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斉明天皇の死後、皇太子中大兄皇子が即位せず皇太子のまま政務を執った(称制した)ことは知られているが、その理由を究明した人は少ない。しかし、西嶋定生の「日本歴史の国際環境」(東京大学出版会)にその理由が明快に書かれている。それは、白村江の戦いの惨敗で唐を恐れた中大兄皇子が、「天皇」という名を用いることを唐に対して憚ったからだ、という、言われてみれば当然の話である。
「天皇」の名は「皇帝」と同じであり、「世界(天下)の支配者」の意味であるから、中国の皇帝と日本の天皇が両立できるはずはない。しかし、軍事力的に日本は唐に対抗できるはずがないから、唐との決戦が不可避になるまでは天皇即位を隠忍自重しようと中大兄皇子は考えた、というわけだ。これは国粋主義者には我慢がならない話だろうが、政治的リアリストとしては当然の、理性的な判断だろう。
新羅の国王など、7世紀後半の唐の朝鮮出兵(唐新羅戦争)に対し、ほぼ全勝しながら、唐に詫びの使者を送り、唐との全面戦争を避け、その結果、朝鮮の支配権を確立したのである。これが、リアルかつ賢明な政治というものだ。
なお、白村江の戦いの後、唐は2年に一度くらいの割で倭国に使者を送ってきたが、それはおそらく唐の冊封体制の中に入ることを求めたものかと思う。だが、唐としても、朝鮮出兵でかなりな消耗を強いられた経験から、日本と全面戦争をすることは避けたかったのだろう。これが壬申の乱の間もその後も倭国が唐に侵攻されなかった理由だと思う。

なお、大海人皇子が実は中大兄皇子より年長で、同母兄である、という証拠として、「中大兄皇子」はなぜそういう名前になったのか、ということを考えた。もちろん、私の想像だ。
古文では「中」は「真ん中」だけでなく「二番目」の意味がある。つまり、中大兄皇子が長兄なら「中」とは言わないはずだ。つまり、異父兄ではあるが、兄である人、つまり大海人皇子がいたから斉明女皇の「二番目の皇子」と呼ばれた、というわけだ。「大」は美称である。「二番目だが皇位継承権の点では上である」ことを「大」の字が示したものだ、という説はどうだろうか。
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史が本名で、不比等(比等せず:比べるものもない凄い奴)の名は自分で勝手に作った当て字だという「中二病不比等」というネタを考えたが、残念ながら不比等は壬申の乱の時13歳くらいで、政争には参加していないようなので、「剣と鏡」には使えそうもない。しかし、日本古代史の影の主人公として鎌足と不比等父子を「剣と鏡」の骨組みとする考えは変わらない。ただし、天武天皇朝鮮人血統説のほうが面白いので、そちらを主軸にするかもしれない。
鎌足の死の場面をプロローグとし、不比等の登場をエピローグにする、という手もある。



藤原不比等

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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藤原不比等
Fujiwara-Fuhito.jpg
藤原不比等(菊池容斎・画、明治時代)
時代 飛鳥時代 - 奈良時代初期
生誕 斉明天皇5年(659年
死没 養老4年8月3日720年9月9日
別名
諡号 文忠公、淡海公
官位 正二位右大臣、贈正一位太政大臣
主君 天武天皇持統天皇文武天皇元明天皇元正天皇
氏族 藤原氏
父母 父:藤原鎌足、母:与志古娘
兄弟 定恵不比等氷上娘五百重娘耳面刀自、斗売娘
蘇我娼子、五百重娘、賀茂比売、県犬養三千代
武智麻呂房前宇合麻呂宮子長娥子光明子多比能
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藤原 不比等(ふじわら の ふひと)は、飛鳥時代から奈良時代初期にかけての公卿藤原鎌足の次男。文献によっては(ふひと)と記されている場合もある。『興福寺縁起』『大鏡』『公卿補任』『尊卑分脈』などの史料では天智天皇落胤と書かれる。諡号文忠公、国公は淡海公

概要[編集]

藤原不比等は、天智天皇から藤原氏の姓を賜った藤原鎌足の子である。文武天皇2年(698年)には、不比等の子孫のみが藤原姓を名乗り、太政官の官職に就くことができるとされた。不比等の従兄弟たちは、鎌足の元の姓である中臣朝臣姓とされ、神祇官として祭祀のみを担当することと明確に分けられた。このため、不比等が藤原氏の実質的な家祖と解することもできる[1]

天智天皇の皇胤説[編集]

前述のように不比等は実は鎌足の子ではなく、天智天皇の落胤であるとの説がある。『公卿補任』の不比等の項には「実は天智天皇の皇子と云々、内大臣大職冠鎌足の二男一名史、母は車持国子君の女、与志古娘也、車持夫人」とあり、『大鏡』では天智天皇が妊娠中の女御を鎌足に下げ渡す際、「生まれた子が男ならばそなたの子とし、女ならば朕のものとする」と言ったという伝説(実際に男子=不比等が生まれた)を伝える。『帝王編年記』『尊卑分脈』などの記載も同様である。

平安時代まではこの伝説はかなりの信憑性を持っていたと考えられ、『竹取物語』でかぐや姫に求婚する5人の貴公子の1人車持皇子のモデルは不比等とされている。これは、母が車持氏出身の皇子、という意味の名である。

歴史学者の間では皇胤説の支持は少ないが、もし本当に皇胤であったとすれば、後の異例とも言える不比等の出世が、天武天皇持統天皇代に行われた皇親政治(天智・天武系皇子を朝廷の要職に就け、政治の中枢を担わせた形態)の延長として考えることも可能になるとして、支持する学者もいる[2]

なお同様の伝承は平清盛にも存在し、『平家物語』にも白河法皇の落胤という説があるとして、巻第六「祇園女御」に祇園女御が生んだ子が男子ならば平忠盛に授け、女子ならば自分が引き取るという、全く同様の逸話が述べられている。

また続けて、先例として天智天皇と鎌足の話が述べられているが、ここでは天皇の子とされているのは不比等ではなく定恵である(『多武峯略記』には、定恵は孝徳天皇の落胤とする説を載せている)。

不比等という名前についても、壬申の乱の後、天智天皇系の皇子ということで田辺史大隅(たなべのふひとおおすみ[3])の家にしばらくかくまわれていた[4]ことと関連する説がある。

もっとも、藤原(中臣)鎌足は大化の改新以来、日本の外交責任者の地位にあり、当時外交使節として活躍していたのが僧侶と史(フミヒト:書記官)及び彼らが持っていた漢文や儒教・仏教の知識であったことから、自分の長男(定恵)を僧侶として、次男(不比等)を史として育てて、将来的に自分の役割を補佐・継承させる意図が存在していたとして、皇胤説に否定的な見方もある[5]。また、後年の『大宝律令』の編纂には不比等だけでなく、田辺史(氏)に属する2名が関わっていたことが知られているが、これが不比等の推挙であると同時に田辺大隅ら田辺史の一族が法律知識を有して不比等の知識を授けた可能性を示している[6]

略歴[編集]

11歳の時、父・鎌足が死去。父の生前の関係から、近江朝に近い立場にいたが、壬申の乱の時は、数えで13歳であったために何の関与もせず、近江朝に対する処罰の対象にも天武朝に対する功績の対象にも入らなかった。だが、中臣金をはじめとする鎌足の同族(中臣氏)の有力者が近江朝の要人として処罰を受けたこともあって、天武朝の初期には中臣(藤原)氏は朝廷の中枢から一掃された形となっており、有力な後ろ盾を持たない不比等は『日本書紀』の天武天皇2年(673年)5月条にある大舎人の登用制度によって出仕して下級官人からの立身を余儀なくされたと考えられている。

天武朝の後期に入ると、不比等は従兄弟の中臣大嶋[7]とともに草壁皇子に仕えたとみられている。東大寺正倉院の宝物として『国家珍宝帳』に記載されている「黒作懸佩刀」は草壁皇子から不比等に授けられた皇子の護り刀で、後に皇子と不比等自身の共通の孫である聖武天皇に譲られたと伝えられている[8]

『日本書紀』に不比等の名前が出るのは持統天皇3年(689年)2月26日(己酉)に判事に任命されたのが初出で持統天皇所生である草壁皇子に仕えていた縁と法律や文筆の才によって登用されたと考えられている。また、こうした経歴から不比等が飛鳥浄御原令の編纂に参加していたとする説もある[6]

文武天皇元年(697年)には持統天皇の譲位により即位した草壁皇子の息子・軽皇子(文武天皇)の擁立に功績があり、更に大宝律令編纂において中心的な役割を果たしたことで、政治の表舞台に登場する。また、阿閉皇女(元明天皇)付き女官で持統末年頃に不比等と婚姻関係になったと考えられている橘三千代の力添えにより皇室との関係を深め、文武天皇の即位直後には娘の藤原宮子が天皇の夫人となり[9]、藤原朝臣姓の名乗りが不比等の子孫に限定され、藤原氏=不比等家が成立している。

文武天皇と宮子の間には首皇子(聖武天皇)が生まれ、さらに橘三千代との間の娘である光明子を聖武天皇に嫁がせたが、光明子は不比等の死後、不比等の息子の藤原四兄弟の力によって光明皇后となり初の非皇族の人臣皇后の例となった。

不比等は氏寺の山階寺を奈良に移し興福寺と改めた。その後、養老律令の編纂作業に取りかかるが養老4年(720年)に施行を前に病死した。養老律令を実施したのは孫の仲麻呂の時である。

不比等とその息子の藤原四兄弟によって、藤原氏の繁栄の基礎が固められるとともに最初の黄金時代が作り上げられた。

村主の「村」は朝鮮語で「すき」と発音されるとか言う。大友村主という姓も帰化人にはあるらしいが、もともとは「大友村長」の意味だったのが姓に転化したのではないか。
なお、井沢元彦の「逆説の日本史」の中に、天智天皇と天武天皇は同父の兄弟ではなく、父系で言えばまったく別系統の家系だという説があり、天武以降数代(8代くらいか)にわたって天皇家の「本筋」である天智系が天武系に簒奪され(ただし母系は天智系)、桓武天皇の前の天皇で再び天智系に戻った、という説が書かれていて、興味深い。つまり、壬申の乱は本来は天皇になる資格の無い大海人皇子による「天皇家」への反乱だったということで、その背後には新羅勢力の暗躍があった、としている。
大海人皇子の父親(斉明女皇の最初の夫)がたぶん新羅からの渡来人だったのではないか。そのために大海人皇子には皇位継承資格が無かったわけだ。つまり、本当は天武のほうが天智より年齢が上だったわけである。これは「日本書紀」などからは天武の年齢が不明であることも証拠になる。ついでに言えば、天武には宴席で興奮して槍を床に突きさすなど、「火病」めいた発作的行動が時々見られるようだ。
なお、「日本書紀」は天武家による「粉飾の歴史」であり、天智天武持統に関する記述の一部は信頼すべきでない、と井沢は言っているが、その意見に私も同意する。

なお、藤原不比等は長男を僧にしただけでなく、聖武天皇と光明皇后の異常な仏教崇拝を後押しした気配があり、本来は「神道」の役職(神祇官)である中臣氏の行動としては異常だが、これは神道の内部の最高の地位にある人間(家)だからこそ神道の虚偽性を知り尽くしていたためだろう。つまり神道も仏教も中臣(藤原)一族には政治権力の道具でしかなかったということである。言い換えれば、バルザックの作中の政治家ド・マルセーのように、「神も悪魔も男も女も信じない」のが中臣鎌足と藤原不比等だったと思われる。鎌足の愛読書は古代のマキャベリズムの書「六韜」だったらしい。




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ベストアンサー以外の回答

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val********さん

2010/1/307:37:22

白村江の「はくすき」とは当時の地名の白村を百済語発音を日本側が聞き取ったよるものだということです。
ちなみに村主(古代朝鮮語で村長の意)は渡来系の諸氏が称したものなどから少なくとも関係はしていると思われます。



願望充足というのは小説の基本である。だから面白いのだ。読者の願望(作者の願望でもある)が小説の中で実現されるから楽しいのだ。しかし、最初からチートである「なろう系」だとさすがに読者も馬鹿馬鹿しくなって冷めてしまうのだろう。孫悟空だって最初からチートだったわけではない。ジャン・バルジャンなど、最低の境遇からどんどん上昇して最後は神のような聖者になるから面白いのだ。美男で剣の達人で、モラルに縛られないから女は犯し放題、敵は殺し放題、という「眠狂四郎」がベストセラーになったのも、読者の隠微な願望を充足させたからである。
なお、私自身は、良くできた小説を読むのは好きだが、現実人生の人間関係のゴタゴタは大嫌いだから、「島耕作」みたいな話は受け付けない。恋愛の話も、「さっさとやれよ。やるだけのためにいちいちゴタゴタすんじゃねえ」と思ってしまう。

「剣と鏡」は放置中だが、これも、はたして私はあのゴタゴタを本当に書きたいのか、と悩んでいるところである。誰か、抜群に上手い小説家か漫画家が書いてくれないものか。
とりあえず、現実の(というか「日本書紀」の中の)話をそのまま書いても、それなら「日本書紀」を読んだほうがマシ、となるのは目に見えている。事件を時系列で並べていっても面白くならないことはほぼ確実だろう。
現在の構想は、仏教伝来から壬申の乱までを「現代劇」かつ「政治劇」として書くことである。ただ、そういうアイデア(手法)は昔から、特に演劇などであると思うが、名作になったものがあるとも思えないので、ためらっているのである。



  1. 「爺だけどオレ強えー!」「息子より若い嫁もらってむひょー」な池波正太郎先生著・『剣客商売』(笑)【RT】

  2. なろう系に限らずだいたいそういうもんですよ。島耕作だってサラリーマンのファンタジーだし水戸黄門だって庶民の救われたい願望。〜ポルノ、という貶め方っていつも冷ややかに見てしまいます。ちょっと複雑にひねったら今度は「それでは売れません」って言うくせに(笑)。



白村江の戦いの前に巷に流行った歌が白村江の戦いの敗戦を予言していたという感じで「日本書紀」の中に出てくるのだが、それが謎歌で、謎を考えるのが好きな人なら喜びそうである。
面倒くさいが、ここに載せておく。で、後で少し考えてみるかもしれない。
なお、原文は万葉仮名なので、この読み方自体が間違っている可能性も大いにある。


「まひらくつのくれつれをのへたをらふくのりかりがみわたとのりかみをのへたをらふくのりかりが甲子とわよとみをのへたをらふくのりかりが」


(考察)よくあるパターンとして、文章を後ろから書いたのではないか、と考えてみる。甲子の部分は、そこだけ漢字熟語(年号)かと思うのでそのままにしておく。

「がりかりのくふらをたへのをみとよわと子甲(甲子)がりかりのくふらをたへのをみかりのとたわみがりかりのくふらをたへのをれつれくのつくらひま」

前の文よりは文章らしくなっているような気がするので、これをさらに日本語らしく、5音や7音に近い句切れで区切ってみる。

「がりかりの、くふらをたへの、をみとよわと、甲子がり、かりのくふらを
たへの、をみかりのと、たわみがり、かりのくふらをたへの、をれつれく、のつくらひま」

問題は何度も出てくる「くふら」という言葉で、「ら」は複数を表わすとして、「くふ」が何か、である。「たへ」は「絶え」で、何かが途絶えた意味としておく。
また、「かり」という言葉(「がりかり」というまとまりかもしれないが、「がり」を偽装のための飾りとしておく。)も何度か出てくるが、これはそのまま「狩り」ではないかと思う。つまり、百済救援の戦を「狩り」にたとえたわけだ。しかし、「くふ」が絶えているから云々、ではないだろうか。
まあ、古語や古代史に疎い私の知識では、これ以上考えても無駄だろうから、ここまでとする。


(追記)「たへ」を「絶え」としたのはおそらく間違いだろう。「絶え」は古語では「ヤ行」で活用するから、「たゑ」となると思う。万葉仮名で「幣」や「陛」と表記されているのは「ハ行」の「へ」のはずである。まあ、「絶え」説が消えると、上の考察の半分以上無意味になると思うが、どうせ遊びの考察だ。






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