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あまり資料ばかり読んでいて、最初の考えがどんなだったか忘れそうなので、ここでもう一度最初の構想を載せておく。
最後に書いてある配役(人物イメージ)などは、だいたいこんな感じでいいと思うが、ほかにも重要人物はたくさん出てきそうである。NHK大河ドラマにできるくらいの内容のある歴史的事件なのだが、そんなのを書いていたら、5年くらいかかりそうで、完成まで生きていられる自信がないし、自分にそんな才能があるとも思わない。私はプロデューサー的感性には自信があるが、物そのものを作るのは苦手なのである。
なお、中大兄皇子を源頼朝のイメージとしたが、もう少し陰険陰性の感じがいい。大久保利通とも少し違う。大久保は無私の人だが、中大兄皇子はチェザーレ・ボルジアのイメージだ。そういう、残酷冷酷な感じで、しかも恰好いい俳優というと、若いころの仲代達矢だろうか。中臣鎌足が山崎努。大海人皇子は、豪快で少し粗暴で勘の良さそうな「魅力的な野獣」という感じ。三船敏郎と誰かをミックスした感じか。
なお、四部構想ではなく三部構想がいいかと思う。聖徳太子の時代は二部に分けるほどではない。第二部と第三部を一続きにしたほうが、登場人物の連続性の上からも良さそうだ。



まだ漠然とした想念なので、これを文章化するかどうか分からないが、日本の古代史に関する小説かシナリオを構想してみようかと思っている。

内容としては、推古朝から天智天武朝までのドラマである。推古朝とは要するに聖徳太子の時代だ。もっと詳しく言えば、蘇我氏時代である。蘇我氏と物部氏の仏教受容に関する闘争(戦争)を皮切りに、蘇我氏の傀儡としての聖徳太子の姿、その息子の山背大兄王の父聖徳への反発、推古の後継者争い(田村皇子と山背大兄王の争い)、蘇我蝦夷がなぜ蘇我系統の山背大兄王ではなく田村皇子擁立に乗り気だったのか、また蘇我入鹿(と蝦夷)がなぜ山背大兄王一族を滅亡させたのか、などが前半で、この争いが中大兄皇子に与えた精神的影響を基にして大化の改新(乙巳の朝廷クーデター)が後半の前半(妙な言い方だが、後半開始早々にこの大ドラマが起こるわけだ。)で、大化の改新の影の立役者としての中臣鎌足(大久保利通タイプ)の「政治ゲーム」あるいは王座を巡るゲーム(ゲームオブスローンズ)を描いていく。
中臣氏は神祇官の家であり、仏教と共に勢力拡張をしてきた蘇我氏とは根本的な敵である。つまり、聖徳太子時代の仏教受容争いの遺恨が大化の改新の裏の原因で、表の原因としては、中大兄皇子が有力豪族(蘇我氏)の傀儡的存在でしかない皇室の在り方に疑問を持ち、唐から帰朝した南淵請安や僧旻らの「中国政治情報」を得て、皇室中心の中央集権国家を作る構想を持ったということ。特に皇室を良しとするのではなく、むしろ大化の改新(特に乙巳の乱)とは中大兄皇子による「長いナイフの夜」だった、という構想である。
タイトルとしては「剣と鏡」というのを暫定案として考えている。これは皇室の三種の神器のうちのふたつで、天下を治める者は剣と鏡の心を持たねばならない、ということ。剣は言うまでもなく他人を従わせる武器であり、鏡は自分自身を見る道具、つまり自分の内面を治める(自己コントロールをする)道具だ。
後半の後半は壬申の乱が中心、つまり大海人皇子が兄天智(中大兄皇子)の息子である大友皇子と戦って天皇の座に付き、ここにゲームオブスローンズが完結する、という構想である。

大きく4部構想としたら

第一部 仏教伝来
第二部 聖徳太子の死と山背大兄王の死
第三部 大化の改新
第四部 壬申の乱

という感じで、主人公は第一部第二部は蘇我蝦夷と聖徳太子
第三部第四部は中大兄皇子と中臣鎌足がメインだが、他の登場人物ももちろん重要である。
さらに大きく括れば、第一部第二部は蘇我氏が中心、第三部第四部は中臣氏が中心とも言える。
つまり、政治を陰で動かしてきた力を描きたいのである。壬申の乱の時に中臣鎌足が生きていたかどうか後で調べるが、鎌足がいなかったために壬申の乱が起こった、という感じで描きたい。


主要キャスト(配役は暫定)

蘇我蝦夷:草刈正雄(策士だが抜けたところもあり、魅力的な感じ)
聖徳太子:平岳大(又は、もう少し小柄で大人しい感じの俳優。)
推古天皇:鈴木京香(威厳のある年増美女)
山背大兄王:佐藤健(気が強く、思慮に欠ける若者)
田村皇子:岡田将生(意志が弱く、お人よし)
蘇我入鹿:長瀬智也(粗暴、乱暴、強引無礼)
中大兄皇子:堺雅人(温厚な顔に似合わず案外悪人。頭がいい。源頼朝のイメージ)
中臣鎌足:(陰謀家)
大海人皇子:岡田准一(若くて豪快でやや思慮に欠ける感じ)
額田王:山本美月(少しアホっぽい方が意外性があっていい)
皇極(斉明)帝:夏木マリ(もう少し若く、なるべく狂気を感じさせる女優がいい)
余豊璋:安田顕(百済からの人質の王子。斉明帝の恋人で、斉明の異常な百済救援の真の動機。ハンサムだがあまり頭は良くなく、思慮に欠ける。斉明との関係で中年の俳優がいい)

南淵請安: (大化の改新の知的指導者)




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「大海人皇子(天武天皇)による天智天皇暗殺」説(井沢元彦「逆説の日本史」)をどう考えるか、どう扱うかというのは「剣と鏡」の中心部に関わる問題だが、これにイエスとした方が論理的な整合性は取りやすいようだ。
というのは、国際情勢との関連があるからだ。

671年6月:栗隈王(後に壬申の乱で天武に協力)の太宰府長官任命
同年11月:唐使郭務悰来日(日本と唐との同盟締結のためか)
同年12月3日:天智天皇死去(公式には病死。井沢は暗殺説)

この頃、新羅は唐との戦い(主に百済の遺臣を利用)の最中で、唐と日本が同盟を結べば国家存亡の危機になるので、その同盟を阻止するために、親新羅派の大海人皇子が皇位に就くことは非常に好都合であった。天智朝廷は百済からの亡命者が多く、反新羅が主流だったと考えられる。
なお、天智は狩りの途中で殺害され、遺体が見つからない(前掲書による)ため暗殺かどうかあやふやだったことが、大友皇子側の大海人皇子への対応が遅れた理由だったかと思う。
なお、天智天皇が即位した年に、新羅のスパイである坊主が草薙剣を盗んで逃走し、捕らえられた(?)事件があったことからも、新羅が天智天皇の「反新羅・親百済」姿勢に危機感と反感を持っていたのは確かだろう。

私としては、中大兄皇子と大海人皇子は、ライバルであると同時にお互いの才能や力量を認め合った間柄だとしたいので、最後に天智暗殺の話が来るとなるとあまりに殺伐としてしまうのが難点である。

昨日の記事のカッコ内の補足が、いい加減な書き方をしたために変になったのだが、今、はっきりと「訂正」とした。ついでに書くと、「日本」の呼称が670年の新羅への遣使から始まったとすると、日本朝廷の「中華思想」(もちろん、日本を「中国」つまり中心の国とする中華思想だ。)の高まりを新羅は明確に把握しただろうから、天智朝廷への危機感も増しただろう。当然、親新羅の大海人皇子へのアプローチも強化されたと思う。壬申の乱の原因の半分くらいは、こうした国際情勢と関係があるのではないか。



私は、「天皇」という称号と「日本」という国名の使用は、任那の滅亡によって大陸に係累を失った大和朝廷王家(天皇家)が、故郷の喪失によって心細くなった自我の補強のために行った自賛表現だろうと考えている。任那滅亡が562年(欽明23年)としたら、確か欽明朝から「天皇」の称号と「日本」の呼称は始まったと思う(訂正:今、三浦朱門の「天皇」を見ると、「日本」の呼称は670年の新羅への日本の使者が自国をそう名乗ったのが最初らしい。つまり欽明朝ではないようだ。これは岡田英弘「日本史の誕生」にあるとか。)ので、この考えが裏付けられると思う。
この時から、皇室の朝鮮半島における日本の権益奪回とともに、中国(隋など)への傲慢な「対等外交」要求が始まるのである。

なお、仏教受容の政治思想的意味をぼんやり考えているが、未だ熟していない。要するに、仏教思想という、政治とまったく対照的な思想をなぜ日本の皇室が(自ら称する「神の子孫である皇室」と矛盾するにも関わらず)受け入れたのか、という謎だ。
もちろん、ローマ帝国におけるキリスト教認容と同じく、その政治的効果を考えたのだろうが、それがどういうものか、だ。ちなみに、皇室の人間にとって自分らが神の子孫などでないことはあまりにも当たり前の話で、それは「大衆向けプロパガンダ」にすぎないことは、皇室やその縁者には常識だったはずである。これを竹熊健太郎の言葉を借りれば、「顕教に対する密教」と言う。宗教内部の最高の階級の人間にとっては、その宗教がインチキであることは明白だ、ということだ。


中国史料における任那[編集]

好太王碑 拓本部分

日本書紀』(720年成立)よりも古い記述を含む。

  • 三国志』魏書東夷伝・弁辰諸国条の「弥烏邪馬」が任那の前身とする説がある。
  • 広開土王碑文(414年建立) : 永楽10年(400年)条の「任那加羅」が史料初見とされている。
  • 宋書』では「弁辰」が消えて、438年条に「任那」が見え、451年条に「任那、加羅」と2国が併記される。その後の『南斉書』も併記を踏襲している。
  • 梁書』は、「任那、伽羅」と表記を変えて併記する。
  • 525年前後の状況を記載した『梁職貢図』百済条は、百済南方の諸小国を挙げているが、すでに任那の記載はない。
  • 翰苑』(660年成立)新羅条に「任那」が見え、その註(649年 - 683年成立)に「新羅の古老の話によれば、加羅と任那は新羅に滅ばされたが、その故地は新羅国都の南700〜800里の地点に並在している。」と記されている。
  • 通典』(801年成立)辺防一新羅の条に「加羅」と「任那諸国」の名があり、新羅に滅ぼされたと記されている。

太平御覧』(983年成立)、『冊府元亀』(1013年成立)もほぼ同様に記述している。

なお、宋書倭国伝によると、451年に、宋朝文帝は、倭王済(允恭天皇に比定される)に「使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事」の号を授けたという。また、478年に、宋朝の順帝は、倭王武(雄略天皇に比定される)に「使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事、安東大将軍、倭王」の号を授けたという。

『日本書紀』における任那[編集]

『日本書紀』(720年成立)崇神天皇条から天武天皇条にかけて「任那」が多く登場する。

  • 崇神天皇65年と垂仁天皇2年の条は一連の記事で、任那と日本の最初の関係の起源を語る。
  • 応神天皇7年と25年の記事のうち25年の条は『百済記』の引用である。
  • 雄略天皇7年のあたりからかなり詳しい伝承がふえ、同天皇8年の記事では「日本府行軍元帥」の文字がみえ、倭の五王の三韓における軍事指揮権との関係が推察される。同21年の記事は有名な百済の一時滅亡と熊津での百済再建に絡んでの記事である。
  • 顕宗天皇3年、阿閉臣事代が任那に赴いたこと、紀生磐宿禰が任那に拠って自立の勢いを示したことが見える。
  • 継体天皇3年にも記事があり、同天皇6年の条は有名な「四県二郡割譲事件」の記事、同21年の条は「磐井の乱」に絡んでの記事である。23年、24年にも金官加羅の滅亡の前後をめぐる詳しい伝承がある。
  • 宣化天皇2年、大伴狭手彦を任那に派遣した。
  • 欽明天皇からはおびただしく記事が増え、ほぼ毎年任那関係の事件が見える。欽明2年(541年)4月の条に「任那」に「日本府」を合わせた「任那日本府」が現れ、同年秋7月の条には「安羅日本府」も見える。同天皇23年(562年)の条には、加羅国(から)、安羅国(あら)、斯二岐国(しにき)、多羅国(たら)、率麻国(そつま)、古嵯国(こさ)、子他国(こた)、散半下国(さんはんげ)、乞飡国(こつさん、さんは、にすいに食)、稔礼国(にむれ)の十国の総称を任那と言う、とある。この10国は562年の任那滅亡に近い最末期の領域である。

地理上、任那が朝鮮半島における日本に最も近い地域であり、重要な地域であったことに由来し、日本の史料が最も豊富な情報を提供している。これらの史料によると日本(倭)は、任那滅亡後に新羅に「任那の調」を要求しており、従来日本(倭)に対し調を納めていた事実が書かれている。

新羅による任那征服と推古朝の新羅征討

日本書紀』によれば、飛鳥時代にも朝鮮半島への軍事行動が計画された。西暦562年任那日本府新羅によって滅ばされた。これを回復するための「征討軍」が推古朝に三度、計画され、一度目は新羅へ侵攻し、新羅は降伏している[20]



どうでもいいようなことだが、槍と矛の違いは、分かっているようで明確には知らないので、一応調べると、次のようなものらしい。同じ回答の省略部分に、槍は鎌倉時代くらいから使われだしたとあるが、確か日本書紀に記述された、大海人皇子が天智天皇の酒宴で興奮して床に突きさしたのは「槍」と書かれていたと思う。当時は矛が一般的で槍は珍しかったということを何かで読んだ。

まったく別の話だが、五世紀の「倭の五王」の時代に、倭が朝鮮半島の中南部の百済新羅任那を属国化していたのは好太王碑文や『宋書』の記述などから見ると事実らしい。まあ、属国というと語弊があるが、その上位的存在だったようだ。とすれば、日本書紀に時々、百済や新羅から日本(大和朝廷)への朝貢があったという記述があるのもあながち嘘ではないかもしれない。さらに言えば、神功皇后の征韓も神話ではなく事実かもしれない。また、神武東征も事実かもしれない。
現在の私の推測では、百済か任那から来た一族(「騎馬民族」と言うほど騎馬が当時意味を持っていたとは思わないが、騎馬の知識や技術はあっただろう。)が九州の邪馬台国の支配者にのし上がり(あるいは簒奪し)、「戦争の先進国」であった朝鮮半島の経験と、当時としては高度な武器(青銅器と鉄器)を用いて中国地方の豪族(出雲族)を滅ぼし、東に進んで奈良盆地に大和朝廷を打ち立て、さらに東に進んで関東地方まで勢力範囲とした、というものだ。当時の日本の地方支配者は、西部劇の騎兵隊に対するインディアン程度の戦争遂行能力しかなかったと思われる。戦闘訓練を積んだ兵士の一隊がいれば、どの地方も容易に征服できたのではないか。
なお、関東地方で東征をやめたのは、それ以上は森林地帯がほとんどで、征服する価値は無いと見做したからだろう。稲を主食とする民族の支配者にとって、稲作が不可能な土地を奪っても意味はないのである。




以下 ウィキペディアより
 
 矛と槍は、穂先(剣の部分)の付け根部分の構造で区別される。 矛は穂先の根本がソケット状(袋部)になっており、そこに柄を差し込むものをいい、槍は逆に穂先の根元を柄に差し込むものをいう。
下の記事とは別だが、古代においては、「日本版中華思想」というものがあり、それは近畿圏以外は野蛮人の国である、という意識である。その「近畿圏」というのがどのあたりまでかというのも、現在の近畿地方とは恐らく異なるかと思う。たとえば、和歌山半島から岐阜なども近畿圏と意識されていたのではないか。もちろん、近畿圏の周縁部という意識だろう。奈良盆地の都に住む宮廷貴族や皇族は、東や西(特に東)からの敵の襲来をいつも念頭に置いていたと思う。
現在の滋賀県なども近畿の周縁部という意識だっただろうから、天智天皇の大津京遷都は奈良盆地の豪族たちの強い反発を生んだと思う。織田信長の安土桃山城といい、滋賀に本拠地を置いたらロクなことはない、というのは、恐らく琵琶湖周縁は防御に適さない地形だからだろう。

なお、古代史ではやたらと遷都されているが、それを大変な事業だと思うのは「遷都」という言葉から来る錯覚で、古代には「都市」そのものは成立していないと思う。要するに、宮廷(今のアメリカならワシントンDC程度の規模だろう)の場所が移動しただけの話で、「都市」の引っ越し、つまり何万もの人が引っ越ししたわけではないだろう。皇族と、宮廷に地位のある一部豪族が移動しただけだと思う。平城京が出来て初めて本物の都市が生まれたのではないか。
本来的に、宮廷があるから都なのであり、居住民が多いから都というわけではない。明治維新で遷都令が出ていなくても、東京に皇居が移り、政府があればそこが都になるわけだ。都とはもともとは「宮の居所」だろう。
ついでながら、公務員は「みやつこ」つまり、「宮の子(宮に所属し、従う者)」である。この場合の「つ」は所属関係を表わす。「天つ風」の類だ。「子」が従属関係を示すのは儒教から来ていると思う。「家の子郎党」の「子」も同じ。




古代[編集]

飛鳥時代[編集]

奈良盆地を拠点とした大和政権は、7世紀初めには冠位十二階の制定などに見られるように国家としての体制を整備していった。7世紀半ば、大化の改新によって天皇中心の中央集権を進める皇太子中大兄皇子(後の天智天皇)は、朝鮮半島の百済が滅亡すると、百済復興を目的として、47,000人もの大軍を朝鮮半島に派遣した。しかし663年にと新羅の連合軍に白村江の戦いで敗北し、朝鮮半島における影響力を失った。その後、唐・新羅の日本列島侵攻が予想されたため、対馬や壱岐などの重要地域に防人や烽火を設置し、各地に山城が築かれた他、北九州の外交と防衛の拠点である大宰府には水城を設置して敵の侵攻に備えた。天智天皇の死後、皇位継承を巡って、671年に大友皇子大海人皇子の間に壬申の乱が発生した。1ヶ月に渡って近畿圏各地で戦闘が繰り広げられ、古代最大の戦争に発展した。このとき、大海人皇子は東海道東山道の諸国から兵を動員し、大友皇子側は東国と吉備筑紫(九州)に兵力動員を命じている。これらの兵力は歴史学で国造軍と呼ばれ、中央・地方の豪族が従者や隷下の人民を武装させて編成していた。

律令制と軍団の設立[編集]

古代軍団歩兵の復元。弓を構えている兵士は革製甲を装着している。福島県文化財センター白河館

白村江の戦いの敗北により、国防力の増強が必要となった。豪族の兵であった国造軍に変わり、国家が兵士を徴兵[7]、民政機構から分独立した[8]軍団[9]が組織されることとなった。律令制が本格的に導入されると軍事制度も整備され(軍防令)、中央官制の兵部省が設置され、徴兵を可能にする戸籍の整備が進んだ(正丁(成年男子)3人に1人が兵士として徴発される規定であった)。徴兵された兵士は各地に設置された軍団に配属された。原則としては現地勤務であるが、一部の兵士は宮中警備を担う衛士と九州防衛を担う防人となった。一個軍団の兵員数は二百人から千人の間であるが、千人を超える例も存在したと考えられている。軍団は3~4郡ごとに設置されており、九州では各国に2~4個軍団(1600~4000人)が置かれていたことが記録に残っている。軍団兵士の数は20万人に達したとの見方もある[10]。但し、軍団の兵士は交代で勤務しており、通常の兵力は定数の数分の一であった。なお蝦夷と対峙する陸奥国には、軍団とは別に鎮守府に属する鎮兵と呼ばれる固有の兵力が常設配備されていた。鎮守府は始め多賀城(現宮城県多賀城市)におかれ、後に胆沢城(現岩手県奥州市)に移された。多賀城は防御のために周囲を長大な柵で囲まれていたが、この内部に陸奥国府がおかれていた。この他にも蝦夷に対する備えとして、軍事・行政機能を有する多数の城柵が築かれた。

軍団兵士は、自弁で弓矢・大刀・小刀等を用意する必要があった[11]。その他の官給の武器としてがあり、弩に関しては体格と腕力に優れた者が隊(50名)ごとに各2名ずつ選ばれて射手の教育を受けた[12]。弓馬が得意なものは騎兵とすることとなっていたが[13]、多くは歩兵であったと考えられる[14]。騎兵は、基本的に弓射騎兵であるが[15]、槍を扱う突撃騎兵も存在したと推定される[16]。甲冑としては鉄製のものは少なく、「綿襖甲」・「綿襖冑」[17]や「革製甲」[18]が使用されていた。

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