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ある小説の導入部を寝覚めの寝床の中でぼんやり考えていたのだが、メモしておく。
ある有閑階級の青年あるいは中年男が、公園での散歩から戻る途中で、町の曲がり角の目立たない場所に文庫本の1ページ目が貼られている(差し込まれている)のを見つける。その曲がり角を進んで、次の曲がり角で2ページ目(表裏で1枚の紙なので厳密には3,4ページ目)を見つける。そこで、これは誰かが誰かを追跡し、後でその道筋をたどるための目印だと判断し、自分もその追跡を始める。その際に、頭の中で趣味の作曲をしながら悠々とその「追跡散歩」を続けるのだが、その曲に「記憶のタグ」のために「追跡」という名前を付けておく。まあ、そういう話で、その曲まで寝床の中で部分的に作曲したわけだ。安直な曲だが、たぶん、私のオリジナルである。軽快な曲である。楽器はギターかと思うが、声を楽器的に使うのもいい。リズムは「ターンタターン、たららら、ターンタターン、たららら、ターンタ、ターンタ、ターンタ、ターン、たららら、ターンタターン、たららら」の繰り返しで、音の高低の変化もわずかである。覚えやすい曲だが、これだけで自分で再現できるかは怪しい気もする。
なお、問題の文庫本は、たとえば「ヘンリ・ライクロフトの私記」のような、今どきの人が読まない本で、或る意味マニアックである。それだけに、それを目印のために破って使うということは、その人物にとってその「追跡」が重要な意味を持っていたということだろう、と主人公は推理する。
まあ、結末の一案として、実はその男にひそかに惚れている女が、推理マニアの彼を「引っ掛ける」餌として、その文庫本を撒いていた、として、さらにはハッピーエンドにする形もある。追跡しているつもりが(形而上的には)追跡されていたというオチだ。北村薫にO・ヘンリー的なひねりを加えた感じか。チェスタトンに、レストランで塩の壺と砂糖の壺の中身を入れ替えるなどの奇妙な行為を、誰か(ブラウン神父)に自分を追跡させるための「目印(呼び水)」にする話もあった。
読者が主人公と自分を同一化して(感情移入して)読めば、楽しい気分で読み終えるのではないか。
追跡の途中で様々な物や人々の情景を見ては主人公はあれこれ考えるが、ラストシーンは、最初の公園に導かれ、そこのベンチで座って本(問題の「本」でもいい)を読んでいる「犯人」の女性を発見し、彼女と会話する場面にしようか。一種の円環構造である。

文庫本一冊で恋が成就するなら、安い投資である。恋にはカネより頭が大事。
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「シロクマの屑籠」という精神科医か何かのブログの一節だが、この書き方だと「自己家畜化」という概念(本自体を読んでいないのでその概念は不明だが、言葉どおりに解釈する。)を筆者は肯定的に使っているようだ。つまり、「自己家畜化はけっして悪いことではないですよ~」と患者を猫なで声でなだめる手法のひとつとして使う意図ではないか。

(以下引用)

この本の前半では、人間が進化の過程でみずから起こしてきた自己家畜化という(生物学的な)変化・進化について解説しますし、それこそが人間を地球の覇者たらしめた生物学的な鍵ではあるでしょう。とはいえ、自己家畜化を遂げた人間といえども、誰もが・どんな文化や環境にも適応できるわけではありません。文化や環境の変化がもっともっと加速していくとしたら、より多くの・より新しい不適応が私たちを待ち受け、将来の私たちを疎外するのではないでしょうか。

(以上引用)


で、私がこの「自己家畜化」という言葉を聞いて即座に連想したのがエーリッヒ・フロムの「自由からの逃走」という言葉と著作だが、20代のころに読みかけてすぐに放棄したので内容が分からない。おそらく、ドイツ国民がなぜナチスとヒトラーを受け入れた、あるいは国民自ら国家統率の中心として彼らを選んだのか、ということを精神分析的に解明しようとしたものだろうと想像している。
まず、ウィキペディアで調べてみる。と思ったが、下のサイトのほうが分かりやすいようだ。

(「哲学ちゃん」というサイトから転載)

自由からの逃走

フロムは著書『自由からの逃走』の中で、人間が自ら自由を放棄してしまう心理的メカニズムを明らかにしました。

フロムによれば、人間はもともと自己決定の自由(=自身の運命を自分で決める能力)を持っています。

しかし一方で、人間は自由になることで孤独感や無力感を抱えてしまい、結果として逆に自由から逃避してしまう傾向も持っています。

自由からの逃避は「権威主義への逃避」「破壊主義への逃避」「機械的画一性への逃避」という3つの形となって表れます。

それぞれ詳しく見ていきましょう。

権威主義への逃避(依存)

「権威主義への逃避」とは、他人を自分の権威の支配下に置いたり、他人の権威に自分の自由を託すことによって、身の安全を求める心理です。前者はサディズム、後者はマゾヒズムの心理につながります。

例えば、自分でビジネスを起こした方が自由になれるにも関わらず、事業の失敗を恐れるあまり、敢えて会社に支配されるサラリーマンとして働いてしまうことが挙げられます。

破壊主義への逃避(破壊)

「破壊主義への逃避」とは、他者や自分自身を攻撃することによって不安から逃れようとする心理です。

例えば、恋人の心が自分から離れることを恐れるあまり、恋人の浮気を疑ってしまったり(他者への攻撃)、フラれたショックをごまかすために暴飲暴食をしてしまったり(自分への攻撃)することが挙げられます。

機械的画一性への逃避(同調)

「機械的画一性への逃避」とは、周囲の人と合わせることによって、自分が自由に発想することを放棄してしまう心理です。

例えば、「ダサい」と思われることを恐れるあまり、無難な服装や髪型を選んでしまうことが挙げられます。

(以上引用)

フロムの3つの分類は、まあ、ほとんど無用の分類で、政治的には「権威主義への逃避」がほとんどだろう。しかもそれは日常生活の「組織」においても同じである。組織内の権力者への反抗は困難であり服従は容易だ。一番の要点は、「自由は面倒くさいし、責任を追及されるし、下手をしたら権力者に処罰される」ということではないか。そこで近代社会では人は自由から逃走し、自分の「決定権」を権力に委譲する。要するに、「権威主義への逃避」ではなく、「権力への恐怖」がその正体だろう。つまり、自ら権力を持つ者はけっして自由から逃走などしない。これは、最近問題化したジャニーズ事務所問題や松本人志問題の起源的原理だ。

私はアニメは好きだが、ユーチューブや何かの説明動画は大嫌いで、文章なら10秒で読める内容を10分くらいもかけているのにイライラする。




自分のペースで見たい

もちづき @mochizuki_asd

本当にこれ 本なら自分のペースでサッと読めるのに、動画は必ず時間分待たなければならないのが苦痛で仕方ない。 twitter.com/s_mogura/statu…

  2024-01-22 08:17:20
御飯粒【ゆかり】 @rice_chu

レシピや折り紙の折り方ググると動画ばかりで文字と画像でお願いします…_:(´ཀ`」 ∠):ってなる。必要な箇所まで先送り/待ってる時間が嫌すぎる。あと音声まじで不要。時間かかりすぎる。 twitter.com/s_mogura/statu…

  2024-01-22 12:36:27
あるちゃ @alphaindy

文章なら一目で読める。 本当にこれです。 動画だと自分に必要な情報がすぐに拾えなくて使いづらいんですよね。 あと作り手の価値観で必要なところがサラッと流されたり不要なところがしつこくされるのも不愉快 twitter.com/wonosatoru/sta…

  2024-01-22 10:51:18
ますだじゅん@『5分で読書 未知におどろく銀河旅行』発売中! @CRwVUTh6Xjn2eG8

何分何秒目にアレがあります、という目次みたいなものがあればいいけど、なかった場合は最初から最後まで見なければいけない。とにかく検索性が悪いというか… twitter.com/wonosatoru/sta…

  2024-01-22 10:39:48
mamimoo! @mamimooco

動画(特にYoutube)は苦手。自分のペースで読み進められて、自分のイメージで脳内に映像化できる本の方が理解しやすい。動画は製作者のペースで進むから、自身のペースと合わないとストレスを感じる。 説明書を動画にしたものも、自分の欲しい情報に辿り着くまでに時間がかかるので、これも苦手。 twitter.com/s_mogura/statu…

  
「日本人の英語」で名前を知られるようになったと思われるマーク・ピーターセンの「英語の壁」という新書(これは本の種類のことだ。いわゆる新書版の本ということ。)を読んでいて、ある部分でひとつの謎にぶつかったのだが、私は謎解きが好きなので、しばらく考えて、正解と思われる解答に達した。その「謎」をここに載せて、少し空白部をあけた後で、その解答を載せることにする。
まあ、「頭の体操」と思っていい。これは、中学生レベルの英語(英文)が題材だが、高校生や大学生、いや、学校の英語の先生でも問題の意味が理解できない気がする。むしろ学校秀才のほうが首をひねるのではないか。逆に、一読で問題の意味が分かった人は、素晴らしい言語感覚があるか、あるいは米国人と日本人の言語感覚や人間性の違いを知っていると思う。私は留学体験は無いが、英語圏への留学体験がある人は即座に分かるのではないか。ただし、それは私の解答が正解だとしての話だ。
以下がその「問題」の文章だ。引用文は赤字にしておく。括弧内は私の補足。

(willという語の)和訳に「でしょう」を使った用例は一つだけあったのだが、それは「You'll be in time if you hurry.急げば間に合うでしょう」となっていて、この「~でしょう」は、単なる誤訳による「~でしょう」だ。

さて、この和訳がなぜ誤訳なのか、というのが問題である。
ヒントにはならないかもしれないが、続く文章は、こうである。

"You'll be in time if you hurry."という英語は「急げば間に合いますよ」ということを言っているのである。

さて、なぜ前者が誤訳で、後者が正しいとなるのか、説明できるだろうか。私は10分程度で解答を出したので、それくらいの制限時間にしよう。





(解答)?

実は、これは著者のピーターセンの「言語感覚」と日本人の「言語感覚」の違い、あるいはアメリカ人と日本人の人間性(民族性)の違いから来た「断層」だと私は思っている。つまり、日本人的な感覚では、ふたつの和訳の前者が間違い(誤訳)だとは感じないと思う。
フェアを期するために、問題文に先立つ記述も書いておく。
それは、

はっきり言えば、willには『~だろう、~でしょう』という意味は無いのだ。

というピーターセンの発言(文章)だ。ところが、日本語辞書の「will」の意味(訳)として、「~だろう、~でしょう」は当たり前にある。それに慣れている日本人は、前の「問題」の何が問題なのか、分からないわけだ。むしろ、ピーターセンのほうがいい加減なことを言っているのではないか、と思う人すらいるだろう。それほど、willに「だろう」「でしょう」を訳語として当てるのは日本人には普通のことなのだ。

実は、ここに日本人の民族的個性がある。ピーターセンは「will」の示す意味は「未来」である、としか考えないのに対し、日本語の「だろう」「でしょう」は、実は「婉曲」の意図があるのである。それを未来形の訳語にするのは、英語ネィティブの人には、耐えがたい誤りだ、と思われるだろう。
さて、ここで、"You'll be in time if you hurry"に対するピーターセンの訳文である「急げば間に合いますよ」を見てみよう。それと「急げば間に合うでしょう」の違いが日本人にはピンと来ないのではないか。どこが違うの? むしろ、ピーターセンの日本語訳のほうが変じゃないの? と思う人がいると思うが、それは、それが「日本人的という点では自然な感覚」だからだ。つまり、少しでも未来のことなら、ある予定や予期が100%実現するとは限らないから、婉曲に「だろう」「でしょう」を使うわけだ。それが欧米人的感覚ではないのではないか、というのが私がここで主張していることである。欧米人は、自分が正しい(かなりな蓋然性で、あることが実現する)と思えば、それが100%でなくても主張する。日本人はそういう場合には「だろう」「でしょう」と婉曲に言う。これがwillの「誤訳(ピーターセン流に言えば)」になるのだと思う。そういう「主張や表現の曖昧さ」を欧米人は卑怯卑劣だと感じるのではないだろうか。










告白と自己防衛とはいつも微妙に噛み合っているから、告白型の小説家を、傷つきにくい人間だなどと思いあやまってはならない。彼はなるほど印度の行者のように、自ら唇や頬に針を突きとおしてみせるかもしれないが、それは他人に委せておいたら、致命傷を与えられかねないことを知っているから、他人の加害を巧く先取しているにすぎないのだ。とりもなおさず身の安全のために! 

小説家になろうとし、又なった人間は、人生に対する一種の先取特権を確保したのであり、それは同時に、そのような特権の確保が、彼自身の人生にとって必要不可欠のものだったということを、裏から暗示している。すなわち、彼は、人生をこの種の『客観性』の武装なしには渡ることができないと、はじめに予感した人間なのだ。

客観性の保証とは何か?それは言葉である。(三島由紀夫『小説とは何か』1970年)

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