの軍事的圧力に対して倭の軍事力を頼り、継体らはそれを踏まえて隙があれば新羅と百済を討とうとしていた。現在の博多に存在した那津官家はその兵站基地であった。安閑天皇宣化天皇期の屯倉設置も、兵站としての役割を期待されてのものであったと考えられる。

「日本史」という素っ気ない名前のおそらく個人ブログ(サイト)であるが、文章が明快でユーモアもある。三韓の朝鮮読みが書いてあるのがいい。漢字表記とよく一致している。「百済」など、「ペクチェ」のほうが漢字音に近い。(高句麗、新羅も同様。)なぜ「くだら」という読みになったのか。日本人の韓国嫌悪が学界や教育界をも汚染したのだろうか。「くだら」ない話である。


○朝鮮半島と大和政権

 さて、卑弥呼の時代から160年ほど中国や朝鮮の歴史書に登場しなくなった日本(倭)ですが、大和地方に誕生した政権が再び東アジア地域と関わるようになったことから、色々なところで倭に関する記述が見つかります。・・・と、その前に中国と朝鮮の情勢を解説しますと。

 三国志の時代を経て、中国を統一した晋ですが、早々に弱体化し、北は匈奴をはじめとする異民族によって征服され、政権は南へと移ります。この時代を南北朝時代と言い、北は匈奴の諸国家が次々と興亡し(いわゆる五胡十六国。5つの異民族による16の国)、南も漢民族政権が次々と交代するようになります。


 こんな情勢下ですから、4世紀になると、それまで中国の支配下にあった朝鮮半島で国家形成の動きが起こります。
 まず、現在の中国東北部で建国された高句麗(こうくり、コグリョ)。その起源は紀元前2世紀とする説もありますが、313年に中国の朝鮮半島出先機関である楽浪郡を攻め滅ぼし、朝鮮半島北部に勢力を拡大します。

 これに対し、南部では馬韓、弁韓、辰韓の3つの連合体が相争っていましたが、この中で辰韓地域から新羅(しらぎ、シルラ)が、馬韓地域から百済(くだら、ペクチェ)という統一国家が誕生します。

 一方で、伽耶(かや)と呼ばれるようになった弁韓地域は小国が分立する状態が続く一方で、日本と密接な関係を持っていました。それどころか、日本側の資料である「日本書紀」では任那(みまな)として登場し、日本府、つまり大和政権の朝鮮半島統治機関(もしくは出張所)を置いていたと書かれています。・・・が、果たして日本が朝鮮半島南部をある程度にせよ、実行支配していたのかどうかは疑問の声も非常に強いです(もちろん、特に韓国側から~)。ちなみに、個人的には、逆に伽耶地域出身の王族が、大和朝廷の大王だったり・・・なんて推測もしています。

 さて、こうした朝鮮半島の微妙な均衡を撃ち破ったのが高句麗。
 4世紀末には、百済と新羅を服属させ、朝貢させていたのですが、大和政権の権益がある伽耶地域に対して手を伸ばそうとしてきます。大和政権は、朝鮮と密接な関係を保ち、そこから鉄を輸入することで他勢力に対して優位に立っていたので、伽耶地域を失うわけにはいきません。

 こうして大和政権の軍勢は海を渡り、391年に百済と新羅を破ります。
 さらに399年になると大和政権は百済と手を組むことにし、新羅を再び破るのですが、新羅は高句麗の広開土王(好太王)(374~412年)に援軍を要請。翌年、騎馬隊の戦力に勝る高句麗軍は大和政権の軍勢を破りました。

 しかし、大和政権はすぐさま再攻撃に出ます。
 404年になると、なんと朝鮮半島北西部まで怒濤の攻撃を繰り出すのです。
 ・・・が、やはりこれも高句麗軍の猛烈な反撃に遭い、見事に大敗を喫し、これによってしばらく、大和政権は本格的な朝鮮半島への軍事介入を諦めました。

 以上の高句麗VS大和政権(倭)の交戦の記録は、当時、高句麗が都を置いていた丸都(がんと 現・中国吉林省集安市)にある好太王碑にシンプルながらも書かれています。これは、広開土王の一代記を記した碑文で、当時の日本と朝鮮の関係を記した、唯一と言ってもいい貴重な資料となっています。

 ちなみに、広開土王の正式な諡(おくりな)は国岡上開土境平安好太王といいます。
 そこから広開土王と略すか、好太王と略すか色々のようですね。

○渡来人と朝鮮文化の到来

 さて、高句麗の騎馬隊にて痛い敗北を喫した大和政権では騎馬隊による攻撃というものを考案せざるを得なくなったようで、古墳の中に馬具が埋葬されるようになっていきます(そのため、一時は騎馬民族が日本を征服したという説もあったぐらいです)。また、この朝鮮半島の混乱を避けるため、多くの人々が朝鮮半島から日本にやってくるようになります。

 こうした朝鮮半島などから日本にやってきた人々のことを渡来人と言って、朝鮮や中国の文化や技術、政治システムなどを伝えました。大和政権は彼らを韓鍛治部(からかぬちべ)、陶作部(すえつくりべ)、錦織部(にしごりべ)、鞍作部(くらつくりべ)といった技術部門別に分けて、各地に居住させました。
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