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「江戸川乱歩の迷宮世界」というムック(雑誌みたいな作りの本)を読んで、乱歩世界のパロディというか、エロ本版を思い付いたのだが、大まかな内容は、こんなもの。
1:明智小五郎と怪人二十面相は同一人物。両者が同時に他人の前にいる時には、どちらかが両者の手下の扮装。
2:女盗黒蜥蜴(緑川夫人)の正体は、明智小五郎夫人の文子。明智小五郎がナルシストのホモなので、その欲求不満の解消としての行動。
3:文子夫人は、明智小五郎への復讐のために、同居中の小林少年を誘惑する。心ならずも、小林少年は文子夫人との性愛に溺れる。つまり、オネショタ。
といったところ。エロ小説としてどうか。語り手は、二十面相(小五郎)の助手で、しばしば二人の代役をし、そして文子夫人に懸想している青年とする。
その青年が、一種の「第三の男」(影に隠れた、事件の主役)であるような小説だ。その「影の主役」が、ヒロインに惚れながら、中学生に恋愛で負けるという皮肉を描きたい。
名前は、倉田一三とでもしておく。(暗闇の存在であることと、一、つまり語り手でありながら第三の男であることを暗示。作中で、三島公武や平岡幸生という変名も使う。)
ラストシーンは、死んだ小林少年の墓参をした文子夫人を墓地の出口近くで待っていた一三に一瞥もせずに文子夫人がその前を歩み去る、という、映画「第三の男」のラストそのままとする。
1:明智小五郎と怪人二十面相は同一人物。両者が同時に他人の前にいる時には、どちらかが両者の手下の扮装。
2:女盗黒蜥蜴(緑川夫人)の正体は、明智小五郎夫人の文子。明智小五郎がナルシストのホモなので、その欲求不満の解消としての行動。
3:文子夫人は、明智小五郎への復讐のために、同居中の小林少年を誘惑する。心ならずも、小林少年は文子夫人との性愛に溺れる。つまり、オネショタ。
といったところ。エロ小説としてどうか。語り手は、二十面相(小五郎)の助手で、しばしば二人の代役をし、そして文子夫人に懸想している青年とする。
その青年が、一種の「第三の男」(影に隠れた、事件の主役)であるような小説だ。その「影の主役」が、ヒロインに惚れながら、中学生に恋愛で負けるという皮肉を描きたい。
名前は、倉田一三とでもしておく。(暗闇の存在であることと、一、つまり語り手でありながら第三の男であることを暗示。作中で、三島公武や平岡幸生という変名も使う。)
ラストシーンは、死んだ小林少年の墓参をした文子夫人を墓地の出口近くで待っていた一三に一瞥もせずに文子夫人がその前を歩み去る、という、映画「第三の男」のラストそのままとする。
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久生十蘭の「鈴木主水」を最初に読んだのは何年前か、とにかく若いころだったが、面白さがまったく分からない作品だった。時代小説プロパーでもないはずだのに見事にその時代の言葉を駆使して破綻なく書いているな、とは思ったが、話の内容そのものに面白さを感じられなかったのだ。
つまり、「直木賞受賞作品」ということは、「面白い大衆小説」と同義語、というのが私の考えだったので、柴田錬三郎的な面白さを期待してたのに、まったく主人公が活躍しない、功名も挙げないのでは、ワクワクドキドキも無かったわけである。
で、昨夜、久しぶりに「鈴木主水」を読み返して、その良さが理解できたのだが、「これは若い人間には理解できんわ」とも思った。つまり、話の中心点は、鈴木主水という「主人公」ではなく、話の中では最初敵側の人間で「悪女」と思われていたお糸の主水への悲恋にあるのだが、話が主水の側から描かれているために、この真の主題がそそっかしい読者には読めない描き方だったわけだ。で、主水だけを見ていたら、面白くも何ともない話になるのだが、読み巧者が読めば、実に美しい悲恋物語であることがわかるという、そういう作品なのだった。
プロの作家というのは凄いな、とも思うし、昔の直木賞選定委員たちの鑑識眼は凄いな、と思う。
で、この作品を、「恋の殉教者」である主水とお糸の側ではなく、話の中では主水たちに置いてけぼりにされている主水の妻、お安の側から描いたら、それも面白いだろうな、と思う。
つまり、いつも冷静で冷たい女だと思われているお安が、実はお糸同様に主水に恋していて、表面を慎んでいただけだった、という話である。昔の男女の作法としては珍しくないだろう。
その主水がお糸と心中をした後、二人の幼い子供と残されたお安の気持ちはどんなだったか。
心中者たちは、実は恋の勝利者であり、残された者は恋の敗北者である。その敗北者の視点からこの話全体を見てみたいものだ。いや、書けたら私が書くが、当然、そんな技量は無い。
つまり、「直木賞受賞作品」ということは、「面白い大衆小説」と同義語、というのが私の考えだったので、柴田錬三郎的な面白さを期待してたのに、まったく主人公が活躍しない、功名も挙げないのでは、ワクワクドキドキも無かったわけである。
で、昨夜、久しぶりに「鈴木主水」を読み返して、その良さが理解できたのだが、「これは若い人間には理解できんわ」とも思った。つまり、話の中心点は、鈴木主水という「主人公」ではなく、話の中では最初敵側の人間で「悪女」と思われていたお糸の主水への悲恋にあるのだが、話が主水の側から描かれているために、この真の主題がそそっかしい読者には読めない描き方だったわけだ。で、主水だけを見ていたら、面白くも何ともない話になるのだが、読み巧者が読めば、実に美しい悲恋物語であることがわかるという、そういう作品なのだった。
プロの作家というのは凄いな、とも思うし、昔の直木賞選定委員たちの鑑識眼は凄いな、と思う。
で、この作品を、「恋の殉教者」である主水とお糸の側ではなく、話の中では主水たちに置いてけぼりにされている主水の妻、お安の側から描いたら、それも面白いだろうな、と思う。
つまり、いつも冷静で冷たい女だと思われているお安が、実はお糸同様に主水に恋していて、表面を慎んでいただけだった、という話である。昔の男女の作法としては珍しくないだろう。
その主水がお糸と心中をした後、二人の幼い子供と残されたお安の気持ちはどんなだったか。
心中者たちは、実は恋の勝利者であり、残された者は恋の敗北者である。その敗北者の視点からこの話全体を見てみたいものだ。いや、書けたら私が書くが、当然、そんな技量は無い。
子供がネット配信の「ドラクエⅢ」を入れてくれたので、そればかり何周もしているのだが、未だに「商人」や「盗賊」を最後まで育てたことが無いし、「遊び人」は使ったことが一度もない。遊び人のギャグが寒すぎるので、連れ歩くのが不快なのである。
昔のスーファミ版より劣化しているのは、キャラ画像が三流漫画家が描いたとしか思えないことと、「すごろく」が無くなったことだが、冒頭の「性格診断」も劣化している気がする。バリエーションが極端に少なくなったのではないか。
まあ、それらの欠点は欠点として、やはり一番私好みのRPGではある。易しすぎ、短すぎのⅠや、途中から極端に難しくなって完走がほぼ不可能なⅡにくらべてゲームバランスが一番いい。世界の広さもちょうどいい。ドラクエはⅢで終われば伝説のゲームになったのではないか。Ⅳ以降は蛇足だと思う。
Ⅲは物語の内容やゲーム構成などはいいのだが、キャラクターが死んでも簡単に生き返る、というのは、まあ、子供向けゲームとしては正解なのかもしれないが、私としては、ゲーム内の仲間の死は本当の死として描いたほうがスリリングで強烈な迫力になったのではないかと思う。ただし、ルイーダの酒場で新しいキャラクターを作れることにする。つまり、新しい仲間と組んで再起をめざすのである。そして、死んだ仲間の墓を酒場の後ろに作る。ゲームが終わった後、そこに墓参りするのもいい。
もうひとつ、戦いで「重傷を負う」場合を作ってほしかった。怪我をしたら戦闘力は下がり、ある程度のダメージを負うと戦闘不能になり、後方に下げられるわけだ。戦闘中のダメージ回復は、無しである。最悪のダメージは、もちろん死である。
そして、戦闘が終わっても、重傷を負った仲間はすぐには回復しない。宿屋で療養することになる。その場合、旅を続けるなら仲間を一人欠いた状態で旅することになる。後で、回復した仲間のもとを訪ねて、ふたたび合流することもできる。怪我からの完全回復はしない状態で合流することもできるが、その場合はそのキャラの戦闘力は下がったままである。
また、能力指標として「精神力(気力・集中力)」というのがほしい。この指標が高いキャラは、メダパニやスリープ(ドラクエでは何と言ったか忘れた)にはほとんどかからない、というわけだ。これは戦闘への参加回数によって少しずつ数字が上がることにする。つまり、精神的経験値だ。
そういうようなゲームコンセプトで作るなら、ドラクエⅠもⅡもⅢもリメイクする価値があるだろう。特に、「死んだら終わり」ということにするだけでも、プレイヤーに与える印象がまったく違ったゲームになるはずだ。最後まで仲間をひとりも死なさずに完走したら、その感動も大きいだろう。いわば、「人命尊重型RPG」である。
昔のスーファミ版より劣化しているのは、キャラ画像が三流漫画家が描いたとしか思えないことと、「すごろく」が無くなったことだが、冒頭の「性格診断」も劣化している気がする。バリエーションが極端に少なくなったのではないか。
まあ、それらの欠点は欠点として、やはり一番私好みのRPGではある。易しすぎ、短すぎのⅠや、途中から極端に難しくなって完走がほぼ不可能なⅡにくらべてゲームバランスが一番いい。世界の広さもちょうどいい。ドラクエはⅢで終われば伝説のゲームになったのではないか。Ⅳ以降は蛇足だと思う。
Ⅲは物語の内容やゲーム構成などはいいのだが、キャラクターが死んでも簡単に生き返る、というのは、まあ、子供向けゲームとしては正解なのかもしれないが、私としては、ゲーム内の仲間の死は本当の死として描いたほうがスリリングで強烈な迫力になったのではないかと思う。ただし、ルイーダの酒場で新しいキャラクターを作れることにする。つまり、新しい仲間と組んで再起をめざすのである。そして、死んだ仲間の墓を酒場の後ろに作る。ゲームが終わった後、そこに墓参りするのもいい。
もうひとつ、戦いで「重傷を負う」場合を作ってほしかった。怪我をしたら戦闘力は下がり、ある程度のダメージを負うと戦闘不能になり、後方に下げられるわけだ。戦闘中のダメージ回復は、無しである。最悪のダメージは、もちろん死である。
そして、戦闘が終わっても、重傷を負った仲間はすぐには回復しない。宿屋で療養することになる。その場合、旅を続けるなら仲間を一人欠いた状態で旅することになる。後で、回復した仲間のもとを訪ねて、ふたたび合流することもできる。怪我からの完全回復はしない状態で合流することもできるが、その場合はそのキャラの戦闘力は下がったままである。
また、能力指標として「精神力(気力・集中力)」というのがほしい。この指標が高いキャラは、メダパニやスリープ(ドラクエでは何と言ったか忘れた)にはほとんどかからない、というわけだ。これは戦闘への参加回数によって少しずつ数字が上がることにする。つまり、精神的経験値だ。
そういうようなゲームコンセプトで作るなら、ドラクエⅠもⅡもⅢもリメイクする価値があるだろう。特に、「死んだら終わり」ということにするだけでも、プレイヤーに与える印象がまったく違ったゲームになるはずだ。最後まで仲間をひとりも死なさずに完走したら、その感動も大きいだろう。いわば、「人命尊重型RPG」である。
地名や人名の漢字は当て字が多く、初見で読めというのが無理なものはたくさんある。そういうのを度外視しても、たとえば「好事家」を「こうじか」ではなく「こうずか」と読む、などというのは無理な感じがある。「好事家」以外で「事」を「ず」と読む例があるだろうか。
2019
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HN:
冬山想南
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