キャラ案(主役級)最後の戦闘で五人は死ぬ。生き残るのは誰と誰か。
井出佐之助(主人公)*名前は後で変更するかもしれない。
中村吉之丞(元役者、女形)
矢倉新吉(軍師格の知恵者)*明智光秀の末裔? 佐之助の幼なじみで親友。
村雨霧之進(ニヒルな剣士)*吉之丞とお春に好かれている。
くのいちお春(体育会系美少女)
大河原大吾(豪快な剣豪、巨漢)*「自好流」と称する。酒好き。能天気。
風魔小平(忍者)*お春の兄(弟?)*「小平」とだけ名乗っている。
プロット(脚本ならだいたい、90分の予定)
1) 黒船襲撃の船上。7人の会話。
2)佐之助の過去。神主である父親から、「国家」について教えられ、西洋国家の東洋侵略と植民地化の実情を聞く。「阿片戦争」のニュースを聞き、日本の「救国戦争」に身を挺する決心をする。幼なじみの矢倉新吉も共に「勤王の志士」となる決心をし、二人で郷里を出る。
3)小平、お春との出会い。(小平は小平次とするか?)
4)村雨霧之進との出会い。
5)中村吉之丞との出会い。
6)大河原大吾との出会い。(2から6の間に、幕末有名人のうち何人かも登場。)
7)新選組とのトラブル。土方歳三、近藤勇との対話で、「公武合体政権による攘夷」を説得する。
8)勝海舟との出会い。坂本龍馬との出会い。桂小五郎、西郷隆盛説得のため、西に向かう。
9)孝明天皇説得のため、京に向かう。(孝明天皇はもともと公武合体に前向き)
10)英米仏からの妨害。闘争。
11)黒船の再来訪。
12)黒船襲撃作戦。
13)→1)の場面に戻る。
14)大戦闘。7人のうち5人が死ぬ。
15)勝利。
16)戦後処理。
17)別れ。
18)エピローグ。日本のその後。
主要キャラは7人、その中でも主役級は3名までとしたい。できれば、2名か。
その代わり、明治維新の有名人は膨大に出す予定。たとえば山岡鉄舟や清水次郎長などまで使う。新選組も「殴り込み部隊」として一隊を作る。岡田以蔵などの「人斬り」もたくさん出てくるし、幕末に死んだ連中も「勤王佐幕」の闘いが存在しない以上、ほとんど存命し、外国との闘いに参加する。特に重要なのは、大砲の使用に慣れた人間で、ひとつの艦船を占領したら、他の艦船に大砲を撃ちかける作戦もある。もちろん、「切り込み隊」四隊で四つの黒船を占領してもいい。
主役級の中には忍者的な存在も欲しい。まあ、要は「七人の侍」の幕末版だ。原作映画の野武士集団は、ここでは黒船になる。
プロットとしては、最初に黒船討ち入り前夜、もしくはその当日の漁船の上の情景を描き、その次に「七人の侍」の「侍スカウト」に相当する「仲間集め」のストーリーを、ユーモアも交えながら描く。そして、幕末の要人たちとの交渉。そして日本の政治中枢での意思統一。そして、「黒船討ち入り作戦へのGO指令発動」、そして冒頭シーンに戻り、クライマックスの戦闘シーンとなる。そして、勝利、そして戦後処理(公武合体政府)の大まかな描写。最後に、その後の日本の栄光(と、政府の増長、貴族や武士の横暴、軍事政権化、第二次大戦での敗北?)が描かれて終わる。最後のテロップ、またはモノローグ。原爆雲の映像にかぶせて、「外部の敵と戦うのは容易である。しかし、自分自身と戦うことは難しい。敵の悪は見えても自分自身の悪は見えず、敵は憎めても自分自身は憎めないからである。江戸時代末期に多くの人々の献身と自己犠牲によって滅亡から救われ、栄光と繁栄を得た日本は、その驕りと傲慢によって、こうして灰燼に帰した。その後の日本の行方を誰が知ろうか」
キャラ案(主役級)最後の戦闘で五人は死ぬ。生き残るのは誰と誰か。
井出佐之助(主人公)*名前は後で変更するかもしれない。
中村吉之丞(元役者、女形)
矢倉新吉(軍師格の知恵者)*明智光秀の末裔? 佐之助の幼なじみで親友。
村雨霧之進(ニヒルな剣士)*吉之丞とお春に好かれている。
くのいちお春(体育会系美少女)
大河原大吾(豪快な剣豪、巨漢)*「自好流」と称する。酒好き。能天気。
風魔小平(忍者)*お春の兄(弟?)*「小平」とだけ名乗っている。
脇役たち
坂本龍馬
勝海舟
西郷隆盛
大久保一蔵(利通)
徳川慶喜
孝明天皇(暗殺されないで明治以降も生存)
新選組メンバー
高杉晋作(途中で病死)
江戸幕府の大物たち
幕末の剣豪たち(斬り込み隊メンバー)
富裕な商人たち(スポンサー)
ヤクザ、博徒たち(斬り込み隊メンバー)
僧侶たち
儒学者たち
軍学者
プロット案:最後の戦闘シーンで、主要人物や有名人物が戦死するシーンは、ストップモーションを使い、「誰それ、死亡」とテロップを出す。つまり「仁義なき戦い」的な描写法。音楽もそれに近いものにする。新選組メンバーは全員死亡。
(以下引用)
サイバーパンク(cyberpunk)とは1980年代に流行・成立したサイエンス・フィクションのサブジャンルまたは特定の思想・運動。
ウィリアム・ギブスンが代表的作家。
概要[編集]
「サイバーパンク」という単語は1980年代にブルース・ベスキ作の未成年の技術者集団を描いた短編のタイトルとして出現したが、その後の1985年にSF誌の編集者であり評論家であったガードナー・ドゾワによって、作風を指す新語として用いられ[1]、SF界における思想、運動、スタイルをさす言葉となった。自然科学の理論に基づく従来からのサイエンス・フィクション、これを厳密化したハードSF、非現実な要素を加えたスペースオペラ、サイエンス・ファンタジーなどに対するカウンターとしての思想、運動であり、それらを体現する小説に盛り込まれた要素・スタイルを抽出し、これをサイバーパンクと呼ぶ。
典型的なサイバーパンク作品では、非現実性へのカウンターとしてよりリアルな現実性が意識され[注釈 1]、最も現実性を体現するモチーフとして人間や心理の描写に力点が置かれた作品が多い。作中では人間が持つ生体機能としての人体と、脳機能に基づく認知、思考、心理などを機械的ないし生物工学的に拡張し、それらのギミック、ないしはコンピュータやネットワークによる[注釈 2]模倣が普遍化[注釈 3]した世界・社会の描写を主題のひとつの軸としている。さらに心理描写についても現実性をもたせるため、社会心理学や異常心理学で現れる「対立」や「葛藤」の発展形と看做される構造・機構・体制に対する反発(いわゆるパンク)や反社会性を、主人公の言動や作品自体の主題のもう一つの軸として好んで多用されている。これらを内包する社会や経済・政治などを俯瞰するメタ的な視野の背景の提供と描写が加えられることで、作品をサイバーかつパンクたらしめ、既存のSF作品とは一線を画すことが認識されて成立し確立されている。
サイバーパンク作品では、人体へのコンピュータや機械・臓器などの埋め込み(サイバーウェア、インプラントなどと言う)によって機能や意識を拡張する人体改造的な概念や、サイバースペース等と呼ばれるネットワーク空間(仮想空間、仮想社会)などを小道具として登場させる作品も多く、また代表作の幾つかでは退廃的で暴力的な近未来社会を舞台として疲弊しきったテクノロジーを描いていたため、単にそのスタイルのみを真似てこれに倣うフォロワー的な作品がサイバーパンクを名乗ることがあるが、これらのガジェットは要素の一部に過ぎず、パンク思想やメタ視点等の最も中核的な部分を扱うことのない作品は、あくまでフォロワーに過ぎない。
小説『ブラッド・ミュージック』や『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』等の作品もサイバーパンク(ないしはその前駆的作品)として列せられる。これらは根源的な意味でサイバーパンクであるとされており、疲弊した技術やコンピュータとの融合などの「サイバーパンク的ガジェット」は登場しないが、前述の要素を持つためサイバーパンク(または前駆的サイバーパンク)と解釈される場合がある。
由来と分類[編集]
サイバーパンクの語源となるサイバネティクス(cybernetics)とは、本来はフィードバックの概念を核にして生理学と機械工学、システム工学、情報工学を統一的に扱う学問領域であるが、これが転じて脳神経機能の電子的・機械的補完拡張やコンピューターへの接続技術を指すようになった。さらに、人体の機能の一部を機械的・電子的に拡張ないし置き換えたサイボーグ(cyborg: cybernetic organからの造語)という概念がSFで盛んに用いられるようになっていた。サイバーパンクではこれらの人体と機械が融合し、脳内とコンピューターの情報処理の融合が「過剰に推し進められた社会」を描写する。さらに、社会機構や経済構造等のより上位の状況を考察し、それらを俯瞰するメタ的な視点・視野を提供するという点で従来のSFと一線を画する。
これらサイバーパンクを含む「テクノロジーの過剰な発達を土台とした世界や作品」は、一部ではテックパンクスとも呼ばれ、蒸気機関が現実の絶頂期の様相を越えて発展した社会や世界を描くスチームパンクや、電気機器の(現実を越えた、過剰な)発展による社会や状況、鉄塔や電線、碍子、真空管などのガジェットへの傾倒を描いたエレクトリックパンクなどといった類型も存在するが、これらはサイバーパンクからの派生ジャンルとみなされ、共に広義のSFに内包されるものとして取り扱われている。
サイバーパンクが成立した1980年代前半は、北米や欧州を中心にパーソナルコンピュータが一般家庭にも普及を開始し、原始的なネットワーク(パソコン通信)を伴って身近なものとなり[注釈 4]、また各種の電子機器が民生機器として隆盛していた時代でもあり、一方で軍学共同の広域ネットワーク(インターネットの直接のルーツとなるARPAネットなど)の研究と普及も始まっていた[注釈 5]。これら実在のガジェットや概念に触れる機会が増大したことで、それらが「過剰に発展した(近)未来への着想」をもたらしたという点でも、同時代の社会および科学・民生技術の状況がサイバーパンク成立の母体となったことは確かである。
一方、1990年代に入りインターネットの商用利用解禁や、ITバブルによるパーソナルコンピュータや携帯電話などの普及によってこれらが身近なものとなり陳腐化すると、サイバーパンク・ムーブメントの存在感や刺激は相対的に後退し、沈静化する。しかしこれは言い換えれば、90年代以降は、サイバーパンクの着想が大衆的に広く浸透し、あえてジャンル化する意義が見いだせないほど当たり前なものになった時代でもあるということである。さらにインターネットの普及、ユビキタス社会の進展により、サイバーパンク的な感覚は着実に現実に浸透しつつある。
サイバーパンクの系譜[編集]
「サイバーパンク」というジャンルを打ち立てた作品としては、前出のギブスン「ニューロマンサー」を始めとするスプロール・シリーズ作品がまず挙げられる。
日本語への翻訳では、黒丸尚がルビを多用した独特の文体を用いた。また柾悟郎はこの特徴的な文体を活用して『ヴィーナスシティ』を書いた。
ジェイムズ・ティプトリー・Jr.の小説『接続された女』はサイバーパンクの成立以前(1974年)に書かれた作品だが、後にサイバーパンクの先駆的作品として認められるようになった。また、フィリップ・K・ディックの小説『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』も同様に作品(小説)自体はサイバーパンクとは見なされていないが、これを原作とした1982年の映画『ブレードランナー』において描かれた退廃的で無国籍な人口過密の大都市、空飛ぶ車(スピナー)、高度な科学技術で作られた人造人間(レプリカント)等のビジュアル・舞台設定は、後発の創作に多大な影響を与え、「サイバーパンクとは『ブレードランナー』のような近未来社会を描いた作品である」と形容されることもある。
トマス・ピンチョンの『V.』『重力の虹』なども前サイバーパンク的小説といえる。これらは時代設定的に高度ネットワークをもたない世界を描いた作品であるが、機械との半融合、システムと人間など、サイバーパンクのテーマに連なる内容が特徴である。
これはなぜなのか、よく分からない。
「自分ひとりでウケている」という作品は、ギャグ作品だけとは限らず、三流作品の多くに見られる特徴だと思う。一般的な言葉で言えば、夜郎自大だろうか。しかし、ほとんどの作品は自分が作るものの内容に自信があるから作るわけで、創作において夜郎自大が本質的に悪いというわけではなく、単なる実力不足(特に、人間性や笑いへの理解不足)から来るのだろうと思う。「大学生ノリ」というのは、未熟な内容を勢いで誤魔化すという不誠実さのことだ、と言っていい。もちろん、一部の層には「大学生ノリ」が受けているからこそ厄介なのである。
「大学生ノリ」はあるが、「高校生ノリ」は無い、ということは、高校生に比べて大学生は基本的に軽薄である、という事実から来ると思う。そして大学生ノリのままの人間が広告会社やアニメ制作会社などに入るわけだ。
(以下引用)
「このアニメ無理なやつだ」って思う瞬間・・・
テンプレの行き過ぎた狂気系とか観る気しないよな
胸糞悪いだけの展開のなろう系とかも無理
分かるわ
「主人公一筋」みたいなのを強調したいんだろうけど普通にドン引きする
何考えてるかわからんってレベルまでいくと無理
たまに女が悪役の時はかわいそうな過去付き