第九章 マリアの秘密についての現実的で説明的な章
マリアがフランシアの北の山地にある温泉地に送られたのは、彼女が十歳の時だった。娘の病弱なのを気にした両親が、彼女をそこで療養させようと思ったのである。
彼女の付き添いには、乳母が付いて、家庭教師も付いていた。保養所には数十人の滞在客がいたが、そのほとんどは老人で、彼女のような少女は珍しかった。しかも、幼いながらも彼女の美しさは目立っていたので、彼女は狼の間に送られた子羊のようなものであった。
最初に彼女の処女を奪ったのは家庭教師の男だった。彼はマリアの乳母ともできていたが、まだ十歳とはいえ、段違いに美しいマリアへの欲望を抑えきれず、ある午後、乳母が昼寝をしている間に、ほんの子供であるマリアの処女を暴力で奪ったのであった。
もちろん、マリアは自分が何をされたのか分からなかった。
だが、何度目かに家庭教師に性交の相手をさせられている時に乳母が部屋に踏み込み、気違いのように喚いたので、自分がいけないことの相手をさせられているのだと分かったのであった。
二人目の相手は、宿の主人だった。乳母と家庭教師が彼女を残して外出している時に、合い鍵を使って彼女の部屋に入ってきて、彼女を床の上に押し倒して犯したのである。
三人目は滞在客の老侯爵だった。漁色家だが、老齢と病気で体の不自由な彼は、この美少女に惚れこみ、主人に金を払って、彼女を自分の部屋に呼び、執事に手伝わせながら思いを遂げた。ついでにその執事も後でお相伴にあずかったのであった。まるでルイス・ブニュエルの映画にでもでてきそうな話である。
こうして、十六で保養地を出るまでに、彼女はすでに四人の男とそれぞれ数十回の性交渉を持っていた。しかし、まだ快感は知らなかったし、自分は男に対する何かの義務をやらされているのだとしか思っていなかった。おそらく、男という物は、女にこのような行為を強いる特権があるのだろう、と思っていたのである。
彼女が性交の快感を知ったのは、実は山賊に捕らえられている間の事だった。
温泉地から首都パーリャに戻る途中、山賊たちに捕らえられて、最初、数人に輪姦され、それから砦に連れて行かれて頭目の女にされたのだが、この髭面で醜男の頭目が女に関してはなかなかの腕達者だったのである。彼は固い蕾のようなこの美少女の体を様々に弄り回し、やがてその努力は実を結んで、マリアは、この口の臭い野獣のような頭目との性交に快感を覚えるようになった。少なくとも、この醜悪な男は、女の体を良く知っていたし、精力も抜群であったのだ。しかし、性愛の相手としてはともかく、マリアは彼を好きになることだけはできなかった。嫌いな相手に抱かれながらエクスタシーを感じる事に、彼女は何か自分の体が恐ろしく、罪深いような気持ちにさえなったのである。
彼女の初恋も、この頃だった。やはり山賊の一人で、口髭を生やした、にやけた色男がいたが、無知な少女にありがちな事で、彼女はこの男に恋をした。しかし、この男はマリアの自分への恋心に気づいたものの、親分の女に手を出す事は怖くて、彼女の自分への熱い視線に気づかぬ振りをしていた。
そうしているうちに、フリードとジグムントが現れ、親分も色男も含めて山賊どものほとんどを、蝿でも殺すようにあっけなく殺してしまったというわけである。
そういう意味では、フリードはマリアの救い主ではあるが、自分に性の快感を教えた男と初恋の相手を殺した相手でもあったのである。これはフリードのまったく気づかない事であったが、世の中には、そういう水面下の事情というものがあるもので、自分が善い事をしてやったと思う当の相手から恨まれる事もあるわけだ。しかし、マリアは善良な娘だったから、やはり自分が山賊の手から救い出された事を感謝するべきだろうとは思っていたし、若くハンサムなフリードが好きにもなりかかってはいた。とはいえ、まだ初恋の人の死の痛手からは抜け出していず、フリードに抱かれたのも、愛情よりはやはり義務の念からに近かったのである。
マリアは、見たところはまったく天使のような美少女だったが、それだけに男の毒牙にかけられやすくもあり、このような運命を辿ってきたのであった。幸運だったのは、これだけの性体験の間に、まだ一度も妊娠していなかったことくらいだが、これは彼女の生来の体質によるものであった。
芸能界の美少女タレントなどに対し、ロマンチックな夢想を抱いている若い男性には残酷な話だが、およそ世の中の現実とはこのようなものであり、美人や美少女がいれば、たいていは近くにいる不良青年などに蕾を散らされているものなのである。美男美女というものは、ある意味では野獣の餌のようなものであり、本人にとって美貌が幸福に結びつくとは限らないものなのだ。オスカー・ワイルドなどは「美貌は、君、災いだよ」と言っているくらいである。
第十章 林の中
さて、フリードとマリアとジグムントはビエンテの町を出て、パーリャに向かった。途中、フリードを悩ませたのは、ジグムントが、休憩の度にマリアを近くの林の中に連れて行くことであった。もちろん、それが何を意味するのか、フリードは分かっていた。
満足そうな顔で戻ってくるジグムントと、衣服を乱し、顔を上気させているマリアの顔を見ると、フリードの胸は嫉妬で一杯になった。ならば、自分もマリアにお願いすれば良さそうなものだが、若い男にありがちなプライドのために、フリードにはそれが出来なかった。
ジグムントの方は、そうしたフリードのお上品ぶりを内心では半分憐れみ、半分嘲笑っていた。彼はもはや、恥や外聞、他人の思惑などというものから超越しており、この年でまだ毎日のように性欲があり、マリアという美しい旅の連れ合いに恵まれた事を幸運としていた。まったく、この世に生まれて、しかもこの年になって、マリアのような美少女と寝られる事くらい幸運な事はあるまい。
しかし、パーリャも近くなってくると、フリードの強情も揺らぎ始めた。もうすぐ、この美しいマリアとはお別れなのだ。
ある日の午後、昼飯のために休憩した時、フリードは顔を真っ赤にしながら、マリアに言った。
「マリア、僕と来てくれ」
ジグムントは、(やっと強情を捨てたか)、という顔でフリードを見た。
マリアは、嬉しそうにフリードに頷いて付いて来た。
「もう私の事を嫌いなのかと思ってました」
林の中で、マリアはフリードに言った。
「嫌いなもんか。だって、君はあの爺さんの相手ばかりしているじゃないか」
「だって、あの人も私の恩人ですもの」
これに対して、フリードは言う言葉が無かった。
「君は、誰の相手でもするのか。そんなの……娼婦じゃないか」
「娼婦とは、マグダラのマリアのような人でしょうか。よくわかりませんが、私はただ、恩を受けた人に恩を返そうと思って……」
「だからって、何も、こんな形でなくたって」
「だって、私にほかに何があるのでしょう。フリード様は私を抱きたくないのですか?」
「そうじゃない、僕は……」
フリードには、これ以上論理的な説明はできなかった。自分がマリアと「したい」と白状する事は、まるで自分が動物的な人間であるかのように聞こえるし、「したくない」と言えば嘘になる。
「僕は……あなたを抱きたいのだ。だが、あなたをほかの奴に抱かせたくない」
「そんなの、無理ですわ。私はあの方を嫌いではないし、あの方が私を求めますもの。私を求める人を、どうして拒めるでしょう」
もはや言葉は無駄であった。フリードは、敗北感を抱きながらマリアと性交し、精神は惨めであったが、この上ない絶頂感を感じて肉体は満足したのであった。
林から戻るとジグムントが皮肉な目でフリードを見た。
「満足したようだな。マリアは満足させたか?」
「はあ?」
女を満足させるなどという考えは、フリードの頭にはまったく無かった。いや、一部の上流階級の漁色家などを除いて、この当時の男のほとんどは、女にも性欲があるなどという考えは持っていなかったのである。
「仕様の無い奴だな。女の体に火をつけたままにしとく気か。どれ、この青二才の後始末をわしがつけてやろう」
ジグムントはマリアの手を引いて、林の中に連れて行った。マリアが嬉しそうにその後を付いて行った事が、フリードに屈辱感を与えた。
やがて、林の中からマリアのすすり泣くような声が聞こえてきた。もちろん、快楽の泣き声である。
フリードは石の上に腰を下ろし、両手で耳を塞いだ。
再び戻ってきたマリアは、顔を上気させ、足元がふらふらしていた。
「私、もうあなた達と離れられない。お願い、私をあなた達の端女にでもして、連れていって下さい」
マリアはジグムントにすがりついて、言った。
「それもいいが、まずは両親に会わんとな」
ジグムントは、優しく彼女の髪を撫でながら言った。
昼食の間、フリードは黙りがちであった。なぜ、この若くたくましい自分よりもマリアはこの年寄りを選ぶのか。そこには、自分の知らない秘密の技術がありそうである。
(畜生、俺は力であらゆる美女を手に入れてやる。女に愛されるのではなく、女を奪うのだ)
屈辱感から、普段の善良さにも似合わずフリードはそんな野蛮な事を考えながら昼食を終えた。善人でも、いつでも善人らしく考えるとは限らないものなのである。
こうしたフリードの鬱屈を晴らす機会は、そのすぐ後に訪れた。
第七章 ビエンテの夜
「まずは旅籠じゃな。ビールでも一杯やって疲れを直そう」
ゆったりと馬を歩ませて町に入りながら、ジグムントは言った。汗と埃にまみれた顔は、早くも喉を通るビールの味を想像して、弛んでいる。こんな時代にビールがあったのかと疑う、作者の私よりも無知な読者のために言っておくと、ビールは紀元前から知られた飲み物である。ただし、もちろん、冷蔵庫でキリキリと冷やされたビールなどというものは無い。良く冷やされたビールを飲む喜びは、下戸どもが何と言おうと、現代に生まれた大きなメリットの一つである。
ビエンテの町は、他の町に比べて裕福らしく、石造りや煉瓦造りの立派な家が多い。しかも、道路に砂利が敷かれているのにフリードは驚いた。ローラン国の首都でも、道は土のままで、雨がふるとひどいぬかるみになるのが普通である。
「この道では、馬には少々可哀想じゃな」
ジグムントは呟いて馬から下りた。フリードたちもそれに習う。
やがて、フリードたちは旅籠を見つけ、中に入ってビールを注文した。
「さすがにくたびれたのう。これで風呂に入れれば、ぐっすり眠れそうじゃ」
ジグムントは生ぬるいビールを三杯飲むと、すぐに酔いが回ったらしく、先に部屋に引き上げた。
フリードとマリアは言葉少なに夕食を終え、それぞれの部屋に入った。フリードとジグムントは同じ部屋だが、マリアの部屋は別に取ってある。
その夜、フリードの部屋の扉が小さくノックされた。フリードはベッドから起きて扉を開けた。マリアが外にいた。
「お話があります。私の部屋に来てください」
フリードは胸をどきどきさせながらマリアの部屋に行った。
マリアは、しばらくためらっていたが、やがて思い切ったように言った。
「フリード様は、私がお嫌いですか?」
「い、いいえ、嫌いだなんて」
「では、私を抱いてください。それとも、山賊などに汚された女の体を抱くのはお厭ですか」
「まさか、そんな事は考えたこともありません」
「わたしは、フリード様が好きです。でも、私はこのような汚れた身。山賊から救われたお礼をすることもできません。せめて、もし、お厭でなければ、私の体を自由にしてください」
「そんな、あなたは汚れてなどいない」
「ならば、どうぞ……」
マリアは言葉をとぎらせた。
マリアの申し出を断るのは、かえってマリアを傷つけることだと、フリードにも分かった。
「本当に、いいのですね」
フリードは、マリアをベッドに横たえ、その耳元に囁いた。
「ええ……」
マリアは恥ずかしそうに言った。
月光が、窓から差し込んでいる。
その光の中で、フリードはマリアの着ているものを脱がせた。
真っ白な裸身が彼の前にある。神々しいばかりに美しいとフリードは思った。
……
以下、元の文章ではおよそ一ページくらいのエロシーンがあったのだが、この文章が公表されると作者の幼い娘たちに対して父親の威厳が保てなくなるので、残念ながら割愛する。読者は、自分で想像するように。
……。
フリードはすっかり満足して、大きく溜め息をついた。
マリアは裸の上半身をベッドの上に起こしてフリードにやさしくキスし、呟くように言った。
「これで、少しでもお礼になったかしら。でも、もうすぐでお別れなのだから、こんな女の事など忘れてね」
「忘れるもんか。マリア、パーリャに着いた後も、会って貰えないか」
「分からないわ。お父様やお母様が、どうするか」
夜が明ける間際まで、フリードはマリアと共にベッドの上にいた。若いフリードだから、最初の交合の後すぐに元気を取り戻し、二度、三度とした事は言うまでもない。
名残を惜しみながら自分の部屋に戻ると、同じ部屋で寝ていたジグムントが声を掛けた。
「どうだったかな。マリアとうまくいったか」
フリードはどぎまぎしながら闇の中で頷いた。
「え、ええ」
「若いというのはいいのう。だが、お前さんたちが結ばれて良かったわい。パーリャに着くまでお前があの子に手を出さなければ、よっぽどわしが頂こうかと思っとった。あんな美人を目の前にして手を出さんのは、間抜けだぞ。その点、あの山賊どもの方が余程賢いわい。欲しいくせに我慢する、その我慢で何がどうなるのじゃ。食いたい物はさっさと食わねば、二度とあるとは限らん。それがこの世の真実というものだ」
ジグムントは起きあがって、言った。
「さて、わしもマリアにお願いしてみようかな。お前たちのせいで、何だかむずむずして、このままでは寝られぬ。あの子が厭だと言えばそれまでの話。言ってみる価値は十分にあろう。それとも、お前はそれを止めるか?」
フリードは、あっけにとられた。ジグムントのような老人が、まさかこんな事を言い出すとは思いもしなかったからだ。
「い、いいえ。それはマリアの気持ちしだいですから」
「そうかな。それがお前の本心だとはわしには思えん。だが、お前がそう言うなら、そうしておこう」
ジグムントは部屋を出て行った。
残されたフリードは、呆然と佇んでいた。まさか、自分の保護者だとも理解者だとも思っていたジグムントが、このような仕打ちをしようとは。しかし、マリアがあのような老人を相手にすることはあるまい、と考えて、フリードは自分の心を慰めた。
だが、ジグムントはそのまま二時間ほども帰ってこなかったのであった。
第八章 男と女についての思弁的駄弁
翌朝、遅い朝食の席で、フリードは、マリアと顔を合わせる事ができなかった。昨夜の自分との間の出来事よりも、その後ジグムントとどうなったのかが気になって、マリアの顔が正視できなかったのである。その心理は、自分でもよく分からない。マリアが、自分に対して恥ずかしいだろうから、彼女の顔を見るのが悪い気がするのか、それとも、そんな事を気にする自分の心がちっぽけで恥ずかしいのか。
ジグムントは、帰ってきてからも、何があったかは、意地悪く、言わなかった。今朝もいつも通りに、いや、いつも以上に上機嫌で、マリアに冗談口など叩いているが、マリアとジグムントがいつもより馴れ馴れしく見えるのは、自分の気の廻しすぎなのだろうか。そんな事を考えていると、フリードは自分が厭になってきた。
もしもマリアがジグムントと寝たのなら、こんな誰とでも寝るような女など忘れてやる、とフリードは幼稚な決心をした。彼のために弁護するなら、男というものは、女の純潔や貞潔を神聖なものと思い、女が自分のためだけの物であることに異常なまでの誇りと喜びを感じるものであり、トルストイの「クロイツェル・ソナタ」に見事に描かれているように、自分の女と信じていた女の「裏切り」ほど男を絶望させるものはないのである。
女性は、その時の自分の感情がすべてであり、性的な情熱の前では、いかなる道徳も女を縛れない。だからこそ男の作った道徳は、女を縛り付けることに重きを置いているのである。たとえば、中近東あたりでは、男が女の体に触れる事を厳しく戒め、買い物の釣銭の受け渡しすら、手渡しはしないという。これは、女性が肉体的な接触に興奮しやすいものであることから来ているものであり、昔の人間は、女性をそういう誘惑から遠ざけることで道徳的な危険性から守っていたのである。これはある意味では一つの叡智だが、女性を縛り、苦しめるものでもあった。女が性的に解放された現代では、逆に男が自らの偏狭な「倫理」によって苦しむ世の中になったわけで、昔、女を苦しめたつけが男に回ってきたわけだ。
男は愛する女が過去にも未来にも自分ひとりだけのためのものである事を望むが、女にとっては、今この時に男が自分を愛し、自分に尽くし、自分に服従してさえいればいいのである。女性はむしろ浮気な男の心を自分に向けさせることに情熱を傾けるものである。どちらかといえば、堅物の男よりも浮気者の男の方が女にはもてるものであり、この事をバルザックは「女というものは、他の女が興味を持たないような男には興味を持たないものだ」と言っている。
女性は概して、自分自身の考えよりも他人の評価を重んじるものである。(ただし、世の亭主たちは知っているとおり、自分の亭主の意見にはまったく耳を貸さないものだが)他の女の目から見てから評価されない男は、男として価値が無いと、女性は心の奥底では考えている。したがって、一人の女にもてたければ、人気者になって女全員にもてねばならない。もっとも、これは一般論であって、中には世間的評価と関係なく男を好きになる女もいるにはいるし、ヤクザのような最低の人間を好きになる女は数え切れないほどいる。(このことは、女性が世間の道徳よりも、男の「力」を重んずることの証でもある)つまり、女が興味を持つ対象になるかどうかは、恋愛の出発点にしかすぎないのである。男でも、美貌に恵まれているというだけで女たちから興味を持たれる存在になることはよくあるが、そういう人間が本当にもてているとは限らない。このことは、女に本当にはもてたことがない作者が保証する。数学的に言えば、この事から作者は美貌であることに……ならないか。
女にもてる男というものは、結局は女好きな男、女にまめな男に限られるのである。相手が自分に欲望を持っているからこそ、女性もその男を好きになるのであり、女より本やテレビゲームが好きな男が女にもてるわけはない。ついでに言うならば、一般の女にもてない作者も、自分が興味を持った女性(というのは、たいていは美しい女性だが)からは、自惚れではなく、なかなか好感を持たれるのである。しかし、作者は家庭が何よりも大事なので、それ以上に進めないというのが辛いところだ。
このような脇道に話が逸れるのを嫌う向きもあることは知っているが、私は小説の良さとは作者とのお喋りにあると信じているので、このような十八世紀イギリス小説風の無駄話が時折出てくるのは許して頂きたい。スターンだったか、「脇道こそ小説の太陽である」とか言っているが、まったくそうだと作者は考えているのである。
ついでに白状しておくと、この小説の書き方もまったくスターン流で、つまり「最初の一筆は作者が書く。しかし、その後どうなるかは神のみぞ知る」というもの、要するに、何の構想も当てもなく、思いつくままに書いていくだけである。しかし、もしもこの小説に何か自由で気楽な雰囲気が感じられるならば、それはこの書き方が小説の神様の神意に叶っているせいだろう。まったく、世の中に見事な小説は腐るほどあるが、作者自身が楽しんで書いている小説は、滅多にないのではなかろうか。そのせいで、「上手いが面白くない。ケチのつけようはないほど見事だが、さっぱり楽しくない」という小説がやたらに多いのである。かの夏目漱石も、「吾輩は猫である」や「坊ちゃん」の頃は、作者自身が楽しんで書いている事がはっきり分かるが、その後の真面目小説になると、明らかにその楽しさは無くなっている。
おそらく、その真面目小説のお陰で彼はちゃんとした作家であると認められ、教科書にも取り上げられるような文豪となったのだろうが、山田風太郎氏などのように、彼の傑作は「猫」と「坊ちゃん」である、と断言する慧眼の士もいるのである。
ついでに、そういう事が気になる向きに教えておくと、マリアは実際にジグムントと寝たのであった。詳しくは次の章で述べるが、彼女は、山賊たちに拉致されるずっと前から、ほとんどが強姦される形ではあったが数回の性体験はあり、山賊の女とされた経験の後では、自分の貞操などというものにはもはやまったく価値はないと考えていた。だから、自分の体が欲しいという男がいたら、それがよほどいやな男でない限りは、誰にでも自分の体を提供する考えになっていたのである。
見かけと実際のこうした食い違いは世の中に結構あるものであり、まったく手の届かない清純な美女と思っていた女が、案外簡単に男に身を任せるという事は多い。ある人物の客観的価値と、本人の自己判断による価値とは別物なのである。そのために、下品なブスが、自分をとんでもない高値で売ることに成功することもあれば、天上的な美女が、つまらない男にあっけなく身を任せることもある。いや、女性は、自分を望む男に身を任せるのが常だから、強引で卑しい男ほど、美女を手に入れるものである。ゲーリー・クーパーのようなシャイな美男子が美女を手に入れるのは、ハリウッド映画だけの話である。
ある昔の漫画の中で、美女に惚れた醜男を慰めて、その友人が、「あきらめてはいけないよ。だって、あの人は悪趣味かもしれないじゃないか」と言うのがあったが、確かに相手が悪趣味なら、ブスや醜男の方が有利かもしれない。要するに、自分の主観だけで最初から決め込んでしまってはいけないということである。
さて、脇道が思いがけず長くなった。しばらくはこのような無駄口は叩かず物語の進行に努めるつもりなので、真面目な読者は安心して貰いたい。
第五章 山賊の後宮
二人が砦に入った時は、残る山賊は逃げ去った後だった。しかし、そこに二人は思いがけない物を見た。
砦の奥の部屋を開けると、そこに若い娘が二十人ほどもいたのであった。
山賊達に拐かされてきた娘たちであった。おそらく、この近辺の村の娘たちか、街道を旅する商人の娘だろう。
娘たちは、二人が山賊たちを倒した事を知って、歓声を上げた。
フリードとジグムントは、思いがけない光景に、目を見合わせた。
ジグムントは、さらに奥の部屋を探索し、留守番の山賊が持ち逃げし損なった財宝類を掻き集めてきて、それを娘たちの前にぶちまけた。
「お前達、山賊の慰み者となって傷物になった以上は、普通に結婚するのは難しいだろう。これを皆で分け、家への土産にするなり、商売の元手にするなりしたらよい。金さえあれば、結婚しようという馬鹿、いや、結婚相手も見つかるぞ」
娘たちは再び歓声を上げた。
「これこれ、奪い合いをするでない。公平に、公平にな」
ジグムントが娘たちに言う間に、フリードは物問いたげに自分の方を見ている娘に気が付いた。
「君は? どうして貰わないの」
娘は寂しげに微笑んだ。
「お金なんて。……自由になれただけで十分ですわ」
その娘は、娘たちの中でも特にきれいな顔をしているだけに、フリードは彼女に心引かれるものを感じた。
「あのう……」
その娘がフリードに言った。
「お願いがあります。図々しい願いかもしれませんが」
「どんな事ですか」
「私たちをそれぞれの家まで送って貰えないでしょうか。先ほど、二人逃げていったという話ですが、山賊はここ以外にもいます。家に戻る途中で山賊たちに遭えば私たちはまた連れ戻されてしまいますから」
フリードはジグムントの方を見た。
ジグムントは頷いた。
「よかろう。その娘さんの言う通りだ。このまま山賊に連れ戻されては、仏作って魂入れず、だからな」
古臭い俚諺でジグムントは娘の申し出を承諾した。
山賊達の馬は、全部で十三頭残っていて、その馬が役に立った。娘達を二人ずつ馬に乗せて旅をすることができたからである。
娘たちの数は、正確なところ、二十一人だった。皆、十人並み以上の顔をしているのは、ここに連れてきた娘たちの中で顔のまずい者は、最初に殺されていたからである。それを目の前で見せられた娘たちが山賊たちの意に従わざるを得なかったのは当然だろう。
その二十一人の娘たちをそれぞれの家に送り届けるのは、大変な苦労であったが、その苦労というのは、娘たちのお喋りのためであった。奴隷の身から解放された嬉しさからか、娘達はひばりのように陽気になってはしゃぎ、中にはフリードに大胆にモーションをかける(死語)娘もいる始末であった。そのへんは、娘とはいえ、山賊たちの夜の相手をしてきた娘たちであるから、女を知らないフリードに太刀打ちできるわけがない。しかし、フリードは、あの寂しげな顔の娘を意識して、他の娘とそういう関係になることができなかった。
ジグムントの方は、老人のくせにこの思わぬハーレム状態にすっかり大喜びである。娘達と卑猥な冗談に打ち興じて大笑いをしている。それどころか、夜にはどうも、娘たちの寝所に行って不埒な事をしているようである。
ともあれ、最後から二人目の娘を家に送り届けた時は、フリードはほっと一息つき、ジグムントは残念がった。
最後に残ったのがあの寂しげな顔の娘であったのは、フリードにとっては嬉しいことだった。
娘の名はマリアと言った。抜けるように色が白く、うるんだような大きな黒い瞳に長い黒髪。いかにも若い男が惚れそうな、絵に描いたような美少女である。
彼女は、フランシアの首都、パーリャの商人アキムの娘だということである。体が弱く、小さい頃から東の保養地で療養しながら成長し、体も丈夫になったので、都の両親の所へ戻ろうとする途中、山賊達に襲われたのであった。
第六章 憲法第九条?
山を下りてフランシアに入ってからすでに半月ほどが過ぎていた。あたりの風景は、ローラン国とはだいぶ違って平野が多く、田畑も多い。作物は小麦かライ麦が多いが、ブドウ畑も多く、またフリードが見たこともない作物も見られる。
季節は初夏で、爽やかな気候は旅には最適であり、しかも隣にマリアという美しい娘がいるので、若いフリードは幸福そのものだった。なにしろ、生まれてから十七になるまで育った村には、女は百人くらいしかいず、その中で適齢期の娘は十人くらい、となると、その中に美人のいる確率がゼロに近いことは言うまでもない。その中ではまあまあの顔をした娘が、自分こそがフリードの未来の嫁だと勝手に決め込んでフリードにまとわりついていたが、フリードはこの娘にもまったく興味は持てなかった。美人が一人もいない自分の村の女たちから推測して、彼が世の中の女全体に期待を持たなくなったのも当然だろう。マリアという娘の美しさは、彼の女性観そのものを変えるものであったのだ。
マリアは無口な娘で、自分から話をする事はほとんど無く、問われた事に答えるだけであったが、やはり山賊の女にされていた事が心の傷になっているのだろうと、フリードは彼女の心を推察していた。
娘たちをそれぞれの家に送り届ける度に馬が余っていったので、その余った馬は悪い馬から順に売り払っていき、ジグムントとフリードの懐には金がたっぷり出来ていた。この当時、馬は人間以上に価値があったのである。従って、九頭分の馬の代金というと、まず普通の町人なら一生遊んで暮らせるくらいの金額であった。
馬に乗っているお陰で、重い鎧を運ぶ苦労も無く、しかも山賊の根城にあった武器類には槍、剣、盾などもたっぷりあったので、フリードとジグムントの武器も今は充実していた。と言っても、それらの武器は、今の所、馬の背に乗せているだけだが。山賊の残した武器類は、もちろん二人が身につけるのに十分な以上にあったが、その大半は通りがかりの町で売り払い、金に換えてある。
「パーリャまでは、まだだいぶ遠いのですか」
フリードはジグムントに聞いた。
「そうだな。あと五日くらいかかるかな」
「やはり、広い国ですね。それに、平和そうだ」
「さあな。わしには、庶民が生活に満足しているようには見えんがな」
「そうですか?」
フリードは驚いて、小麦畑で畑仕事をしている人々を見直した。彼と目が合った百姓は、慌てて目を逸らした。フリードを騎士だと思って、恐れている様子である。
「そうですね。何か、びくびくしているみたいです」
「どこの国でもそうじゃよ。武器を持たぬ者たちは、武器を持った階級を恐れ、その意に従わざるを得んのだ。人間が人間らしく生きるには、この世の中では、武器を持つしかない」
「いいえ、違います」
珍しく、マリアが憤った口調で言った。
ジグムントは、大人しいマリアのこの反応に驚いて、彼女の顔を見た。
「皆が武器を持って争い合うなんて、間違ってますわ。皆が武器を捨てればいいのです」
ジグムントは、穏やかな微笑を浮かべてマリアを見た。
「お嬢さん、それは理想というものじゃよ。わしは今のこの世の中の話をしているのだ」
「分かってます。でも、人々が心に理想を持たないから、今の世の中があるのではないでしょうか。人々が、自分の欲望よりも良心を重んずるようにならないと、この世の中はいつまでたっても野獣の世界のままですわ」
ジグムントは肩をすくめて議論を打ち切った。この事は、長い隠者暮らしの間に何度も彼自身考えてきた事であり、結局は、人間性自体が変わらない限り、この世から暴力と闘争は無くならない、そして、世界中の人の人間性が変わることは不可能だというのが彼の結論だった。
人間性そのものを善とし、変わり得るものと考えるか、それとも悪とし、変わり得ないものと考えるかは、主観の問題であり、議論しても平行線を辿るだけであろう。
フリードも、大人しいマリアの、この激した態度に驚いたが、言葉を挟めずにいた。こちらは、この種の問題についてまったく考えた事も無かったからである。彼は善人だったが、反射神経の男であり、単純に自分がするべきだと思った事を反射的にするだけの人間であった。こういう人間は、自分の考えや行動について分析する習慣もないから、議論はできない。現代人なら、まったくの阿呆扱いされるタイプの人間、出世のできない人間である。むしろ、フリードたちのような腕力の時代に生まれたほうが良かった人間も、現代の人間の中にもたくさんいるだろう。作者自身、腕力は無いものの、口先で生きるよりは剣で生きたほうがずっといいと思っているのである。
やがてフリードたち一行の前に町が現れた。ローラン国なら首都になれる大きさだが、フランシアの町としては中くらいだろう。
「ビエンテの町じゃな。ここで休んでいくことにしよう」
ジグムントの言葉に、フリードとマリアは頷いた。
第三章 騎士への道
六畳ほどの大きさの室内には、大きな木箱のようなベッド以外には家具らしい物はない。部屋の壁には、聖者の像が棚に載っていて、お灯明が上げられている。窓から見えた明かりは、この灯明であった。
「御覧の通り、ここにはベッドは一つしかない。床に寝て貰うしかないが、それでもいいかね」
老人は、フリードをじっと見て言った。
老人は、年の頃は五十くらいだろうか。背が高く、肩幅が広く、まだ腰も曲がっていない。骨太のがっしりした体は、若い頃何かで鍛えたものらしく思われる。頭はてっぺんがほとんど禿げて、灰色の髪がその禿頭の周りを後光のように囲んでいるところは、何やら神々しい感じさえある。しかし、その目は、鋭かった。
「もちろん結構です。屋根と壁さえあれば、文句はありません」
「食事はパンと水しかないぞ」
「それも結構です。私が干し肉と炙り肉を持っていますから、それを一緒に食べましょう」
「ほう、炙り肉とは有り難い。ここのところ肉とは縁がなかったから、肉の味を忘れておったところだ」
老人は部屋の隅にあった大きな樽を運んできて、それを食卓にした。
「そのベッドに腰掛けなさい。わしはこっち側に座る」
樽の上に置かれた炙り肉を老人は手に取って、逞しい歯で噛みちぎった。まだ、歯が抜ける年ではなさそうだ。
「うむ、美味い。年は取っても、やはり肉より美味いものはない」
老人は美味そうに兎の炙り肉を食い尽くした。
「ところで、お前はどうしてこんな山の中を歩いておる」
「フランシアに行こうと思って旅をしているのです」
「ほほう、どうしてだ」
フリードは返事に困ったが、嘘をつくことに慣れていなかったので、つい本当の事を言ってしまった。
「実は、人を殺して逃げているのです」
「ほう、そんな無邪気な顔をして、お主は人殺しなのか。どんな事情で殺したのだ」
老人は面白そうな顔をした。フリードの言葉に驚いた様子はない。
フリードは、この老人が自分の人殺しの話を少しも怖がらないので、安心して、村を離れた事情を話した。
老人は、頷いた。
「そんな事か。それならお前には罪はない。父親を救うためにお前が役人に刃向かったのは、息子としては当然だ。だが、それでお主は居場所を失ったわけだな。そいつはとんだ災難だった。しかし、何が自分の幸いになるかは分からん。お前には、これからいいことがあるはずだ。お前は、いい顔をしている」
「あなたには、人の運命が分かるのですか? あなたは魔法使いですか?」
「そんなものではないが、人の運命は性格によるものだし、性格は人相に現れるものじゃ。悪相の善人などいた例はない。もっとも、美男がいい人相だというわけでもないがな。わしの知っている極悪人は、この上ない美男だったわい」
フリードは、老人の言葉の端々から、この老人が数奇な運命を送ってきた人間であるように感じた。
「あなたは、どんな方なのですか」
フリードは思い切って老人に尋ねた。
「おお、言い忘れておった。わしはジグムントと言って、フランシアの騎士だった者だ。長い間あちこちの戦場で人殺しをしてきたが、そんな暮らしに嫌気がさして、ここに籠もって隠者のような暮らしをしているのだ」
騎士と聞いて、フリードの目が輝いた。騎士になることは、フリードの長い間の憧れだったのである。
「騎士の身分を捨てるなんて、もったいない」
「なあに、お前だってその気になれば、すぐに騎士になれるさ。どこかの戦場に潜り込んで敵の大将の首を一つ上げればいい。それを手みやげに仕官するのだ」
「そんな簡単なものですか」
「どこの国王も、腕のいい騎士は欲しがっている。ただし、そのために金を使うのはいやがるから、鎧兜を自弁して、馬も自弁できるなら、いつでも騎士として召し抱えるさ」
「そんなものですか」
「そんなものだ。世の中というものは、表を見れば雁字搦めだが、いくらでも抜け道があるものさ」
ジグムントの言葉は、フリードを考え込ませた。自分は生まれた時から平民で、それ以外の身分になれるなどと考えたこともなかったが、そうではなかったのである。
「もしも、お前が騎士になりたいのなら、わしの武具をお前にやってもいいぞ。昔の記念に取って置いたが、どうせあの世までは持っていけん。先ほどの炙り肉の礼に、お前にやろう」
ジグムントは、ベッドにしている木箱の上のマットを上げて、木箱の蓋を開けた。
木箱の中から取り出したのは、見事な作りのプレートメイル、つまり、板金鎧である。兜や籠手もついている。木箱の奥から、老人はさらに、立派な剣を取り出した。
「どうだ。なかなか見事な剣であろう。戦場で何人もの敵を倒してきた業物だ」
老人が鞘から抜いた剣は、獣脂でも塗ってあったらしく、錆一つついてなかった。さすがに、研いでないだけ輝きは鈍かったが、いかにも実戦で使われた物らしい風格がある。
「今のわしでは、これだけの重さの鎧を着ては動けん。お前はなかなか逞しい体をしておるから、大丈夫だろう。どうだ、わしがお前の従者をしてやろうか」
「えっ」
フリードは自分の耳を疑った。
「いや、話をしているうちにもう一度世間を見たくなってきたのだ。このまま栗鼠や猿を相手に山の中で死んでいくのもつまらん。わしはお前の顔が気に入った。お前さえよければそうしてもいいが?」
「従者だなんて。私があなたの従者をするならともかく」
「騎士も従者も同じようなものだ。それに、この年では、騎士よりは従者の方がわしは気楽だ。戦場で命を賭けて戦うのはお前に任せる」
「分かりました。それなら、是非お願いします」
「だが、騎士になる以上は、いつ剣で命を落としても後悔するなよ」
「分かってます。剣一つで名を挙げるのは、ぼくの夢でしたから」
「本当のところ、戦場では、剣はあまり役に立たんよ。少なくとも、プレートメイルを着た相手には、長柄の斧か棍棒の方がよほど役に立つ。わしは、剣は、斬るよりも殴りつけるのに使ったものだ」
ジグムントは、剣を片手に颯爽と戦場を駆け巡る自分の姿を思い描いてうっとりとなっていたフリードの想像に水を掛けるような現実的なことを言った。
その晩のフリードの夢は、未来の自分が騎士の身なりで戦場に出ている姿だったが、敵の騎士(なぜかジグムントのような気がした)に棍棒で馬から叩き落とされるという、あまり威勢の良くないものだった。
第四章 山賊よりも山賊
翌日、朝食の後で、老人は自分の荷物をまとめ、フリードと共に小屋を出た。例の鎧兜は箱に収めてフリードが担ぐ。重さは、三十キロ、つまり子供一人分くらいあるだろうか。さすがの剛力のフリードも、この荷物を背負って山越えをすると考えると、気が滅入った。
「剣くらいはわしが持ってやろう」
ジグムントは、額に汗を浮かべているフリードの後から、気楽そうに歩いてくる。荷物は、杖のほかは、小さな皮袋を腰につけているだけだ。
「まったく、プレートメイルなどというものは、戦場以外では場所ふさぎなものだ。重ければ、捨ててもかまわんぞ」
老人の言葉にフリードは首を横に振った。こんな財産を、まさか捨てることができるわけがない。
「どこかで馬を手に入れたいところだが、山を越えるまではそれもまあ無理だな。疲れたら休むがいいぞ」
「いいえ、あなたこそ、無理なさらず」
礼儀正しいフリードは、老人を労る事を忘れないが、大荷物を背負ったフリードと、身軽なジグムントでは、どちらが従者か分からない。
荷物運びのほかに、フリードは食料の調達もしなければならない。木の枝に鳥がとまっていたりしたら、荷物を置いて弓を構える。
父親譲りの弓の腕でフリードが獲物を射止めるのを見たジグムントは、びっくりした。
「お主、凄い弓の腕だな。それだけの腕があれば、国王付きの弓隊に入れるぞ」
「いえ、私は、射撃手ではなく、騎士になりたいのです」
「まあ、確かに射撃手は、騎士より一段低く見られているからな」
ジグムントは、頷いて言った。
国境の山脈は、低いが広い。見渡す限り森林が続き、いつになれば出られるとも分からない。隣国フランシアへの山中の道はあるにはあるが、ここからはかなり離れているので、山の中を歩くしかない。
山に入って何日後か、フリードとジグムントは、山の中に不思議な物を見た。木を組んで作った要塞である。山の斜面を利用して作った小さな砦だ。規模から言えば多くても二、三十名くらいしか収容できないだろう。
「あれは?」
「うむ、おそらく山賊の砦だな。ここを根城にして、麓に出ていって強盗を働いているのだろう」
ジグムントは、フリードを見て、にやりと笑った。
「どうだ、一つ力試しをしてみんか?」
「力試し?」
「そうだ。二人で山賊共をやっつけるのだ」
「たった二人でですか?」
「そうさ。お前の弓の腕なら、遠くから何人か倒すことができる。相手の人数が五人以下になれば、二人でも何とかなるだろう。まあ、剣での戦いは任せておけ。プレートメイルさえ着ていれば、少々の剣の打撃には耐えられる。こっちが動くのも大変だがな。しかし、わしは弓は苦手だから、わしがプレートメイルを着て戦うしかあるまい。幸い、ここ数日の山歩きで、体調はいい。若い頃の半分くらいの力は出せるだろう」
若い頃の半分の力で、五人もの敵の相手ができるものかな、とフリードは疑わしく思ったが、ここはジグムントを信じることにした。山歩きをしていても、確かにジグムントの身のこなしは、相当な武術の達人であると見えたからである。
フリードとジグムントは、砦を見下ろす事の出来る崖の上に登って、砦の中を眺めた。柵で囲まれた砦の中には馬場があり、馬小屋がある。馬小屋には馬が五頭ほどいるようだ。しかし、山賊の人数が五人程度かどうかは分からない。山賊は今、仕事で「出張中」かもしれない。
「人間の数は?」
ジグムントがフリードに聞いた。老眼で遠視のジグムントだが、若いフリードの方が元猟師だけに遠くまで細かく見える。
「今いるのは二人です」
「少なすぎる。おそらく留守番だな。本隊が戻ってきた時に、人数が十人くらいなら、やることにしよう。それ以上は危険だ」
ジグムントはあくびをし、プレートメイルを着たまま、剣を抱いて木の根元に座り、居眠りを始めた。こういうところは年寄り臭いが、相当に剛胆でもある。
日がかなり斜めに傾いた頃、遠くから数頭の馬の足音が聞こえてきた。
ジグムントは目を開けてフリードを見た。
「来たな」
やがて視界の中に山賊たちの姿が入った。フリードは目を凝らして人数を数えた。夕陽を受けて、馬に乗った男達の鎖帷子や頭の鉢金の金具が輝いている。その身なりや人相の悪さは、やはり山賊以外の何者でもない。
「十二名です。砦の中の留守番を加えたら十四名。どうします?」
「十四名か。迷うところだな。……フリード、お前、矢で何人倒せると思う」
「七名か八名。やるなら、今です」
「よし、一か八かだ。行け! 矢を射るんだ」
頷いて、フリードは矢を射た。
その矢は、群れの先頭にいた悪党面の男の胸に突き立った。
男は驚いたような顔をして、馬から落ちた。
続けてフリードは矢を射る。二人目、三人目がそれぞれ胸にあるいは首に矢を受ける。
山賊達は周章狼狽して、馬の首を反対方向に向けるのもいれば、崖の上のフリードたちを見つけてそこに近づこうとする者もいる。
四人目、五人目と狙ったが、さすがに上からの矢を防ごうと盾を構える者もいて、なかなか倒せない。だが、こちらに近づこうとする者は、いい的だった。百歩以上の距離では外しても、五十歩くらい先の的をフリードが外すことは決してない。
ジグムントに言ったとおり、八人の人間を倒したところで、山賊たちの残りが崖の背後の斜面からフリードたちの所に登ってきた。砦の中の留守番を除いて、残り四人である。
「おっと、お前たちの相手はこのわしだ。フランシアにその人ありと名を知られたジグムントの剣を受けるがよい」
ジグムントは時代がかった台詞を吐いて、その前に立ちふさがった。
完全装備の騎士の姿を見た山賊たちは戸惑ったが、相手がたった二人と知っていきりたった。
「この野郎、俺達を相手にたった二人で戦おうとはいい度胸だ。膾に切り刻んでやる!」
こちらも陳腐な台詞で掛かってくる。
ジグムントはむしろ緩慢にも見える動きでその攻撃を受け止める。時には受け損ねて体に剣が当たるが、板金の鎧に当たっても相手の手が痺れるだけである。
一方、ジグムントが振り下ろし、切り払う剣は、山賊たちの薄い革製の防具や鎖帷子を物ともせず、山賊たちは次々に血しぶきを上げて倒されていった。やはり、力任せに剣を振るだけの山賊とは違い、剣の刃先がちゃんと合っているから斬れるのだろう。
フリードはその見事な剣さばきに見とれるばかりである。
ジグムントは、とうとうフリードが援護をするまでもなく、四人の山賊を一人で片づけたのであった。
「ジグムント、あなたは素晴らしい剣士だ!」
感激したフリードは、ジグムントに声を掛けた。
「なあに、昔執った杵柄という奴さ。だが、正直言って、少々草臥れた。腕の立つ相手があと一人いたら、やられたかもしれん」
ジグムントは肩で大きく息をついて地面に座り込んだ。三十キロもあるプレートメイルを着て三十分近く戦うのは、かなり大変な事のようだ。
「さて、砦の中の二人を片づけるか」
一休みした後、ジグムントは先に立って崖を降りていった。
第一章 脱出
今のポーランドに近いあたりに、ローラン国という小国があった。長いローマ帝国の支配の時代には国ですらなかったが、いつの頃からか、ルドルフという男がこの国の王となり、人々を支配し始めた。彼は西ローマの傭兵だった男であるが、十人ほどの仲間と語らってこの国で山賊を始め、やがてそれが数百人の武士団になったのである。そうなると、もはや彼らの支配に反抗できる人間は、百姓の中にはいない。もっとも、王と言っても、その暮らしぶりは、小さな荘園領主程度ではあったが、百姓以外の生き方を想像することもできない哀れな連中の中で王になろうというのは、良い思いつきだったと言えよう。
彼は国民に農耕や牧畜の収入や収穫の半分を上納することを命じた。その代わりに、自分たちが他の山賊や他国の侵略からお前達を護ってやるのだというわけだ。まるでどこかの国に居座っている占領国の軍隊みたいな言いぐさだが、それを信じている住民も多かった。国王様のお陰で安心して生活ができる。有り難いことだ、と拝む者さえ出てくる始末である。それがこの純朴な時代の人心だったのである。人々は神話や伝説を半分以上信じていたが、それと同様に宗教家や為政者の作り上げる大嘘も信じていた。
ルドルフは、大酒のみの乱暴者だったが、仲間には頭目としての能力を認められていた。第一に喧嘩が強いこと、第二に気前が良いことがその理由だが、もう一つ、彼の凶暴で執念深い性格が恐れられていたのが、彼が頭目になれた理由であった。人々を支配するには、愛情よりも恐怖が有効である、というのは、数百年後にマキアヴェリも書いている。
喧嘩は強いが、計算能力は無い連中のことだから、王国の経営は放漫そのものであった。徴収した膨大な年貢の穀物はろくな保管もされず王宮の穀物蔵に詰め込まれ、その大半が腐っていった。
この頃はすでにかなりな程度、貨幣は流通していたが、よその大きな国ならいざしらず、このような田舎国では年貢は当然物納である。しかし、王国の宮廷には、その物納された年貢を金に換えることのできる商才のある人間がいなかった。そこに目を付けたのが、この国の首都アルギアの商人ケスタであった。
彼は王に申し出て、自分がこの穀物を金に換えようと言った。王にしてみれば願ってもないことである。
ケスタが穀物を他国に売り払って、王に巨額の金を渡した時には、王は彼の手を握って感謝感激の体であった。その実、ケスタが穀物の販売代金の半分しか王に渡さなかったことなど、王は知らなかった。いずれにせよ、どうせ穀物蔵で腐っていたはずの穀物である。
やがてケスタはその財政能力を見込まれて、王の宰相となった。ケスタは年貢の穀物を外国に売り払い、王室と自分の懐を富ませたが、その年貢を払うために国民の大半が食うや食わずの有様であることなど歯牙にもかけなかった。このにわか貴族は、平民が年貢のために餓死したところで、自分たち貴族には関係ないことだ、と思っていたのである。成り上がりの人間の大方は、そういうものだ。成り上がりの代表、豊臣秀吉が、刀狩と検地で身分制度を固定し、自分のような成り上がりが二度と出てこられなくしたのは、いい例であろう。百姓上がりの人間だから、百姓に対して恵み深い政治をするだろうなどというのは、甘い期待というものである。自分と同じ人間が出てくる事を恐れた秀吉の為に、彼以降の百姓は、二度と百姓の身分から浮かび上がれなくなったわけである。
このローラン国の人口はわずか三十万人ほどである。国の大半は森林と野原と荒地と湖沼で、人間が住める耕作地は点在していたため、今なら、田舎の町程度の人口が、一つの国全体に散らばっていたわけだ。国には大きな町が三つ、中位の町が八つほど、小さな村が二十ほどあり、あとは村とも言えないような集落があちこちにあった。
そうした集落の中に、狩人の村があった。山奥の盆地にある、わずか五十軒ほどの集落だが、王室の収税人も、この集落の存在は知らなかった。だから、王室による収奪も無く、比較的平和に暮らしていたが、豊かだったわけではない。冬など、一月も山を探して一匹も獲物の無い時期もある。そうした時は、木の根や草の根を囓って生き延びるのである。
村には、村長がいた。村長というよりは、山の長である。狩りの名人で、百歩離れた所から木の上の栗鼠を矢で射ることができる。おそらく、常人の目には、百歩先の栗鼠など、姿も見えないだろう。
その村長には息子が二人いたが、その長男がこの話の主人公、フリードである。
フリードは、今年十七歳になる少年、いや、この時代ではもはや立派な青年である。背が高く、逞しい骨格をしていて、怪我をした大人一人を担いで半日以上山歩きができるくらい力が強く、持久力があった。山の民の常として、口数は少なく、穏和な性格だったが、決断が早く、思いこんだら梃子でも動かない頑固なところもある。顔だちは整っているが、滅多に笑わないため、愛嬌はあまりない。もともと田舎の人間、特に山の人間はあまり笑わないものだ。笑いは、文明の技術であり、自然に近い存在は笑わない。敵に対する軽蔑を表すために、誇張した笑いを笑うというのは、未開の人種でもあるが、日常的に笑うことなどはないのであり、田舎者は概して愛嬌には欠けるものである。
この集落に、ある日、王の収税人がやってきたことから、フリードの運命は大きく変わった。
二人の兵士を連れた王の収税人は、ムルドというこの狩人の村に対して、女たちが作る野菜の収穫、男たちの狩りの獲物の半分を王に差し出すように命令した。
村長のアギルはそれを穏やかに拒絶した。今でさえ生存に十分とは言えない収穫や獲物の半分も取られては、村人が生きていけるはずはないからだ。それに、獲物である動物の死体を、どのようにして納めるのか。
「獲物の皮をなめして、それを納めるのだ。肉は干し肉にすればよいではないか」
収税人の言葉に、アギルは首を横に振った。
「獲物は、我々が食っていくのにも足りないくらいだ。我々に飢えて死ねというのか」
「王の命令に背くというのか。ならば、兵士たちを差し向けて、お前たちを皆殺しにするぞ」
「それが王のすることか。王とはいったい何者なのだ。我々から獲物を取り上げる権利をなぜその男が持っているというのだ」
もちろん、この当時の人間が、権利などという抽象的な言葉を持っていたわけではないが、これは小説である。作者が、昔にふさわしい表現を思いつかない場合もあるのだから、これから先、会話の中に現代的な言葉がうっかり出てきても気にしないでいただきたい。
王の収税人は、背後に控えていた二人の兵士に合図をした。
「王の命令を聞かぬ者を、村長にしておくわけにはいかん。この者を捕らえよ」
二人の兵士は、剣を抜いて前に進み出た。
それを見て、アギルの後ろにいたフリードが前に飛び出した。
「やめろ、父に手を出すな!」
「邪魔をするなら、お前も殺す」
「やってみろ!」
フリードは、素早い動きで兵士の剣をかわし、その腕を小脇に挟むと、逆に取ってへし折った。
兵士は悲鳴を上げて腰を抜かした。
もう一人の兵士が斬りかかる前に、フリードは、腕を折った兵士から取り上げた剣を構えていた。剣を使うのは初めてだが、山刀で熊や猪と戦ったことは何度もある。
兵士の動きは、野生の獣の動きに比べれば、のろい。
斬りかかる剣を余裕をもってかわし、フリードは剣を横に薙ぎ払った。
兵士の首は宙に飛んで、収税人の足元に落ちた。
収税人は悲鳴を上げて逃げ出そうとしたが、その前に屈強な村人達が立ちふさがる。
「フリード、短慮だぞ。王の兵士は千人以上もいるという話だ。彼らを差し向けられては、我々はひとたまりもあるまい。ここはわしが何とかするから、お前はすぐここから逃げるのだ。いいか、この国の外に出て、身が安全だと分かるまでは絶対に帰ってくるなよ」
アギルは厳しい顔でフリードに言った。
「しかし、父上の身が危ないのでは」
「心配するな。わしは、お前の三倍も生きている。ここをどう処置すればいいかぐらい分かっている。さあ、わしを抱きしめてくれ。もしかしたら、これが永遠の別れになるかもしれん」
フリードは、涙を流しながら父を抱きしめた。
「お前の弟のヴァジルは、あと半月は猟から帰ってこない。別れを告げている暇はあるまい。あいつにはわしからよく言っておこう。では、行くがよい」
フリードは、父の言葉に頷いて、家に戻り、母に事情を告げて旅支度を整えるとすぐに村を出た。
背中には、山歩きに用いる皮袋を背負い、腰に山刀を下げて、肩に弓矢を掛け、手には肩ぐらいまでの長さの樫の木の杖を持っている。これが放浪の旅に出た時のフリードの姿だった。
(お母さんはきっと、僕がほんのわずかの間だけ身を隠すのだと思っているだろうな。しかし、もしかしたら、お母さんの顔を見るのも、これが最後かもしれない。お母さん、御免なさい)
フリードは、村を振り返りながら、心の中で母に謝った。
第二章 山の隠者
急ぎ足で山を下りていったフリードだが、国王の追っ手が来るとしても、まだだいぶ先の事である。この辺の山の地理に不案内な追っ手がフリードを捕まえるのは不可能に近い。人相書きなどで指名手配することもない時代であるから、現場さえ離れれば、一安心だ。
だが、これからは定住者であることをやめ、放浪の生活を送らねばならないことは、さすがにフリードに心細い感じを与えた。
フリードは、ローラン国の東にある首都アルギアとは反対の方向に向かって歩いていった。そのまま西に歩き続ければ、隣国フランシアに出る。だが、隣国との間は、深い森や山があちこちにあって、楽な道ではない。道そのものがほとんど無く、山や林、森の間を歩いている時間の方が長い。そして、その山や森には狼や熊がいた。旅人が多く通る街道には宿もあったが、フリードには宿に泊まる金は無かったので、もっぱら野宿をすることになる。森や山で木の実や草の実を取り、兎や鳥を矢で射て食べるのが、彼の唯一の食事である。もしも獲物がずっと無い場合は、そのままそこで飢え死にすることになる。
だが、三日ほど経つと、フリードの心には心細さはほとんど無くなり、自由で気楽な旅の生活を楽しむ余裕が生まれてきた。毎日違った風景と出会いながら暮らすのも面白い、という気持ちになってきたのである。こういった考えは、追い剥ぎや強盗など危険の多い旅を恐れ、必要以外にはほとんど旅をしなかった当時の人間としては、ジプシーを除いてはかなり珍しい部類に属しただろう。毎日が似たような作業の繰り返しである山の生活から、自由な空間の中に出た喜びを、今のフリードは味わっていたのであった。
季節は夏になったばかりで、まだまだ涼しく、吹き渡る風は心地よい。フリードは、歩いて汗をかくと、近くの小川や湖に、素っ裸で飛び込み、日を受けてきらきら光る冷たい水の中で泳いだ。そして魚を追い、野山で兎や野鼠を弓で射て食事にする。今の人間から見れば、毎日が遊びのような羨ましい生活だが、獲物がなければ明日にでも死ぬという厳しさが、その反面にはあるのである。
幾日かの旅の後、やがてフリードは、ローラン国と隣国を隔てる国境となっている、森に覆われた低い山脈に来た。ここを越えれば隣国のフランシア国である。フランシアはローラン国の二十倍ほどの大きさの国だ。森林国のローラン国とは違って平野が多く、農業も商業も発達しているという話である。そこで何とか生きていく手段を見つけることが出来るかもしれない。
山の麓で兎を三匹射たフリードは、それに岩塩をまぶしながらからからに火で炙って即席の薫製にした。山で獲物が見つからなければ、これが山を越える間の食料のすべてである。
フリードの皮袋の中には、火打ち石と干し肉、岩塩のほかに、革の細紐となめし革が入っている。なめし革は、民家で金か食料に換えるために家から持ってきたのである。そのほかに縫い物針が一本。これは、当時としては貴重な物である。皮や布があっても、針がなければそれを衣服や靴に仕立てることができない。針に限らず、金属製品は、すべて非常に高価であった。たとえば、フリードが腰に下げている山刀一本が、貂や狐の毛皮十枚にも相当した。もっとも、その毛皮一枚が、頭のいい商人の手を経て貴族に売られると、山刀数本分に化けたのだが、フリードたち田舎者には、そんなからくりは分からない。
この時代、平民には、職人と商人、百姓、山人、ジプシーなどがいたが、一般に商人、職人、百姓の順にいい暮らしをしていた。百姓の一部は山人よりはいい暮らしをし、他の一部は山人よりも惨めな暮らしをしていた。職人は百姓や狩人よりはましだから、職人になりたがる百姓は多かったが、自分で望んでもなれるとは限らない。当時すでにギルドが出来上がっており、既得権を守り、同業者数を増やさないように、そのギルドが職人世界を支配していた。まったく、人間というものは、自らの目先の欲のために、好んで、この世を狭く息苦しくしたがるものなのである。世の中が進むにつれて、すべてが法や規制で雁字搦めになっていくのは、大抵の場合、その規制によって利益を得る商人や、それと結託した官僚など一部の人間のためなのであって、けっして世の中全員のためではない。
山に入っていったフリードは、日が暮れてきたので、野宿できそうな場所を探した。
適当な場所を探しながら歩いていると、山の谷間に小屋が見えた。しかも、人がいるらしく、宵闇の中で、窓から明かりが漏れているのが見える。
あそこで一夜の宿を借りよう、とフリードは考えた。フリードの村では、村に迷い込んだ旅人に宿を貸すのは当たり前のことだったから、この家もきっと泊めてくれるだろうと無邪気に思ったのである。
丸太を組んで作った小さな小屋の扉をフリードは叩いた。
「どなたじゃな」
中からしわがれた声がした。中に住んでいるのは老人らしい。
「旅の者です。一晩、宿をお借りしたいのですが」
「……入りなされ。宿を貸すかどうかは、顔を見てからのことだ」
奇妙な事を言う男だな、と思いながらフリードは扉を開けた。