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「つぶやきコミューン」というサイトから転載。
非常に優れた内容要約である。このサイトのほとんどの文章がおそらくそうだと思われる。

ノベルス(ハードカバーのことだろうか)より文庫本のほうが稼ぎがいい、というのが面白い。まあ、ハードカバーは単価が高いから、購入者は当然少ないだろうし、文庫本は売れ行きの良いハードカバーから選んで文庫本化するのだろうから、最初から売れ筋ではあるわけだ。


(以下引用)



森博嗣『作家の収支』
JUGEMテーマ:自分が読んだ本   文中敬称略
 
『F』に関していえば、ノベルスで約1400万円、文庫で4700万円の印税であり、この1作で、合計6000万円以上をいただいている。この作品は18万字くらいだったので、執筆に30時間以上かかっている。ゲラ校正などを含むと、60時間ほどが制作時間になる(最初なので時間がかかった)。時給にすると100万円だ。ただし、すぐに得られるわけではない。20年かかってこれだけを稼ぎ出したのである(今後もまたもう少し稼ぐことになるだろう)。

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作家の印税は大体10パーセントであることはよく知られた事実だが、それ以外に原稿の相場はいくらか、新聞に小説を連載するといくらになるのか、対談本で何人もの人が話した場合印税はどのように配分されるのか、サイン会は金になるのか、小説が外国語へと翻訳された場合にはどうなるのか、テレビアニメ化や映画化された場合には支払いはどうなるのか、さらにそれにより本の売り上げはどう変わるのかーーーこうした誰もが疑問に抱く問いに対して、ことごとく具体的な数字を挙げながら答えたのが、19年間に280冊の本を出し、作家森博嗣(もりひろし)の『作家の収支』(幻冬舎新書)である。



森博嗣には2010年に出版された『小説家という職業』があるが、こちらではどの程度の本の数が出て、どの程度稼げたかといった大雑把な話しかしていないし、作家へのなり方や小説の文体などの創作論、編集者や慣習など業界の内部事情、電子書籍の登場による将来的な変化など総花的な内容であった。『作家の収支』では、最後にインターネットと電子書籍の時代の本の未来展望こそ一段と踏み込んで語られているものの、ほぼお金の話に終始している。『小説家という職業』がどうすれば作家になれるかが重点であるとすれば、『作家の収支』は、作家はどれくらい儲かるかが重点になっているのである。

著者の場合、そもそも本を読むのが特に好きというわけでなく、初めから金儲けのために小説を書くのだと公言している。そして、元国立大学工学部の教授らしく(作家デビュー後十年間は大学の仕事を続けていた)ドライに本の売り上げ部数や印税の総額といった数値を一種のデータとして集約し、分析している。文学への思い入れがあれば、なかなかこうはいかなかっただろう。

 この本に、これから客観的事実を書く。それらを僕自身がどう評価しているかは、なるべく書かないつもりだが、トータルとして、特に、それで満足しているわけでもなく、また不満を持っているのでもない。仕事をして、その報酬を得たというだけのことである。幸運に恵まれたのか、それとも労力に見合った結果なのかも評価するつもりは全然ない。そんな評価をする必要がそもそも僕にはないので、余計なことに頭を使いたくないのである。

本書にまとめられた収入の中には、たとえば本の帯に推薦文を書くといくらか、学校の入試問題に採用されるといくらかなど、ものすごくトリビアなものもあり、話のネタとしても尽きることがない。他方において、作家の支出に関しては、人件費を使わなければ税控除をとるにも困るほどにあっさりした扱いである。

今は、ウェブなどでちょっとしたきっかけで作家になる人も少なくないが、そこから多方面に活動が広がった場合、収支決済が煩雑になって収拾がつかなくなることもあるだろう。初めからこれはやる、これはやらないと戦略を決めておかないととんでもないことになることもある。そんな転ばぬ先の杖としても、本書は重宝するはずである。

作家をめざす人に対しては、小説家としてデビューするためにも、職業作家として長く生活してゆくためにも、他人の小説やノウハウ本も読むのは無駄であり、ただ時を置かずに小説を書いて書いて書きまくること、それしかないというのが著者の主張である。将来的な予想としては、これから出版業界は大変な時代になるが、作家のニーズは失われることはない、作家は、誰でも何の用意なしに、すぐ明日からでも始められる仕事ではあるが、それだけに競争は熾烈で、何らかの個性、新しさをひねりだせないと、サバイバルは厳しいだろうということになる。
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創作に限らず、私の場合は思考そのものが、前の思考に引きずられて後の思考が出てくる。
頭の中だけで考えると、必ず堂々巡りになるので、文章化すると前に進める。
つまり、文章化すると、思考の現在の立地点が視覚化され、その部分を見直すことで思考の先、あるいは別の進路の可能性が頭の中に浮かんでくる。

(以下引用)

  1. 意識を集中すると脳内に浮かぶ絵が出てくるからそれを観たまま描いていくと、また芋づる式に次の絵が見えてくる。描かないと観えない。坐って黙想しててもダメ。作業とフィードバックしていかないと無理(自分の場合)。

  2. 何十年漫画家やっても、描くのが恐い新しいコマがある。かなり頑張らないと思うイメージが作れないだろうコマとかいつもプレッシャー。足踏みもする。でも案ずるより産むが靖(変換違うだろバカPC)。悩んでないで早く描けオレ;

昔、田辺聖子が川柳の解説を書いたものに、

故郷へ回る六部は気の弱り

という川柳があって、その中の「六部」というのが何なのかの説明はしていなかったので、たぶん、巡礼のようなもので、時代劇に時々出てくる山伏めいた白装束のあれだろうな、とは思っていたが、調べる機会がなく、心の隅に掛かっていた。
今はネットで調べられるので便利である。


世界大百科事典 第2版の解説

ろくじゅうろくぶ【六十六部】

正しくは日本回国大乗妙典六十六部経聖(ひじり)といい,江戸時代にはおとしめられて六十六部または六部の略称でよばれた回国聖。今も各地にこの回国供養碑を見ることができる。江戸時代には単なる回国聖または遊行(ゆぎよう)聖になってしまったが,中世には法華経六十六部を如法(によほう)に写経し,これを日本全国の霊仏霊社に納経するために回国したのである。西国三十三所観音霊場の巡礼納経にならって,六十六部納経したとも考えられるが,日本全国六十六ヵ国をめぐることによって,より大きな功徳を積もうとしたものであろう。

出典 株式会社平凡社世界大百科事典 第2版について 情報

大辞林 第三版の解説

ろくじゅうろくぶ【六十六部】

法華経を六六部書き写し、日本全国六六か国の国々の霊場に一部ずつ奉納してまわった僧。鎌倉時代から流行。江戸時代には、諸国の寺社に参詣さんけいする巡礼または遊行ゆぎようの聖。白衣に手甲・脚絆きやはん・草鞋わらじがけ、背に阿弥陀像を納めた長方形の龕がんを負い、六部笠をかぶった姿で諸国をまわった。また、巡礼姿で米銭を請い歩いた一種の乞食。六部。
時代劇小説メモ

老人が突いている杖にその体重がかかっていないことを見て取り、それが仕込み杖であることを見破った主人公の剣客(あるいは敵側の剣客)が、その老人(実は壮健者)と剣の対決をする。
しかし、仕込み杖の悲しさ、刀身が細身なので、一合で刀身を折られることになる。
佐野洋のこの発言は、「推理小説」というジャンルにおいてはリアリティが大きな柱だという考えではないのか。「君よ憤怒の河を渡れ」は(読んではいないが)おそらく推理小説ではなく冒険小説かハードボイルド小説なのであって、推理小説プロパーから見たら「ありえない」部分もあったのだろう。だが、その発言を「マウンティング」だとするのも、邪推である可能性もある(つまり、先輩作家からの忠告だ、という見方もできる。)ように思う。いずれにしても、故人である人物への悪口は、当人には反駁することができないのだから避けるべきだろう。(佐野洋はとっくに亡くなっていると思ってこれを書いているのだが、そうでなければ失礼なことを私も書いているww)なお、私は芦部拓の小説はひとつも読んでいないが、佐野洋のは数作は読み、「推理日記」は評論として面白く貴重だと思っている。


さんがリツイート

佐野洋『推理日記』では、西村寿行『君よ憤怒の河を渉れ』を低評価するに当たって「警部と検事正の会話が現実離れしている(対等に話ができるわけがない)」を突いた。あの小説でそこを言うか、と今なら思えるが、当時は「現実にありえない」は最大のマウンティングだった。







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