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わたしがめいろまに何となく感じていた胡散臭さは、爺さんが戦後に公職追放になったような「戦前戦中の権力者」つまり、右翼の一員であるという出自から来たようだ。その考え方や言葉の端々に、「隠された権力志向」や権力者への親和性を感じていたのだと思う。



昔、娘の嫁ぎ先まで下男に命じて毎朝、樽で顔を洗うためのお湯を運ばせたお大尽がいたそうな。娘が赤切れにならないように。














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まあ、馬鹿(子供知能)の書いた小説のように、主人公やそのライバルをIQ300とか書いただけで「頭のいい人物を描いた」と思い込む奴もいないではないが、基本的には登場人物の知能は作者の知能を超えることは無いと思っていいのではないか。ただし、その知能の高さを印象付ける描写ができる人間とできない人間がいると思う。森博嗣などは頭のいい人物(性格はアレだが)だと思うが、彼の作中人物はあまり頭が良さそうに見えない。コナン・ドイル自身はさほど頭がいい人物でもなかったような気がするが、作家としての能力(表現力・描写力)が高かったため、ホームズは永遠のキャラになった。(ホームズ物のトリックの大半は無理があると思う。)
作家自身の頭の良さが作品に反映されているな、と思うのは、漫画家だと「それ町」の作者、石黒正数である。実に緻密な思考力を、作品構築に使っているなあ、と思う。ただし、作品世界に手塚治虫のような「巨大感」が無いのは、逆にその「探偵脳」のためではないか。探偵脳というのは「哲学脳」とは違って、目の前の現実に対象が限定されるのである。
頭の良さには、「発想力」と、「論理構築力」あるいは「論理構築の徹底性」があると思う。(ポーが、優れた探偵には「詩人の能力」と「数学者の能力」が必要だ、と言っているのはそこである。発想は詩人的能力であり、論理は数学者的能力だ。両者を兼ねている人は少ない。)雑な論理だけで、後は感覚だけで乗り切るのが普通の人間である。また、科学者や技術者になるような人間は、案外発想力は無いと私は思っている。だから、理論(仮説)の検証や徹底よりも「偶然の結果」からの大発見が多い。つまり、その仮説(発想)は論理の徹底に堪え得ないレベルのものが大半なのだろう。




さんがリツイート

「作者より頭のいい人物は書けないか」論議がまた出ているが、僕の感想はこれのみ、「小説(漫画)を書(描)くという行為に、これ以上呪いの言葉をかけるな」。やれ必然性だ考証の確かさだリアリティだ、ああしろこうしろ、どんなふうに書けとか空想の翼、創作の手足を縛るような差し出口が多すぎる。










人間の目は、白黒の絵を見ると、黒いのが描かれた部分で、白い部分は余白だと見る先入観(あるいはメカニズム)があるのかもしれない。
この絵の場合は、馬の輪郭が一本線でないことと、輪郭線以外にも意味不明の黒線が多いのが、錯視の原因だろう。


小学校の図書館で借りて生まれて初めて読んだ宮澤賢治の童話集。先日古本屋で50年ぶりくらいに再開したんですが恐ろしいことに表紙に馬が描かれてることに初めて気がついた。子供の頃はなんか線がモジャモジャしてる抽象的な絵だとばかり思ってた。何回も繰り返して読んだのになー。













冒頭にナレーションなどで状況説明をするというのは、言われてみれば悪手かもしれない。観客(読者)はそれを記憶して先に進むしかないわけだから、観客(読者)に過剰な負担をかけるわけである。
私はついこの間、山田風太郎の「忍法八犬伝」を読み、それが面白かったので、市民図書館で山田風太郎の他の作品を探して、「飛騨忍法帖」というのを借りてきたのだが、冒頭部分にいきなり六人もの名前が出てきて、少しうんざりした。まあ、忘れたら忘れたでいいさと気楽に読めばいいのだが、やはりどこかに「自分は雑な読み方をしている」という気の重さが残るわけである。これは娯楽小説としては欠点だろう。
これが「水滸伝」などだと、登場人物は主要人物だけでも108人と多いのだが、ひとつひとつの話の登場人物は少なく、あまり名前を覚える必要はないし、自然に覚えるのである。やはり、古典的な大衆小説は「人間の生理」というのをよく分かっている。
まったく状況説明をしない代表例が「エバンゲリオン」で、あれは最後まで説明をしなかった。それでも、キャラが立っていたので、視聴者は、その回その回を単独で楽しめたのである。

私は、大衆小説や漫画や映画の「基本的な(あるいは一番重要な)教え」として、「説明するな。描写しろ」という指針がある、と思っている。説明とは、観客や視聴者の想像力や理解力を信頼していない、ということなのである。




(以下引用)

テレビアニメ『母をたずねて三千里』には、冒頭、何も考えずに状況説明ナレーションを入れる愚挙を戒められた。 
ナレーションに頼るのは、楽に『描いた』気になれる罠がある。 
(使わなくはないが、ページの圧縮と、リズム作りだな)
















いや、実にどうでもいい話なのだが、昭和52年に買って今年平成19年(だったか?)まで乗っていたとしたら、30年間使っていたわけで、年あたり800キロしか乗っていない。1日当たり2キロか3キロである。歩ける距離だろうwww
私など、自動車は下駄代わりとしか思っていなかったから、初心者のころは、どこかに軽くぶつけたりこすったりは当たり前だった。だが、まあ、こういう骨董品を買う方も買う方である。



昭和52年に新車で買い、大事にしておられた車輌買取ました!実走2万4000キロ。鳥肌レベルに綺麗すぎて大事にしてたのが伝わりますた。。引き上げ時オーナーさんの寂しそうな顔を見て感情移入で泣きそうになったのは秘密。










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