返本制度が日本に比べるとかなり脆弱なアメリカで生き延びた書店のとった道としては
1) 玩具、CDやDVD/BDなど書籍以外を取り扱う
2) 喫茶店や様々な集会、サイン会を受け入れリピーターを増やす
3) 同人誌や古本も常備し、極めてマニアックなオンリーワンを狙う
などを採用したお店が多い気がします。
あまり有効な対策には思えない。少しは「症状」を軽減させるかな、という程度の対症療法でしかない、という感じ。
本屋が急激に消滅している理由は、「家に本を置くスペースがない」「スマホの通信費で手一杯で本を買うカネがない」「本を読む能力も読書への関心もない人が激増している」ということだろう。さらに、「万引き問題」も大きいはずだ。つまり、基本的なモラルの消滅。
とすれば、対策はそこにしかないはずである。つまり、下の対策は、今でも本好きは多い、という前提での対症療法でしかない。
本屋が急激に消滅している理由は、「家に本を置くスペースがない」「スマホの通信費で手一杯で本を買うカネがない」「本を読む能力も読書への関心もない人が激増している」ということだろう。さらに、「万引き問題」も大きいはずだ。つまり、基本的なモラルの消滅。
とすれば、対策はそこにしかないはずである。つまり、下の対策は、今でも本好きは多い、という前提での対症療法でしかない。
山本貴嗣さんがリツイート
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若い人や児童・学生の読解力が無残に低下しているという話と根が同じなのではないか。子供のころからまったく文学書(児童書)を読まないで育った人間が大量にいると思う。それは、想像力を育てる機会を持たなかったということだ。文字を読んで、その世界を想像することと、映像を見る経験とはまったく別である。後者には想像力は不要である。すべては「与えられている」のだから。理解できなかったものについては「他人(周囲)の意見」を口移しに言うだけである。
山本貴嗣さんがリツイート
マスコミが発信するのは、その多様な価値観の中の大多数に向けてのものであり、テレビ内容がDQN向けであるということは、日本人の大多数がDQNであることを示している。
昔からそうだったのか、あるいはどこかで変わったのか。
私の考えでは、吉本興業がマスコミで力を得始めたのが転回点だった気がする。政治的には小泉時代あたりからか。丸山真男など、戦争体験者である昭和の知識人が言論世界から消え始めたのが、日本のDQN化の始まりだったと思う。
昔からそうだったのか、あるいはどこかで変わったのか。
私の考えでは、吉本興業がマスコミで力を得始めたのが転回点だった気がする。政治的には小泉時代あたりからか。丸山真男など、戦争体験者である昭和の知識人が言論世界から消え始めたのが、日本のDQN化の始まりだったと思う。
唐沢なをきさんがリツイート
某社での担当編集氏から「映画って泣くために観に行くものじゃないですか」と言われた時の衝撃は、なかなかに忘れがたいものが。わかっているつもりでも、「自分とは全く異なる価値観が存在する」というのは、日常生活の中では実感を得にくいものです。(-,,,-
SF作家山本弘のエッセイを「カクヨム」というネット雑誌から転載。原稿料は出ているのかねwww
これを転載したのは賛意を示すためではなく、批判のためである。
ちなみに、私は山本弘の作品をひとつも読んだことが無い。そもそも、初期御三家以外の日本SFはひとつも読んだことが無いのだ。新井素子はエッセイの類だけは読んだ。冲方丁は時代小説「天地明察」だけは読んだが、SF作品は読んでいない。SFが嫌いというより、ひたすら面倒くさいのである。海外SFは大好きだが、サイバーパンク以降はまったく読んでいない。まあ、好きな人にはこたえられない面白さかもしれないが、私には古き良き時代のSFだけで十分だ。
下のエッセイのどこが批判対象か、ということだが、そもそも、タイトルと中味が正反対だ。筆者山本氏は「自分の正しさ」「科学の絶対的正しさ」を確信している。つまり、「私が正しい」と信じることはヤバい、と言うのなら、山本氏はそのヤバい人物の筆頭であるわけだ。
そして、山本氏は「中国が大嫌い」というように、好悪で物事を判断し、それを言明している。私は、こういう人間を信じない。狂信者によくいるタイプである。
彼のような人間に必要なのは、「何よりもまず自分自身を疑え」ということだろう。「自分ほど信じられないものがあるか」は、「GS美神」の横島忠夫の名言である。ソクラテスも、デルフォイ神殿の「汝自身を知れ」という銘文を生涯の課題としていた。
ちなみに、科学史はそのまま「古い間違いが新しい間違いに置き換わる」ことの連続である。「天動説」など、ほんの数百年前の話だ。人類史ではほんの少し前の出来事にすぎない。政治の歴史においては、すべてが陰謀の世界である。
これを転載したのは賛意を示すためではなく、批判のためである。
ちなみに、私は山本弘の作品をひとつも読んだことが無い。そもそも、初期御三家以外の日本SFはひとつも読んだことが無いのだ。新井素子はエッセイの類だけは読んだ。冲方丁は時代小説「天地明察」だけは読んだが、SF作品は読んでいない。SFが嫌いというより、ひたすら面倒くさいのである。海外SFは大好きだが、サイバーパンク以降はまったく読んでいない。まあ、好きな人にはこたえられない面白さかもしれないが、私には古き良き時代のSFだけで十分だ。
下のエッセイのどこが批判対象か、ということだが、そもそも、タイトルと中味が正反対だ。筆者山本氏は「自分の正しさ」「科学の絶対的正しさ」を確信している。つまり、「私が正しい」と信じることはヤバい、と言うのなら、山本氏はそのヤバい人物の筆頭であるわけだ。
そして、山本氏は「中国が大嫌い」というように、好悪で物事を判断し、それを言明している。私は、こういう人間を信じない。狂信者によくいるタイプである。
彼のような人間に必要なのは、「何よりもまず自分自身を疑え」ということだろう。「自分ほど信じられないものがあるか」は、「GS美神」の横島忠夫の名言である。ソクラテスも、デルフォイ神殿の「汝自身を知れ」という銘文を生涯の課題としていた。
ちなみに、科学史はそのまま「古い間違いが新しい間違いに置き換わる」ことの連続である。「天動説」など、ほんの数百年前の話だ。人類史ではほんの少し前の出来事にすぎない。政治の歴史においては、すべてが陰謀の世界である。
私は、最近のガンアクションがどれもこれも両手撃ち(「ブラックラグーン」除く)なのが気に食わないのだが、その方が命中率は上がる、というのは理解はできる。しかし、0・1秒を争う闘争の場面で、両手で構えるのは、片手撃ちに比べてはるかに速さが劣る、つまり大きく不利になるに決まっている。敵のいる場所にこっそり忍び込んで先制攻撃を加える「警察式」のガンアクションを、ギャング同士の闘争場面(敵味方入り乱れての闘争シーン)にまで使うのはいかがなものか。まして、西部劇にまで両手撃ちを使うようになれば、西部劇は終わりだろう。
プロフィール
HN:
冬山想南
性別:
非公開
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