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某ブログに「刑名審合」という言葉が出ていて、昔「韓非子」は読んだことがあって、「二柄」の部分は特に感銘を受けたのだが、改めて「刑名審合」という言葉を見て、「刑」と「名」とは何だ? と疑問に思ったので調べてみた。韓非子の趣旨では「(君主は臣下の)言葉と行為が一致するかどうかを見よ」という趣旨で、行為なら、「刑」ではなく「形」が適切ではないかと思ったわけだ。形とは「実態」「実体」のことだ。調べると「刑名参同」という言葉もあって、ますます意味が分からなくなった。「参同」って何だよ。「賛同」は知っているが、それなら「賛成」と同じじゃないか、というわけだ。

(以下引用)

二柄 刑名参同 人君好を去り悪を去りて群臣素をあらわす

2015年12月23日 水曜日 晴れ

韓非子 中国の思想I韓非子 西野・市川・訳 徳間書店 1996年第三版

明主の導(よ)りてその臣を制するところは、二柄(にへい)のみ。二柄とは刑徳なり。何をか刑徳という。曰く、殺戮これを刑といい、慶賞(けいしょう)これを徳という。(韓非子、同書、p29-30)

刑名参同(けいめいさんどう):
人主まさに姦(かん)を禁ぜんと欲せば、すなわち刑名を審合(しんごう)すとは、言と事となり。(韓非子、同書、p32-33)

(人君、)好を去り、悪を去りて、群臣、素をあらわす。群臣、素をあらわさば、すなわち人君、蔽(おお)われず。(韓非子、同書、p37)

*****

 君主が君主でありつづけるためには、どうすればよいか。それが韓非のメイン・テーマであった。それを君主の臣下統率法にしぼって説いたのが、「二柄」である。中核のまた中核、ここに韓非の理論のエッセンスが示されている。
 術の基本となるのは、法によって定められた賞罰を行う方法である。これが刑名参同と呼ばれる厳格な勤務評定であった。・・・(中略)・・・
 さらに、刑名参同による賞罰を成功させるには、臣下にだまされてはならない。・・・君主と臣下の関係は、計算ずくであり、だましあいである。・・・上下関係のなかでの絶えざる闘争、その激しい動きを内包しつつ、現在の組織が成りたっているのだ。この認識の上に韓非の君主論の基礎がおかれている。(韓非子解説、同書、p37-38)

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檄           
楯の會隊長  三島由紀夫 

 

 


  われわれ楯の會は、自衞隊によつて育てられ、いはば自衞隊はわれわれの父でもあり、兄でもある。その恩義に報いるに、このやうな忘恩的行爲に出たのは何故であるか。かへりみれば、私は四年、學生は三年、隊内で準自官としての待遇を受け、一片の打算もない敎育を受け、又われわれも心から自隊を愛し、もはや隊の柵外の日本にはない「眞の日本」をここに夢み、ここでこそ終戰後つひに知らなかつた男の涙を知つた。ここで流したわれわれの汗は純一であり、憂國の精神を相共にする同志として共に富士の原野を馳驅した。このことには一點の疑ひもない。われわれにとつて自隊は故郷であり、生ぬるい現代日本で凛烈の氣を呼吸できる唯一の場所であつた。敎官、助敎諸氏から受けた愛情は測り知れない。しかもなほ、敢てこの擧に出たのは何故であるか。たとへ強辯と云はれようとも、自隊を愛するが故であると私は斷言する。
 われわれは戰後の日本が、經濟的繁榮にうつつを拔かし、國の大本を忘れ、國民精神を失ひ、本を正さずして末に走り、その場しのぎと僞善に陷り、自ら魂の空白狀態へ落ち込んでゆくのを見た。政治は矛盾の糊塗、自己の保身、權力慾、僞善にのみ捧げられ、國家百年の大計は外國に委ね、敗戰の汚辱は拂拭されずにただごまかされ、日本人自ら日本の歴史と傳統を瀆してゆくのを、齒嚙みをしながら見てゐなければならなかつた。われわれは今や自
隊にのみ、眞の日本、眞の日本人、眞の武士の魂が殘されてゐるのを夢みた。しかも法理論的には、自隊は違憲であることは明白であり、國の根本問題である防が、御都合主義の法的解釋によつてごまかされ、軍の名を用ひない軍として、日本人の魂の腐敗、道義の頽廢の根本原因をなして來てゐるのを見た。もつとも名譽を重んずべき軍が、もつとも惡質の欺瞞の下に放置されて來たのである。自隊は敗戰後の國家の不名譽な十字架を負ひつづけて來た。自隊は國軍たりえず、建軍の本義を與へられず、警察の物理的に巨大なものとしての地位しか與へられず、その忠誠の對象も明確にされなかつた。われわれは戰後のあまりに永い日本の眠りに憤つた。自隊が目ざめる時こそ、日本が目ざめる時だと信じた。自隊が自ら目ざめることなしに、この眠れる日本が目ざめることはないのを信じた。憲法改正によつて、自隊が建軍の本義に立ち、眞の國軍となる日のために、國民として微力の限りを盡すこと以上に大いなる責務はない、と信じた。
 四年前、私はひとり志を抱いて自
隊に入り、その翌年には楯の會を結成した。楯の會の根本理念は、ひとへに自隊が目ざめる時、自隊を國軍、名譽ある國軍とするために、命を捨てようといふ決心にあつた。憲法改正がもはや議会制度下ではむづかしければ、治安出動こそその唯一の好機であり、われわれは治安出動の前となつて命を捨て、國軍の礎石たらんとした。國體を守るのは軍隊であり、政體を守るのは警察である。政體を警察力を以て守りきれない段階に來て、はじめて軍隊の出動によつて國體が明らかになり、軍は建軍の本義を囘復するであらう。日本の軍隊の建軍の本義とは、「天皇を中心とする日本の歴史・文化・傳統を守る」ことにしか存在しないのである。國のねじ曲つた大本を正すといふ使命のため、われわれは少數乍ら訓練を受け、挺身しようとしてゐたのである。
 しかるに昨昭和四十四年十月二十一日に何が起つたか。總理訪米前の大詰ともいふべきこのデモは、壓倒的な警察力の下に不發に終つた。その狀況を新宿で見て、私は、「これで憲法は變らない」と痛恨した。その日に何が起つたか。政府は極左勢力の限界を見極め、戒嚴令にも等しい警察の規制に對する一般民衆の反應を見極め、敢て「憲法改正」といふ火中の栗を拾はずとも、事態を收拾しうる自信を得たのである。治安出動は不用になつた。政府は政體維持のためには、何ら憲法と牴觸しない警察力だけで乘り切る自信を得、國の根本問題に對して頰つかぶりをつづける自信を得た。これで、左派勢力には憲法護持の飴玉をしやぶらせつづけ、名を捨てて實をとる方策を固め、自ら、護憲を標榜することの利點を得たのである。名を捨てて、實をとる! 政治家にとつてはそれでよからう。しかし自
隊にとつては、致命傷であることに、政治家は氣づかない筈はない。そこでふたたび、前にもまさる僞善と隱蔽、うれしがらせとごまかしがはじまつた。
 銘記せよ! 實はこの昭和四十五年十月二十一日といふ日は、自
隊にとつては悲劇の日だつた。創立以來二十年に亙つて、憲法改正を待ちこがれてきた自隊にとつて、決定的にその希望が裏切られ、憲法改正は政治的プログラムから除外され、相共に議會主義政黨を主張する自民黨と共産黨が、非議會主義的方法の可能性を晴れ晴れと拂拭した日だつた。論理的に正に、この日を堺にして、それまで憲法の私生兒であつた自隊は、「護憲の軍隊」として認知されたのである。これ以上のパラドックスがあらうか。
 われわれはこの日以後の自
隊に一刻一刻注視した。われわれが夢みてゐたやうに、もし自隊に武士の魂が殘つてゐるならば、どうしてこの事態を默視しえよう。自らを否定するものを守るとは、何たる論理的矛盾であらう。男であれば、男の矜りがどうしてこれを容認しえよう。我慢に我慢を重ねても、守るべき最後の一線をこえれば、決然起ち上るのが男であり武士である。われわれはひたすら耳をすました。しかし自隊のどこからも、「自らを否定する憲法を守れ」といふ屈辱的な命令に對する、男子の聲はきこえては來なかつた。かくなる上は、自らの力を自覺して、國の論理の歪みを正すほかに道はないことがわかつてゐるのに、自隊は聲を奪はれたカナリヤのやうに默つたままだつた。
 われわれは悲しみ、怒り、つひには憤激した。諸官は任務を與へられなければ何もできぬといふ。しかし諸官に與へられる任務は、悲しいかな、最終的には日本からは來ないのだ。シヴィリアン・コントロールが民主的軍隊の本姿である、といふ。しかし英米のシヴィリアン・コントロールは、軍政に關する財政上のコントロールである。日本のやうに人事權まで奪はれて去勢され、變節常なき政治家に操られ、黨利黨略に利用されることではない。
 この上、政治家のうれしがらせに乘り、より深い自己欺瞞と自己冒瀆の道を歩まうとする自
隊は魂が腐つたのか。武士の魂はどこへ行つたのだ。魂の死んだ巨大な武器庫になつて、どこへ行かうとするのか。纎維交渉に當つては自民黨を賣國奴呼ばはりした纖維業者もあつたのに、國家百年の大計にかかはる核停條約は、あたかもかつての五・五・三の不平等條約の再現であることが明らかであるにもかかはらず、抗議して腹を切るジェネラル一人、自隊からは出なかつた。
 沖繩返還とは何か? 本土の防衛責任とは何か? アメリカは眞の日本の自主的軍隊が日本の國土を守ることを喜ばないのは自明である。あと二年の内に自主性を囘復せねば、左派のいふ如く、自
隊は永遠にアメリカの傭兵として終るであらう。
 われわれは四年待つた。最後の一年は熱烈に待つた。もう待てぬ。自ら冒瀆する者を待つわけには行かぬ。しかしあと三十分、最後の三十分待たう。共に起つて義のために共に死ぬのだ。日本を日本の眞姿に戻して、そこで死ぬのだ。生命尊重のみで、魂は死んでもよいのか。生命以上の價値なくして何の軍隊だ。今こそわれわれは生命尊重以上の價値の所在を諸君の目に見せてやる。それは自由でも民主々義でもない。日本だ。われわれの愛する歴史と傳統の國、日本だ。これを骨拔きにしてしまつた憲法に體をぶつけて死ぬ奴はゐないのか。もしゐれば、今からでも共に起ち、共に死なう。われわれは至純の魂を持つ諸君が、一個の男子、眞の武士として蘇へることを熱望するあまり、この擧に出たのである。

 

 

 

 

(注)1.上記の三島由紀夫の「檄」の本文は、主として『多摩湖畔日誌』というサイトに掲載し
      てある「檄文」のコピーの写真により、その他『三島由紀夫全集』第34巻・評論(10)
      (新潮社、昭和51年2月25日発行)所収の本文を参照して記述しました。
           → 三島由紀夫「檄」
(「檄文」のコピーの写真) 
     2. 文中の漢字は、コピーの写真に一部常用漢字(当用漢字)体になっているものも、
      旧字体に直して表記しました。
(全集の漢字はすべて旧字体になっています。)
       なお、「凛烈」は「凛冽」、「ねじ曲つた」は「ねぢ曲つた」、「治安出動は不用となつ
      た」は「治安出動は不要となつた」、「堺」は「界(又は「境」)」とあるべきところかと思
      われますが、原文のままにしてあります。(前掲の『全集』には、「ねじ曲つた」だけが
      「ねぢ曲つた」となっています。 
2011年8月23日確認。

        * 全集記載の「檄」と、ここに掲げた「檄」との本文の違いは、「ねじ曲つた」が全集には
         「ねぢ曲つた」となっている点だけです。


     3. 『全集』の巻末にある「校訂」には、
銘記せよ! 實はこの昭和四十五年十月二十
      一日といふ日は」の「昭和四十五年」について、<「昭和四十四年」の誤りと思われる
      が、原文のままとした>とあります。
     4. この「檄」について、『全集』巻末の「解題」に、「「檄」と「辭世」は、昭和四十五年十     
      一月二十五日、午後零時十五分、自衛隊市ヶ谷駐屯地、東部方面総監室にての自決
      に際して遺されたものである」とあります。
     5. 著作権について:檄文の性質上、資料として掲載することは差し支えないものと判断
      して、掲載させていただきました。 

聞き取り難い部分がありますが、可能な限り文字に起こしてみました。
分からない箇所は"?"になっています。



諸君は、去年の10.21から後だ。
もはや、憲法を守る軍隊になってしまったんだよ。
自衛隊が二十年間、血と涙で待った憲法改正ってものの機会はないんだよ。
もうそれは政治的プログラムから外されたんだ。
ついに外されたんだ、それは。
どうしてそれに気がついてくれなかったんだ。
去年の10.21から一年間、俺は自衛隊が怒るのを待ってた。
もうこれで憲法改正のチャンスは無い。
自衛隊が国軍になる日はない。
建軍の本義は無い。
それを私は最も嘆いていたんだ。
自衛隊にとって、建軍の本義とは何だ。
日本を守る事。
日本を守るとは何だ。
日本を守るとは、天皇を中心とする、歴史と文化の伝統を守る事である。
おまえら聞けぇ、聞け!
静かにせい
静聴せい!
話を聞け!
男一匹が、命を懸けて諸君に訴えてるんだぞ。
いいか。
いいか。
それがだ、今日本人がだ、ここでもって立ち上がらなければ、自衛隊が立ちあがらなきゃ憲法改正ってものは無いんだよ。
諸君は永久にだねぇ、ただアメリカの軍隊になってしまうんだぞ。
諸君と日本の…?…アメリカからしか来ないんだ。
シビリアンコントロール…?…
シビリアンコントロールに毒されてんだ。
シビリアンコントロールというのはだな、新憲法下で堪えるのが、シビリアンコントロールじゃないぞ。
そこでだ、俺は四年待ったんだよ。
俺は四年待ったんだ、自衛隊が立ち上がる日を。
そうした自衛隊の…?…最後の三十分に、最後の三十分に…?…待ってるんだよ。
諸君は武士だろ。
諸君は武士だろ。
武士ならばだ、自分を否定する憲法をどうして守るんだ。
どうして自分を否定する憲法にだねぇ、自分らを否定する憲法というものにペコペコするんだ。
これがある限り諸君ってものは永久に救われんのだぞ。
諸君は永久にだねぇ、今の憲法は、政治的謀略に諸君が、合憲の如く装ってる。
自衛隊は違憲なんだよ。
自衛隊は違憲なんだ。
貴様たちも違憲だ。
憲法というものは、ついに、自衛隊というものは、憲法を守る軍隊になったのだという事にどうして気がつかんのだ!
どうしてそこに諸君は気がつかんのだ!
俺は諸君がそれを絶つ日を待ちに待ってたんだ。
諸君はその中でもただ、小さい根性ばっかりに惑わされて、本当に日本の為に立ち上がる時は無いんだ。
抵抗したからだ。
憲法の為に、日本を骨無しにした憲法に従って来たという事を知らないのか。
諸君の中に一人でも俺と一緒に立つ奴は居ないのか。
一人も居ないんだな。
よし。
武というものはだ、刀というものは何だ。
自分の使命に対して…?…という言葉だ。
それでも武士か!
それでも武士か!
まだ諸君は、憲法改正の為に立ち上がらないと見極めがついた。
これで俺の自衛隊に対する夢は無くなったんだ。
それではここで、俺は天皇陛下万歳を叫ぶ。
「雲の筏」から転載。

(以下引用)



○高御産巣日神(たかみむすびのかみ)、神産巣日神(かみむすびのかみ)。高御産巣日神は、書紀に高皇産霊尊、「皇産霊此云2美武須毘1(皇産霊をみむすびと言う)」とあり、「古語拾遺」に「古語多加美武須比(たかみむすび)」、新撰姓氏録に「高彌牟須比命」とあるので読みが分かる。【「たかんすび」などと読むのは、音便に崩れた後世の読みである。】この名の意味は、「高」は美称、別名でも「高木(たかぎ)の神」と言う。【後に見える。】「御」も美称である。神産巣日神は、書紀には神皇産霊(かむみむすび)尊とあり、「皇」の字が一言多い。実際、高御産巣日神と双神であれば、この神も神御産巣日神とあって然るべきである。だが延喜式の出雲国造の神賀詞にも「高御魂(たかみむすび)、神魂(かみむすび)命」、新年祭の詞にも「神魂、高御魂」、また御巫の祭る神八座の中にも神産日神、高御産日尊【三代実録二巻に出たのもこれと同じ。】があり、これら二神を並べた中に、いずれも神産巣日神には「御」の字がない。新撰姓氏録にはたくさんの箇所にこの神の名があり、神御魂と書いた箇所もあるが、多くは「神魂」である。古言では同じ音が重なったとき、縮めて一音に言う例が少なくないので、【「倭迹々日(ヤマトととび)」という皇女の名を、「夜麻登々(やまとと)」としたり、旅人を「たびと」とするたぐいである。】これも「かみみ」と「み」が重なるので、多くの場合は縮めて言うのである。であれば、「かみ」の「み」に「御」の意味が含まれているのだ。神の字は「かみ」と読むべきである。【「かみみ」を縮めても、「かむみ」を縮めても、同じく「かみ」になるからである。「かむ」と読んだのでは、「御」の意味が備わらない。ただし書紀のように「神皇」とある場合は、「神」は「かむ」と読む。また「神皇」、「神御」共に、二文字で「かみ」と読んでもいいだろう。】


この名の意味は、「神御」は「高御」と同じく美称、「産巣日」は、字はすべて借字で、「産巣」は「生(むす)」である。それは息子、娘、また「苔むす」【万葉には「草武佐受(くさむさず)」もある。】などに言う「むす」で、ものが成り出ずるのを言う。【とすると、「産」の字は正字と考えても良い。書紀にも「産霊」とあり、「産日」と書かれることも多い。「む」の意味にこの字を書くのは、「生む」の意味である。仁徳天皇の歌で、「子生む」を「こむ」と言った例がある。だが「産巣(むす)」を「生む」の意でなく、「産」を「生む」の意とし、「巣日(すび)」を続けて考えても良さそうに思えるふしもある。その考えは七之巻五十七葉に出した。】「日」は書紀に「霊」とあるが、意味はよく当たっている。すべて物事の霊異(くしび)なのを「ひ」を言う。【「久志毘(くしび)」の「毘」も同じである。】高天の原にいませる天照大御神を地上から見上げて「日」と言うのも、天地に比類なく、最も霊異だからだ。比古(ひこ)、比賣(ひめ)などの「比」も、霊異であることの美称である。また禍津日、直毘などの「毘」もこれである。であるから、「産霊」は万物を生成する霊異(くしび)なる神霊(みたま)を言う。【以前、この「毘」は神佐備(かむさび)、荒備(あらび)などの「び」と同じで、「~ぶる」とも活用し、「~めく」という語に似ている。だから「むすび」とは生み出そうとしている状態を言うのかと考えていたが、それは誤っていた。「~ぶる」と活用する「び」ではない。だからあの「び」は常に「備」を書き、「むすび」は常に「毘」を書く。】この他にも、火産霊(ほむすび)、和久産巣日(わくむすび)、玉留産日(たまつめむすび)、生産日(いくむすび)、足産日(たるむすび)、角凝魂(つぬこりむすび)などの名がある。「むすび」の意味はみな同じである。世の中にありとあらゆることは、天地をはじめ、万物も事業も、この二柱の産巣日大神の産霊によって成り出ずるのである。
「雲の筏」から記事の一部を転載。面白い着眼である。天武天皇の時に皇統の断絶があった可能性を示しているようだ。もっと単純に、記紀の編纂の際に皇室の祖を天照大神にした結果かもしれない。その結果、天武以前の宮中の祭祀の歴史と矛盾が生じたのをそのまま記述したわけだ。
「神武東征」も、実は戦の結果ではなく単に大和に後から来た部族が成り上がっただけかもしれない。先住豪族(ニギハヤヒ系部族)が物部氏や大伴氏で、蘇我氏が天皇家の前代、ということだ。蘇我氏が天皇家以前の中心的豪族で「大王」だった可能性はあるだろう。確か、「天皇」と名乗るのは天武以後だった気がする。ついでだが、「日本」という国名も天武以降だったはずだ。

(以下引用)赤字部分は当ブログ(四月の雨)筆者による強調。

この文章は、安本美典氏の論考に触発されて少し調べてみた結果を述べるものである。そのため、氏の論に多くを負っている。すべてに賛成というわけではないのだが、面白い着眼点だと思っている。

 なぜ神武天皇陵は所在不明になったのか?最近の歴史学では、第十代崇神天皇以後は実在したかも知れないが、それより前の九代の天皇はすべて架空の人物というのが通説とされている。それによれば、もともと存在しない天皇だから、陵墓もなくて当たり前なわけだ。

 この件はすでに別の項で述べたので、ここでは繰り返さない。ただ私は古代天皇実在説に立って、改めて日本古代史を問い直してみたい。初期天皇架空説を唱える人でも、日本書紀に記載された地名を取り上げて、比定地を探っているらしいからだ。

 神武天皇陵は実際には現在公式に認められているミサンザイでなく、その南方にある丸山古墳だという説があるそうだ。神武天皇架空説を採る人はにやにやするだけだろうが、実在説を採る人も「あんな小さな古墳が偉大な天皇家開闢の祖、神武天皇陵であるはずがない」と思うらしい。しかし神武天皇が当時はまだ一地方氏族で、物部氏の容認でやっと大和に住むことを許されただけだったら、大きな古墳を作らなかったのも当然だ

 別の項で、神武天皇を初代とする初期天皇家は、後代には賤業とされた職業に携わっていた可能性があることを述べた。つまり朱の採掘や、水銀の精錬である。はじめは賤業でも、財を蓄えて力を着ければ豪族になり、やがては王にもなる。神武が大和入りしてすぐ大王になり、初代天皇になったと考えるのは(日本書紀にそう書いてあるのだが)、誤りだろう。

 神武から数代の天皇家は、まだどちらかと言えば貧しく暮らしていたのではないだろうか。丹敷では船が難破し、一行はほとんど潰滅状態に至っているのだ。大王になるどころか、生き延びるのが精一杯だっただろう。神武は、後代になって「祖業」を築いた偉大な先祖と見られたにしても、まだ成功を収めるに至らないまま早死にしたと思うのである。

 よく考えてみると、神武から開化までの九代の天皇の陵墓には、あまり目立ったものがない。崇神に至って初めて、箸墓古墳のような大型古墳が現れる。それに神武天皇の出身地とされる宮崎(日向)には、あまり古い古墳はない。大和で大型古墳を作り始めたのが先であり、日向ではそれより遅れて始まったらしい。つまりもともと天皇家の祖先には、巨大墳墓を築造する伝統がなかったのではないだろうか。古墳の多くは、いわゆる地方豪族による築造である。「古墳時代」と言えば、「天皇を中心とした巨大陵墓」が次々と作られた時代、という認識を持つのだが、事実はそうではない。大和平野の古墳群には、天皇家と無関係な当時の豪族の墓が相当数含まれているだろう。

 神武天皇陵がミサンザイに治定されたいきさつは、安本美典氏の著作に詳しい。大筋を言うと、幕末に尊皇思想が有力になってきたので、徳川幕府でも天皇陵の調査を行うことになり、宇都宮藩が主体となって各地の御陵を調査した。当時丸山古墳説とミサンザイ説があり、調査委員は丸山古墳が単なる小高い丘でとても古墳のようには見えないし、周囲に被差別民の部落があり、「薄汚い連中」の住むところで、神聖なる初代天皇の墳墓ではあり得ないと報告した、というのである。

 ちなみに、幕末には財政が逼迫していたのだが、この修陵事業には相当な大金を出したらしい。幕府内でも天皇を神聖視する考え方はかなり浸透していたのだろう。宇都宮藩は水戸にも近く、尊皇の気風は強かったと考えられる。

 また、当時は孝明天皇による陵墓参りが企画されており、被差別民を立ち退かせる必要があったのだが、日程的に間に合わないという判断があったとも言う。

 この部落を洞(ほら)部落と呼んだそうだが、この名称にも何やら謎めいた感じがある。「洞」というのは、中国では少数民族の居住地域を指し、朝鮮では神などの住まう場所を指すことが多いようなのである。

 神武天皇の崩御の後、その墓守として、九州から東征に同行した家人を付けたという伝承があるそうだ。その時点では賎民ではなかったらしい。むしろ由緒正しい家系として誇りを持っていただろう。

 ところが律令制が始まった頃、天皇陵の墓守は「陵戸」とか「守戸」と呼ぶ賎民とされた。ただし朝廷から相応の土地や毎年の俸給を得ていたらしいので、案外過酷な身分ではなかったようだ。他の身分との通婚禁止という制約はあったが、これも一種の身分保護だった可能性がある。いずれにしても、幕末の時点で国家の庇護もなく、ひどい状態に置かれていたのは、どこかの時点で政府の方針が変化したのであろう。

 私は、陵戸や守戸という「賎民」は良民より劣った身分と認識されたというより、本来は「聖別」された人々だったのだろうと思う。通婚禁止というのも、聖別された人と世俗の民の血が入り交じるのを怖れたのだろう。それがいつしか聖なる身分であることが忘れられ、タブーの面だけが残って「穢れ」と感じられるようになった。

 彼らは死者を保護する人々である。古代には、さして穢れの意味はなかったらしい。だが時代が下るにつれ、死の世界を畏れ忌避する風潮が強まった。日本の土着の宗教には、天国と地獄の観念がない。生者の世界と死者の世界の二つしかないのである。生者の世界は明るい光に満ち、美と希望と快楽がある。しかし死者の世界には腐敗と汚穢だけがある。

 強いて言えば、その境界は顕宗天皇による雄略天皇陵毀損記事である。兄(後の仁賢天皇)が驚いて弟を諫め、結局企てを取り止めた(古事記では、兄がほんの少し陵墓の土を掘ったという)のだが、天皇がいくら恨みを抱いたとは言え、陵墓に触るというのは、やはりタブーだったのだ。彼ら兄弟が雄略に殺された父の骨を掘り出させて直に見たというのも、珍しい話である。

 人類の歴史における最初の神は、祖先神だっただろう。つまり自分の親や祖父などを祭り、かつて自分を育ててくれた頃と同じように死後も見守って欲しいと願うのである。ここでは死霊は本来守護の霊である。しかし戦いで殺し合ったりするうち、死者の怨念や呪いが残留する可能性も増しただろう。ただし、多くの民族では、死者をいかに安らかに眠らせるかに心を砕いたようであり、おそらく死に臨んだときの苦しみ(ほとんどの死は苦しみを伴う)から、多くの人が死に対する恐怖を抱いたに違いない。

 古い形が残る地方の葬送儀礼を見ると、死者がこの世に帰ってくることのないように、二重三重にあの世に送る仕掛けになっているらしい。死者に送る別離の言葉にも、繰り返し「戻ってくるなよ」という言葉が現れる。愛する人であっても、幽霊は怖ろしいというわけだ。

 死者を保護する人々としての聖別された人々は、こうした恐怖の世界の入り口に立ち、生者の世界との境界線上で仲立ちとなっているのである。死者を聖視する観念が薄れ、単なる古霊になったとき、そこにはタタリへの畏れだけが残った。だがその幽冥の境界で怖れ気もなく死者に触れる人々は、多くの人にとって怖ろしい世界に半身を浸している人々である。

 この身分規定は、しかし、中世には一度完全に崩れたという。古くは技術的な職能人の多くが賎民の扱いをされたらしいが、技術革新が相次ぐ中で、維持できなくなったのだろう。江戸時代にも職能人、芸能人で賎民身分を脱する人々がいた。

 それに比較して、洞部落の人々はまるで朝廷からうち捨てられたかのような暮らしをしていた。私はここに何か歴史的ないきさつがあったのではないかという感じがするのである。

 それは神武天皇系と違った皇統があり、その系統が長く天皇家を継いだため、神武の祭祀がいつか忘れられ、途絶えてしまったのではないかという仮説である。

 神武天皇を実在した人物と考えるならば、少なくとも天武天皇の頃にはまだ陵墓のある場所は判明していた。天武天皇は壬申の乱の際、高市縣主の許梅(コメ)なる人物が事代主神の託宣を告げたのを受けて、許梅を遣わして神武天皇陵を祭り拝ませたという。

 この頃には、天皇が陵墓に直接出かけて拝むことはなかったようである。死の穢れを怖れたのだろう。だが古くは、それほど強いタブーとは思われていなかったようである。仁徳紀の白鳥陵の陵守を役丁(えよぼろ)に充てようとして起こった怪異、顕宗紀の雄略天皇陵毀損事件などは、いわゆる「触穢(しょくえ)」に当たるだろう。神功紀の「阿豆那比(あずない)の罪」の記事も、天皇自ら遺骸を確認したのかもしれない。

<天照大神と大物主神の戦い>

 天武天皇は、また天照大神を尊崇した天皇でもあった。われわれは天照大神こそ天皇家の祖先神であり、最高神であるという「常識」を持っているので何ら疑問を抱かないが、そのつもりで読むと、実は崇神以来、天智にいたる天皇家では、三輪の大神である大物主神の方がどちらかと言えば有力だったのだ。

 崇神天皇紀の五年から六年にかけて、疫病の流行や百姓の流離、時には一揆も起こったので、内殿に並べて祭ってあった天照大神と倭大国魂神をいずれも外に出したという記事がある。それまでこの二柱の神と天皇が同殿共床していたのである。それがあまりにも畏れ多く、祟ったのだと考えたわけだ。その後天照大神は各地を巡幸することになる。

 倭大国魂神は、それまで登場しない名前だが、大物主神と同神である。宮中から出すといっても、元々三輪山の大神だったから、宮中の神は分霊、分祀である。つまり宮中の祭祀をやめただけなのだが、それではあまりにも失礼だというので、この分霊にも新たな名を与えて別に祭ったのだろう。崇神紀には明示しないが、垂仁紀では穴磯邑(あなしのむら)に祭ったと書いてある。

 大物主神と同神だというのは、この前後の記事で倭大国魂神は何も言っていないが、大物主神は「私を大田田根子に祭らせよ」など、あれこれ言っていて、事件(タタリ)の主体になっているからである。なお古事記では倭大国魂神の名は出て来ない。すべて大物主神のことである。

 崇神紀と垂仁紀細註はこの記事が重複しているのだが、細かく見るとずいぶん違う。すでに倭姫によって天照大神が伊勢にたどり着いた後、倭大国魂神が神託を下したとある。崇神紀では崩御の年を120才と書いてあるのに、神託では、崇神が長生きできなかったとあるなど、かなり怪しげである。

 いずれにせよ崇神八年には、天皇は大物主神を讃えて大々的な祭を行っているが、天照大神は豊鍬入姫に託し、その後各地をさすらうに任せた

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