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まあ、その地獄状態である「プロ」創作家の存在によって我々創作愛好者は無数の傑作や名作に出逢えて幸福を得られるわけで、これはある意味では「他人の不幸が自分の幸福になる」悪魔のサイクルである。そして、カネが得られるということによって彼らは膨大な傑作や名作を生み出す。私は「搾取のサイクル」である資本主義を否定する人間だが、創作活動ということに関しては資本主義は物凄いエネルギーを生み出すものだとは思う。
  1. 山本貴嗣‏ @atsuji_yamamoto 59分59分前
  1. 編集の意見を聞くこともなく、描きたい時に描き、描きたくないときに描かず、すべて好きに出来る同人誌には、けしてプロでは味わえない幸せがあります。
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  1. ちなみにプロで漫画を描いていくのは、生まれ変わっても(そんな気はないが)二度とやりたくないくらいしんどい。一生漫画を描いていたいほど漫画が好きな自分でもそんなにしんどいことを、うかつに人にすすめられない。
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  1. 自分は一生漫画を描いて死にたいくらい漫画が好きだが、ほんの1時間でも机に向かうのは拷問という人がいるのも知っている。あなたも描くと幸せになるかもしれませんよ、とか、興味の無い人に間違ってもすすめない。
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単なるメモだが、どうも戦の陣形というのはピンと来ない。まあ、鶴翼くらいなら、両側から相手を押し包んで攻めるのだろうくらいは想像できるが、それ以外の陣形の意味が分からない。なぜ一列横隊の陣形が無いのかも分からない。鶴翼がそれに近いか。


勝つための基本陣形「八陣」大研究

短期連載「戦国合戦の作法と舞台裏」(2)

小和田哲男dot.#歴史
図版左から「鶴翼」「魚麟」

図版左から「鶴翼」「魚麟」

 週刊朝日ムック「歴史道Vol.5」では、戦国合戦を大特集。源平がしのぎを削ったその勃興期、一対一で相まみえることが原則だった武士の戦い。しかし蒙古襲来、鉄砲伝来などの新しい風を受けて、合戦は集団対集団の形態に移行。雑兵・足軽を重用する戦術や陣形が練り上げられていった。ここでは「三国志」の時代に生まれた兵法を日本流の軍学が昇華させた「八陣」を紹介する。

※「長篠・設楽原の戦い」が首位! 戦国大合戦ランキング

【山中などの狭い地形の突破に適した「長蛇」と、広い場所での接近戦に向く「雁行」】

*  *  *
■諸葛亮の策を伝えた「八陣」の虚実とは?

 合戦をするとき、数千あるいは数万の軍勢が勝手に思い思いに戦っても勝ち目はないわけで、やはり、規則正しく、組織だって戦う方が有利である。陣形を整え、鎗隊・鉄砲隊というように隊列を組んで攻めかかった方がいいし、また、守る場合も守りやすい。

 では、そもそも基本的な陣形とされる「八陣」というものは、いつ、どのように生まれたものなのだろうか。文献的には、『続(※1)日本紀』の天平宝字4年(760)の条に、日本人軍師第一号などといわれる吉備真備が唐から「諸葛亮(しょかつりょう)八陣」をわが国にはじめて伝えたとみえる。諸葛亮は諸(※2)葛孔明のことである。
 
 「八陣」とは、魚麟(ぎょりん)・鶴翼(かくよく)・雁行(がんこう)・長蛇(ちょうだ)・偃月(えんげつ)・鋒矢(ほうし)・衡軛(こうやく)・方円(ほうえん)の八つの陣形のことをいう。

 魚麟は、全体が魚の形になり、一隊一隊をそれぞれ鱗うろこにみたてたものである。鶴翼は、ちょうど鶴が翼を広げたような形になり、鶴の頭の部分に大将が位置するようになっている。この魚鱗と鶴翼は最もオーソドックスな陣形といってよい。
図版左から「長蛇」「雁行」

図版左から「長蛇」「雁行」

  雁行は、雁が飛んでいく形に陣形を整えたもので、偃月は、彎月(わんげつ)ともいい、三日月形をした陣形で、鋒矢は、矢印の形、長蛇は字の通り、まっすぐ一列の陣形で、衡軛は互いちがいになる形で、方円は全体が円を描くような形である。



図版左から「鋒矢」「偃月」

図版左から「鋒矢」「偃月」

 こうした「八陣」が、実際の戦国時代の合戦でどのように用いられたかはわからない面もある。江戸時代になって、軍学の流行とともに人びとの注目を集めたという側面もある。そこで、江戸時代に書かれた軍記物に、「八陣」がどのように描かれていたかを知るために、具体例を二つほどあげておきたい。
 
 一つは豊後の戦国大名大友氏の『大友興廃記』で、そこに、「此度(このたび)の敵魚麟の陣をとらば、味方は彎月の陣をはるべし。方円をとらば、此方よりは雁行をとるべし。鶴翼をとらば、長蛇をとるべし。鋒箭をとらば衡軛を取べし。軍法の義は、兼々ならしをかるゝといへども、今弥(いよいよ)念を入、今日は軍の議定を成され、明日早天に御入数を出されん事御尤もっともに存候」と記されている。

 もう一つは播磨三木城の別所長治の軍記『別所長治記』で、別所氏の陣形と方角の関係について次のようにみえる。
図版左から「方円」「衡軛」

図版左から「方円」「衡軛」

  味方南に陣取る時、敵北に陣を張る時は、北より南を水剋火と剋す。此の時、味方衡軛に陣を張る。衡軛は四方。西方は土也。土剋水と剋す。味方北に陣をはる時、敵南に陣取る。水剋火論ずるに及ばず。敵若し衡軛を張らば、味方方円・団形・魚鱗の陣を張るなり。
団形は木、衡軛は土なれば木剋土と剋す(以下略)。
 
 五行思想の五方、すなわち、東が木、南が火、中央が土、西が金、北が水で、五行相剋がベースになっていたとする。(監修・文/小和田哲男)

(※1)しょくにほんぎ/文武天皇から桓武天皇まで(697~791年)の95年間を編年体で記した国史。六国史の一つ。

(※2)しょかつこうめい/三国時代の蜀漢の政治家、戦略家。劉備からの三顧の礼を受けて仕えたと伝えられる。

※図版作成/アトリエ・プラン

※週刊朝日ムック「歴史道Vol.5」より



前回書いた田口俊樹訳の「泥棒は図書室で推理する」(原題は「図書室の泥棒」というあっさりとしたものだが、このタイトルの訳はいいのか悪いのか判断が難しい。)の中に、ケネス・グレアムの童話というか、子供向けの小説である「たのしい川辺」に「ウィンド・イン・ザ・ウィロウ」と振り仮名がつけてあり、この種の振り仮名がこの作品(翻訳)には多くて非常に助かるのだが、「ウィンド・イン・ザ・ウィロウ」には頭をひねった。直訳すると「柳の中の風」である。「風の中の柳」なら意味も分かるが、動物の気管じゃあるまいし、柳の中に風があるのは妙である。そこで、(私はこの有名な児童文学を読んでいないので)あれこれ考えたのだが、たとえば、登場人物(擬人化された動物)のひとりが、言葉の言い間違いをする癖があって、それが特徴になっている、という考えなど。一番簡単なのは原題が「wind in the willows」つまり、「柳の林の間を吹き抜ける風」なのではないか、というものだが、まさか英文翻訳家である人間が、英語では重視される単数と複数の違いを無視するという、そんな初歩的な間違いをすることはあるまい、ということで最初に却下した。
そこで、ネットで調べられる限界の確認の意味もこめて、調べてみると、あっさりと「(The)wind in the willows」というのが出てきた。つまり、これが正確な原題だったわけだ。


たのしい川べ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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たのしい川べ』(たのしいかわべ、The Wind in the Willows)は、イギリスの作家・ケネス・グレアム1908年に発表した児童文学作品。

原題の "The Wind in the Willows" は日本語に直訳すると「ヤナギ林に吹く風」の意味であるが、日本では英文学者中野好夫1940年に抄訳した際の『たのしい川べ』という題名が定着しており[1]、他に『ひきがえるの冒険』『川べにそよ風』『川べのゆかいな仲間たち』などの題名でも出版されている。

ローレンス・ブロックの「泥棒は図書室で推理する」(ハヤカワミステリ 田口俊樹訳)は、文学史的雑学とユーモアに満ちた、気持ちよく楽しい読書体験を与えてくれる本だが、その中で知った雑学。

「プログラム」の英国式表記は「programme」である。

まるで、フランス語か何かに見える表記だ。なお、個人的意見だが、英国式表記の最悪のものは「aero」を「エアー(エアラ、エアロウ)」と読ませるというものだろう。これを、どうして「エアー」と読めるのか、今に至るまで理解も納得もできない。なぜ「ea」ではなく「 ae」の語順なのか。
なお、英国の単語の発音と綴りの結びつきが滅茶苦茶であることはG・B・ショーが痛烈に皮肉っていて、「fish」という単語をまったく別の表記で書いてみせているが、その綴りは覚えていない。

ついでに書いておくが、上記の本の訳はユーモア的な部分の訳など上手いもので満足すべき訳だが、ところどころ理解不能な訳文があったりする。
たとえば、殺人事件が起こるホテル(みたいなところ)で出会うレズカップルについて

「ハーデスティはいかにもお尻ぺちゃぺちゃのタチって感じだし、ディンモントのほうは受け身が好きなネコ・タイプじゃないの」

という発言が書いてあるが、その「お尻ぺちゃぺちゃの」の意味がまったく分からないのだ。どういう意味なのか。「ぺちゃパイ」なら「ぺちゃんこのオッパイ」ということで貧しい胸の女性だと誰でも分かるが、それがお尻の話で、しかも「ぺちゃぺちゃ」と畳語になると意味不明になる。(なお、レスビアンカップルの「タチ」と「ネコ」は常識だろう。)
「ぺちゃぺちゃ」は何かを手の平で叩く時の擬音としてしか聞いたことが無い。ここでは擬態語であるようだが、「ぺちゃぺちゃのお尻」とはどういうお尻なのか。
久しぶりに歴史ネタで、「中臣鎌足は百済王子豊璋である」という説だが、その理路はなかなか納得できる。特に、「白村江の戦い」の間の中臣鎌足の「歴史的(史書的)」不在は、証拠として有力だ。

(以下「ヤフーニュース」から転載。)


日韓「半島外交」失敗の歴史で見える「中臣鎌足」の正体

8/8(木) 6:00配信

新潮社 フォーサイト

 徴用工問題や半導体材料の輸出管理強化などをめぐる問題で、日韓が対立し、関係は極端に冷え込んでいる。

 日本側にも責任がある。要求すべきは要求し、拒否すべきは拒否するという「まっとうな外交」をしてこなかったツケが、亀裂を生む結果となった。もちろん、妥協も大切だが、ここは「当たり前の外交」を貫いて欲しい。


■「百済はよく嘘をつく」

 古代のヤマト政権も対半島外交に苦しみ、失敗を繰り返している。たとえば欽明23年(562)に、もっとも大切な同盟国・伽耶諸国(任那)が滅亡してしまったが、ここに至るまで、ヤマト政権は稚拙な外交を繰り返したし、伽耶はヤマト政権を深く恨んだ。日本外交史の汚点と言っていい。

 伽耶滅亡の遠因は、4世紀末から北方の騎馬民族国家・高句麗が南下政策を採りつづけたことだ。百済と新羅は領土を侵食され、南側の伽耶に食指が動きはじめた。

 この間ヤマト政権は、伽耶の利権を守るために、朝鮮半島出兵を繰り返した。伽耶は貴重な鉄の産地だったからだ。また、倭の海人たちは、伽耶周辺の多島海を足がかりにしていた。

 しかしヤマト政権は、伽耶を守ることができなかった。原因ははっきりとしている。ヤマト建国後7世紀に至るまで、ヤマトの王に実権は与えられず、朝鮮半島に遣わされた遠征軍も、豪族の私兵の寄せ集めだったからだ。外交も一元化できなかった。

『日本書紀』推古31年(623)是歳(このとし)条に、象徴的な記事が載る。

 新羅が任那(伽耶諸国)を攻撃すると、任那は新羅に靡(なび)いた。そこで天皇は新羅を討とうと考えたが、蘇我系の重臣は、「まず視察して状況を確かめるべきだ」と、慎重論を展開し、新羅の肩をもった。これに対し中臣氏は「軍備を整え、新羅を討ち任那を奪い返し、百済に帰属させたい」と主張した。中臣氏の献策は退けられ、新羅に使者が向かった。ところが、このあと中臣氏らは新羅に遠征を始めてしまい、蘇我系重臣たち慎重派の面目は潰されてしまった。ここに、豪族間の意識の差が表れているし、外交の混乱が表出している。またこの時、蘇我系重臣は、「百済はよく嘘をつき信用できない」と酷評している。ヤマト政権は、狡猾な百済に、何度も煮え湯を飲まされていたようだ。


■蘇我入鹿暗殺の黒幕

 ヤマト政権が一枚岩でなかったことは、連載中述べてきたとおりだ。ヤマト建国時の主導権争いで、瀬戸内海勢力と日本海勢力は相容れぬ仲となり、それぞれが朝鮮半島に独自のパイプを構築していった気配がある。物部氏や中臣氏を中心とする瀬戸内海勢力は、北部九州から朝鮮半島南西部(伽耶と百済)を経由して中国に向かうルートを確保した。「物部」の名の役人が百済で活躍していたことも分かっている。古墳時代のヤマト政権の外交政策は、物部氏が主導する「百済重視策」だった。かたや劣勢に回された日本海勢力は、5世紀後半まで逼塞する。

 問題は、後進地帯だった新羅が、5世紀後半から7世紀にかけて力をつけ、逆に百済が、衰退していったことなのだ。そして、新羅の成長が日本海勢力の復活を促し、そのあと押しを受けた蘇我氏が、新時代を切り開いていく。蘇我政権は隋や唐に使者を送る一方で、それまでヤマトと敵対していた高句麗や新羅と親密な関係を構築したのだ。そして、この段階でヤマトの「変節」に焦っていたのが、体力を落とした百済だった。

 百済は、ヤマトの外交方針を変えるために禁じ手を使ったようだ。それが乙巳の変(645)で、百済に冷淡な蘇我入鹿を殺したのだ。

 証拠はある。乙巳の変のあと成立した親蘇我派の孝徳政権は、突然同盟国だった百済を「スルー」しはじめる。中国に使者を送るなら百済の西海岸を経由するのがもっとも便利なのだが、新羅から陸路を通り、百済の北側の海岸に出るようになった。これは国交断絶であり、その理由は蘇我入鹿暗殺の黒幕が百済だったから、と推理すれば、辻褄が合ってくる。

『日本書紀』に、怪しい記事がある。蘇我入鹿暗殺を目撃した親蘇我派の古人大兄皇子は自宅に駆け戻り、「韓人(からひと)が入鹿を殺した。胸が張り裂けそうだ」と絶叫している。「韓人」を直訳すると、「外国人」となる。しかも、朝鮮半島の人間をさしている可能性が高い。ただし『日本書紀』は、「韓人」を「韓政(からのまつりごと)のこと」と説明している。

 こういうことだろう。「蘇我入鹿は半島人に殺された」と巷間では噂され、『日本書紀』編者はそれを「外交問題が原因で蘇我入鹿は殺された」と説明し、お茶を濁したにちがいない。韓人が入鹿を殺したことは、秘密にしたかったのだろう。『日本書紀』は親百済派の歴史書なのだ。


■百済王子・豊璋

 入鹿暗殺の主犯中大兄皇子と中臣鎌足は、孝徳天皇が亡くなり実権を握ると、外交政策を転換し、一度滅亡した百済に救援軍を送りこんでいる。民衆が「負けるに決まっている」と非難を浴びせる中での、遠征強行だった。当然大敗北を喫した。いわゆる白村江の戦い(663)だ。

 それにしても、なぜ中大兄皇子と中臣鎌足は百済救援に固執したのだろう。連載中述べてきたように、人質として来日していた百済王子・豊璋(ほうしょう)が親百済派の中臣氏の系譜に潜り込み、中臣鎌足を名乗ったのだと筆者は考えている。豊璋が衰退していく百済を救うために、邪魔になった蘇我氏を、滅ぼそうと考えたのだろう。

 豊璋が中臣鎌足だった証拠は、いくつも掲げることができる。

1.豊璋の来日は舒明3年(631)、かたや中臣鎌足登場は皇極3年(644)のことで、ふたりは同時代人だ。

2.白村江の戦いの間、豊璋は百済にもどっていたが、中臣鎌足は歴史から消えてしまう。中大兄皇子の人生最大のピンチに、中臣鎌足はなにをしていたのだろう。豊璋となって百済に帰っていたのではなかったか。豊璋はこの戦いで行方不明になるが、中臣鎌足はそのあと何食わぬ顔で、『日本書紀』に再登場している。

3.中臣鎌足の墓・阿武山(あぶやま)古墳(大阪府高槻市)から「織冠」が出土したが、歴史上織冠を下賜されたのは、豊璋と中臣鎌足だけだ。問題は、阿武山古墳が百済の王墓と同じ様式だったことで、日本では他に例がない。なぜ日本の神を祀る家に生まれた中臣鎌足が、百済式の墓を選択したのだろう。

 中臣鎌足は豊璋と断定してよいと思う。


■玉座に目が眩んで

 蘇我入鹿が殺された7世紀半ば、百済国は必死に生き残りの道を模索していた。最後にすがることができるのは、ヤマトだけだったのかもしれない。しかし、「百済人は嘘をつく」という認識があったのだから、そんな国と心中する必要はなかったし、多くの民が、百済救援は無謀だと気付いていた。一歩間違えれば、日本はこの時滅びていたのだ。

  それにしてもなぜ、中大兄皇子は中臣鎌足(豊璋)と手を組んだのだろう。蘇我氏が弟の大海人皇子を将来の皇位継承候補と期待していたからだろう。「蘇我入鹿を殺せば即位できます」という中臣鎌足のそそのかしに、中大兄皇子は乗ったのだろう。玉座に目が眩んで、蘇我氏の築き上げた東アジアの絶妙なパワーバランスと精密なネットワークを破壊してしまった。

 こうして、ヤマト政権は、7世紀の外交戦も失敗してしまったのだ。原因は、政権内部の主導権争いであり、そこを海外の工作員たちに、つけ込まれた形になった。これは、古代だけの話ではない。現代でもわれわれの知らない間に、さまざまな国のロビー活動や「工作」が行われているはずだ。日本人は島国のお人好し(世間知らず)だから、用心に越したことはない。

関裕二

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