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キャラ設定とか世界観設定というのは、わりと楽しい作業ではないかと思う。だから、それだけ延々とやっていて、実際の「物語」は、どこかで見たような内容にしかなっていない、という作品はけっこうあると思う。ひどい場合には登場人物の血液型や使っている道具のメーカーまで設定したりするwww アホの極みである。だが、それでも一応はヒット作品になったようだから、読者というのは案外甘い。というのは、読者のほとんどは漫画やアニメにさほど触れていない、「無知な」少年少女だから、過去の名作をほとんど知らないからである。逆に、過去の名作を知りすぎていると、それがプレッシャーになって創作ができない、ということもあるだろう。無知な若者が馬力だけで描いた漫画が大ヒットする、というのはよくある話である。で、そういう作家はたいてい2作目で力量がばれてしまう。最初のヒット作を延々と続けることで、中身の無さ、作家としての幅の無さを隠すという戦略を取るのは賢いと言えるかもしれない。ファンというのは律儀だから、一度好きになった漫画は単行本が出ると継続的に買ってくれることが多い。ほかに漫画をロクに知らない低レベル層のほうが数は多いのだから、そういう層にウケる作品を書けば無敵である。つまり、電通などを利用し、「あの有名芸能人もこの漫画のファンです」とやれば、それだけで購入層はドカンと広がるわけだ。
まあ、それはともかく、どんなヒット作にも、「新しいアイデア」(顔の半分が口というグロな絵柄も新しいアイデアではある。)というのがあったからこそヒットしたのである。いや、漫画誌に載せて貰えたのである。ほとんどの新人漫画家はそこまで行かないで終わる。

では、いかにしてアイデアを得るか、と言えば、それは「換骨奪胎」というのが一番の武器だろう。つまり、西洋ネタを日本を舞台にする、とか、逆に日本の時代劇をアメリカの西部劇にするとかギャング映画にする、とかいった方法だ。
黒澤明の「七人の侍」は西部劇を日本を舞台にしてやったような作品だが、逆にその映画がアメリカで「荒野の七人」という西部劇になり、どちらも大ヒットした。同じく黒澤の「用心棒」はイタリアで「荒野の用心棒」というマカロニウェスタンになり、「ローハイド」以来鳴かず飛ばずだったクリント・イーストウッドの出世作になった。同じく「用心棒」はハリウッドで「ラストマンスタンディング」というギャング映画になったが、こちらはあまりヒットはしなかったようだ。また、これも黒澤の「隠し砦の三悪人」がスターウォーズの第一作の設定に大きな影響を与えていることも知られている。つまり、日本の時代劇を、宇宙を舞台のスペースオペラにすることもできるということだ。換骨奪胎の利用範囲は大きい。

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物語(特に漫画・アニメの原作を念頭に置く)創作のスタートラインについて考える。
おそらく、ほとんどの人は、「話作り」の幾つかの要素のどれかを一つずつ考えていくと思うが、その順序はどうあるのがよいか、という問題だ。
その「話作りの要素」とは、たとえば次のようなものだ。

1:キャラクター設定
2:世界観設定
3:話の大筋
4:話の中の強調点(「売り」、あるいは特長や個性)

などが考えられるが、一番大事なのは、「これで面白い話(作品)が書ける」という「個性的アイデア」、つまり4ではないかと思う。
たとえば手塚治虫の「どろろ」で言えば、魔物との契約で体の各部を48か所奪われ、魔物を倒すごとにその部分が取り返せる、というアイデアである。これによって毎回、魔物との戦いが必然的に生まれ、少年漫画の王道である「バトル」(勝利とその報酬)が話の核になるわけだ。欠点は、話が暗いものになる可能性だが、そこで、「どろろ」という狂言回しを副主人公(あるいは真の主人公)にすることで明るくするわけである。
ここまで来れば、1も2も3も4もほとんど出来たようなものだ。すなわち、「話の中の売り、つまり珍しいアイデア」があれば、他はそこから自動的に派生してくる、ということである。
ところが、現代の「物語作り」は逆に、1のキャラ設定とか2の世界観設定から話作りを始めるからどれもこれも似たような話になり、膨大な駄作の山が生まれることになる。




私の創作に関する基本思想として、創作は才能ではなくメソッドの問題だというのがある。ただし、これは根拠はまったく無い。要するに、プロの創作家としての仕事をしていくうちに、自分のメソッド(それは普遍化できると思う)を掴み、それを使ってプロの創作家としての生命を維持するのがほとんどの創作家だろう、と思っているわけだ。
つまり、極端な話、手塚治虫のメソッドを手に入れれば第二の手塚治虫になれるし、モーツアルトのメソッドを手に入れれば第二のモーツアルトになれるというのが、私の考えだ。もちろん、創作への意欲、創作を心から、全身全霊で愛しているかどうかというのがそれ以前に存在し、それが無ければ手塚治虫やモーツアルトになることは不可能だ。

で、これから創作のメソッドというのを考察したいのだが、その考察対象は、アニメや漫画の原作である。なぜなら、これらは明らかにメソッド(創作パターン)によって作られたものが大半だからである。
たとえば、「サクラ大戦」を例に取れば、

1:主人公(ヒロイン)の紹介
2:主人公を取り巻く異常な状況と、敵の襲来など
3:主人公の悪戦苦闘と「仲間」(ライバル、憎まれ役含む)の紹介
4:主人公が「仲間たち」に受け入れられる
5:敵方の強大さ、残酷さの紹介(スリルの盛り上げ)
6:主人公方の状況の変化(隊長の変更、ヒーローの紹介)
7:主人公たちのトレーニング(経験値アップ、戦士養成)
8:仲間たちの過去、性格や個性の深い紹介

といったところが前半の内容だが、これは多くの「戦隊もの」の類型的ストーリーであることは分かるだろう。
もちろん、こうした類型で描かれた物語には新味は無いからコアな鑑賞者は感心しないが、可愛いキャラが戦ったりキャッキャウフフしているのを見ているだけで楽しいという層はそれで十分にとりこめるのである。それが「商業的創作」におけるメソッドの価値だ。




ついでにメモしておくが、昔の漫画の中でリメイクしてほしいものがあって、それが吉田松美の「不乱剣朱太郎」シリーズである。まあ、丹下左膳みたいな感じの容貌魁偉な主人公不乱剣朱太郎が行く先で怪異な事件に出逢う、「伝奇小説」の漫画版だが、日活アクション映画的な感じがあって非常にモダンな味わいととぼけたユーモアのある、貸本時代の隠れた名作だ。
ネットで探しても下の記事くらいしかないが、表紙の若者は不乱剣朱太郎ではもちろんない。
実写化するなら、若いころの高橋幸治以外に適役はいない。
なお、朱太郎はだいたい物語のヒロインに惚れるが、いつも、そこになぜか突然現れる黒百合という美青年剣士に女が惚れて朱太郎は簡単にあきらめ、失恋する、というのが毎度のパターンで、そこが実に面白かった。ただ、フーテンの寅とは違って、真剣に恋したわけでもないので、「あーあ、またこのパターンかよ」という程度であきらめるのが笑えるのである。


イメージ 1

鬼火は囁く 吉田松美


鬼火は囁く 吉田松美 わかば書房


目次

開幕

幕間

五人目の死体は誰?

生きている兵馬(第一景)

死んでいる兵馬(第一景)

生きている兵馬(第二景)

死んでいる兵馬(第二景)

生きている兵馬(第三景)

死んでいる兵馬(第三景)

ふたたび幕間にて

生きている兵馬および死んでいる兵馬(第四景)

死人たち(大詰の場)

幕はおろされて



素浪人、不乱剣朱太郎は山で道に迷い、山小屋で老人に人狼の話を聞かされる。

フランケンシュタインVSワーウルフの戦いが始まった。

日本では個人単独の短編集というのは書物として出るが、複数の作家による「アンソロジー」というのは少ない気がする。それが漫画の短編となるとなおさらである。
私が考えているのは、タイトルが「青春残酷物語」という漫画アンソロジーで、若者が現実人生の残酷さに触れることによる「絶望の詩情」の話の集成だ。
ただ、私は作品名を覚えるのが苦手なので、入れたい作品の題名を思い出せない。特に、大友克彦による、海辺の民宿の娘が都会から来た道楽息子に遊ばれて捨てられる話は、一度何かの雑誌で読んだだけなので、題名を思い出せないのだが、ぜひ入れたい作品だ。最後が、世の悪に対する若者の「この世には(そんなものより)大切なものがあるだろう!」という感じの絶望の叫びに、ボケ爺さんが「カレーライスとかね」と言うコマで終わる、シニカルな筆致の漫画である。平凡パンチかプレイボーイで読んだ気がする。)
ほかには、

山松ゆうきち「村のひばりちゃん」
「編集王」を書いた漫画家で、名前を忘れたが、その人の「雲流るる果てに」

はぜひ入れたいが、いい作品は膨大にあると思う。つまり、青年向け漫画雑誌などに載ったそれらは、漫画史の中でもあまり知名度が高くないのだが、文学的香気に満ちた優れた作品群なのである。もちろん、女性漫画家作品にもその種のものはたくさんあるだろう。
私自身はそうした作品を生来的に好むわけではないので、偶然に読んで、その凄さを今でも覚えているだけだ。広く漫画を読む人なら素晴らしいアンソロジーができるだろう。

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