忍者ブログ
[23]  [24]  [25]  [26]  [27]  [28]  [29]  [30]  [31]  [32]  [33
アガサ・クリスティは、事件の犯人を誰にするかを最初から決めてプロットを作るのではなく、むしろ最後に決めていたらしい。つまり、話の合理性から、誰が犯人かは自然に決まるのであり、後はその「ミスディレクション」を作っていくのだと思われる。これは、「探偵」の推理が常に正解となる所以だ。他の犯人候補にはそれぞれ犯人となるについての不合理性があるわけだ。
別の見方をすれば、現実の事件でも「誰でも犯人とされる可能性はある」ということだ。ある証拠が他の証拠より重要だとか確実だというのは捜査側の主観でしかない可能性は常にある。それが、膨大な冤罪事件が生じる所以だ。
PR
どうでもいい話だが、新語の中でも「必要性があって生まれた」ものがあり、これは否定されるべきものではないと思う。たとえば「目線」という言葉は1970年代くらいに一般化してきた言葉で、最初はテレビ局でドラマの撮影時に使われたものらしい。それがなぜ一般化してきたかというと、流行というだけでなく、言葉としての便利さがあったからだ。
それまでは「視線」という言葉しかなかったが、それと「目線」は明らかに違うのである。「視線を感じる」という言い方はあるが、「目線を感じる」とは言わないことで、両者が違うのは明白である。つまり、「視線」という言い方は、実際に目から何かの放射線が出ているイメージであるが、「目線」は単に見ている人の目と見られている物を結ぶ動線でしかないのである。そして、後者では両者の位置関係が大事になる。だから「上から目線」とは言うが「上から視線」とは言わないわけだ。
それに対して、芸能人たちが使い始めて、素人がそれを真似した結果、既にあった同じ意味の言葉が駆逐されて、新語が「使われて当たり前」の言葉になることもある。これは昔からたくさんあるようだ。まあ、軽薄な流行語だが、服の流行同様に、流行したから仕方が無い、という類のものである。洋服の時代に羽織袴で生活するわけにはいかないわけだ。
夢を見たのだが、見ているうちに狂的な笑いの発作が起こりそうになって目が覚めた。内容はほとんど覚えていない。ただ、最後が、単調な音列の曲(「タラランタン・タン・タン・タン・タン」というリズムである。)の連続と、舞台上の怪人たちの無意味な舞踊と、彼らが唱える呪文のような「何とかかんとかケコクッキー」という発声と暗黒の舞台を照らす赤い照明が、見ている人間の精神を崩壊させて狂笑に導くようだ。
まあ、その前からナンセンスな日常の芝居(たぶん、我々の隣人としての異星人、あるいは狂人と我々普通人の会話の齟齬による笑い)があったのが、最後の狂笑への布石のようなのだが、一切覚えていない。最後に異星人が正体を現すのだが、チャチな着ぐるみと、全身タイツと、ステテコ腹巻などの集団で、それが「タラランタン・タン・タン・タン・タン」のリズムの単調な曲(最初は昔のCM曲の「ウガチャカ・ウガウガ」でもいい)で一斉に原始人的な、あるいはゴリラのような仕草の踊りを始めると、音楽の高まりと共に観ている者が狂人になっていくという感じだ。
どこかの大学生演劇グループに作ってもらいたい芝居である。題は「さあ、キチガイになりなさい」でいいのではないか。もちろん、フレドリック・ブラウンの名作のタイトルの借用だ。観客を本当に狂人にするか、笑い死にさせることができればお手柄だ。
前半は精神病院で患者たちが普通人の世界を皮肉る芝居をやる、という話でもいい。コオロギ食とか、風刺の材料はいくらでもあるだろう。
半可通がいろいろ言っているが、下のコメントでいいのではないか。音感的にもチェザーレがいい。

(以下引用)



2022/4/28 13:47

教科書が表記している方を使いましょう。多くは、チェザーレを採用しています。 大体、日本語表記するのが難しいですから、厳密に言えば両方不正解です。イタリア語の「Cesar」が正しいですが、それだと読めないわスペルミス連発なるので、便宜優先でのチェザーレを使ってるだけです。

某ブログに「刑名審合」という言葉が出ていて、昔「韓非子」は読んだことがあって、「二柄」の部分は特に感銘を受けたのだが、改めて「刑名審合」という言葉を見て、「刑」と「名」とは何だ? と疑問に思ったので調べてみた。韓非子の趣旨では「(君主は臣下の)言葉と行為が一致するかどうかを見よ」という趣旨で、行為なら、「刑」ではなく「形」が適切ではないかと思ったわけだ。形とは「実態」「実体」のことだ。調べると「刑名参同」という言葉もあって、ますます意味が分からなくなった。「参同」って何だよ。「賛同」は知っているが、それなら「賛成」と同じじゃないか、というわけだ。

(以下引用)

二柄 刑名参同 人君好を去り悪を去りて群臣素をあらわす

2015年12月23日 水曜日 晴れ

韓非子 中国の思想I韓非子 西野・市川・訳 徳間書店 1996年第三版

明主の導(よ)りてその臣を制するところは、二柄(にへい)のみ。二柄とは刑徳なり。何をか刑徳という。曰く、殺戮これを刑といい、慶賞(けいしょう)これを徳という。(韓非子、同書、p29-30)

刑名参同(けいめいさんどう):
人主まさに姦(かん)を禁ぜんと欲せば、すなわち刑名を審合(しんごう)すとは、言と事となり。(韓非子、同書、p32-33)

(人君、)好を去り、悪を去りて、群臣、素をあらわす。群臣、素をあらわさば、すなわち人君、蔽(おお)われず。(韓非子、同書、p37)

*****

 君主が君主でありつづけるためには、どうすればよいか。それが韓非のメイン・テーマであった。それを君主の臣下統率法にしぼって説いたのが、「二柄」である。中核のまた中核、ここに韓非の理論のエッセンスが示されている。
 術の基本となるのは、法によって定められた賞罰を行う方法である。これが刑名参同と呼ばれる厳格な勤務評定であった。・・・(中略)・・・
 さらに、刑名参同による賞罰を成功させるには、臣下にだまされてはならない。・・・君主と臣下の関係は、計算ずくであり、だましあいである。・・・上下関係のなかでの絶えざる闘争、その激しい動きを内包しつつ、現在の組織が成りたっているのだ。この認識の上に韓非の君主論の基礎がおかれている。(韓非子解説、同書、p37-38)

<<< 前のページ 次のページ >>>
プロフィール
HN:
冬山想南
性別:
非公開
P R
忍者ブログ [PR]

photo byAnghel. 
◎ Template by hanamaru.