第5回 大和政権の成立と発展
○吉備地方の服属
さて、このように東アジアを巻き込みながら勢力を拡大した大和政権でしたが、依然として吉備地方で強大な力を持っていた吉備一族が、大和政権に従いつつも不穏な動きを見せていました。特に、吉備下道臣前津屋(きびのしもつみちのおみ さきつや)は大泊瀬幼武大王(雄略天皇)に対して反抗的な態度を取っていたため、大泊瀬幼武大王は物部(ものもべ)一族に命じ、吉備一族70人を皆殺しにしました。ところが、大泊瀬幼武大王が亡くなると再び吉備一族は立ち上がります。
中心となったのは、なんと大泊瀬幼武大王の妃であった吉備稚媛(わかひめ)と、大王との息子である星川皇子。この吉備稚媛は、吉備田狭(たさ)の妻だったのですが、田狭が大泊瀬幼武大王によって任那(伽耶)に追いやられている隙に、大王に奪われ妃にさせられたのです。
そこで、当時有力な王位継承者だった白髪(しらは)王子に代わって、自分の息子を、大王にすることで吉備一族の再興を企むのですが、この動きを察知した大連(おおむらじ)の大伴室屋(おおとものむろや)は、渡来人の一族である東漢掬直(やまとのあやの つかのあたい)を討伐部隊として差し向け、吉備一族と合流した吉備稚媛達を敗死させました。
これにより、とうとう吉備一族は大和政権に屈服するようになり、5世紀末から吉備での巨大古墳造営がピタリと止みました。また、この頃から「大王」は連合政権の盟主から、いよいよ大王の下に各地の豪族が従う、という形に変貌します。もっとも、その下では物部氏、蘇我(そが)氏、大伴氏、平群(へぐり)氏が、それまで大王と密接な親類関係にあった葛城氏に代わって、熾烈な主導権争いをしていたようです。
○氏姓制度
さあ、そこで大和政権の大王と豪族の政治的な組織関係を見ていきましょう。まず豪族ですが、彼らは氏(うじ)と呼ばれる血縁的な繋がりを持った一族の集団を形成していました。その首長のことを氏上(うじのかみ)といいます。そして、氏には独自の名前が付いており、平群氏、蘇我氏、葛城氏のような地名からついた氏名や、大伴氏、物部氏など自分達が大和政権内で掌握していた職務からついたものなど色々です。
この豪族に対し、大王は姓(かばね)という、政権内での地位を表すものを与えました。
すなわち、一定の地域に基盤をもつ豪族には臣(おみ 葛城氏、吉備氏など)を、さらに特定の職務を持つ豪族には連(むらじ 大伴氏、物部氏)、さらに大和とその周辺以外・・・例えば関東や九州などの有力豪族には君(きみ)、それ以外の一般の豪族には直(あたい)です。
そして、さらに臣と連を持つ豪族うち、「特に有力な」者には大臣(おおおみ)、大連(おおむらじ)が与えられます。
一方、大和政権の儀式や政務を行う朝廷。
ここの職務は、伴造(とものみやつこ)と呼ばれる豪族、とそれをサポートする伴、品部(しなべ/ともべ)呼ばれる人々が行いました。こういう役職は専門性が要求されるので、最新の大陸の知識を持った渡来人達が就任することが多かったようです。そして、政治上、経済上の要地には屯倉(みやけ)と呼ばれる直轄地を各地に設け、田部(たべ)と呼ばれる農民に耕作させていました。
また、豪族内部に目を向けてみますと、有力な豪族は田荘(たどころ)と呼ばれる私有地と、部曲(かきべ)と呼ばれる私有民を所有し、さらに奴(やっこ)と呼ばれる奴隷もいました。
(引用者注:部曲(プゴク)は、新羅、高麗の賤民である。つまり、「部曲」という漢字が先にあり、それに日本人が「かきべ」という読みを当てたので、「曲部」ではなく「部曲」という不自然な、漢字と読みの不一致が生まれたのだろう。当時は漢字の知識が浅かったのだと思う。今のカタカナ書き英語のようなものだ。)(引用者曰く:「奴(やっこ)」は「屋子」つまり、武士時代の「家の子」と同じだと思う。「やこ」が発音の便宜上、「やっこ」となり「奴」という、「奴隷」の実情にふさわしい字を当てたのではないか。)
ちなみに、こうした制度は百済のシステムを元に構築されたようです。
と言うのも、百済は高句麗の猛攻や加羅北部の反乱に対し、度々日本に救援を要請。それを承諾する代わりに百済や中国から人材を日本に派遣させ、彼らは儒教を伝えたり、暦学や医学、薬学など様々な学術分野の改善に貢献していたのです。
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