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30 「グッバイ・イェロー・ブリック・ロード」 エルトン・ジョン

 

Goodby yellow brick road

 

When are you gonna come down

When are you going to land

I should have stayed on the farm

I should have listened to my old man

(いつ君は降りてくるんだ

いつ君は地上に着くんだ

僕は農場に留まらねばならないし、

僕の爺さんの話を聞いていなければならないんだ)

 

You know you can‘t hold me forever

I didn‘t sign up with you

I‘m not a present for your friends to open

This boy‘s too young to be singing the blues

(知ってるだろう、君は僕を永遠に引き止めるわけにはいかないし、

僕はそんな契約書にサインはしなかった

僕は君の友達のためのプレゼントでもないさ

ブルースを歌うには若すぎるしね)

 

*So goodby yellow brick road

Where the dogs of society howl

You can‘t plant me in your penthouse

I‘m going back to my plough

(だから、黄色い煉瓦道よ、おさらばだ

そこでは社会の犬どもが吠えていたっけ

君には僕を自分のペントハウスに植えておくことはできないさ

僕は自分の野良仕事に戻るとしよう)

 

Back to the howling old owl in the woods

Huting the horny back toad

Oh, I‘ve finally decided my future lies

Beyond the yellow brick road

(森の中で鳴き声をたてる年寄りフクロウや、

背中に角の生えたヒキガエルのところに戻ろうか

ああ、僕はとうとう自分の未来がどこにあるのか分かったぞ

そいつは、黄色い煉瓦道を越えた向こう側に横たわっているんだ)

 

What do you think you‘ll do then

I bet that‘ll shoot your plane

It‘ll take you a couple of vodka and tonics

To set you on your feet again

(それで、そこで君は何をするんだい

賭けてもいいけど、そいつらは君の飛行機を撃ち落とすね

君が自分の足でもう一度立てるまでには

二杯分のウォッカ・アンド・トニックが必要だろうな)

 

Maybe you‘ll get a replecemennt

There‘s a plenty like me to be found

Mongrels who ain‘t got a penny

Sniffing for tidbits like you on the ground

(多分君は立ち直るだろう

そこには僕のような奴がたくさん見つかるだろうからね

一文無しで、君のような餌を探して嗅ぎ回る、雑種犬なんかがね)

 

  リフレイン

 

 

一見、難解な歌詞だが、おそらく、これは「ライ麦畑でつかまえて」を歌にしたらこうなる、と解釈すればいいだろう。つまり、潔癖な青少年の、社会への嫌悪感とニヒリズム、そしてその自分自身がやがてその社会に飲み込まれていくことへの哀惜である。

詩だから、無理に合理的なつじつま合わせをするのは不要だが、私なりの解釈を少し。

まず、タイトルの中の「黄色い煉瓦道」は、言うまでもなく、『オズの魔法使い』の黄色い煉瓦道である。この道を通って、ドロシーはオズの魔法使いの住む町に導かれるのだが、その結果、カンサスの自分の家に戻ることになる。

したがって、第一連の「いつ君は降りてくるんだい、いつ君は地上に着くんだ」というのは、竜巻に巻かれて吹き上げられたドロシーのことを言っていることになる。

ただし、だからと言って、すべてが『オズの魔法使い』で解釈できるわけではない。第二連以降は、「ライ麦畑でつかまえて」的な主題になるのである。

「黄色い煉瓦道」は少年期と成人を隔てる境界のようなものととらえればいいだろう。

いつまでも農場の中で、おとぎ話的なフクロウやヒキガエルに囲まれて暮らすわけにはいかないから、やがては黄色い煉瓦道の向こうに行く日が来る。その向こうには「社会の犬ども」がいるわけである。第二連第三連の「君」は誰でもいいが、「僕」を縛ろうとする何かである。家族でも恋人でも何でもいい。できれば、彼を無垢の幼年期のままにしておこうとする存在だ。むしろこの存在は、彼を愛し、彼の為を思ってそうしようとするのである。だが、「僕」はそれが不可能なことを知っている。でも、それをブルース(恨み節)にしようとも思わない。それに、彼を無垢のままに閉じ込めておこうとする「君」にしても、自然の世界にではなく、豪華ではあっても人工的な「ペントハウス」に住むしかないのである。

そして、黄色い煉瓦道を越えていった未来には……実は、醜悪な現実が待っていることを、彼は予感しているのである。

第五連からは、作者がIとYouの二人に分裂する。つまり、自分の未来像を自分自身が予測し、クールに批評しているわけである。

第五連は1行末と3行末、4行末が押韻されている言葉遊びだから、真面目に訳す必要は無いが、現実社会に出て行った「君」つまり未来の自分(ややこしいことに、この未来の自分に当るのが、本当は本物の作者そのものでもあるのだが)についての悲観的な予言だということだけがわかればいい。だが、その悲惨は「ウォッカ・トニック」二杯で解消できる程度のものだとも言っている。このあたりは、『荒地』の「俺はコーヒースプーンで自分の人生を量った」に近い雰囲気だ。つまり、人生など、その程度のものだというわけだ。

そして、第六連では、黄色い煉瓦道を越えた向こうでは、自分もまた「社会の犬」となっていて、かつての自分のような無垢な若者の味方ではけっしてないことが語られる。

つまり、人は「無垢の幼年期」に留まることはできないという、喪失感の予見が、この歌の主題と言っていいだろう。

だが、「黄色い煉瓦道」は確かに存在していた。その記憶は、おそらく人の人生に何かの意味を与えるのだろう。だからこそ、わざわざ黄色い煉瓦道にさようならを言うのである。

ポップスの歌詞は、解釈など不要な能天気なものが多いのだが、エルトン・ジョンのこの歌は、解釈の楽しみを与えてくれる。その解釈が間違いだろうが何だろうが、思考の喜びさえあれば、こちらはそれでいいのである。

 

以上で、「ポップス名詩30撰」は終わりである。名曲名詩はいくらでもあるから、気が向けば、そのうちまた続編でも書くことにしよう。

 




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29 「深い紫」(「ディープ・パープル」) ニノ・テンポとエイプリル・スティーブンス

 

Deep purple

 

When the deep purple falls

Over sleepy garden wall

And the stars begin to twinkle

In the sky

(深い紫色が、眠たげな庭園の壁に落ちかかり、

星たちは空に瞬き始める)

In the mist of a memory

You wonder back to me

Breathing my name with a sigh

(思い出の霞に包まれて、君はさ迷いながら私の元に帰って来る

溜息と共に私の名前を囁きながら)

In the still of the night

Once again I hold you tight

Though you‘re gone, your love

Lives on,when moonlight beams

(夜の静けさの中で、再び私は君を強く抱き締める

君は去ったが、君の愛は甦る、月の光が射す時に)

And as long as my heart will beat

Sweet lover we‘ll always meet

Here in my deep purple dream

Here in my deep purple dream

(そして、私の心臓が脈打つ限り、

優しい恋人同士として、私たちは再会する

ここで、紫の夢の中で

この私の、深い紫の夢の中で)

 

 

ディープ・パープルと言うと、ロックバンドの名前かと思うだろうが、私はロックは嫌いである。これは、ニノ・テンポとエイプリル・スティーブンスという大昔の男女コンビのデュエットの歌だ。

 歌の内容は、少し「スターダスト」に似ている。曲も、柔らかにスイングし、古雅な雰囲気のある、まさにオールドファッション・ラブソングと言った感じの歌である。実際の演奏では、歌の途中に、女性であるエイプリル・スティーブンスの語りが入り、それがまた実にいい雰囲気なのだが、その語り部分が入手できないので、残念ながら書けない。(とは言っても、確か、私の記憶では、前半の歌詞を、歌わずに語るだけだったような気がするから、あえてここに書く必要もないとは思うが。)

 使われた単語も文構造も、中学生レベルなので、訳は簡単だが、最後の部分は少し意訳した。同じフレーズの繰り返しは、日本語の詩としては単調すぎると思ったからである。まあ、改悪と言われたら、その批判は甘受するしかないが。その前の部分「君の愛は甦る」も、「君の愛は生き続けている」の意訳である。なぜ意訳したかは、読み手の推測に任せる。

 

 







 

28 「ケ・セラ・セラ」

 

Que sera ,sera

 

When I was just a little girl,

   I asked my mother,“ What will I be?

Will I be pretty? Will I be rich?“

Here‘s what she said to me:

“Que sera,sera,

Whatever will be,will be;

The future‘s not ours to see.

Que sera,sera,

What will be,will be.“

(まだ幼い少女の頃、私は母に聞いてみた。

「私、可愛くなるかしら、私、お金持ちになるかしら?」

これが彼女の答えでした。

「ケ・セラ・セラ、起こることはすべて起こるのよ。

未来は私たちには見られない。

ケ・セラ・セラ、起こるはずのことがみな起こるのよ」)

 

When I was just a child in school,

 I asked my teacher,“What will I try?

Should I paint pictures? 

Should I sing a song?“

This is her wise reply;

“Que sera,sera,

Whatever will be,will be;

The future‘s not ours to see.

Que sera,sera,

What will be will be.“

(学校に通った子供の頃、私は先生に聞きました。

「私、何をしようかしら。

絵を描こうかしら、歌を歌おうかしら」

これが彼女の賢い答えでした。

「ケ・セラ・セラ、成るように成るでしょう。

未来は私たちにはわからない。

ケ・セラ・セラ、成るように成るのです」)

 

When I grew up and fall in love,

 I asked my sweetheart,“What lies ahead?

Will we have rainbows 

Day after day?“

Here‘s my sweetheart said;

“Que sera,sera,

Whatever will be,will be;

The future‘s not ours to see,

Que sera,sera,

What will be,will be.“

(大人になり、恋に落ちた時、私は恋人に聞きました、

「私たちの前には何があるかしら。

毎日毎日、虹がつかめるかしら」

これが恋人の言ったこと。

「ケ・セラ・セラ、成るようになるさ。

未来のことはわからない。

ケ・セラ・セラでいいじゃないか」)

 

Now I have children of my own,

 They ask their mother,“what will I be?

Will I be handsome?

Will I be rich?“

I tell them tenderly;

“Que sera,sera,

Whatever will be,will be;

The future‘s not ours to see,

Que sera,sera,

What will be,will be.

Que sera,sera.“

(今、私にも自分の子供がいて、彼らは聞いてきます。

「僕、ハンサムになるかなあ、

私、お金持ちになるかしら」

私は優しく答えます。

「ケ・セラ・セラ、なるようになりますよ。

未来のことはわからないけど、

なるようになるから大丈夫。

ケ・セラ・セラでいいの」)

 

 

ヒッチコックの映画「知りすぎた男」のためにジェイ・リビングストンとレイ・エバンスが書いた歌である。歌はドリス・デイで、映画の中でも彼女が歌った。その歌の使い方が、実にしゃれているので、映画も御覧になるといい。

「ケ・セラ・セラ」という言葉はこの映画以降、非常に有名になり、言葉だけが一人歩きをしている気味もある。なにしろ、インターネットでサーチすると、この歌よりもホームページのタイトルがずらっと出てくる始末である。

歌の内容も実にしゃれているのだが、リフレーン部分を同じ訳で繰り返すのも辛いので、少しずつ変化させてみたが、そんな小細工はいらん!と怒る人が絶対に出てくるはずである。世の中、そんなもんだが、まあ、ケ・セラ・セラである。

ついでながら、こんな一見他愛ないポップスにも、欧米の宗教的エートス(気風)は背後にあり、これは聖書の「汝明日のことをのみ思いわずらうなかれ」という一節に通じている歌詞である。「未来は我々に属するものではない」というのも、やはりある種の宗教的な姿勢だろう。

最後のリフレーン部分に「なるようになるから大丈夫」と、原詩には無い言葉を入れたのは、こうした神への信頼が詩の背後にあると考えたからである。

余計な話だが、最後のフレーズで、「I tell them tenderly」とある、この「テンダーリー」が実に素晴らしいと思う。かつて子供だった自分と同じ疑問を自分の子供が持ち、それを母である自分に聞いてくる。その時の母親の微笑が自然に想像できる一節だ。私は、この「テンダーリー」を訳しながら、思わず感動して涙が出たくらいである。

 







27 「男は男」

 

 A guy is a guy

 

I walked down the street

 like a good girl should

He followed me down the street 

like I knew he would

Because a guy is a guy

 whatever he may be

So listen and I‘ll tell you

what this fella did to me

(私、大通りを歩いていたの

もちろん、いい娘らしくふるまって

彼は私の後からついてきたの

もちろん、彼がそうすることは分かっていたわ

なぜって、男は男、どんな人間でも決まっているんだから

だから、私の話をお聞きなさい

こいつが私に何をしたかをね)

 

I walked to my house

like a good girl should

He followed me to my house

like I knew he would

Because a guy is a guy

whatever he may be

So listen while I tell you

what this fella did to me

(私、おうちに帰ったの

もちろん、いい娘らしくふるまって

彼は私の後からついてきたわ

もちろん、彼がそうすることは分かっていたわ

なぜって、男は男、どんな人間でもね

だから、少し聞いて

こいつが私に何をしたのかをね)

 

I never saw the boy before

so nothing could be sillier

At closer range

  his face was strange

But his manner was familiar

(私、その男の子とは初対面

だから、その子を家に入れるなんて馬鹿げている

近くで見たら、その子はおかしな顔してる

でも、その態度はなんだかいい感じ)

 

So I walked up the stairs

like a good girl should

He followed me up the stairs

like I knew he would

Because a guy is a guy

whatever he may be

So listen and I‘ll tell you

What this fella did to me

(それで、私階段を上ったの

もちろん、いい娘らしくふるまってね

彼は、私の後から上ってきたの

もちろん、彼がそうすることは分かっていたわ

なぜって、男は男、どんな人間でも決まっているんだから

だから、聞いてちょうだい

こいつが私に何をしたかを)

 

I step to my door

like a good girl should

He stopped at my door

like I knew he would

Because a guy is a guy

whatever he may be

So listen while I tell you

what this fella did to me

(私、ドアの前まで行ったの

もちろん、いい娘らしくふるまってね

彼は、ドアの前で立ち止まった

もちろん、彼がそうすることは分かっていた

なぜって、男は男、どんな人間でも決まっているんだから

だから、教えてあげる

こいつが私に何をしたのかをね)

 

He asked me for a good-night kiss

I said,“it‘s still a goodday”

I would have told him more except

His lips got in the way

(彼はお休みのキスを求めたの

私は言った「まだ昼間でしょう」

私、もう少し何か言おうとしたんだけど

彼の唇が迫ったの)

 

So I talked to my Ma

like a good girl should

And Ma talked to Pa

like I knew she would

And they all agreed on a

married life for me

The guy is my guy

wherever he may be

(それで、私はママに話した

いい娘らしくね

そしてママはパパに話した

多分そうすると思ってたけど

そして全員が賛成した

私は結婚するべきだって

だから、その男は今は私の男

どこを歩いていようともね) 

 

So I walked down the aisle

like a good girl should

He followed me down the aisle

like I knew he would

Because a guy is a guy

wherever he may be

And now you‘ve heard the story

of what someone did to me

And that‘s what he did to me

(だから今、私は教会の中央通路を歩いている

彼は私の後から歩いてくる

そうなるような気がしていたの

なぜって、男は男、どこにいようともね

さて、これで私の話はお仕舞

これが、誰かが私にしたことの一部始終

彼が私にしたことの一部始終よ!)

 

 

1951年のドリス・デイのヒット曲。作詞はオスカー・ブランドという男らしいが、18世紀初頭の古い英国の歌をアレンジしたものだとかいうことだ。いわゆるコミック・ソングである。「男はみんな狼」という俗言の逆パターンと言うべきか。もちろん、この歌の主人公が、うぶな娘らしくふるまって、男が網にかかるのを待つ悪女であるというのではないが、18世紀イギリスの女性が結婚に至るには、男にいかにして求婚させるかの涙ぐましい努力が必要であったのは事実だろう。

 歌詞としては、「こいつがこの娘にいったい何をしたんだろう」と観客や聴衆の興味をかきたてて長々と引っ張り、結局、教会の結婚というアンチクライマックスで落として笑わせるという、「我輩は猫である」の寒月のヴァイオリン購入事件の話のタイプである。

私は英語力が無いことでは自信があるので、ほとんど直感で訳しているのだが、この詩のポイントはshouldとwouldの訳にあると思う。私の考えでは、shouldは義務・当然的意味が中心で、したがって、「a good girl should」は、良家の子女として当然の振る舞いという趣旨になる。ただし、この主人公は、多分、中流家庭の娘で、良家の子女を気取っているだけだろう。「fella」や「guy」という言葉づかいで、すでにお里が知れているという感じだ。

一方、wouldの方は習慣的行為が中心で、だから「like I knew he would」は、「男というものの習慣的行動から判断して、彼がそう振る舞うであろうと私が知っているように」という趣旨になる。(な、長い……)

 とは言っても、この私の考えに自信があるわけではなく、ただ、自分の直感を信じて訳しているだけだから、細部の訳は意訳というより誤訳もあるだろう。たとえば、「彼がお休みのキスを求めたとき」の連の後半2行は、あまり自信がない。「I would have told」なんてのは文法的には何と言うのかもわからないが、過去完了未来とでもいうのか、仮定法過去とでも言うのか、日本人にはややこしい。多分、仮定法だと思うのだが、ここでは習慣のwouldでないことは確かだ。また、彼の唇がどうのこうのの訳も、「got in the way」とは、「接吻に至る道の途上にある」のだろうと思って、「唇が迫った」と訳したが、はたして正解かどうか。私の解釈では、その唇が迫った後、そのboyと彼女はキスをしたのであり、それが書かれていない、いわば行間の部分が面白いのではないかと思う。

 念のために言うが、最後の連の「教会の中央通路」をバージンロードと言うことを私は知らないわけではない。ただ、あまり好みの言い方ではないので、「中央通路」などという固い言い方にしただけだ。これは無知や誤訳とは別の問題なのである。

 まあ、権威ある英語学者の訳ではないのだから、その辺は大目に見て、もとの歌詞の面白さを楽しんでもらえればいい。







26 「道路の陽の当る側」(「サニーサイド・オブ・ザ・ストリート」)

 

On the sunny side of the street

 

Grab your coat and get your hat

Leave your worries on the doorstep

Life can be so sweet

On the sunny side of the street

(コートを掴み、帽子を手にして

悩みはドアステップに置き去りにしよう

人生は素晴らしいものになるさ

道路の陽の当る側に出れば)

 

Can‘t you hear the pitter-pat?

And that happy tune is your step

Life can be complete

On the sunny side of the street

(あの雨の音が聞こえないかい

あの楽しげな音は君の足音さ

人生は完全なものになるさ

道路の陽の当る側に出れば)

 

* I used to walk in the shade

with those blues on parade

But I‘m not afraid

because this rover crossed over!

(おいらの心ではいつも楽隊がブルースを演奏し

おいらはいつも道路の陰を歩いていた

でも今は、悩みの強盗どもはみな死んじまったんだ!)

 

And if I never have a cent

I‘d be rich as Rokkefeller

With gold dust at my feet

On the sunny side of the street

(もしも1セントも無くっても

おいらはロックフェラーみたいに金持ちさ

おいらの足元には金の埃が舞っている

道路のこの陽の当る側でなら)

 

  リフレーン

 

And if I never had a cent

I‘d be rich as“Harry Belafonte”

With “Barry Goldwater”at my feet

On the sunny side of the street

(もしも1セントも無くっても

おいらは「バリー・ゴールドウォーター」を足元に膝まづかせた「ハリー・ベラフォンテ」くらいに金持ちさ

道路のこの陽の当る側にいれば)

 

 

題名が「陽の当る道」などと訳されることもあるが、それだと歌の趣旨が不明になる。これは、道路を陽の当る側と当らない側に分けたものだろう。

 犬儒派の哲学者ディオゲネスが日向ぼっこをしていると、アレクサンダー大王がその前に立って、「お前の欲しいものを何でもやろう、何が欲しいか」と聞いた。するとディオゲネスはうるさそうに大王を見上げ、「そこをどいて太陽をさえぎらないでくれれば十分だ」と言ったという。その後、アレクサンダーは「自分がアレクサンダーでなければディオゲネスでありたい」と言ったとかいう話だが、人の幸せにとって、どれだけのものが必要か、というと、実はそれほど大したものはいらない。黄金も、足元の埃が太陽に照らされて黄金色に光るのも、美しさという点では同じである。ただ、多くの人は、足元の埃は無価値だと思い、黄金は価値があると思っている。

 つまり、人生を生きるのに、道路の日陰の部分を選んで生きるのも、陽の当る側を選んで生きるのも、実は個人の選択であり、金が1セントも無くても、ロックフェラーよりも豊かな気持ちで生きることは可能なのである。さあ、悩みはドアステップに投げ捨て、道路の陽の当る側に出てみよう! と思えれば幸せなのだが……。

 歌詞で疑問なのは、最後の連で「ハリー・ベラフォンテ」や「バリー・ゴールドウォーター」が出てくることで、この歌は1930年に作られた歌だというが、トニー・ベネット版では、あるいは当時の有名人の名に入れ替えたのかもしれない。バリー・ゴールドウォーターはがちがちの保守派政治家で、保守派とは金持ちの味方の別名だから、このような貧乏人側に立った歌では揶揄の対象となったのかもしれない。

 



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