(1)神武軍の「威に恐れて」相手が戦わずして降伏した。
(2)交渉によって平和裏に友好関係が作られた。
(3)何かの代償(おそらく文化的贈答品や技術伝承)によって友好関係を作った。
(4)相手側が最初から神武軍を敵と見なさなかった。あるいは上位存在と見た。
などが考えられ、(4)はたとえば第二次大戦後の米軍兵士たちを日本人が敵と見なかったことに似ているのではないか。つまり、支配者が何者かを敵と認定し、敵対心を鼓舞しなければ、日本人はその何者かを敵と考える性質は無かった、ということだと思う。その温和さ、平和を好む性質は現在でも同じだろう。闘争性が日本人に生まれるのは「財産の蓄積」が生じて後のことであり、奪われる「財産」など無い狩猟漁労生活では、他の部族を敵と認定する必要は無いからだ。(財産蓄積が可能な)稲作文化が始まっても、闘争などする意義はほとんどなかっただろう。「敵」を皆殺しにして稲を奪っても、単に短期間の利益でしかなく、長期的には労働者がいなくなり、自分たちが困窮するだけである。稲は労働者とセットでの財産なのだ。別の言い方をすれば、労働者こそが真に貴重な財産なのだ。
そして、近畿に至って激しい戦争が発生するのは、そこに既に「王国」が存在し、その支配者はおそらく国と国が争う経験を重ねてきた朝鮮半島の出自だっただろうと推測する。たぶん、北九州経由の大陸朝鮮系部族の大和朝廷とは別に、日本海から北陸経由で近畿に入った大陸朝鮮系部族だろう。だから、神武伝の中でその首長は「自分たちも天孫である」と言っていて、神武もそれを認める発言をしている。
全体は五部構成で、
1)「神武東征記(神武戦記)」~伯済国滅亡(ゼロの章、あるいはプロローグ)から神武東征まで。
*正義や道徳は問わず、古代史を冷徹に描く。これは以下の章(部)も同様。
2)「ヤマトタケル戦記」~ヤマトタケルの物語を中心に、大和朝廷の覇権拡大を描く。
3)「神仏の戦い」~仏教伝来の闘争を描く。
*支配手段としての仏教を描く。神仏不在の「神」と「佛」の戦い。
4)「望郷戦記」~大化の改新と白村江の戦い
5)「継ぐのは誰か」~壬申の乱から継体天皇まで(記紀の誕生含む)
古代を描く「時代小説」のネックである、「人名」と「言葉遣い」の「常識」を完全に無視して、人名は簡略化、あるいは記号(符号)化し、話し方は現代人とまったく同一、つまりカタカナ語や外来語や現代の数字や単位を用いる。それによって、「大事なのは語られた表面ではなく、中味である」ことを強調する。つまり、日本史は原日本人が侵略者に敗北を重ねた歴史である、という事実を明確にする。そして、正義などどちらにもない、という視点を示す。道徳(儒教)も宗教(仏教)も政治の手段である、ということを示す。ただし、それらは道徳や宗教が無意義だということではなく、善悪どちらにも使える恐ろしい道具だ、ということである。これは世界史にも拡張できるし、現代社会もまた同じである。
全体の名称は未定だが、グローバル(まあ、アジア東部だけだが)な視点から見た古代史である、というのを感じさせたい。あるいは、「大和朝廷秘史」的な印象でもいいが、「トンデモ歴史小説」の印象は避けたい。「仁義なき古代史」というのを、今思い付いた。ふざけた名前だが、内容には合っている。古代史はヤクザ戦争と同じだ、ということだ。つまり、すべて利を争っての戦いにすぎない。
情景描写も基本的には不要だし、書く能力も無いので、小説ではなく脚本形式にするのがいいかもしれない。
集落に城郭を作らないという都市形態も日本文化に引き継がれている。馬韓人と辰韓人は言語が異なっていたというのも興味深い。辰韓人と馬韓人は別民族(おそらく辰韓人は北方遊牧民族の子孫で馬韓人は海洋民族の子孫)だったのではないか。ただ、海洋民族とは言っても、馬韓定住後は農業が重要産業だったわけだ。古事記の中には海洋民族的寓話が多く、たとえば「海幸彦山幸彦」の兄弟げんかは、辰韓と馬韓の仲の悪さの寓話かもしれない。
馬韓(ばかん)は、紀元前2世紀末から4世紀中葉に、朝鮮半島南部に存在した部族集団である三韓の一つ。帯方郡の南、黄海に接し、東方は辰韓(後の新羅)、南方は倭に接していた。後の百済と重なる場所にあった地域である。
馬韓人は定住民であり、穀物を植え、養蚕を行っていた。それぞれの馬韓諸国には首長がおり、大きな首長を臣智(しんち)[2]と言い、それに次ぐものを邑借(ゆうしゃく)と呼んだ。。
集落に城郭は無く、五十余国が存在した。通説では、その内の伯済国がのちに百済になったと考えられている。
『後漢書』辰韓伝、『三国志』魏書辰韓伝によると、秦の始皇帝の労役から逃亡してきた秦の遺民がおり、馬韓人はその東の地を割いて、彼らに与え住まわせたという。また、『三国志』魏書弁辰伝によると、馬韓人と辰韓人は言語が異なっていたという。
朝鮮人(これは蔑称ではなく、南北朝鮮全体の人民を指す)が日本に対し傲慢であるのは、古代史から見て、日本は朝鮮の「植民地」であったという考えが妥当だという暗黙の了解があるからだろう。それが日韓併合によって逆に日本の植民地にされたのだから、その屈辱は倍化されるわけである。
あるいは、箕氏朝鮮の最後の王である準王に攻め滅ぼされた馬韓の王族が日本の皇室の祖である、とするのがもっと合理的か。その方が、大和朝廷の「朝鮮半島の政治情勢への異常な関心と関与」も、故郷へのノスタルジーとして理解できる。
(以下引用)
『史記』によれば、始祖の箕子(胥余)は、中国の殷王朝28代文丁の子で、太師となるに及び、甥の帝辛(紂王)の暴政を諌めた賢人であった。殷の滅亡後、周の武王は箕子を崇めて家臣とせず、朝鮮に封じた。朝鮮侯箕子は殷の遺民を率いて東方へ赴き、礼儀や農事・養蚕・機織の技術を広め、また犯禁八条を実施して民を教化したので、理想的な社会が保たれたという。
建国後の動向はほとんど伝わらない。『魏略』の逸文によると、箕子の子孫は朝鮮侯を世襲したが、東周が衰退すると王を僭称するようになり、周王朝を尊んで燕を攻撃しようとした。しかし大夫礼[5]が朝鮮王を諌めたので、王は攻撃を中止して、逆に燕に礼(人名)を派遣したので燕は朝鮮を攻めるようなことはなかった。
以降からその子孫は驕慢になり、燕の将軍秦開に攻めこまれ二千里の領土を奪われ[6]、満潘汗[7]を国境に定めた。そのため朝鮮はついに弱体化した。秦が天下を統一すると、その勢力は遼東にまで及び、これを恐れた朝鮮王否は秦に服属した(紀元前214年)。その子の準王(箕準)の代になると、秦の動乱により燕・斉・趙から朝鮮へ逃亡する民が増加したため、王は彼らを西方に居住させたという。ところが紀元前195年、前漢の劉邦配下である燕王盧綰の部将であった衛満が箕子朝鮮に亡命して来た。衛満は準王の信任を得て辺境の守備を担当するも、翌年に逃亡民勢力を率いて王倹城を攻落し王権を簒奪して、衛氏朝鮮を興した。ここに40余世続く箕子朝鮮は滅びたとされる。
『後漢書』には「初、朝鮮王準為衛滿所破、乃將其餘衆數千人走入海、攻馬韓、破之、自立為韓王(はじめ、朝鮮王準が衛満に敗れ、数千人の残党を連れて海に入り、馬韓を攻めて、これを撃ち破り、韓王として自立した)」と記されており、衛満に敗れた準王は数千人を率いて逃亡し、馬韓を攻めて韓王となった。
矢木毅によると、箕子が朝鮮において、人民教化したことは、『漢書』巻二十八下、地理志下、燕に、
殷道の衰うるや、箕子去りて朝鮮に之き、その民に教うるに禮義・田作・織作を以てす。…貴ぶべきかな、仁賢の化するや。 -『漢書』巻二十八下、地理志下、燕
とあり、楽浪郡支配下の朝鮮人に箕子の人民教化による公序良俗が残存していることを伝えており、楽浪郡支配下の朝鮮の豪族たちが、自らのルーツを箕子による人民教化に結びつけ、周辺民族よりも文明人であると自負しており、この白負は、楽浪郡滅亡後、漢人の支配から解き放たれた朝鮮の豪族たちが、高句麗の支配下で、三韓の支配下で、高句麗や三韓の豪族たちに継承され、後の新羅による三韓統一により、箕子朝鮮は三韓全体のルーツとして位置づけられることになったという[8]。
王統[編集]
このような箕子朝鮮の伝説は史実か否かとは別に、儒教が隆盛した高麗以降の貴族や知識人によって熱烈に支持され、箕子は朝鮮族の始祖として顕彰されるとともに、箕子宮・箕子陵・箕子井田などの古跡が盛んに造作された。李氏朝鮮後期に族譜の作成が盛んになると、韓氏によって王統が創作され、その内容は『盎葉記』(李徳懋)や『清州韓氏族譜』などに見える。
各国の見解[編集]
箕子にはそれなりの歴史的背景が考えられる[9]。中国古代の殷・周金属文化圏では、紀元前10世紀以後、山東の斉の箕族が、殷・周の権威のもとで、朝鮮西部に接する遼寧で活動していた[9]。燕・斉人の東来は、古くから存在した[9]。北京市順義県、河北省東部、遼西大凌河で其や箕侯という銘の西周初の箕子の時代の青銅器が多数発掘され、箕子と関係づけてとらえる意見がある[10]。『魏略』は「(箕準一族の)子と親族でそのまま朝鮮に留まった者は、みだりに韓姓を称している」と記している。箕子の後裔の箕準一族を名乗り、韓姓を称した者が存在したが、楽浪郡以後、王姓の次に圧倒的な勢力は韓姓だった[9]。現在の韓国の学界では後世の創作として否定しているが、中国の学界では実在したと考えられており、真っ向から対立する。日本の学界では意見が割れており、史料にあらわれる記録は実在の要素と架空の要素が入り混じっているとする説と、周時代(前11世紀)頃から朝鮮半島西北部に中国人が一定の集団をなして定住したと思われる周様式に酷似した出土物の顕著な増加を認め大筋に於いて信憑性を認めようとする説とがある。日本の学界は架空性を重視する者でも韓国史学界のような全くの創造とは見倣さず、中国からの移民集団の存在を認める点では日本の学界は中国に近い。
天孫族
天孫族(てんそんぞく)は、日本神話において降臨しヤマト王権をつくったとする古代勢力の総称。また「新撰姓氏録」では天照大神などの子孫を神別の「天孫」としている。
系統と分布[編集]
天孫族は古代中国の殷・周・秦・羌族などの東夷系種族に通じる種族とする説がある。また箕子朝鮮の王族ないし扶余王族、高句麗や百済・新羅、あるいは渤海を建国した部族と同族の流れを汲むとされる。なお北狄ともかなりの混血があったためか、習俗で似通ったものがあるとされる[1]。
東夷系種族説[編集]
中国東北地方の遼西地方周辺を原住地とし、朝鮮半島を経由して南部の弁辰を根拠地として、紀元1世紀前半頃に日本列島に到来した種族とされる。北九州の松浦半島に上陸した後は、松浦川に沿って奥地に溯り、天山南方の佐賀平野を西から東に進んで、筑後川の中・下流域、水縄山地(身納山脈)、特に高良山の北麓から西麓の辺り、筑後国の御井郡・山本郡を中心とする地域に定着したとされる。この種族は鉄器文化や鳥トーテミズムを持ち、支石墓や後期の朝鮮式無文土器にも関係したとみられる。また、これが『魏志倭人伝』に見える邪馬台国の前身たる部族国家(高天原)で、このような原始国家を2世紀初頭前後頃から形成し、2世紀後半には分岐国家の伊都国から神武天皇兄弟を輩出した[2]。神武天皇の子孫は大和朝廷の基礎を作り上げ、残った一族は3世紀前半の魏朝の時代に最盛期をむかえ、女王卑弥呼などを輩出したが、4世紀代に古墳文化を所持し、強大な勢力となった景行天皇や神功皇后による九州地方の平定によって滅んだものとされる[3][4]。
特徴[編集]
鉄鍛冶・製塩や土器・銅鏡・玉・銅剣・鉄剣・弓矢・衣類の製作を行った種族。熊、猪、鳥(とくに白鳥・鷹・鷲)といったトーテムがあり、太陽信仰、巨石・石神信仰、製鉄・風神信仰、温泉神、医薬神、妙見信仰を持つ。関係が深い植物には粟・麻があり、五十猛神(須佐之男命、八幡神、熊野大神、角凝魂命)・高御産巣日神・天照大御神(天活玉神(伊久魂神))・天津彦根命(天若日子)・天目一箇命(天太玉命、天津麻羅、経津主神)・天日鷲神(陶津耳命、少名毘古那神)などを祖神として奉斎する他、母系神として豊宇気毘売神(菊理姫神、宇迦之御魂神、保食神)も祀る[5][6][7][8]。
記紀における天孫族[編集]
記紀によると国譲りの後、高天原より葦原中国平定のため日向に降臨し、中国地方を経て近畿地方まで東征し西日本各地の豪族を従え大王(天皇)を中心とするヤマト王権(倭国)を樹立させ、中部・関東地方まで勢力を拡大させ、のちの日本へと発展していったとしている。
新撰姓氏録における天孫族[編集]
「新撰姓氏録」神別では、天照大神の子孫とみなされる神々、天穂日命、天津彦根命、天火明命、火闌降命、天佐鬼利命の子孫を『天孫』と定義している。
皇室、出雲氏、三上氏、物部氏、尾張氏、山背国造、広峯氏、土師氏、隼人などはその子孫にあたるとしている。しかし尾張氏の系図は系譜仮冒であり、またその祭祀形態から海神族、隼人は習俗から山祇族ともされる。