高皇産靈尊(タカミムスビノミコト)は眞床追衾(マトコオフスマ=古代の掛け布団)を皇孫(スメミマ)の天津彦彦火瓊瓊杵尊(アマツヒコヒコホノニニギノミコト)に着せて、天から地上に降しました。
天津彦彦火瓊瓊杵尊(アマツヒコヒコホノニニギノミコト)は天盤座(アマノイワクラ)を後にすると、
天八重雲(アメノヤエクモ=幾重にも折り重なった雲)を押し分け、いくつもの別れ道を抜けて、日向の襲高千穗峯(ソノタカチホノタケ)に降り立ちました。
そこから天津彦彦火瓊瓊杵尊(アマツヒコヒコホノニニギノミコト)は槵日二上(クシヒノフタガミ)の天浮橋(アメノウキハシ)から立於浮渚在平處(ウキジマリタヒラニタタシ)に降り立ち、
膂宍空国(ソシシノムナクニ)を頓丘(ヒタオ)から良い国を探して通り抜けて、ついに
吾田(アダ)の長屋の笠狭(カササ)の岬に着きました。
息子ニニギを地上に
オシホミミの提案どおりにニニギが降る
サルタヒコが名乗る
ニニギ、筑紫の日向に降臨
ニニギの天孫降臨
カムアタツヒメとの出会い
古語拾遺の対応箇所
古語拾遺12 天祖の神勅
解説
なんで掛け布団を着せたのか?というと、ニニギがまだ子供だからです。
日向の襲高千穗峯
日向という名前は「日が当たる場所」という意味で、特定の土地を表わしているとは限りません。また高千穂嶺という名前も、「高い」「実りの多い」「山」という程度の意味で、固有名詞とは言いきれません。
槵日二上(クシヒノフタガミ)の天浮橋(アメノウキハシ)
槵日二上(クシヒノフタガミ)は頂点が二つあるという訳仕方をされますが、いまいち、よく分かりません。天浮橋(アメノウキハシ)は天の橋立のような中海に出来た中州ともされますが、ハッキリしません。
立於浮渚在平處(ウキジマリタヒラニタタシ)
海の浮島の平らな所のこと、とされます。
膂宍空国(ソシシノムナクニ)
膂宍(ソシシ)は背中の肉。背中の肉は食べるところが少ないので、痩せたという意味です。空国(ムナクニ)は同様に空っぽの国という意味です。ムナクニと読まずに「カラクニ」と読む場合もあります。現在の朝鮮半島を指しているとも言われています。
頓丘(ヒタオ)
中国の濮陽の近くに頓丘という都市がありました(現在は分からない)。これが頓丘(ヒタオ)なのかもしれませんが、漢字の成り立ち(頓丘でなだらかな丘とか凄い丘とか)から考えても中国の都市と考えるのは無理がある。
覓国(クニマギ)
クニマギは「良い土地を探して歩くこと」を指しています。ニニギが天から降り立ちながら、あちこちを探してあるいているということです。出雲はどうなったのやら。
吾田(アダ)の長屋の笠狭(カササ)の岬
鹿児島の西部に笠狭(カササ)の岬があり、ここだろうということになっています。
ということは最終的に鹿児島に降り立ったということになります。まぁ、本当に鹿児島の西部かはともかく、この後、九州南部出身の隼人族のコノハナサクヤヒメことカムアタツヒメが登場することを考えれば、ここがニニギが到着した土地で無かったとしても、九州南部にやってきたことは間違いないのです。
ということは出雲はどうなった?と考えるのが筋。物語の時系列としてはニニギが降り立つより出雲の国譲りは後の物語なんじゃないか?とも思います。
個人的コラム
ニニギの天孫降臨の記述から、ニニギは韓国人だ!と主張する人が中に居るらしい。夢はありますが、その前に考えないといけないことがあります。
日本人にとって神は海の向こうから来るもの。だから神武天皇は九州を出発し機内へ行き、神宮皇后は神武天皇と同様に瀬戸内海を通って機内に入っています。またエビス信仰、スクナヒコナ、大物主神と、海からやってくる信仰は幾らでもあります。
神は海の向こうから来るもの。海の向こうから来るといっても、近場の島からではありがたみが在りません。遠い場所から来た方が価値が上がります。神秘性が高まります。そこで、出来るだけ遠い場所から来たように設定します。
そして日本人にとって海の向こうの世界は、死の国でもあります。決して極楽や楽園という訳ではありません。
ただ、神話の中に史実が紛れ込んでいることはありますから、実際に中国の都市から朝鮮半島を通って来た可能性もありますよ。
(以下引用)
個人的コラム
日本書紀の物語の最大の疑問は、なぜ別伝を残したのか?です。そんなことをする必要はありません。日本書紀が外国向けに書かれた大和朝廷の正統性を主張する歴史書ならば、余計な別伝を残す必要は全くないのです。むしろ情勢が不安定であると証明するようなものではないでしょうか???
この六段一書(一)は六段本文と神の名前が違う程度でほとんど同じもの。なぜこれを残す必要があったのでしょうか???????
それは政治的敗者の鎮魂ではないか?
というのが私の意見です。
長い歴史の中で政治敗者が存在し、それは名前も無くなり記憶にも残りませんでした。その名残を伝えるのは唯一、神話だけ。神の名前だけです。かつて、その神を祀り、神と共に生きた氏族が居たのです。神の子孫として名前が日本書紀に挙げられている氏族は一部。名前だけでも残った氏族はその後没落したとしても、まだ幸運な氏族でした。
そんな消えていった氏族の魂を鎮魂する必要がありました。
なぜか??
祟るからです。
怨霊信仰の成立は平安からとされますが、そもそも日本人の神との接し方は「ご機嫌取り」です。機嫌を損ねて暴れないように供物をささげるのです。そのご機嫌取りが上手に出来る人のことが「神官」であり、そのトップが天皇だったのです。古代において神のご機嫌取りは何よりも重要なお仕事です。雨が降りすぎても困るし、日照りが続いても困る。丁度良くしてもらうためには、そういう儀式が必要です。
それは死んでいった「人間」でも同じでした。日本では人間も死後には霊体となり、人外の存在(=神)となります。彼らのご機嫌取りも大事な仕事でした。
その一つが日本書紀でした。別伝を残すことで鎮魂をする。それは天皇と大和朝廷に必要な国家プロジェクトだった……のではないか?と考えています。
つまり、神武東征が、後に大和王朝と呼ばれた王朝の西から東への移動の始まりで、崇神が、大和地方で大和朝廷を確立した、と思われる。当然、この朝廷は大陸あるいは朝鮮からの移入者が中心を占めていただろう。余所者だからこそ、各地に盤踞する原日本人を「征服」する必要があったのだ。それは、稲の栽培に適した場所を求めての東征でもあっただろう。この人々が、弥生人である。
私は、「騎馬民族」という言い方に疑問を持つのである。騎馬民族と言う以上は、モンゴル人のように日常生活のほとんどが騎馬と関係する、牧畜民族であるわけだが、日本にそのような牧畜が古代に行われた形跡があるだろうか。せいぜいが、「労働力」としての牛馬しか身近に無く、「騎馬する」という習慣も希だったと思う。だからこそ義経の騎馬戦法が革新的で有効だったわけだ。それは平安末期のことでしかない。
歴史的に「騎馬民族の渡来」とされるのは、弥生時代だろう。
つまり、大陸系(おそらく朝鮮系)の人々が日本に渡来し、大陸文化(稲作もそのひとつだろう)を伝え、その中心である一族が天皇家の元祖だろうが、それは「騎馬民族」だとは私は思わないのである。騎馬民族なら、馬の背中で育つ民族であり、馬がいれば必ず乗馬をし、それを遊びや戦の手段にしたはずだ。しかし、古代にはそういう形跡は無い。従って、天皇家の祖は、おそらく朝鮮半島での政争に敗れた王族だろう(白村江の戦いで、天智天皇が朝鮮の或る国の救援に大軍を出し敗れるが、なぜそこまで肩入れしたかというと、その国の王家が天皇家の祖だったからだろう。)。
なお、天皇家の祖が大陸からの渡来人であっても、天皇制という政治システムは日本の歴史そのものであり、一朝一夕に排除するのは、貴重な文化遺産と貴重な伝統と日本人の精神の一部の破壊だと私は思っている。逆に、天皇の存在を、政治という不安定な存在の「重石」とするシステムを構築することを考えるのが賢明だと思うわけだ。それは、もちろん天皇絶対主義という邪悪な思想、あるいはそのシステムとは対極的なものであるべきだ。
(以下引用)
江上波夫が、「騎馬民族征服王朝説」を発表したのは、戦後まもない1947年のことであった。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A8%8E%E9%A6%AC%E6%B0%91%E6%97%8F%E5%BE%81%E6%9C%8D%E7%8E%8B%E6%9C%9D%E8%AA%AC
東北ユーラシア系の騎馬民族が、南朝鮮を支配し、やがて弁韓を基地として日本列島に入り、4世紀後半から5世紀に、大和地方の在来の王朝を支配ないし、それと合作して征服王朝として大和朝廷を立てたという説。
東洋史学者の江上波夫が考古学的発掘の成果と『古事記』『日本書紀』などに見られる神話や伝承、さらに東アジア史の大勢、この3つを総合的に検証した考古学上の説である。
この学説は戦後の日本古代史学界に波紋を広げた。手塚治虫が『火の鳥 黎明編』でモチーフにし、一般の人々や一部のマスメディアなどで広く支持を集めたが、学会では多くの疑問も出された。
支持する専門家は少数派にとどまっているとされている。なお、この説の批判者は、騎馬民族による征服を考えなくても、騎馬文化の受容や倭国の文明化など社会的な変化は十分に説明可能であると主張している。
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江上説は、なぜ史学界に受け入れられていないのか?
日本国民に「天皇制絶対主義」の呪いをかけたのは、勝山平泉寺の神主を兼ねた東大史学部教授=平泉澄であった。
この男こそ、「天皇の万世一系神話=皇国史観」の生みの親である。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E6%B3%89%E6%BE%84
敗戦後、とはいっても、まだ戦後2年しか経ていない日本の史学界では、「天皇制絶対主義の呪われた洗脳工作」から脱して、自由な思考を回復した研究者など、ごく少数だった。
神武天皇はBC660年に天孫降臨したとし、日本皇紀は2680年現在であるとする稚拙な神話にすぎないのだが、江上=騎馬民族征服説が、もし戦前に公開されていたなら、瞬時に(たぶん数時間で)逮捕され、不敬罪で場合によっては獄中で、小林多喜二のように殺害されたかもしれなかった。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E6%AD%A6%E5%A4%A9%E7%9A%87%E5%8D%B3%E4%BD%8D%E7%B4%80%E5%85%83
まだ、大部分の学者の呪いは醒めていなかったので、「万世一系神話」に洗脳されて完全に凍結した歴史観のなかにいた多くの史学者にとって、江上説は許しがたい不敬であり、天皇制に対する誹謗、脅威に他ならなかった。
戦前では、ごく自然で合理性のある「天皇機関説」を発表した美濃部達吉でさえ、とんでもない弾圧を受けて追放されたのだ。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E7%9A%87%E6%A9%9F%E9%96%A2%E8%AA%AC%E4%BA%8B%E4%BB%B6
戦後、75年も経て、さすがに学者たちは、天皇制への信仰も醒めて、現実の歴史学に立ち返ることができているかというと、とんでもない!
日本の天皇制は、戦前と変わらないほど強固に、人々の、現実的根拠から大きく乖離した洗脳妄想のなかに棲んでいる。
学者たちの多くも、万世一系神話に未だに拘泥している者が多く、すでに100年近い、歴史によって合理性が証明されている、天皇家、騎馬民族由来説を、いまだに、どうしても認められない者が多いのだ。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E6%AD%A6%E5%A4%A9%E7%9A%87%E5%8D%B3%E4%BD%8D%E7%B4%80%E5%85%83
今、ユーチューブを開けると、歴史学者の大半が、右翼系の国粋主義を信奉している連中ばかりで、たとえばチャンネル桜の、武田邦彦や櫻井よしこらが、なぜか優先的に表示され、歴史を学ぼうとしても、皇国史観系の学者による解説動画しか表示されない。
https://www.youtube.com/watch?v=usEPYPBe_D4&list=PLG1SNOv6LToRvnVkpE5KDJ_esHW4ex4pS
右翼系学者も、DNA解析を持ち出してはいるが、詳しく調べると、勝手な決めつけばかりで、厳格な学問的根拠とは、とてもいえないで、何でもいいから皇国史観を守りたいという陳腐な発想しか見えない。
私は、日本人の源流として、
①先住民 原人(滅亡したが、「狒々伝説」などに現れるので江戸時代までいた)
②先住民 縄文人(アイヌ含む)
③呉(蘇州)由来の弥生人
④朝鮮半島由来の騎馬民族
⑤その他、オロチョンなど
を認めている。しかも、それは、戦前あたりまで、混血が非常に少ない状態で、数千年前の形質をそのまま残した状態で、日本列島に分布していると考えた。
戦後は急速に混血が進み、それぞれの民族的形質は大きく失われているが、私は、日本列島の地方、山奥を旅しながら、その民族的特性、痕跡を発見することを趣味としてきた。
例えば、四国や遠州の山岳居住民たちの文化伝統が、雲南ヒマラヤの高地族に酷似していることや、私の住む、中津川を通る東山道(中山道)沿いに騎馬民族が分布していることなどを発見してきた。
いわゆる「源平藤橘」武家階級こそ、騎馬民族を受け継ぐ人々であった。
アマテラスオオミカミが恵那山で誕生したのだが、このとき、実はイザナギ・イザナミが東山道を旅する途中だったことから、アマテラスは神話時代ではなく、東山道の普遍化した古代の人だったのだと理解した。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%81%B5%E9%82%A3%E7%A5%9E%E7%A4%BE
最近、私が、日本の民族的混血の歴史を調べていたら、以下のウィキを見つけた。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%BC%E3%83%95_(%E6%B7%B7%E8%A1%80)
ここには、なんと朝鮮系騎馬民族の記述が皆無であることに驚かされた。
つまり、この記述を行っている者も、なんとかして、天皇の騎馬民族由来説を否定したい意図が見え隠れしている。
日本人の混血を語る上で、朝鮮半島経由の騎馬民族、元をただせば、満州女真族に行き着き、さらに始皇帝の秦国に行き着き、さらに弓月国に行き着くことを示さなければ、学問的に何一つ価値がない。
蘇州(呉国)由来の弥生人にしても、呉越戦争の敗者であった呉国民が、「敗戦国民皆殺し」を免れるため、船を総動員して、海上を移動し、朝鮮南岸や、九州有明海などに上陸したことが学問的に確立すると、皇国史観の始祖である神武が、中国由来ということになってしまうので、これも決して文章化されないのだ。
だが、中国の史学界では、神武天皇が呉国由来であることは、すでに常識である。
http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-925.html
http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-1006.html
イエズス会ジョアン・ロドリゲスの『日本教会史』は、神武天皇は「呉の太伯」の2番目の弟である季歴の第6代の子孫であるとしている。
鹿児島神宮(大隅国隅正八幡)には、全国の神社で唯一、太伯が祭られている。『新撰姓氏録』では、松野連は呉王夫差の後とある。
日本国内史でも、神武天皇が呉からの逃亡民であることは常識として語られている。
だが、平泉皇国史観では、あくまでも「天孫降臨」であり、呉越戦争に敗北した民族の子孫などという史実は絶対に許されない。生々しい戦争避難民が日本開祖だったなら、天皇制の権威に傷がつくとでも思っているのだろう。
ましてや三世紀あたりに、日本文化に突如、騎馬民族文化が持ち込まれ、古墳の様式まで変えられてしまって、AD700年代、百済武寧王の娘(高野新笠)の子が桓武天皇だと、明仁天皇までが発言した。
https://www.kunaicho.go.jp/okotoba/01/kaiken/kaiken-h13e.html
これを見て、多くの皇国史観系史学者がぶったまげた。天皇自らが、天孫降臨の子孫などではなく、実は、朝鮮系の末裔だったことを明らかにしたのだ。
これなど、明人氏が、平泉皇国史観のあまりの虚構、性懲りのない嘘八百に嫌気がさして、自分の口から真実を暴露したものであり、天皇家が朝鮮半島由来の騎馬民族である歴史的事実を公言したのである。
これは、明仁天皇が、事実上、江上波夫=騎馬民族征服王朝説をそのまま容認したのに等しいのであって、自分たちが日本先住民の子孫ではないと主張したのである。
これで万世一系皇国史観は完全に崩壊し、根拠を失ったわけだ。
それなのに、相変わらず、江上説が虚構であるかのような論調が史学界で主流になっていて、あらゆる歴史観から、蘇州由来弥生人説と、朝鮮由来騎馬民族説は、事実上、無視され排除されているといってよい。
これは、学問的な必然であろうはずがない。日本国家を戦前のような強固な天皇専制史観に押し込めたい右翼的な潮流による、政治的な操作なのである。
おそらく、「日本会議」あたりが、半世紀も前から、再び日本国民に皇国史観を洗脳しようと画策し、江上説を意図的に追放しているのだ。
明人氏は、民主主義の洗礼を強く受けていて、天皇制から、できるかぎり虚構性を排除したいと願って儀式や形式を最小限に抑制し、ジャンパーを羽織って、災害避難民の元に駆けつけ、避難者と同じ目線で語り合うといった人間性だったので、皇国史観のあからさまな嘘に耐えられず、自らの口で真実の歴史を述べたのだ。
安倍晋三の背後には、皇国史観を利用して、独裁政治を行いたい連中が集まっている。
日本会議のメンバーを見れば、彼らが、いったいどんな国家を目指そうとしているのか一目瞭然だ。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%BC%9A%E8%AD%B0
基本的な思想は、生長の家創始者=谷口雅春や岸信介によるものである。
結局、彼らの基本的な思想は、天皇制を神格化し、「神の権威」を利用するものである。だから、天皇家が朝鮮や満州からやってきたなんてことがバレれば、無条件に神格的権威にひれ伏す人々が、真実に目覚めてしまうと心配しているわけだ。
しかし、いつまでも虚構を押し通し、嘘をつけ続けられるわけではない。
今では、もはや天皇家の足取りは、相当に詳しく解析され、清国・秦国・弓月国との関わりから、古代ユダヤとの関係にまで論議が進んでいる。
真実を隠し通すことなど、絶対にできないのであり、「日本のなかの女真族」も、これから真正面に取り上げられることになるだろう。
https://plaza.rakuten.co.jp/bluestone998/diary/201906170000/
どのあたりを話の舞台および時期にするか。
また、日本人(明治政府樹立により日本を脱出した武士)を出すかどうか。
(以下引用)
北西部の新疆(現・新疆ウイグル自治区)では、ヤクブ・ベクが清朝領内に自治権を持つ領主を蜂起させ新疆へ侵攻、同地を占領した(ヤクブ・ベクの乱)。ロシアも1871年、新疆に派兵しイリ地方を占領した。漢人官僚の陝甘総督左宗棠により、ヤクブ・ベクの乱は鎮圧され、最終的に曽国藩の息子である曽紀沢の手によって、1881年にはロシアとの間で不平等条約のイリ条約を締結した。イリ界約に基づき、イリ地方のうちコルガス川以西はロシアが併合しセミレーチエ州に編入した。カシュガル条約でパミール高原より西をロシアに割譲し(外西北)、現在の中国と中央アジア諸国との国境線が形成されていった。これに対し、清は1884年新疆省を設置すると伴に旗人のイリ将軍らの施政権を削り、陝甘総督甘粛新疆巡撫が軍事行政を管轄する事となり内地化された。ロシアは1892年にパミール高原に侵攻しサリコル山以西を条約無しで併合している。
1854年、冊封国暹羅(シャム)が朝貢を廃止すると共に不平等条約のボーリング条約を結んだ。1872年、日本の琉球処分により清と薩摩藩の両者に朝貢していた琉球は、日本に合併された。1884年、インドシナ半島の植民地化を進めるフランスに対抗し、対越南(ベトナム)宗主権を維持しようとして清仏戦争( - 1885年)が起きたが、清仏天津条約によって冊封国越南はフランスの植民地となった。1886年、緬甸(ビルマ)は3度目のイギリス軍の侵略を被り滅亡した。清への臣従を拒む勢力が擡頭した朝鮮に対しては、宗主国としての内政権を揮い壬午事変(1882年)、甲申政変(1884年)を鎮圧したが、1894年に日本が起こした甲午改革では、鎮圧を企図したものの日清戦争( - 1895年)で敗北し、下関条約によって遼東半島および福建台湾省の割譲と朝鮮が自主国であることを承認させられ、建国以来維持していた李氏朝鮮に対する広範な支配権も失った(ただし朝鮮・大韓帝国における清領租界は日韓併合後も清国が確保している)。
「眠れる獅子」と言われた清が日本にあえなく敗北する様子を見た欧州列強は、日本が課した巨額の賠償金支払債務に目をつけた。まずフランス共和国、ドイツ帝国、ロシア帝国はいわゆる「三国干渉」を通じて日本に遼東半島返還を迫るとともに代償として賠償金の大幅な増額を薦めた。この事による清の財政悪化に乗じて欧州列強諸国が対日賠償金への借款供与を申し出て見返りとして租借地などの権益の縄張りを認めさせていったのが、1896年から1899年にかけての勢力分割(いわゆる「瓜分」)であった。満洲からモンゴルをロシア、長江流域をイギリス、山東省をドイツ、広東省・広西省をフランスが勢力圏とした。同じく、イギリスは九龍半島(香港総督管轄)と威海衛、フランスが広州湾、ドイツが青島(膠州湾租借地)、ロシアが旅順と大連(ダーリニー)(関東州、極東総督管轄)を租借地として、それぞれ海軍基地を築いて東アジアの拠点とした。しかもロシアは賄賂をもちい露清密約で東清鉄道附属地を手に入れた。アメリカは南北戦争による国内の混乱から出遅れたため、中国市場は全ての国に平等に開かれるべきだとして、門戸開放宣言を発しつつ国際共同租界設置に参加した。
李鴻章と左宗棠の海防・塞防論争を契機として、技術面だけの洋務運動に限界が見えてくると、政治面についても議論が活発になり、康有為・梁啓超ら若い知識人が、清も立憲君主制をとり国政の本格的な近代化を目指す変法自強運動を唱え始めた。彼ら変法派は光緒帝と結んで1898年一時的に政権を奪取した(戊戌の変法)が、西太后率いる保守派のクーデターに遭って失脚・幽閉された(戊戌の政変)。その後、西太后は愛新覚羅溥儁(保慶帝)を皇帝として擁立するも、保慶帝の父が義和団の指導者であるため強い反発を受け、3日で廃された。
1899年、外国軍の侵略や治外法権を持ち横暴の目立つキリスト教会・教徒の排撃を掲げる義和団が蜂起し、「扶清滅洋」をスローガンに掲げて外国人を攻撃したが、次第に略奪を行う暴徒と化した。翌1900年西太后はこれに乗せられて列強に宣戦布告したが、八カ国連合軍に北京を占領され、外国軍隊の北京駐留を認める北京議定書を結ばされ清の半植民地化は更に進んだ。
その後、西太后の死亡によって清朝政府は漸く近代化改革に踏み切り、1905年に科挙を廃止、六部を解体再編し、1908年欽定憲法大綱を公布して憲法発布・議院開設を約束し、1911年5月には軍機処を廃止して内閣を置いた。しかし、慶親王内閣が「皇族内閣」と批判されて、清朝は求心力を取り戻せず、漢民族の孫文らの革命勢力が中国などにおいて次第に清朝打倒運動を広げた。10月、漢民族による武昌での武装蜂起をきっかけに中国で辛亥革命が起こった。モンゴルにおいても、12月に外藩蒙古の中から独立運動がおこった(モンゴル国)。ここに清は完全な内部崩壊を迎えた(但し満洲とチベットでは蜂起が起こっていない)。
翌1912年1月1日、中国の南京で中華民国が樹立された。清朝最後の皇帝、宣統帝(溥儀)は2月12日、正式に退位し、ここに清は276年の歴史に幕を閉じ、完全に滅亡した。