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額田王

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
下居神社にある額田王の歌碑

額田王(ぬかたのおおきみ、ぬかたのきみ、生没年不詳。女性)は、飛鳥時代日本皇族歌人天武天皇の妃(一説に采女巫女)』)、額田部姫王(『薬師寺縁起』)とも記される。

係累他[編集]

『日本書紀』には、鏡王の娘で大海人皇子(天武天皇)に嫁し十市皇女を生むとある。鏡王は他史料に見えないが、「王」称から2世 - 5世の皇族(王族)と推定され、一説に宣化天皇皇子の火焔皇子の曾孫といい[1]、この場合は威奈(猪名/韋那)氏の同族である。また、近江国野洲郡鏡里の豪族で壬申の乱の際に戦死したともいう。

生年は不詳であるが、まず孫の葛野王669年(天智天皇8年)の生まれであることは確実である。このことから、娘の十市皇女の生年は諸説あるが、648年(大化4年)から653年(白雉4年)頃の間の可能性が高い。更に遡って、額田王は631年(舒明天皇3年)から637年(同9年)頃の誕生と推定される。

出生地に関しては大和国平群郡額田郷や島根県東部(出雲国意宇郡)に求める説がある。

『万葉集』『日本書紀』に見える鏡姫王(鏡王女)を姉とする説もあるが(本居宣長玉勝間』)、それは「鏡王女」の表記を「鏡王の女(むすめ)」と解釈したもので無理があるとの意見もある。また、表記の解釈は同様で「鏡王の女(むすめ)」とは額田王自身のことを指すのではないかという新説も提出されている[2]

十市皇女の出生後、天武天皇の兄である中大兄皇子(天智天皇)に寵愛されたという話は根強いが確証はない。状況証拠は『万葉集』に収められた歌のみである。特に

  • 茜指す紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る(巻1・20・額田王)
  • 紫の匂へる妹を憎くあらば人妻ゆゑに我恋ひめやも(巻1・21・大海人皇子)

の2首などをめぐって天智・天武両天皇との三角関係を想定する理解が一般にあるが、池田弥三郎山本健吉が『萬葉百歌』でこの2首を宴席での座興の歌ではないかと発言して以来、こちらの説も有力視され学会では通説となっている[要出典]。晩年の王の歌としては持統天皇吉野行幸に際して弓削皇子と交わした贈答歌があり、行幸の時期からして60歳前後までは確実に生存していたと推測されている。従って没年は大まかなところ、690年頃としか言えない。

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