忍者ブログ
[44]  [45]  [46]  [47]  [48]  [49]  [50]  [51]  [52]  [53]  [54
長い間記事が停止していると、変な広告が載ったりするので、最近思っていることなどを書いておく。
それは、「何が今の生活を一番充実させるか」という問題だ。
もちろん、不満は何ひとつ無いが、何か物足りないのである。
考えると、何かを創作していた時期には、こういう「空虚さ」は無かったようだ。
では、小説を書くか、絵を描くか、論説を書くか、作曲でもするか。
この中で、「やったことが無い(に等しい)ので、やれば新体験ができる可能性がある」のは作曲であるが、残念ながら私は記譜法を知らない。まあ、ルソーのように一生に一曲でも後世に残る曲が作れないとも限らないが、望み薄だろう。
一番書きたいのは小説だが、書きたいというより、やっていて一番面白かったのが、小説を書くことだったという感じか。しかし、昔は「RPG的な騎士小説を書きたい」という情熱があったが、それを書いた以上は、もはや書きたいテーマは無い。まあ、異世界転生物や「リライフ」的な話を書いてみたい気は少しある。
小説を書くということは、自分自身がその小説世界で別の人間として別の人生を送るということでもある。思い切って、暴力要素や性的要素の強いテーマ、あるいはそういう世界の描写にチャレンジするのもいいかもしれない。そして、細部を考察すること自体を創作の喜びにできたらいい。
現実世界ではなく、暴力の支配する異世界の話がいいと思う。つまり、「ゲーム・オブ・スローン」的な話だ。ただし、中世的世界ではなく、異星の話、あるいは異次元世界の話がいいか、考察したい。何か、現実の物理法則をひとつ変えるだけで生じる世界。たとえば時間の性質など。
PR
ずっと前から気になっていたが調べるほどのものでもないと放置していた疑問である、「レールガンとは何か」である。書かれているように、電車などの「レール」とは無関係で、要するに火薬ではなく電気(電磁気)で弾丸を射出する兵器のようで、まだ完全な実用化はされていないようだ。つまり軍事的メリットが少ないのではないか。
いずれにしても、「発電装置」が必要なわけで、携帯できるような兵器は作るのが困難なのではないか。普通に火薬を使用することの簡便さには遠く及ばないと思う。

(以下引用)

概要[編集]

この装置は並行に置かれた2本のレールとなる電極棒の上に弾体となる金属片を乗せて電流を流し、電磁力により金属片を駆動し射出するというものである。

磁場を与えるために磁石やコイルが追加されることがある。入力される電力が増え弾体が高速になるにつれ

といったデメリットが生じる。なお以下に詳しく述べるが発射に足る電力(主に電流の量的な問題)の供給も大きな課題となっており、また大電流によってレールや弾体の一部が蒸発プラズマ化するといった問題が生じる。

既に実用化に向けた取り組みが盛んであるが、概念上のもの、または架空のものと「誤解」して扱われる場面が多い。一例として、後述するように米軍により2016年に電磁加速砲を洋上実験する計画がある。ほかにも2019年現在、米国、ロシア、中国、トルコ、日本などがレールガンの軍事研究を進めていると発表、また開発中の発射映像を公開している。技術的には米軍が兵器分野でリードしており、陸上と艦船で何度もテストを実施している。また、トルコ軍は多種の兵器応用能力を備える電磁砲を開発し、国際防衛見本市で販売している[3]

 

小説家や漫画家の作家生命というのは創作活動を始めてから10年程度、長くて20年くらいがおおまかな目安になるのではないだろうか。それ以上に「現役生活」の長い創作家はもちろんいるが、その大半は「名ばかり」現役で、あるいは若手に交じって活動はしていても、その創作内容の質的レベルは絶頂期の半分以下のレベルに落ちていると思う。これは「時代に合わなくなる」という類の話ではなく、創作家の「容量」はある程度限度がある、という仮説だ。
まず、世間の事象に興味や関心を持てるのは、それらに対して無知な若者の特権である。若者の鋭敏な感受性と、世間の物事を知った感動がぶつかるところに創作衝動は生まれるわけで、つまり創作とは基本的には若者の土俵だと言えるだろう。
年を取ってから創作活動に入った人は、そのジャンルの事柄に若者の特権である「無知さ」はあるから、その人の個性が「ジャンル自体の面白さ」とぶつかることで新しい作家個性を生み出すことはある。しかし、その人の「作家容量」が尽きたら、それで創作物の個性も終わりである。後は「自己模倣」を繰り返すだけだ。
それに、長い間作家活動をしていると、どうしても自分の作品個性に飽きてくるだろう。ほとんどの老大家は、過去の作品の「縮小再生産」になるものだ。たまに新しいチャレンジをしたら、「年寄りの若作り」の無残さになる。つまり、「自分が本心から興味を持っていないもの」を相手にするからそうなるのである。
つまり、創作家というのは、ある程度の創作活動をして「自分の表現したいものはほぼ言い尽くした(描き尽くした)」と思えば、引退するのが正しい生き方だろう。先日他界した白土三平の早すぎる「創作家引退」(宣言はしないが、創作をやめていた)は、正解だったと思う。

ただし、以上は自分の身を削って創作活動をする商業創作家の話で、アマチュア創作家の場合はこの限りではない。100歳を過ぎてから画家になってもいいのである。


「書は読まれたり。肉は悲し」は、ヴァレリーの詩の一節だが、「肉」は「肉体」の意味だろう。訳は堀口大学だったと思うが、「肉は悲し」という表現はかなり大胆だと思う。だからこの一節はその奇矯さのために人口に膾炙したのではないか。
だが、かなり曖昧さのある詩句で、「書」は特定の書か、「あらゆる書」か不明で、書を読んだらなぜ「肉は悲し」となるのか、誰か説明した人はいるのだろうか。
単純な解釈としては、「あらゆる書を読んだら、もはや人生に対する興味は失われる。書とは、現実人生より高次な人生なのである。あらゆる書を読んだ後の人生に何の意味があるだろうか」というのは自然な解釈だと思うが、これはリラダン式の「生活などは召使に任せておけ」という、知的貴族精神だ。
問題は原詩の「書」が単数形か複数形かである。これが単数だと、この詩句の解釈はまったく変わることになる。「ある一冊の書を読むことで、『肉体の悲しさ(生そのものの悲しさ)』を痛感する」、そのような書とは何なのだろうか。まあ、聖書の「伝道の書」などはそれに近いかもしれない。「空なるかな空なるかな空の空なり」
異常な努力で「トロフィーとしての異性」を勝ち得た人間は、その後に「ダメ人間」に戻った場合、どうなるのだろうか。
特に、「タッチ」の達也の場合、野球(スポーツ)以外に才能は無いのだから、その野球でダメになった場合、南のヒモになるしかないのではないか。いろいろな仕事に就いて、あの性格だからあちこちで衝突して辞めることを繰り返し、南との仲も険悪になるわけだ。
そういう「タッチ」後日談、というのはどうだろうかwww
いや、私は「タッチ」の漫画もアニメも大好きなのだが、どうもあの中の「エリート絶対主義」(西村や吉田は最初から敗北決定という役割である。)というのが嫌いなので、凡人読者には、エリートの挫折を見るのは楽しいのではないか、という妄想だ。
南が大学進学して、そこでスーパーフリーみたいな連中に輪姦されるというエロ展開とかww
<<< 前のページ 次のページ >>>
プロフィール
HN:
冬山想南
性別:
非公開
P R
忍者ブログ [PR]

photo byAnghel. 
◎ Template by hanamaru.