(以下引用)
。○正勝云々。正勝は、書紀に「正哉」と書いてあるのに合わせ、これも書紀も「まさか」と読む。「哉(かな)」を「か」と読むのは、論じるまでもない。【書紀の注釈書で「まさや」と読んだのは間違いである。】「勝」を「か」と読むのは、この記に「正鹿山津見(まさかやまつみ)」とある神を、書紀では「正勝山祇」と書いてある。これも両者共に「か」と読むべきである。【書紀の訓注には「正勝、これを『まさかつ』と読む」とあるが、大江家の伝本には最後の『つ』がないという。その本がいいだろう。】ここも同じだ。言葉の意味は、書紀の文字の通りで、「本当か」と驚いている様子である。【この記では、やはり字の通り、「正しく勝ったぞ」と誇っているようにも取れる。そうであれば「まさかつ」と読むべきである。しかし書紀と考え合わせると、やはり上述の解釈が良い。】吾勝は、後の文に「自ら『私の勝ちだ』と言って」とある意味だ。書紀の一書に「男の神を生んだので、直ちに言挙げして、『まさにか、私の勝ちだ』と言った。そこでそれを神の名とした」とある。勝速日は「かちはやび」と読む。【古来「かつのはやひ」と読んでいるのは、古言の様式を知らないからである。】後の文に「勝佐備(かちさび)に」とあるのと同じ意で、【「佐備」について、そこで述べることを考え合わせよ。】速(はや)は疾く、激しく、猛々しいという意味、日(び)は「ぶる」とも活用し、その状態を言う辞なので、速日とはつまり「ちはやぶる」の「はやぶる」と同じ言葉である。既に出た甕速日、樋速日、また饒速日などとも同じ。【日の字にこだわって言う説などは、例の古言を知らぬこじつけだ。】忍穗耳は、大耳(おおしみみ)で、美称である。忍(おし)が「大し」であることは、既に忍許呂別(おしころわけ)のところ【伝五の八葉】で述べた。穂も「大(おお:旧仮名おほ)」である。「おほ」の「お」を省いて「ほ」とのみ書いた例は多い。特に書紀では三穂之碕とある地名を、この記では御大之前と書いてあるのは、ここによく合っている。【邇々藝(ににぎ)命から三代の名は、みな稲穂に関わる言葉で称えており、その例として、これも字の通り稲穂の意味に取れなくもないが、かの三代は天降って後、この水穂の国を治めたことから、稲穂をもって称え名としたのだが、この神は地上の国には降らなかったので、意味が違う。書紀にある齋庭(ゆにわ)の詔(第九段一書第二)も、邇々藝命の段に係わっているのを考えても分かる。続く三代の名については、それぞれそのところで言う。】耳は尊称である。【耳はもちろん借字である。】後の文に「布帝耳(ふてみみ)神の名がある。神武天皇の子に「何々耳」の名が多く、その他にも人名に多いのは、みな尊称である。書紀の一書に「忍穂根(おしほね)尊」【「忍骨」とも書く。】という名があるが、「穂」は上記と同様、「根」はやはり尊称で、「何々根」という名も非常に多い。前述の「阿夜訶志古泥(あやかしこね)神のところ【伝三の四十五葉】で述べた。次の日子根の「根」も同じ。ところで伊邪河の宮(開化天皇)の段にある神大根(かむおおね)王【開化天皇の孫。】は、書紀では「神骨」とある。この例からも、忍穗根は忍大根であることが分かり、また「穂耳」は「大耳」であることがますます明らかだ。さらに言うと、書紀神代の下巻には、「勝速日尊兒大耳尊」とあるので、納得できるだろう。【これは「忍」という語を省いて、天忍穂耳命と言おうとするのである。「尊兒(みことご)」は、尊びかつ親しんで言う語である。「みことのこ」と言うのではない。およそこの神の名については、従来の説はすべて誤っている。他の例をよく考え合わせて、いにしえの心と言葉を尋ね求めるべきだ。】耳という尊称の意味は、「み」は「ひ」に通い、あの産霊の神の「霊(ひ)」であるが、【産霊の意味は、伝三の十三葉で言った。】それを「霊々(ひひ)」と重ねたのである。開化天皇の名の大毘々(おおびび)命というのがそうだ。これを書紀では太日々(ふとびび)尊とあり、垂仁の巻には太耳という人物も登場するので、「日々」と「耳」は同じだと分かる。また明の宮(應神天皇)の段の前津見(まえつみ)という人物を、書紀では前津耳と書いてある【その他、水垣の宮(崇神天皇)の段の陶津耳という人の名が、旧事紀では「大陶祇(おおすえつみ)」としているのも、何か根拠があってのことだろう。】ので、「耳」というのは「み」を二つ重ねた名で、「見」はその一つを省いたものだと知るべきである。神名や人名に「何々見」というのが多いのは、みなこれであって、水垣の宮の段の岐比佐都美(きいさつみ)、書紀の武茅渟祇(たけちぬつみ)などの「つみ」も「つみみ」の略だ。【これに倣うと、山津見、綿津見、大加牟豆美なども、同じく「つみみ」ではあるまいか。また月夜見の見も耳ではないだろうか。】ここで、耳と日々が通うことからすると、「つみ」はまた「つび」と通い、禍津日の神、庭高津日神などの名によって知られる。それに「何々須美」という名と、「何々須毘」という名とが通うことは、次に見える。そうした例から、耳は「霊霊(ひひ)」の意味であることを理解すべきである。ところで、山城国風土記に、宇治郡木幡社の名は天忍穂根尊、【延喜式神名帳に、同郡の許波多(こばた)神社が載っている。】また延喜式では、豊前国田川郡に忍骨神社、【続日本後紀六に、この社の山のことが出ている。】土左国香美郡に天忍穂別神社、【別(わけ)も耳、根と同様の尊称である。】などがある。伊勢の外宮には、忍穂井という井戸もある。○これ以下の神については、いずれも「八尺勾ソウ(王+總のつくり)之云々」、「奴那登母云々」という文がないのは、上述したことに譲って、省いたのである。○天之菩卑能命(あめのほひのみこと)。【「能」の字を添えたのは珍しい。】これも元は上述の「穂耳」と同じで、「菩(ほ)」は「大(おほ)」である。卑(ひ)は「み」と通い、それは上述の「耳」の意味である。このように菩卑(ほひ)も穂耳と同じであるなら、吾勝命と兄弟の名が同じになるが、なぜかというと、上述の三女神のうち、多紀理と多岐都が同じであったように、また書紀では次の熊野久須毘命も忍蹈(おしほみ)命とあって、忍穂耳と全く同じであるように、これらの兄弟の名は、わずかな違いで分けただけなのである。【延喜六年の日本紀竟宴で、天穂日命を歌った矢田部公望、「阿麿能褒臂、俄彌農美飫野簸、耶佐賀珥廼、伊朋津儒波屡濃、儔莽登胡楚耆鶏(あまのほひ、かみのみおやは、やさかにの、いおつすばるの、たまとこそきけ)」】神名帳には、山城国宇治郡、因幡国高草郡、出雲国能義郡などに、天穂日神社がある。出雲国風土記に天之夫比(あめのふひ)命とあるのも、この神であろう。
(以下引用)
箸墓古墳
この項目に含まれる文字「箸」は、オペレーティングシステムやブラウザなどの環境により表示が異なります。 |
箸墓古墳 | |
---|---|
墳丘全景(右に前方部、左に後円部) |
|
別名 | 箸中山古墳 |
所属 | 纒向古墳群 |
所在地 | 奈良県桜井市箸中 |
位置 | 北緯34度32分21.34秒 東経135度50分28.42秒座標: 北緯34度32分21.34秒 東経135度50分28.42秒 |
形状 | 前方後円墳 |
規模 | 墳丘長278m 高さ30m |
出土品 | 特殊器台形埴輪・壷形埴輪 |
築造時期 | 3世紀後半 |
被葬者 | (宮内庁治定)倭迹迹日百襲姫命 (笠井新也ほか)卑弥呼 |
陵墓 | 宮内庁治定「大市墓」 |
史跡 | 国の史跡「箸墓古墳周濠」 |
特記事項 | 全国第11位/奈良県第3位の規模[1] 全国最古級の前方後円墳 『日本書紀』崇神天皇紀に記述 |
地図 |
|
箸墓古墳(はしはかこふん)、箸中山古墳(はしなかやまこふん)は、奈良県桜井市箸中にある古墳。形状は前方後円墳。実際の被葬者は不明だが、宮内庁により「大市墓(おおいちのはか)」として第7代孝霊天皇皇女の倭迹迹日百襲姫命の墓に治定(じじょう)されている。また、笠井新也の研究以来、邪馬台国の女王卑弥呼の墓ではないかとする学説がある[2][3]。周濠部分は国の史跡に指定されているほか[4]、一部が「箸中大池」としてため池百選の1つにも選定されている[5]。百襲姫の陰部に箸が突き刺さり、絶命したことが名前の由来である[6]。
概要[編集]
奈良盆地東南部、三輪山北西山麓の扇状地帯に広がる大和・柳本古墳群に含まれる纒向古墳群(箸中古墳群)の盟主的古墳であり、纒向遺跡箸中地区に位置する。出現期古墳の中でも最古級と考えられている前方後円墳である。
築造年代は、墳丘周辺の周壕から出土した土器(土師器)の考古学的年代決定論と、土器に付着した炭化物による炭素14年代測定法により、邪馬台国の卑弥呼の没年(248年から遠くない頃)に近い3世紀中頃から後半とする説がある。一方で、近年炭素14年代測定法では、実年代より50-100年程度古く推定されることが明らかとなっていることや、古墳の規模および様式が魏志倭人伝の記述と異なっていることなどを理由に、4世紀中期以降とする説もある。 現在は宮内庁により陵墓として管理されており、研究者や国民の墳丘への自由な立ち入りが禁止されている。倭迹迹日百襲姫命とは、『日本書紀』では崇神天皇の祖父孝元天皇の姉妹である。大市は古墳のある地名。『古事記』では、夜麻登登母母曽毘売(やまととももそびめ)命である。
考古学の世界では、大正期から邪馬台国畿内説を唱えていた笠井新也により「女王卑弥呼=倭迹迹日百襲姫命」説が提唱され[7][8]、後に「箸墓古墳=卑弥呼の墓」説へと進展[2][3]、今日の議論にも繋がる先駆的研究となった[9]。
名の由来[編集]
名前の由来は、百襲姫の陰部に箸が突き刺さり絶命したという説話に基づく。『日本書紀』崇神天皇10年9月の条には、つぎのような説話が載せられている。一般に「三輪山伝説」と呼ばれている。
倭迹迹日百襲姫命 ()、大物主神 ()の妻と為る。然れども其の神常に昼は見えずして、夜のみ来 ()す。倭迹迹姫命は、夫に語りて曰く、「君常に昼は見えずして、夜のみ来す。分明に其の尊顔を視ること得ず。願わくば暫留まりたまへ。明旦に、仰ぎて美麗しき威儀 ()を勤 ()たてまつらむと欲ふ」といふ。大神対 ()へて曰 ()はく、「言理 ()灼然 ()なり、吾明旦に汝が櫛笥 ()に入りて居らむ。願はくば吾が形にな驚きましそ」とのたまふ。ここで、倭迹迹姫命は心の内で密かに怪しんだが、明くる朝を待って櫛笥 ()を見れば、まことに美麗な小蛇 ()がいた。その長さ太さは衣紐 ()ぐらいであった。それに驚いて叫んだ。大神は恥じて、人の形とになって、其の妻に謂りて曰はく「汝、忍びずして吾に羞 ()せつ。吾還りて汝に羞せむ」とのたまふ。よって大空をかけて、御諸山に登ってしまった。ここで倭迹迹姫命仰ぎ見て、悔いて座り込んでしまった。「則ち箸に陰 ()を憧 ()きて薨 ()りましぬ。乃ち大市に葬りまつる。故、時人、其の墓を号けて、箸墓と謂ふ。(所々現代語)
また、築造について『日本書紀』には、
「墓は昼は人が作り、夜は神が作った。(昼は)大坂山の石を運んでつくった。山から墓に至るまで人々が列をなして並び手渡しをして運んだ。時の人は歌った。大坂に 継ぎ登れる 石むらを 手ごしに越さば 越しかてむかも」
と記されている。
なお、箸が日本に伝来した時期(7世紀か)と神話における説話との間に大きなずれがあるところから、古墳を作成した集団である土師氏の墓、つまり土師墓から箸墓になったという土橋寛の説もある。
孝謙上皇との出会い・権力の拡大
この年孝謙上皇は、平城宮の改修などの関係で近江国の「保良宮」と呼ばれる場所に滞在しておられましたが、病気に倒れてしまい、その際に「禅師」として入り込んだ道鏡によって非常に熱心な看病が行われたとされています。
看病のおかげかどうか、孝謙上皇の病気は治り、その「ご恩」に心打たれた孝謙上皇は、それ以降道鏡と様々な意味で関係性を深め、実質的な「寵愛」・「政治的重用」を受けるようになります。
「謎の僧侶」を特別扱いし始めたことに周囲は不信感を抱き、当時の淳仁天皇は事あるごとにそれに対する「箴言(注意)」を行いますが、孝謙上皇は指摘されるとむしろ逆上して怒りを爆発させたようで、続日本紀に「高野天皇、帝と隙あり」と明記されたように、淳仁天皇と孝謙上皇の関係性は一気に悪化していくことになりました。
なお、上皇は批判を受けるほどに一層道鏡へ入れ込むことになったのか、762年には淳仁天皇を差し置いて自らが国家的な決定を担うと主張し、淳仁天皇は祭祀などの儀式を行う形式的な存在でよいとするなど、次第にその「暴走」傾向が顕著になっていきました。
権力基盤の確立・称徳天皇と道鏡の時代
当時の実質的な政治のトップであり、独自の権力基盤を持っていた「藤原仲麻呂」が、道鏡と孝謙上皇の関係が深まることに懸念を感じ、自ら兵を率いてクーデターを起こすことを計画します。
クーデターにあたっては、当初は軍事力を有することから優勢かと思われた仲麻呂ですが、密告などにより孝謙上皇側に先手を打たれ、吉備真備などの官軍が征伐に派遣されたこともあり、本人を含む一族の大半が戦死する完全な失敗という結果に終わりました。
この仲麻呂の乱の終結後は、これまで政治権力を振るってきた仲麻呂陣営が処罰を受け流罪などになった人物も多く、元より上皇と仲が悪かった淳仁天皇も「仲麻呂側」の人物として淡路島に送られて謎の死を遂げるなど、孝謙上皇は自らの反逆者と思われる存在を次々に「消して」いきます。
結果として、孝謙上皇は実質的に再び即位(称徳天皇)する形でトップへと返り咲き、今まで以上に道鏡を寵愛することが出来る環境を手に入れる形にもなりました。
ざっくり言えば、当時の朝廷では政治面での「称徳天皇(孝謙上皇)」と仏教面での「道鏡」の二頭体制の構図が確立された。と言ってもよいでしょう。また、道教の弟である「弓削浄人」も朝廷で地位を上げるなど、「道鏡陣営」とも言える政治基盤も整えられていくことになりました。
なお、この時代には僧侶である道鏡が権力者として君臨し、様々な乱世を経験した称徳天皇も仏教に入れ込んだことから、鎮護国家を願って「百万塔陀羅尼(ひゃくまんとう・だらに)」を製作させたり、寺院の整備をより推進するなど、仏教色・仏教保護の色彩の強い政治が行われました。また、神社についても保護政策が展開されますが、仏を護る「護法善神」という形で「神仏習合」の形態を持つことが一層増えていきました。
「宇佐八幡宮神事件」による失脚
孝謙上皇(称徳天皇)からの寵愛によって時の権力者に上り詰めた道鏡ですが、その権力の失墜・失脚はあっけなく訪れます。
当時の構図としては、独身で皇子などもおらず、その上称徳天皇の意向で皇太子が決定されていない中、天皇が高齢になる中で次の天皇が誰になるのか。という宮中・朝廷の不安と疑念が渦巻く状況でした。
そんな中、769年(神護景雲3年)5月に道鏡の弟であり九州防衛のトップ「太宰帥」であった弓削浄人が、突如大分の宇佐八幡宮(当時は皇室からの信仰が非常に強い神社でした)の「ご神託」として、「道鏡を皇位につければ世の中は平和になる」というメッセージを平城京に送ったこと(一般には偽のご神託であるともされます)で、状況は一変します。
道鏡を寵愛して来た称徳天皇は、その「ご神託」を確認しようということで、和気清麻呂を派遣しますが、持ち帰った答えは「皇位継承は皇族の人間にすべし」といった内容であり、称徳天皇は激怒して清麻呂に「別部穢麻呂(わけべのきたなまろ)」という醜い名前を付けて流罪とします。
しかしながら、激怒した称徳天皇も結果としては無理に道鏡を皇位に就けようとはせずに、10月にはむやみに皇位を求めてはいけない・自らが後継者を決定するといった詔を発表して、状況を鎮静化しようとします。
天皇は、翌年770年(宝亀元年)に崩御し、どのような経緯で決定されたかは諸説ありますがその「遺言」として白壁王を光仁天皇として即位させることになり、道鏡が皇位に就くという流れは完全に排除されます。
唯一の後ろ盾と言っても良い称徳天皇を失った道鏡は、大きな処罰を受けることはなかったものの、現在の栃木県にあたる下野国の薬師寺別当に実質的な配流(流罪)となり、まもなく772年に亡くなりました。
道鏡の評価について
下世話なものも含む様々な「道鏡伝説」は、奈良時代からそのすべてが伝わっていたというよりは、どうやら後世になって様々な尾ひれがついて無限に拡大していった「人物像」である可能性が高いとも言えますが、「日本三大悪人」になぞらえる解釈や、道鏡を「奇怪な僧侶」としてロシアのラスプーチンになぞらえるインターネット上の解釈も複数見られるなど、現代に至るまで「悪いイメージ」がつきまとう存在であることは否定できません。
一方で、歴史的な解釈としては「本当に道鏡は悪人だったのか?」という疑問が呈されることも近年やや増えており、一部では再評価の兆しや、特に宇佐八幡宮事件などについては学問的に様々な解釈が見られることも確かです。
そもそも、経歴を追っていく中でも、道鏡が何かを自らで大規模に粛清したとか、特定の存在を極端に弾圧したとか、誰かと共謀してまれに見るような凶悪な働きを果たした。といったような歴史に残る「具体的な悪行」は特に伝わっていないことは紛れもない事実です。
そういった観点を考慮し、本記事では様々な「道鏡解説記事」にありがちなセンセーショナルなエピソードなどをなるべく退けて、一般的に伝わる氏の経歴のみを淡々と解説しています。
まとめ
藤原仲麻呂の乱
藤原仲麻呂の乱(ふじわらのなかまろのらん)は、奈良時代(764年)に起きた叛乱。恵美押勝の乱(えみのおしかつのらん)ともいう。孝謙太上天皇・道鏡と対立した太師(太政大臣)藤原仲麻呂(藤原恵美押勝)が軍事力をもって政権を奪取しようとして失敗した事件である。
背景[編集]
藤原仲麻呂は、叔母の光明皇后の信任を得て、大納言・紫微令・中衛大将に任じられるなど次第に台頭し、孝謙天皇が即位すると、孝謙と皇太后となった光明子の権威を背景に事実上の最高権力者となった。天平勝宝9年(757年)3月、当時皇太子だった道祖王を廃位に追い込み、4月、ひそかに孝謙に勧めて、息子真従の未亡人粟田諸姉と結婚して仲麻呂の私邸に居住していた大炊王を皇太子に立てることに成功する。天平宝字2年(758年)8月、大炊王(淳仁天皇)が即位すると、大保(右大臣)に任ぜられ、恵美押勝(藤原恵美朝臣押勝)の姓名を与えられる。天平宝字4年(760年)1月にはついに人臣として史上初の太師(太政大臣)にまで登りつめた。
押勝は子弟や縁戚を次々に昇進させ要職に就けて勢力を扶植していったが、同年6月に光明子が死去したことで、その権勢はかげりを見せはじめる。さらに2年後には押勝と孝謙の間のパイプ役になっていた正室の藤原袁比良を失ったことも大きな打撃となった。同時期に孝謙太上天皇が自分の病気を祈禱によって癒した道鏡を信任しはじめたことで、押勝は、淳仁を通じて孝謙に道鏡への寵愛を諫めさせたが、これがかえって孝謙を激怒させた。天平宝字6年(762年)6月、孝謙は出家して尼になるとともに「天皇は恒例の祭祀などの小事を行え。国家の大事と賞罰は自分が行う」と宣言する。孝謙の道鏡への信任はしだいに深まり、逆に淳仁と押勝を抑圧するようになった。天平宝字7年(763年)9月には道鏡を少僧都に任じている。
天平宝字8年(764年)6月、授刀衛の責任者である授刀督を兼ねていた仲麻呂の娘婿藤原御楯が急死する。授刀衛は元々皇太子時代の孝謙上皇の護衛を司ってきた部隊であり、御楯の死によって上皇側が影響力を回復して掌握されていくことになり、その後の乱でも上皇軍の主力部隊として活躍することになる。
反乱計画[編集]
焦燥を深めた押勝は軍事力により孝謙と道鏡に対抗しようとし、天平宝字8年(764年)9月、新設の「都督四畿内三関近江丹波播磨等国兵事使」に任じられた。諸国の兵20人を都に集めて訓練する規定になっていたが、押勝は600人の兵を動員することを決めると、大外記高丘比良麻呂に命令の発令を指示した。押勝は都に兵力を集めて軍事力で政権を奪取しようと意図していた。このとき押勝は太政官印の確保に成功している[1]。9月5日には[2]、仲麻呂は船親王と謀議し、朝廷の咎を訴えようと図った。また池田親王はすでに夏頃より兵馬を集結していた。両親王ともに、仲麻呂が擁立した淳仁天皇の兄弟であった。
ただし、木本好信は孝謙側も授刀衛を掌握して権力掌握の動きを見せたために仲麻呂は「自衛」のために兵の確保を目指した可能性があるとした上で、元々日常の小事の決裁に関しては天皇の内印を求めず太政官印で処理しても良いことになっていた(『続日本紀』養老四年五月癸酉条)ことから、仲麻呂本人には元々反乱や権力奪取を計画する意図はなく、「自衛」のための小規模な兵士の増員も小事の範疇である考えて命令したものが、命令の発令前に公文書の審査を行う立場の比良麻呂はそれを小事の範疇とは考えなかったのではないか、としている[3]。
高丘比良麻呂は後難を恐れて、孝謙に動員計画を密告した。平素押勝に信頼されていた陰陽師の大津大浦も押勝の叛乱を知り、その旨を密告した[4]。また和気王からも反乱計画が伝えられた[5]。
戦乱[編集]
9月11日、重なる密告通知をうけた孝謙は少納言山村王を淳仁のいる中宮院に派遣して、皇権の発動に必要な鈴印(御璽と駅鈴)を回収させた(一説には淳仁天皇もこの時に中宮院内に幽閉されたという)。これを知った押勝は子息訓儒麻呂に山村王の帰路を襲撃させて、鈴印を奪回した。孝謙はただちに授刀少尉坂上苅田麻呂と授刀将曹牡鹿嶋足を派遣して、訓儒麻呂を射殺した[6]。
押勝はこれに対抗して中衛将監矢田部老を送ったが、彼も授刀舎人紀船守に射殺された[7]。
孝謙は勅して、押勝一族の官位を奪い、藤原の氏姓の剥奪・全財産の没収を宣言した。さらに三関の固関を行わせている。その夜、仲麻呂は一族を率いて平城京を脱出、宇治へ入ると、長年国司を務め、彼の地盤となっていた近江国の国衙を目指した。仲麻呂は近江国庁を本拠に東山道と北陸道の国々に兵士の動員をかけて反撃をする計画であったと考えられる。孝謙は当時造東大寺司長官であった吉備真備を召して従三位に叙して仲麻呂誅伐を命じ、ただちに追討軍を派兵させた。かつて朝廷の要職を歴任した真備だが、以降は権を握った仲麻呂のために久しく逆境にあった人物で、この年正月に70歳を迎えた老齢でありながら、在唐中に取得した軍学の知識を買われ任じられた。
仲麻呂の行動を予測した真備は、山背守日下部子麻呂と衛門少尉佐伯伊多智の率いる官軍を先回りさせて勢多橋を焼いて、東山道への進路を塞いだ。仲麻呂はやむなく子息辛加知が国司になっている越前国に入り再起を図り、琵琶湖の西岸から越前へ北進する。淳仁を連れ出せなかった仲麻呂は、自派の元皇族中納言氷上塩焼(新田部親王の子)を同行して「今帝」と称して天皇に擁立し、自分の息子たちには親王の位階である三品を与えた。また、奪取した太政官印を使って太政官符を発給し、諸国に号令した。ここに、2つの朝廷が並立したことになる。孝謙側は、仲麻呂を討ち取った者に厚い恩賞を約束するとともに、北陸道諸国には、太政官印のある文書を信用しないように通達している。
官軍の佐伯伊多智は越前に馳せ急ぎ、まだ事変を知らぬ辛加知を斬ると、授刀舎人物部広成らに固めさせた愛発関(近江と越前の国境の関所)にて、仲麻呂軍の先発隊精兵数十人を撃退した。辛加知の死をまだ知らない仲麻呂は、舟で琵琶湖対岸に渡り、愛発関を避けての越前への入国を試みる。だが逆風での難破寸前に渡湖を断念。上陸した塩津から愛発関の突破を再度図る仲麻呂軍だったが、佐伯伊多智にまたしても阻まれて、退却する。
南下して三尾(近江国高島郡・現:滋賀県高島市)まで退いた仲麻呂軍は古城に籠もると、攻め立ててくる討伐軍に対し必死で応戦する。
9月18日、討賊将軍に任ぜられた備前守藤原蔵下麻呂が増援に加わった討伐軍によって、海陸から激しく攻められた仲麻呂軍は、ついに敗れた。湖上に舟を出して妻子とともに逃れようとする仲麻呂は、軍士石村石楯に斬られ、その一家も皆殺しにされた。また氷上塩焼も同時に殺された。9月11日時点では仲麻呂の軍権と支配力は上皇を圧倒していたが、当初の揉み合いで訓儒麻呂・矢田部老らが不運に落命する。形勢も一変し、わずか1週間で窮死に追い込まれるという歴史的な転落劇となった。権力者の横死としては、嘉吉の乱・本能寺の変のように即決の不意打ちとも、鎌倉幕府滅亡のように一定期間の攻防を経てのものとも異なる、唯一異例のものである。
乱後[編集]
仲麻呂の勢力は政界から一掃され、淳仁は廃位され淡路国に流された。代わって孝謙が重祚する(称徳天皇)。以後、称徳と道鏡を中心とした独裁政権が形成されることになった。
古代の大海戦 白村江の軍船は?
そんな時、神戸市立博物館で《東アジアから神戸 海の回廊=古代・中世の交流と美》という海や船に関わる展覧会が開催されていたので見学してきた。
しかし、古代船の記録はなく、古墳などから出土される埴輪や遺物に描かれた船の絵から想像するしかない。
日本列島では古墳時代から活発になる中国・朝鮮半島との交流に欠かせなかった船が、大阪・奈良を中心にした中小規模の古墳から船形埴輪としてよく出土されている。そしてこれらの古墳の主はヤマト王権中枢に近い実務型の豪族ではないかと考えられている。朝鮮半島・中国との交渉窓口であり時には遠征用の軍船をだす役割も担ったのかもしれないという。
左画像(1)の埴輪は大阪・長原高廻り2号墳出土の船形埴輪だ。船底部は丸太の刳舟で舷側板を組み上げて2層になって船首と船尾を竪板でふさいで耐航性や積載能力を増やす工夫をしている。
平成元年に大阪市は考古学・船舶工学など関連学者を動員して可能な限りこの船形埴輪に忠実に準構造船を復元した。この埴輪の櫂をこぐ支点の間隔から船底部の長さを12mと割り出し、寸法比(L/W)と用材から幅を2mと決めたそうだ。
また、画像(2)西都原古墳からはゴンドラタイプの船形埴輪も出土している。大きな楠材が豊富に取れた古代では船底部は長さ20mで幅2mは充分あったと思われます。ことによると長さ30m、幅3mの可能性もあったと思われる。ゴンドラタイプは古墳時代後期、6世紀にはこちらの方が多くなってきたようだ。どちらの船形埴輪には帆走のための帆柱はなく漕走が主であったのだろう。
これらの古墳が造られた5~6世紀から百数十年後の飛鳥時代。
661年、中大兄皇子が滅亡した百済の再興の為の援軍を朝鮮半島に送ることになり北九州から、そして瀬戸内・難波の海からも大勢の兵士を乗せた軍船が朝鮮に向かった。
■第一派:661年5月出発。1万余人。船舶170余隻。指揮官は安曇比羅夫。豊璋王を護送する先遣隊。
■第二派:662年3月出発。2万7千人。軍主力。指揮官は上毛野君稚子、巨勢神前臣譯語、阿倍比羅夫(阿倍引田比羅夫)。
■第三派:1万余人。指揮官は廬原君。(出展:ウィキペディア)
663年8月、戦場になった朝鮮半島西岸、白村江(はくそんこう)には待ち受ける唐と新羅連合軍の大型軍船170隻、兵力1万2千人。一方倭国軍は軍船800隻、兵力4万余人と圧倒的な兵力で激突したが、たった2日間の戦闘で、倭軍は軍船の半分400隻と兵1万人を失い大敗北したとなっているが、倭軍がどんな軍船で闘ったのか興味があるので少し想像してみる。
テレビのCG(左)は倭軍の軍船は船形埴輪(1)タイプで2層式の準構造船が帆柱に白い帆を揚げて進んでいるものである。波の大きさからみると船の長さは20mはありそうだ。しかし倭国水軍は800隻とかなりの船は集めたが、これほどの船は少く、殆どはもっと小さい運送船のような船だったという説もある。それに、櫂で漕いでいたのにCGにはマストがあり、木綿もないのに白い帆なんて考えられないなあ。
それでも追風の時は風を利用していたとするならば右の画像のように両舷に帆柱を立て、その間に「むしろ帆」を揚げていたかもしれない。
(右画像は江戸時代にアイヌ民族が用いた舟)
大海戦なので旗艦にはジャンク型の遣唐使船のような構造船がいて指揮をとっていたと考えたいが、倭国にはまだそのような渡海船の建造能力はなかっただろう。
しかし、白村江の戦いの前に倭国は遣唐使船を派遣しているが、それは航海が易しい北路をとっているので準構造船でも充分航海できたはずだ。それに対して、大きく版図を広げようとしていた唐はすでに外征用の大型渡海船を多数持っていたといわれている。
【参考Web】1:白村江の戦い 『ウィキペディア(Wikipedia)』
【参考Web】2:神戸市立博物館 特別展「海の回廊」