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5 「セプテンバー・ソング」

 

 September song

 

Oh it‘s a long long time

 from May to December

But the days grow short

 When you reach September

(ああ、それは長い、長い時間だ

五月から十二月までは

だが、九月になると、日は短くなっていく)

 

When the autumn weather

 turn the leaves to flame

One hasn‘t got time 

 for the waiting game

(秋の気候が

木の葉を炎に変える頃

人には時間は残っていない

ただ待つだけのゲームに使う時間は)

 

Oh,the days dwindle down

 to a precious few

September November

(ああ、日々は小さくなって消えていく

貴重な、わずかなものとなる

九月、そして十一月)

 

And these few precious days

I‘ll spend with you

These precious days

 I‘ll spend with you

(その貴重なわずかな日々を

私は君と使いたい

残されたわずかな日々を

君と共にしたいのだ)

 

元の唄には、長い前フリがあるが、省略した。1939年のミュージカルの挿入歌らしい。「鼻のデュランテ」と言われたジミー・デュランテという役者の歌が有名らしいから、きっとその時の芝居に出て、彼が歌ったのだろう。だが、あいにくながら、彼の歌は勢いが良すぎて、この歌のしみじみとした感じが現れていない。フランク・シナトラの歌ったものが、まずまずいい感じだが、もっといい歌い方をしているバージョンがありそうな気がする。案外と、昔の歌手の中には、シナトラ以上の歌手はたくさんいるのである。ビング・クロスビーにしても、べつに彼だけが飛びぬけているわけでもない。

 年寄りのための歌という趣だが、歌は若者の専売特許というわけでもないのだから、こういう歌があってもいい。しかも、これはポップスの原則通り、ラブソングなのである。年を取っても恋の唄を歌うというのが、欧米の男のエネルギッシュなところだ。人生の九月と言えば、50代くらいだろうか。年寄りと言い切るのもなんだが、もはや引退間近ではある。言い換えれば、これからは自分のために生きることを考える頃だ。そうした時に、独身だったならば、余生を共に送る伴侶を求めるのも悪くは無いだろう。そうした枯れない老人のための歌が日本にもあっていいと思うのだが。





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4 「時が経っても」(「アズ・タイム・ゴーズ・バイ」) ハーマン・ハプフェルド作詞作曲

 

 As time goes by

 

You must remember this

A kiss is just a kiss

A sigh is just a sigh

The fundamenntal things apply

As time goes by

(覚えておきなさい

キスはただのキス

溜息はただの溜息

基本的な事柄は変わらない

時が過ぎていっても)

 

And when two lovers woo

They still say “I love you”

Oh,that‘s you can rely

No matter what the future brings

As time goes by

(恋人たちが求婚する時、

彼らはやはり「アイ・ラブ・ユー」と言う

そのことは大丈夫、いつでも通じるさ

未来が何をもたらそうとも

時が過ぎていっても)

 

Moonlight and lovesongs

Never out of date

Hearts, full of passion

Jealousy and hate

Woman needs man

And man must have his mate

That no one can deny

(月の光や恋唄は

けっして流行遅れにはならないよ

情熱に満ちた心、

嫉妬に憎しみ、

女が男を必要とすること、

男には連れ合いが必要なこと、

それらは誰にも否定はできない)

 

It‘s still the same old story

A fight for love and glory

A case of do or die

The world will always welcome lovers

As time goes by

(それは昔ながらのお話

恋や栄光のための戦い

やるか死ぬかの二者択一

世界はいつでも恋人たちを歓迎しているんだよ

時が過ぎていってもね)

 

Oh,yes,the world will always welcome lovers

As time goes by

(そうさ、世界はいつでも恋人たちを歓迎する

時が過ぎても)

 

 

 案外と内容が誤解されているのではないかと思われるスタンダード曲である。その理由は、「As time goes by」の「as」の解釈を、「~のままに」として、「時の過ぎ行くままに」などというタイトルが流布しているからだろう。「時の過ぎ行くままに」では、まるで、変化を肯定する内容に見えてしまう。これは逆に、「時が過ぎても、人生のファンダメンタルは変わらない」という不変性を歌った詩なのである。おそらく、日本的無常観の伝統が、こうしたポップスの解釈まで誤らせたのだろう。もっとも、逆接の「as」なんてのは、辞書を細かく見ないと気づかないものではあるが。

 歌詞そのものは、他のポップス同様、押韻の面白さを狙った言葉遊びが多く、あまり逐語訳しても意味はないが、それなりに面白い内容でもある。それに、やはり映画「カサブランカ」での効果的な使い方のために、一部の人間には忘れられない名曲となっているようである。ただし、本当は「カサブランカ」のテーマ自体とはあまり関係のない、ただの甘いラブソングなのだが。

 

 













3 虹の彼方に

 

 Over the rainbow

 

(映画「オズの魔法使い」では、この歌の前に、ジュディ・ガーランド演ずるドロシーが次のセリフを言うが、それが歌のいい前フリになっているので、それも書いておく。ただし、英語部分は省略。)

 

「どこか、悩み事がなんにも無い土地……そんな土地がどこかにあるとお前は思わない? ねえ、トト(注:犬の名)。きっとあるはずよ。そこはきっと、ボートや汽車では行けない所だわ。どこか、とても遠く、遠く、……月の後ろか、雨の向こう側に」

 

Somewhere,over the rainbow,way up high,

There‘s a land that I heard of once in a

 lulluaby

(虹の彼方のどこか、高く登ったところに

 子守唄で聞いた土地がある)

 

Somewhere,over the rainbow,

skies are blue

And the dreams that you dare to dream 

 really do come true

(虹の向こうのどこかに、空はいつも青く

夢見た夢が現実になる、そんな土地がある)

 

Someday I‘ll wish upon a star

And wake up where the clouds are

 far behind me

Where the troubles melt like lemon drops

Away above timny tops

That‘s where you’ll find me

(いつか私は星の上に上り

目ざめるでしょう

雲をずっと後ろに置き去りにして

悩みはレモンドロップのように消え

あなたは煙突の上の空の彼方で私を見つけるでしょう)

 

Somewhere over the rainbow,bluebirds fly

Birds fly over the rainbow,

 Why,then,oh,why can‘t I ?

(虹の向こうのどこかへ、青い鳥は飛んで行く

鳥たちが虹を越えて飛べるなら

私にも行けるでしょう)

 

If happy little bluebirds fly

 Beyond the rainbow

  Why,oh,why can‘t I ?

(幸せの青い鳥が

 虹を越えていけるなら

 どうして私にできないことがあるだろう)

 

 

ミュージカル「オズの魔法使い」の中の挿入歌である。この映画の中のドロシーはまだ10歳かそこらのはずだから、虹の彼方に行きたいと思うほどの悩み事もないはずだが、子供には子供なりの悩みがあり、その重みは大会社の社長が倒産するかどうかで悩むのと、重さにおいて違いは無いのである。彼女の悩みは、確か、愛犬のトトの処分を、近所の意地悪女に迫られていることだったと思う。その意地悪女が、彼女の夢の中では悪い魔法使いとなって出てくるし、彼女の農場で働く使用人たちが、勇気の無いライオンや、心の無いロボットや脳みその無い案山子となって登場する。つまり、夢は現実のアレンジであるという点では、フロイド説そのままである。ただし、この映画には性的なものは無いが。

 第三連で、「あなたは私を見つけるでしょう」の「あなた」とは何者かというと、これは仮想の恋人で、ミュージカル映画の挿入歌は、映画のストーリーを離れても歌える(使える)ように、必ずラブソングにもなっているのである。まあ、「必ず」と断言はできないが。このフレーズがあるために、これは童謡に限定されない大人の歌にもなるわけだ。

 なお、スタンダードソングの例に漏れず、この歌にも前説というか、長い前フリがあるが、その部分は歌の説明に堕しすぎているようなので、映画の中のセリフで代用してある。

 






2 「煙が目にしみる」

 

 Smoke gets in your eyes

 

They asked me how I knew

  my true love was true

I of course replied“ Something here inside cannot be denied”

(彼らは私に聞いた

どうしてその「本当の恋」が本当だってわかるんだい、と

私はもちろん答えた

「僕の心の奥底に、何か否定できないものがあるんだ」と)

 

They said“ Someday you‘ll find

all who love are blind

When your heart‘s on fire,

 you must realize 

smoke gets in your eyes“

(彼らは言った

「いつか君にもわかるさ

恋をすると人は盲目になることがね

心が恋の火で燃えていると、煙が目に入るのさ」)

 

So I chaffed them 

 and I gaily laughed

  to think they could doubt my love

Yet today my love has flown away

 I am without my love

(だから私は彼らに冗談を言い、陽気に笑った

私の恋を疑うなんて馬鹿げていると

でも今日

私の恋人は去って行き

私は一人ぼっち)

 

Now laughing friend deride

 tears I cannot hide

So I smile and say

“When a lovely flame dies

smoke gets in your eyes“

(Smoke gets in your eyes

Smoke gets in your eyes)

Smoke gets in your eyes

(今、隠せない私の涙を見て

友人たちは笑いながら私をからかう

だから私は微笑んで言う

「恋の炎が消える時にこそ、

煙が目にしみるんだよ」と)

*リフレーン略

 

これもまた名詩中の名詩で、多くの人が訳しているとは思うが、他人の訳は一切見ないで、私も訳してみた。というのは、他人の詩を読むと、どうしてもその訳の先入観が生じるからである。そういう意味では、私のこの文章も、英米ポップスをこれから知りたい人に、余計な先入観を与える可能性もあるが、まあ、欧米名詩の知名度を上げるというプラス面に免じて許してほしい。

歌詞のキモは、「煙が目にしみる」を、意地の悪い友人たちは「恋は盲目」の比喩に使ったのに対し、「私」は、失恋の涙は、恋の炎が消えた、その煙が目にしみただけさ、と軽く受け流すところにある。

歌詞はオットー・ハーバック、曲はジェローム・カーンで、曲も名曲中の名曲、歌ったプラターズの歌も最高だ。ただし、もともとは、1933年のミュージカル「ロベルタ」の挿入歌らしい。

作曲のジェローム・カーンは、私がもっとも好きなアメリカの作曲家で、私が好きなアメリカンポップスは、ジェローム・カーン的なノスタルジーを持ったものが多い。





 

1 「酒と薔薇の日々」

 

 Days of wine and roses

 

The days of wine and roses

Laugh and run away

Like a child at play

Through the meadowland

Toward the clossing dooor

A door marked“Nevermore”

That wasn‘t there before

(酒と薔薇の日々は

笑い声とともに駆け去る。

遊ぶ子供のように。

心地よい草原を抜け

閉ざされたドアに向かう。

そのドアには書かれている。

「二度と無い」と。

前には無かった文字が。)

 

The lonely night discloses

Just a passing breeze

Filled with memories

Of the golden smile

That introduced me to

The days of wine and roses 

And you

(孤独な夜は扉を開く。

通り行くそよ風のように

思い出に満たされ。

その思い出の黄金の微笑みは

私を導く。

酒と薔薇の日々

そしてあなたへと。)

 

 

 わずか2連だけの歌詞で、実際の歌では、第二連が繰り返される。

 映画「酒と薔薇の日々」の主題歌で、映画の内容はアルコール中毒の悲惨を描いたシリアスなものだが、主題歌は甘美で、そのギャップがまた対位法的に面白い。

 訳の上では、第二連の「Just a」の訳し方が良くわからないので、「~のように」としてみたが、自信は無い。こういう単純な言葉ほど、意外と訳しにくいものだ。

 第一連の「Nevermore」は、おそらくポーの詩、「大鴉」の中の有名なリフレーンだろう。この詩を拾ったポップスサイトに載っていた原詩では「never more」と分かち書きになっていたが、鴉が一息で発声する感じの「Nevermore」に変えた。ポーの詩でもそうだった記憶がある。インターネットの歌詞サイトの歌詞は、正確なものもあるが、聞き書きもあるので、本物の英語の原詩がどうかは分からない。

 第一連の駆け去る子供の比喩は、小椋佳が「シクラメンのかほり」の中で「疲れを知らない子供のように、時が二人を追い越していく」というフレーズに変えて使ったことがある。それを聞いた時に、私はすぐに、「あ、『酒と薔薇の日々』の盗作だ」と思ったものである。まあ、ポップスの世界では、詞も曲も何かの再アレンジであることが多いので、それを盗作と思ったのは私の若気の至りだが、それ以来、小椋佳にはあまりいい印象は持っていない。今更ではあるが。

 詩としては、この「酒と薔薇の日々」は、ポップスの詩の歴史に残る名詩と言っていいと思う。「二度と無い」と書かれたドアは、H・G・ウェルズの「くぐり戸を抜けて」の異世界につながるドアのイメージだろう。擬人化された「酒と薔薇の日々」が笑い声を上げながら駆け去っていくというイメージも素晴らしい。

 草原を抜けて、ドアに出会う。そこには、かつては無かった文字が書かれている。「二度と無い」と。これが、時というものの悲哀である。我々が経験している時間は、すべて二度とは戻らない時間なのだ。

 

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