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日本アニメについて論じている海外の人のコメントだが、コロンとセミコロンの用法が日本人である私には分からない。たぶん学校でも教えていないと思う。




●comment
『stein's:gate』なのか『stein's;gate』なのか、『Re;zero』なのか『Re:zero』なのか覚えてない。

●comment
↑まず最初に言っておくと”stein's”ではなく”steins”な。
他言語に翻訳した場合に”stein's”の方が通りがいいんだろうけど、そうすると『Steins Gate』感がちょっと落ちる感じがするんで、自分にとっては腑に落ちない。
で、『シュタインズゲート』の場合は”;”。
プログラマだから”;”は見慣れてるし、こういう疑似科学娯楽作はコンピュータサイエンスと相性がいいから。
もう一度言うけど、『Stein's Gate』にした方が翻訳した時にクールになるんだろうけど、自分にとっては『Steins Gate』の方が視覚的なアピール力があると思ってる。







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名前だけはよく聞くが、中身が想像できず、いらいらする名前である。「サンマ入りラーメン」か、と誰でも思うだろう。「にしんそば」も不味そうだが、それに劣らず、食欲を減退させる名前である。「ウィンナーコーヒー」が、「コーヒーにウィンナーソーセージを入れたもの」というジョークを連想させる。


サンマーメン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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サンマーメンの例

サンマーメン(サンマーめん、生碼麺生馬麺三碼麺)は神奈川県ご当地ラーメンであり、神奈川県南部を中心に広く浸透しているラーメンの一種である。名称から「サンマが入っている」と誤解される事が多いが、全く関係がない(#語源を参照)。

概要[編集]

細麺を使った塩ラーメンもしくは醤油ラーメンの上に、歯ごたえが残る程度に炒めたモヤシ入りのあんをかけた料理である。モヤシ炒めの中にはキャベツキクラゲ等の野菜蒲鉾豚肉の細切り等も入っていることもあり、皿うどんのあんかけによく似ている。モヤシを主とするあんかけだが、「肉そば」の肉を減らして野菜を増やしたものが原型とされている。神奈川県内のラーメン店ではメニューにあることが多く、通常のラーメンより価格が安いことも多い。

桑田佳祐が自身の番組『桑田佳祐の音楽寅さん 〜MUSIC TIGER〜』で紹介するなど、多摩川以南、富士川以東の特に太平洋沿岸地域で多く食べられている。また、神奈川県外の近い地域(特に静岡県東部)でも数十年前から見受けられるようになった。神奈川県の中華料理店組合ではこのサンマーメンを県のご当地料理としてアピールしている[1]。なお、神奈川県内でも小田急小田原線沿線より北側ではあまり食べられておらず、かながわサンマー麺の会加盟店が存在しない市区も多い[2]

語源[編集]

諸説があり、はっきりしていない。「生碼」と書く場合、生きのよい具材(碼)の意味とされる。「三碼」と書く場合、三種類の具(モヤシ、豚肉、ターサイ)を使ったための命名との説がある。馬のような生気がつくという意味で命名されたという説もあるが、「馬」は「碼」の当て字である[注釈 1]

「碼」の用例として北京語では、「麺碼児」(ミエンマール、miànmǎr)という言い方で、炸醤麺などに載せる細切りのキュウリニンニクの芽、モヤシ、白菜大根などの麺類の具を指す[3]。ちなみにメンマは、本来の麺類に載せる各種の具という意味が、その内の支那竹(中国語 筍乾 スンガン)に特定化してしまったものである。「碼」が具という意味を持つのは北京の方言であるため、北京語で「ション、shēng」と読む「生」よりも、「サン、sān」と読む「三」の方が音に合う。また、あんかけの麺は北京を含む華北に多く見られるものである。

かながわサンマー麺の会によると、サンマーメンは「生馬麺」と書き、「生=サン 馬=マー」は広東語の読み方で、生(サン)は「新鮮でしゃきしゃきした」、馬(マー)は「上に載せる」と言う意味がある、としている[4]

歴史[編集]

生碼麺(サンマー麺)の由来については、昭和5年(午年)に聘珍樓の当時の料理長が考案した麺料理で、それを裏付けるように昭和初期の聘珍樓の御品書には既に「生碼麺」の掲載がある。[5]

松本清張の短編小説に、「醜面」と書いて「すべた」と振り仮名していたのを見て、「すべた」とは「ブス」の意味なのか? と疑問に思って調べると、そうらしい。ポルトガル語でカードゲームの「スペード(スペダ?)」から来たと解説されていた。
私は、「尻軽女」のことを「すべた」と言うと思っていたが、その意味で使われることもあるようだが、「ブス」の意味が主であるようだ。
ついでに、下の質問を見つけて面白かったので、載せておく。確かに「売女」と書いて「ばいた」と読ませるのは変であるが、これは疑問に思ったことも無かった。で、理由は不明らしい。質問者自身が書いているように「すべた」という言葉が関係しているとは思うが、もともと「ばいじょ」とか「ばいめ」と読んでいたとは思わない。むしろ「売春もやるような尻軽女」を、「すべた」から生まれた言葉で「ばいた」と言っていて、後で「売女」の字を当てはめたのではないか。「ばい」という言葉はかなり古くから「物売り」一般に使われたと思う。たとえば「売僧」は「まいす」と読むが、これは「ばいそう」からの転訛だろう。




売女は何故バイジョでもバイメでもなくてバイタと読むのでしょうか?

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n48********さん

2011/6/1714:05:51

売女は何故バイジョでもバイメでもなくてバイタと読むのでしょうか?

補足バイメ(バイジョ)+すべたが合わさってバイタになったのかな?




下記記事にあるように、ジャカルタの旧名がバタヴィアだが、歴史書などにバタヴィアと出てくると、戸惑ってしまう。17世紀ごろの航海の要地で、喜望峰からバタヴィアまで船で6週間、バタヴィアから長崎まで8週間ほどかかったらしい。(これはある航海の場合の数字であり、平均的にそうだったわけではないが、参考にはなる。)







バタヴィア

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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1897年のバタヴィアの地図
バタヴィア開城前のジャカルタ

バタヴィア (Batavia) はインドネシアの首都ジャカルタオランダ植民地時代の名称。インドネシア語では通常バタフィアと発音する。

解説[編集]

ジャワ島西部の北岸に位置し、古くはジャヤカルタジャカトラなどと呼ばれていたが、1619年オランダ東インド会社東インド総督ヤン・ピーテルスゾーン・クーンバンテン王国からこの地を占領、堅固な要塞バタヴィア城を築いてオランダ東インド会社のアジアにおける本拠地とした。

バタヴィアの名は、古代ローマ時代に今のオランダにあたる地に住んでいたゲルマン人の一部族、バターウィー族(Batavii)に由来し、オランダ地方の古称でもある。この名称はオランダ本国でもフランス支配下のバタヴィア共和国1793年 - 1806年)として使われたことがある[1]

以後、バタヴィアはオランダ植民地時代を通じてこの名称で呼ばれた。朱印船時代の日本人は現地式に「ジャガタラ(咬吧)」と呼んでいる。

17世紀末頃のバタウィアは、優に80年の歴史を刻み落ち着いた町になっていた。城壁を巡らした地区のなかにはいくつもの砲塔を備えた政庁があり、チャイナタウンやたくさんの倉庫も築かれ、街路には小さなテラスハウスが無数に立ち並び、運河や酒場もあった。チャイナタウンがあるのは、当時オランダが日本と中国の間で中継貿易を営み、日本に中国の品物を含めて輸送する役割を担っていたからである。また、気候としては赤道直下ということもあって一年中高温多湿の町でもあり、ここへ移住してくるオランダ人はさほど満足していなかった。マラリアコレラデング熱などの熱帯病に倒れることが多かった。[2]

旧バタヴィアは、ヤン・ピーテルスゾーン・クーンによって創られた。18世紀には疫病が蔓延するヨーロッパ系住民の「墓場」として、東洋中に悪名を届かせていた[3]

1808年に総督に任命されたナポレオン麾下の元帥ヘルマン・ウィレム・ダーンデルスは、バタヴィアをイギリス軍のあらゆる攻撃から守り抜くために、海岸沿いにあった城・要塞・倉庫などを放棄し、「ベネデンスタッド(下の方の町)」と呼ばれ見下されていた古くからのバタヴィアを事実上閉鎖した。そして、海からの攻撃に対して安全と考えられる内陸で、海岸より8キロメートルほど入った場所に新しい首都を築いた。新都は「ウェルトフレーデン(十分満足した)」と名付けられた[3]

1942年日本軍が占領して当地に軍政を敷いた際にジャカルタと都市名を変更し、第二次世界大戦後にインドネシアがオランダから独立した後も、スカルノ政権が日本統治時代の『ジャカルタ』の名称を引き続き使用することを決定し、現在に至っている。



「東インド会社」というのはヨーロッパ諸国にあり、その「東インド」が何を意味するのか知っている人はあまりいないのではないかと思う。下の記事に書かれたように、それは「インド」ではなく、「インド東部」でもない。要するにほとんどアジア全域を意味するわけだ。
では、東インド会社とは何かと言えば、「国家公認の対アジア貿易民間会社」であり、貿易の傍ら、国策に沿った外交関係にも働いていたと言えるのではないか。そのヨーロッパの国の出先機関が東インド会社しか無いのだから、そうなるのは当然だ。
あるいは、朝鮮半島の「任那日本府」もこれと似たようなものだったかもしれない。



(以下引用)



東インド会社の東インドはどういう意味か知っていますか?~『東インド会社とアジアの海』羽田正氏(2007)

東インド会社とアジアの海 (興亡の世界史)

  羽田氏は比較歴史学の研究家、喜望峰からバタヴィア、そして長崎にいたる海域を「商品」で結んだ東インド会社とは?(2007)

そもそも東インドとは

アフリカ南端の喜望峰からマゼラン海峡に至る間に位置する海岸沿いの諸地域はすべて「東インド」と認識された。従って、現在のインド亜大陸だけでなく、アラビア半島ペルシャから東南アジアを経て中国に至るまでのアジア諸地域はすべて東インドの国々ということになる。…従って、「東インド」という言葉と「アジア」という言葉は、相当程度重なりあう。(26ページ)

 1602年オランダ東インド会社誕生

オランダ共和国政府からこの会社に特許状が与えられた。46ヶ条からなる特許状によると、オランダと東インド間の喜望峰経由の貿易は、特許状発行から21年間この会社が独占することとされた。…東インドで要塞を建設する権利、総督を任命する権利、兵士を雇用する権利、それに現地の支配者と条約を結ぶ権利が会社に与えられた。・・・この会社のために集められた資本は一度の航海だけでなく、10年間据え置かれたということだ。…この間いったん集められた資本をどのように使うかは、会社が決定した。これは、現在の株式会社に一歩近づいた方式といえるだろう。(85ページ)

ヨーロッパの輸出商品

東インド会社を生み出した北西ヨーロッパにだけは、他地域の人々が欲しがるような特産品がほとんどなかった。・・・有力な輸出用商品を持たずしかも物価が高いという二重のハンディキャップを北西ヨーロッパの人々が克服し、アジアの海での貿易活動に参加できたのはアメリカ大陸の存在があったからである。北西ヨーロッパの人々がアジアの物産と交換した「自分たちの」商品は、主として南北アメリカという本来別の地域で算出する銀だった。(354ページ)

東インド会社を俯瞰してみると

東インド会社の行動は、例えて言えば、ほとんど元手をかけずに(南北アメリカという)人の家から持ち出したお金を使って、本来足を踏み入れることのできないはいずの店(アジア地域)の一流品を買い、それを自分の家(ヨーロッパ)に持ち出して利用したり、売却して利益を得たりしていたということである。このような行動を200年も続ければ、北西ヨーロッパが全体として豊かになり、世界をリードする経済力を身につけるのは当然だろう。アメリカの銀とアジアの物産が「近代ヨーロッパ」の経済的基盤を生み出したのである。(355ページ)

東インド会社とアジアの海

東インド会社がイギリス、オランダ、フランスで設立されて約200年、1800年までの間北西ヨーロッパは特産品を持たなかった。それを逆転させたのが18世紀末からの産業革命であった。産業革命は、東インド会社がインドから輸入した綿織物に対抗できる品質と低価格を実現させる為の努力によるものであった。

我々はヨーロッパの品々に一流、という先入観を持っている。これはあくまで産業革命以降に確立したイメージでしかないと気づく。それ以前はアジアの香辛料、綿製品、お茶、陶磁器物などが価値を持ち、ヨーロッパを圧倒していた。ヨーロッパは産業革命で形勢を逆転させる。東インド会社が活躍した1600年からの200年間、ヨーロッパは、アジア、アメリカとの交易で富を蓄えていった。東インド会社が今につながる西欧社会を形づくっていた。

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