加藤剛さんが亡くなった。私にとっては大岡越前でも和賀でもなく平将門。心優しい故に朝廷に抗うことになる反逆者は怨霊どこらか伝説の英雄。ラストなんか涙涙。これぞ、加藤剛の俳優としての全てが分かる『All about Go』。「風と雲と虹と」。小六の私はこれで剛さんが好きになりました。RIP
自分のまったく知らない世界で、新しい人生を始めるのだから、これは異世界転生である。
では、それがワクワク感よりも不安だらけであるのはなぜかと言えば、主人公である自分がまったくチートではないことを自分自身がよく知っているからだろう。過去の世界ではある程度満足のいく生活を送ってきた人間でも、新しい世界で自分がどういうポジションになるのかは分からない。そういう不安が大きいわけだ。まあ、人それぞれのハートの強さの問題になるのだが。
で、そういう入学や就職が一種の異世界転生である、という観点で小説ないしアニメ脚本を書く、というのもひとつのアイデアである。これは「リライフ」というアニメを見て思い付いたことだ。
ただ、あのアニメとは違って、薬による人生やり直しでなく単なる入学や就職も異世界転生だ、という点が私の案だ。
したがって、そこには怪物も出れば、美少女妖精も出る。それはもちろん、主人公の脳内ではそう見える、ということである。
要するに、入学や就職、転職を、異世界に転生した「ワクワク感」で描けないか、ということだ。
まあ、高校が舞台なら、単なる「高校デビュー」の話になるような気がするのだが、脳内世界と現実世界との対比的描写で書いたらどうか、と思っているわけだ。
なお、「剣と鏡」は、話全体の大きな柱となるアイデア、あるいは自分がそれを書き続ける原動力としての「物語エンジン」が見つからないので、棚上げ状態である。そもそも、誰を主人公にしたいのかも分からない。中大兄皇子なのか中臣鎌足なのか大海人皇子なのか。群像劇として描くにしても、なかなか人物が生きた姿で思い描けない。
なお、平幹二郎を中大兄皇子か中臣鎌足のイメージキャラにしようと思っているが、主要な二人のどちらにしてもいいということ自体、人物像がまだまだ不明瞭だということだ。
西暦 | 干支 | 代 | 名前 |
---|---|---|---|
394年 | 甲午 | 十五代 | 応神 |
427年 | 丁卯 | 十六代 | 仁徳 |
432年 | 壬申 | 十七代 | 履中 |
437年 | 丁丑 | 十八代 | 反正 |
454年 | 甲午 | 十九代 | 允恭 |
489年 | 己巳 | 二十一代 | 雄略 |
527年 | 丁未 | 二十六代 | 継体 |
『古事記』の没年干支を正しいとすれば讃=仁徳、珍=反正、済=允恭、興=安康、武=雄略となる。(数年程度の誤差は存在する。)しかし一ヶ所、『宋書』の記述と明らかに矛盾する箇所がある。それは『宋書』倭国伝の次の記述である。
「讃死弟珍立遣使貢献」
讃死して弟珍立つ。遣使貢献す。(『宋書』倭国伝)
すなわち珍を讃の弟とする記述である。
『古事記』が437年に没したとする反正は、『記紀』によるかぎり仁徳とは親子関係である。讃を仁徳、珍を反正とすると、『宋書』倭国伝が、珍を讃の弟とする記述と矛盾する。反正は履中の弟である。この一点を除けば、『古事記』の天皇没年干支から倭の五王が推測できるとも考えられる。
一方『日本書紀』の記述からは天皇の没年干支は次のように計算される。
西暦 | 干支 | 代 | 名前 | 説明 |
---|---|---|---|---|
405年 | 乙巳 | 十七代 | 履中 | 仁徳天皇の第一皇子 |
410年 | 庚戌 | 十八代 | 反正 | 仁徳天皇の第三皇子 |
453年 | 癸巳 | 十九代 | 允恭 | 仁徳天皇の第四皇子 |
456年 | 丙申 | 二十代 | 安康 | 允恭天皇の第二皇子 |
479年 | 己未 | 二十一代 | 雄略 | 允恭天皇の第五皇子 |
『日本書紀』の年次では、413年から479年の間の天皇は允恭・安康・雄略の3名であるが、、反正との年代は宋への行程を考えると候補として十分にあり得る。またこの反正天皇との崩御の時期だけが古事記が正しいとすれば、413年の讃は反正になり矛盾しない。ただ438年の珍、443年の済という二人の遣使に対し、『日本書紀』のこの期間に該当する天皇は允恭1人であるので珍と済が同一人物でなければならない。
だが古事記説では矛盾していた箇所も讃を反正、珍を允恭とすると、『宋書』倭国伝が、珍を讃の弟とする記述と合致する。
ただ一般的には「讃」→履中天皇、「珍」→反正天皇、「済」→允恭天皇、「興」→安康天皇、「武」→雄略天皇と考えるのが通説である。
しかし、そもそも『古事記』、『日本書紀』とも倭の五王の遣使に明確に対応する記事はない。こうしたことを根拠に九州王朝説が主張され、一時期は史学雑誌等の学術誌でも取り上げられることがあったが、現在では記紀の史料批判により継体天皇以前の編年は到底正しいとは言えず、このころの王家内部では文字による記録が常時取られていたとは考えがたいことから、記紀に伝えられた干支や系譜を元に倭の五王を推定するという試み自体をあまり意味がないとする意見もある。
倭国の実態や、倭王とヤマト王権の関係自体も、現時点の学会等で明確化されているとは言い難い。
参考程度に、ネットから拾ったものを載せておく。
一、履物の移り変わり |
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日本の履物は衣服と同様に2系統の大きな流れがある。 一つは北方狩猟民族の流れをくむ、沓(くつ)系の履物。 もう一つは南方稲作文化圏の流れをくむ、鼻緒系の履物とである。 |
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1a.沓系 | |
北方からの沓の伝来にも2系統ある。 一つ目はシベリア、千島列島、北海道を通じて伝来したアイヌ系の沓である(カンジキ、スキー等はここでは触れない)。 これらは寒さから足を守る為に履かれ、狩りの獲物の革(鹿やトド、鮭など)で作られ、長靴型の物から、足を包む単純な短靴型の物まで在った。 もう一つは中国からの伝来である。 平安時代になるまで大和朝廷の服飾は、常に中国の朝廷の追従であったが、履物も同様である。中国の朝廷の風俗が伝来すると共に、この様式が伝わり、貴族とその周辺の者の間で、沓が履かれるようになる。沓の素材は革や毛皮、木、布、草など様々であったが、律令制の中で、素材や色について身分ごとに規定されていく。 (中国では沓が主に使用され、下駄は身分の低い者の履物であった) |
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1b.鼻緒系 | |
日本最古の現存する履物は弥生時代の遺跡から出土した田下駄である。 南方系の履物は鼻緒形式であり、その開放的なデザインに特徴がある。 田下駄に象徴される様に、南方系の履物は稲作文化と共に伝来した様で、初めは農具として使用されたが、古墳時代になると埋葬品の中から足駄(あしだ。下駄は新しい呼び名)が出てくる様に、通常の履物として使われた様である。 もっとも下駄自体が普段履きになるのは江戸時代からで、それまでは雨天や水仕事、排便時など、足下が濡れている状況での履物であった。 |
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2.両系統の融合と変化 | |
これら南北2系統の履物が融合したのが、草鞋(ワラジ)と草履(ゾーリ)である。 東アジア各国では、糸や草で編んだ沓が作られ、それぞれの国の言葉で呼ばれながらも、総じて「草鞋」の字を宛てられていた。 日本でも「わらぐつ」と呼ばれ、律令制の中で下級役人である衛士(えじ。兵士)の履物として制定された(下図参照)。 この頃の草鞋(わらぐつ)は短沓型の物で、鼻緒式の物ではない。 また各国で沓から作られた「草鞋」(国により同字異音)も、形態は様々あれど短沓(スリッパ式・サンダル式)である。 上記の「衛士の草鞋(わらぐつ)」が一般に広がったにしろ、大陸から「草鞋(わらぐつ)」が徐々に伝わって来たにしろ、藁で編んだ履物が庶民にも履かれる様になる。やがてこの藁で編んだ沓が大衆化する中で、沓は我々が良く知る鼻緒式の「ワラジ」「ゾーリ」へと、日本独自の変化を遂げるのである。 こうして奈良時代に伝来した「草鞋(わらぐつ)」が変化した「ワラジ」「ゾーリ」は、鎌倉時代初期には一般化した様である。 「ワラジ」「ゾーリ」は、いわば北方系の履物(沓式)が日本の風土に合わせて南方系(鼻緒式)へと変化した訳だが、草鞋・草履が雪国に伝わると、これとは逆の変化を遂げる。 雪から足を守るために、「ワラジ」「ゾーリ」を土台に、スリッパ形式、短沓形式、深沓形式へと改良され、南方系から北方系(沓型)の形状へと変化を遂げるのである。 この様に南北2系統が交差し、風土に従った変化を遂げた物が、日本の履物と言えよう。履物の変化も、その他の日本の文化と同様なのである。 |