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こういう現象は漫画に特有かもしれない。小説などだと、そういう脱線自体が作品としての破綻だと、批評家や真面目な小説愛好家に批判されるからやりにくいだろう。
ところが、英国の小説にはしばしばそういう脱線があり、スターンだったと思うが、脱線こそ小説の太陽である、という趣旨のことを言っていたと思う。フィールディングなども、その種の脱線が多く、「小説とはどんな書き方をしてもいいのだ」ということを後世の人々に教えてくれている。



漫画家がコマの端にちらっと描いたギャグや軽い遊びの絵が世間の、ごく少数ではあるけど誰かの琴線に触れ、一生反芻できるほど深く記憶される現象が好き。表には出ないけど読者の中でその他愛ないものがずっと生き続けるの。普段忘れてるけど時々思い出すの。何十年も。作者の死後も。冥利に尽きる。






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トラックや船の横に書かれた「横書き日本語」がしばしば欧米式の左から右に読む方式ではなく右から左に読む方式であるのは、「動く方向の先から後ろに読んでいく」意味だと思っていたが、上記の絵ハガキが本物なら、「四高」とか「記念」などの書き方を見ると、昔の「横書き日本語」は右から左に読むのが普通だったのかもしれない。そもそも、縦書きは右から左に読むのだから、横書きもそうして当たり前、という考えだったのではないか。つまり、欧米式に慣れた現代人だから、横書き日本語も左から右に読む習慣になっただけかもしれない。もっとも、上の絵ハガキも、右から左に読む方式も併存しており、「どちらでもいい」というルーズなものだったのかもしれない。























この編集者が、それまで漫画家志望者に有効な「キャラを立てる方法」を提示できなかったくせに、「キャラを立てろ」と言ってきたなら、かなり無能な編集者だろう。「ひとつの逸話は百の設定に勝る」も、特に根拠のある言葉ではなく、当人の主観であり、その方が「編集者として楽」というだけのことではないか。
なお、「キャラを立てろ」はおそらく小池一夫が最初に言いだしたことだと思う。劇画村塾で漫画家志望者にそうアドバイスをしていたようだ。だが、小池自身が提示した「キャラの立て方」はかなり癖が強く、下品な印象であり、私は好きではなかった。確かに、「強烈なもの」は印象が強いが、下品になる、というのは何事にも言えることである。
漫画においてキャラを立てようと思うのなら、何よりも独自の絵の個性があることだろう。たとえば諸星大二郎は、その絵だけで諸星大二郎の作品だと分かる。そうすれば、人物のキャラ立ちなど問題ではなくなるのである。ファンは諸星の世界に浸りたいだけなのだから。ちなみに、私は諸星のファンではない。キャラ立ちというか、絵の個性から言えば、日野日出志(字はこうだったか)なども強烈な個性だが、私はこちらも好きではない。
藤子不二夫の絵など、穏やかそのものだが、誰が見ても藤子不二雄作品だと分かる絵である。
絵の個性というのは、いわば「作者自身がキャラ立ちしている」ということだ。ファンは漫画家としてのその個性を愛するのである。(その個性が現実の作者の個性であるかどうかは関係は無い。もちろん、内奥ーー思想や性癖や気質ーーが近いからこそ作品からにじみ出るのである。)




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①キャラを立てようという話をすると、決まってツンデレだとか、悲惨な過去のトラウマがあるとか、特殊能力とかの設定を並べ立ててくる問題。どうしたもんかと思っていたのですが、なんとなく解決策が見えてきました。

「設定ではなく逸話を出せ。一つの逸話は百の設定に勝る」

です。




カルロス・ゴーン事件についての記事の中で「租税」という言葉が使われていて違和感を持ったのだが、現代では「税金」と「租税」に違いはなさそうである。だが、もともと租税とは「租」のことだったようだ。いわゆる「租庸調」の租である。漢字として「租税」以外の「租」の字は使わないのではないか。

「新たに徴収したもの(フロー)をといい、租を貯蓄したもの(ストック)をという。」

というのは初めて知った。昔の人名で主税(ちから)というのがあるが、その命名時にも「税」の意味は考慮していただろうか。


出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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(そ)は、(ぜい)と並んで、国家維持に必要な財政を調達するために、政府が徴収する財物・サービスのことである。

概要[編集]

最古の漢字字典である説文解字100年に成立)によれば「田賦なり」とあり、元々はからの徴税である田租(でんそ)をさし、祭祀の費用としての徴収を名目としていた。

新たに徴収したもの(フロー)をといい、租を貯蓄したもの(ストック)をという。租税も参照のこと。

律令制においては、田租をとして徴税した。租は租庸調の中では唯一の地税的な税であった。

ロシア文字というか、キリル文字の名前を何と読むのか知らないが、漫画家なのだろうか。

このツィートを読んで思ったのだが、漫画を原作としてアニメ化するというのは、実は失敗する確率が高いのではないか、ということだ。というのは、漫画は既に「絵」であるから、その愛読者たちはその「絵柄」でしかその作品は見られなくなっているわけだ。そうすると、少しでも原作と違うと酷評されるのが自然な流れである。まあ、原作未見の人を視聴対象者に想定して作るという方法も考えられるが、そうすると、なぜその漫画を原作に選んだのか、という疑問が出てくる。
漫画のアニメ化ならまだいいが、実写化だと現実存在である「俳優」の外貌の欠点というものがあってさらに成功の確率は低くなるのは当然だ。
今回、手塚治虫の漫画「どろろ」が再アニメ化され、なかなかの出来だと私は思ってはいるが、しかし手塚絵とは違うキャラが動いていること自体に寂しさを感じる。手塚絵のあのユーモア感というのが、残酷描写の多いこの漫画を「見るに耐える」ものにして、読者(アニメなら視聴者)を引っ張っていったと私は思うのだ。
なお、最近はアニメがやたらに制作されるため、アニメ会社の企画室(というのがあるかどうか知らないが)は、材料が無くて困っているのではないかと思う。「どろろ」の再アニメ化には、そういう事情もあるような気がする。
それは、作り手側が馬鹿だと思う。最初から「完成品」である漫画ならアニメ化も容易だろうという考えなのだろうが、それでは原作以下の品質にしかならないのは当然だ。
むしろ、誰も知らないような三流作品を、骨組みだけ借りて大きく手を入れることの方がアニメとしての成功作になる確率が高いと思う。どこをどう変えても文句は言われない、という三流作品こそがアニメの「叩き台」にはふさわしいのである。
フィクションの骨組み自体はどれも似たりよったりなのだから、むしろそこにキャラの造形とか新機軸とかいろいろ入れて「出来のいい二次創作」を作るくらいの気持ちのほうが成功作になる可能性は高いと私は思っている。
それに、漫画を描く人は、それを描くために資料を調べ、途方もない苦労をしているわけで、その苦労を他人に押し付けて、その成果だけ頂くという姿勢が多くのアニメ制作者の心中に無ければ幸いである。
たとえば、私はさほど好きな作品ではないが、「ゴールデンカムイ」という漫画は、恐らく大変な資料調べをした作品だと思う。それがヒット作となって報われたわけだが、アニメ制作者たちは、その苦労は抜きで、「ヒット漫画のアニメ化」をやれば、アニメもヒットするだろう、くらいの気持ちでアニメ化をしたのではないか。いや、アニメも数回見て、悪くはないと思ったが、「ヒット漫画のアニメ化」ということ自体に「安全牌を打つ」姿勢があるように思うのである。

実は私は子供向けの騎士物語を幾つか書いていて別ブログに載せているが、私は細部の描写が嫌いなので、ほとんど粗筋だけ(それも、べつに新味のあるアイデアなどはひとつもない)を書いたような作品になっている。だが、それだけに、これを叩き台にしてあれこれ肉付けしたら、面白いアニメ作品になるのだがなあ、と残念に思っている。正直、アニメの「ゴブリンスレイヤー」(原作小説は未読)などより話の大筋は面白いと思っている。子供心を高揚させる冒険の匂いと爽快感があると自負している。

まあ、要するに、完成品よりも「骨組みだけ」の原作のほうが映画化やアニメ化は実は成功しやすいということだ。アニメの「瀬戸の花嫁」などはその代表例だ。
映画などでも、短編小説の骨子だけを借りて、作り手が肉付けして映画化した方が名作になりやすいらしいのである。その反対に、トルストイやドストエフスキーなどの大長編を映画化するのは最初から無理な話で、だいたいは失敗している。






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昭和アニメのリメイクより、ウチの漫画をアニメ化しましょう。さあさあ。

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