忍者ブログ
[122]  [123]  [124]  [125]  [126]  [127]  [128]  [129]  [130]  [131]  [132
思想というより、考察のヒントとして面白い。
確かに、遊牧民族はリーダーシップというものを非常に重んじる。その最大の例証が、部族の長を決めるのに、血統主義を用いないことだ。部族の中で最も優秀な人間が長になる。それでなければ、野獣との闘争や他部族との闘争に勝ち抜き、部族を存続させられないからだろう。のちに元が当時の文明世界のほとんど制覇したのは、まさにその「闘争能力」の卓越によると思う。だが、いったん築いた帝国を維持する能力には乏しかった。そもそも、制覇した土地の住民は定住民族であり、その支配システムが遊牧民族には無かったのだ。その反省が清朝にはあったのだろう。
民族的精神としてのリーダーへの強い信任というのが、ソ連におけるスターリン(共産党)の独裁政治を招いたというのは興味深い考えだと思う。つまり、ソ連人は、遊牧民族の末裔でもある(あった)、ということか。


(以下引用)

世に倦む日日 @yoniumuhibi

私の個人的な見解だけれど、一党独裁の共産党支配のシステムには、(マルクス以上に)レーニンの思想の影響が色濃くて、ロシア人の本来的な社会的感性が強く反映されている。その歴史的な起源と由来はモンゴル人の遊牧集団のリーダーシップと社会システムだ。司馬遼太郎がヒントになる話をしていたが。
 

PR
佐藤さとるのファンタジー論だが、私もこれに近い考えだ。だが、これはファンタジーに限定せず、普通の小説にも童話にも漫画にも言えることだろう。つまり、読み手の脳内に「もうひとつの現実」を作るのが、フィクションの本質だ。
私と同じ考えだ、というのは、たとえばSFなどでも、描写のリアリティが無いと読者にはその「世界像」は伝わらないし、興味や感動を生むこともない、ということだ。ただし、そのリアリティは「疑似リアリティ」である。細部の描写ひとつでフィクションの「観客(受容者)」は、その世界と一体化する。
たとえば、アラン・ドロンの「お嬢さんお手やわらかに」の中で、主人公のハンサムなプレイボーイ(男の敵! www)が、部屋でひとりで勉強をするシーンひとつで、観客の男性の多くは「自分と同じだ」と彼に感情移入をする。そうした細部の描写が作品に生命を吹き込むのである。

(以下「竹熊健太郎」のツィッターから転載)

見えないもうひとつの現実(じつは非現実)をも、やすやすと創りあげる能力を備えているのである。」 そして佐藤は、「ファンタジーとは本来あり得ないことを、あり得るかのように書いてみせる芸だ」と言います。そのために必要なものは「リアリズム」なのだと。
ニーチェの「深淵を見つめる者は深淵からも見つめ返されるのだ」という言葉は有名だが、その言葉を言ったニーチェ自身が発狂したことは、その言葉の正しさを見事に証明している。もちろん、その直接の原因が梅毒だったにしても、梅毒患者がみなニーチェのように深淵を見つめていたわけではない。逆は必ずしも真ならず、である。
で、ここで論じるのは、「笑い」というのは、人が思っている以上に危険な「深淵」なのではないか、ということだ。
漫画家の中で、ギャグ漫画家の作家生命が非常に短いことを知っている人は多いと思うが、それがなぜかを論じた人はいないだろう。
そこで、私があっさり言えば、笑いとは深淵だから、ということだ。奥深く、得体の知れない存在を見つめ続けるうちに精神の変調を来すのである。
なぜ笑いが深淵かと言えば、人はなぜ笑うのか、と問うのが早いだろう。何かを見て笑うのはなぜか。それが異常だからである。その異常を見つめ続け、異常を自分で作り出すことが「笑いの創作家」の仕事なのだ。つまり、正視するに堪えないものを正視し続けること。これがどれほど精神的にきつい作業か、想像のつかない人が多いかと思う。しかし、古来のユーモリストの多くは日常生活では陰鬱な人間で、発狂した人間も多いのだ。
スイフトは別に笑いを見つめ続けた人間ではないが、そのユーモア感覚の鋭さは誰でも知っている。つまり、異常を見る目が鋭かったのである。だから彼は発狂したのではないだろうか。
思考テーマとしてメモだけしておく。筒井康隆が昔、小説に刺激(面白さ)だけを求める層に「感動乞食」とか「何とか乞食」と言っていたのがヒントになる。

「消耗品としての『感動』」


(追記)「感動を作り出すメソッド」というのを考えてみようと思うのだが、その前に、「泣かせるのは簡単だが笑わせるのは難しい」という、脚本家や映画界の定説(私もそう思う)について言えば、人は、「自分が見ている物に同化する」性質があり、悲しんでいる人を見ると自分も悲しくなる。そして、身近な人の死や愛するペットの死は人を容易に泣かせるのである。つまり、「泣かせるには作中の『愛すべき存在』を殺せばいい」わけで、これをゆうきまさみが漫画で「タッチメソッド」と冗談で言っていたが、実は漫画の神様手塚治虫がその事をかなり昔に言っている。つまり、「読者が、死ぬと思っていなかった人物を殺す」ことで泣かせるというテクニックである。まさに、「読者が、死ぬと思っていなかった重要人物を作品序盤で殺す」のはタッチメソッドであり、それは手塚メソッドの派生である。
しかし、これは「泣かせる」テクニックであり、また、泣かせる方法はこれだけではないが、「感動」というのは別にたいしたものではなく、人は状況が揃えば容易に感動する、つまり心を動かされるものだ、とは言えるかと思う。
人や動物の死という、安易な感動より少し「上級感動」を言えば、その代表は「自己犠牲」だろう。人は、自分ならとてもできないような自己犠牲を行って誰かを救うという行為に激しく感動するものだ。特攻隊を美化する話もその一種だろう。つまり、あのキチガイ行為を「国や愛する人を救うための自己犠牲だ」と飾ることで感動をさせる、いわゆる感動ポルノである。
まあ、フィクションにおける感動はすべて感動ポルノだと言えないこともないから、「感動ポルノ」は便利な言葉だが、技巧論としては無視するべきだろう。



「ドラゴンクエストユアストーリー」の大失敗は、この「思い込み」にあったと思う。
自分が「これで行ける」と思い込んだ時が、失敗の境目だということだ。
第二次大戦での軍部の無数の失敗もそれだろう。
身近に強い「批判者」がいないことが失敗の原因になる。

(以下引用)


 山崎貴総監督は、「国民的ゲームであり、ユーザーの多いビッグヒット作。ゲームの代表の一つで、誰でも知っている大きな存在」と「ドラクエ」に対する印象を語る。3DCGで劇場版アニメ化する話を聞いたとき、はじめは「ゲームと映画は相性が良くない」と即答で断ったという。「ゲームは体感時間が長くてインタラクティブだけど、映画は一方通行だし尺が限られている。ゲームの映画化でうまくいった試しがないでしょう、と言いました」と打ち明ける。

 加えて、大人気ゲームが原案ゆえのプレッシャーもあった。また、「なによりCG映画はすごく時間がかかる。2~3年は何人かの人生を削らないと作れないんです。果たしてそれでいいのか自問自答しました。そもそも、ゲームの映画化に懐疑的な自分がいて、そこにたくさんの人たちが関わる。そんな中で映画化に舵(かじ)を切っていいのか、悩みました。作らなければならない物量がすごく多い作品なので、スタッフはかなり疲弊します。関わる人たちの数年間を背負うだけの作品を作れるか分からなかったので、怖いな、とも思いました」と葛藤を明かす。

 だが、劇場版アニメの成否をも左右するような、ラストシーンのあるアイデアを「思いついてしまった」と山崎総監督。そこで初めて「映画にする意味」も見えたといい、「同時に、キャラクターの開発を始めました。で、作るならどういう世界観かと試しているうちに、だんだん情が湧いてきてしまい(笑い)、『これならやれるかもしれない、いや、やりたい』となった」と経緯を語る。

<<< 前のページ 次のページ >>>
プロフィール
HN:
冬山想南
性別:
非公開
P R
忍者ブログ [PR]

photo byAnghel. 
◎ Template by hanamaru.