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「剣と鏡」に直接の関係は無いが、朝鮮半島への日本進出や、その後の任那喪失がそれぞれどの天皇の時か知りたいのだが確証がない。日本進出は好太王碑文から391年らしいと推定できるので、応神または履中の時か。任那喪失は、後で調べて追記したい。(562年、欽明の時か)




『古事記』の天皇の没年干支
西暦干支名前
394年 甲午 十五代 応神
427年 丁卯 十六代 仁徳
432年 壬申 十七代 履中
437年 丁丑 十八代 反正
454年 甲午 十九代 允恭
489年 己巳 二十一代 雄略
527年 丁未 二十六代 継体

『古事記』の没年干支を正しいとすれば讃=仁徳、珍=反正、済=允恭、興=安康、武=雄略となる。(数年程度の誤差は存在する。)しかし一ヶ所、『宋書』の記述と明らかに矛盾する箇所がある。それは『宋書』倭国伝の次の記述である。

「讃死弟珍立遣使貢献」
讃死して弟珍立つ。遣使貢献す。(『宋書』倭国伝)

すなわち珍を讃の弟とする記述である。

『古事記』が437年に没したとする反正は、『記紀』によるかぎり仁徳とは親子関係である。讃を仁徳、珍を反正とすると、『宋書』倭国伝が、珍を讃の弟とする記述と矛盾する。反正は履中の弟である。この一点を除けば、『古事記』の天皇没年干支から倭の五王が推測できるとも考えられる。

一方『日本書紀』の記述からは天皇の没年干支は次のように計算される。

『日本書紀』の天皇の没年干支
西暦干支名前説明
405年 乙巳 十七代 履中 仁徳天皇の第一皇子
410年 庚戌 十八代 反正 仁徳天皇の第三皇子
453年 癸巳 十九代 允恭 仁徳天皇の第四皇子
456年 丙申 二十代 安康 允恭天皇の第二皇子
479年 己未 二十一代 雄略 允恭天皇の第五皇子

『日本書紀』の年次では、413年から479年の間の天皇は允恭・安康・雄略の3名であるが、、反正との年代は宋への行程を考えると候補として十分にあり得る。またこの反正天皇との崩御の時期だけが古事記が正しいとすれば、413年の讃は反正になり矛盾しない。ただ438年の珍、443年の済という二人の遣使に対し、『日本書紀』のこの期間に該当する天皇は允恭1人であるので珍と済が同一人物でなければならない。

だが古事記説では矛盾していた箇所も讃を反正、珍を允恭とすると、『宋書』倭国伝が、珍を讃の弟とする記述と合致する。

ただ一般的には「讃」→履中天皇、「珍」→反正天皇、「済」→允恭天皇、「興」→安康天皇、「武」→雄略天皇と考えるのが通説である。

しかし、そもそも『古事記』、『日本書紀』とも倭の五王の遣使に明確に対応する記事はない。こうしたことを根拠に九州王朝説が主張され、一時期は史学雑誌等の学術誌でも取り上げられることがあったが、現在では記紀の史料批判により継体天皇以前の編年は到底正しいとは言えず、このころの王家内部では文字による記録が常時取られていたとは考えがたいことから、記紀に伝えられた干支や系譜を元に倭の五王を推定するという試み自体をあまり意味がないとする意見もある。

倭国の実態や、倭王とヤマト王権の関係自体も、現時点の学会等で明確化されているとは言い難い。




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中臣鎌足が中大兄皇子の面識を得る、有名な、蹴鞠で脱げた沓を捧げる場面での沓がどのようなものかイメージが湧かないので、調べてみたがやはり要領を得ない。
参考程度に、ネットから拾ったものを載せておく。






一、履物の移り変わり


 日本の履物は衣服と同様に2系統の大きな流れがある。
 一つは北方狩猟民族の流れをくむ、(くつ)系の履物。
 もう一つは南方稲作文化圏の流れをくむ、鼻緒系の履物とである。
1a.沓系

 北方からの沓の伝来にも2系統ある。
 一つ目はシベリア、千島列島、北海道を通じて伝来したアイヌ系の沓である(カンジキ、スキー等はここでは触れない)。
 これらは寒さから足を守る為に履かれ、狩りの獲物の革(鹿やトド、鮭など)で作られ、長靴型の物から、足を包む単純な短靴型の物まで在った。

 もう一つは中国からの伝来である。
 平安時代になるまで大和朝廷の服飾は、常に中国の朝廷の追従であったが、履物も同様である。中国の朝廷の風俗が伝来すると共に、この様式が伝わり、貴族とその周辺の者の間で、沓が履かれるようになる。沓の素材は革や毛皮、木、布、草など様々であったが、律令制の中で、素材や色について身分ごとに規定されていく。

(中国では沓が主に使用され、下駄は身分の低い者の履物であった)
1b.鼻緒系

 日本最古の現存する履物は弥生時代の遺跡から出土した田下駄である。

 南方系の履物は鼻緒形式であり、その開放的なデザインに特徴がある。

 田下駄に象徴される様に、南方系の履物は稲作文化と共に伝来した様で、初めは農具として使用されたが、古墳時代になると埋葬品の中から足駄(あしだ。下駄は新しい呼び名)が出てくる様に、通常の履物として使われた様である。
 もっとも下駄自体が普段履きになるのは江戸時代からで、それまでは雨天や水仕事、排便時など、足下が濡れている状況での履物であった。
2.両系統の融合と変化

 これら南北2系統の履物が融合したのが、草鞋(ワラジ)草履(ゾーリ)である。

 東アジア各国では、糸や草で編んだ沓が作られ、それぞれの国の言葉で呼ばれながらも、総じて「草鞋」の字を宛てられていた。
 日本でも「わらぐつ」と呼ばれ、律令制の中で下級役人である衛士(えじ。兵士)の履物として制定された(下図参照)。



 この頃の草鞋(わらぐつ)は短沓型の物で、鼻緒式の物ではない。
 また各国で沓から作られた「草鞋」(国により同字異音)も、形態は様々あれど短沓(スリッパ式・サンダル式)である。
 上記の「衛士の草鞋(わらぐつ)」が一般に広がったにしろ、大陸から「草鞋(わらぐつ)」が徐々に伝わって来たにしろ、藁で編んだ履物が庶民にも履かれる様になる。やがてこの藁で編んだ沓が大衆化する中で、沓は我々が良く知る鼻緒式の「ワラジ」「ゾーリ」へと、日本独自の変化を遂げるのである。
 こうして奈良時代に伝来した「草鞋(わらぐつ)」が変化した「ワラジ」「ゾーリ」は、鎌倉時代初期には一般化した様である。

 「ワラジ」「ゾーリ」は、いわば北方系の履物(沓式)が日本の風土に合わせて南方系(鼻緒式)へと変化した訳だが、草鞋・草履が雪国に伝わると、これとは逆の変化を遂げる。
 雪から足を守るために、「ワラジ」「ゾーリ」を土台に、スリッパ形式、短沓形式、深沓形式へと改良され、南方系から北方系(沓型)の形状へと変化を遂げるのである。


 この様に南北2系統が交差し、風土に従った変化を遂げた物が、日本の履物と言えよう。履物の変化も、その他の日本の文化と同様なのである。



二、軍用の履物


 軍用、即ち武士や武官が着用した履物の移り変わりについて述べたい。

 先に述べたように、官人であれば、素材は様々であるが沓を着用した。これは武官も同様で、沓には「浅沓」「半沓」「長沓」の型式があり、素材と合わせてTPO、身分や官職によって履き分けられた様だが、この場では多く触れない。

 これが時代が下り平安時代になると、乗馬ブーツとでも言うべき革製半沓の半靴(ほうか)が騎乗時に使用される様になり、馬上沓(ばじょうぐつ)・物射沓(ものいぐつ)と呼ばれる物も出てくる。(詳細は別頁)
 これらは騎乗する者の狩装束や旅装に使用され、当然ながら軍陣に於いても着用された様である。後に流鏑馬・笠懸といった儀礼的な場で使用される様に成る。

 中世期には軍用履物として、短靴状の貫(つらぬき)・毛沓(けぐつ)が現れる。これは毛皮などの一枚革を使った浅沓で、古くから履かれていた北方系の履物である。
 平安時代より武士が軍陣で着用する姿が見られる様になるが、公家の騎乗用沓として、また検非違使にも履かれた。

 鎌倉時代頃、足半(あしなか)・草鞋(わらじ)が一般的な履物として流行し始める。
 これは鎌倉時代後期には既に武将にも取り入れられ始め、南北朝・室町時代に至っては貫等よりも着用される割合は多くなり、室町時代末期から安土・桃山時代には貴賤問わず一般化する。草鞋は足に食い込むが足袋(素材は革など)と併用すると具合が良く、また馬に乗っても鐙(あぶみ)との噛み合わせが沓や貫等よりも良かったという。
 絵巻物などを散見すると、身分の高い武士が草鞋を着用する姿は良く見掛ける。しかしながら足半に到っては、下卒の者の着用例は在っても、上士による着用は余り見掛けない。それ故、どうしても軍陣の履物というと草鞋ばかりがイメージされる様であるが、『信長公記』の刀根山合戦の場面で、金松(兼松)又四郎正吉に信長が携帯していた足半を賜るエピソードが出てくる。これによって武将クラスの武士も、足半を使用していた事が分かる。また騎乗する際も、普段履きとしては足半が用いられていた。


貫(左)と馬上沓(右)。『武器二百図』より引用。



三、歩兵の履物


 徒の兵といっても様々な身分があるが、騎乗しない兵士は当然、馬上沓・物射沓は関係の無い代物である。貫・毛沓を履いた徒の武士も見掛けるが、たまたま徒立ちであって、本来は騎乗している様な姿の武士である。騎乗しない時は、身分の高い武士であっても裸足である例が多い。
 沓を履くような身分でない限りにおいて、一般の人間は常に裸足で生活していたのだから、戦場においても同様であろう。
(猟師や百姓が、簡素な貫・毛沓を冬季に履いている例もあるので、一概には言えないが)

 中世に入ると軍陣での履物として、草履や足半と言った鼻緒式の履物が現れる。こういった履物は、先ず徒立ちの兵士達によって平安時代頃から用いられ、鎌倉時代に流行し、それ以降には身分の高い武士も用いる様になった(注1)。

 前項で触れた様に、絵巻物の中では軍陣の履物としては草鞋の着用が描かれる事が多い。これは歩兵(下卒)に関しても言える事で、騎乗する身分の武士ほどでは無いにしろ、足半着用が描かれる事は少ない。しかし足半は草鞋と違って、泥が跳ねず、足裏との間に土砂が挟まる事もなく、滑りにくいという事から、大変重用されていた様である。
 ただ踵が浮くという形状から長い行程には不適切で、旅装としては草鞋が利用された。また足を踏ん張る様な作業の際には草鞋の方が適しているであろう。よって行軍時や土木作業には草鞋を履く等して、履物を使い分けたのだろう。


 とはいえ実は後々も裸足が多かったのではないかと私は思う所がある。
 
 現に昭和期の農耕に携わった人間の話を聞くと昭和期ですら農民は裸足で働いていたのである。山仕事、河原での作業等の時こそ足半を履いたが、ほとんどの農作業の間は裸足であったという。地下足袋が出回る様に成ってからも、なお裸足が多かったという。(注2)
 奉公人や夫役に駆り出された農民達は、行軍中は素足に草鞋も在ろうが、実際の従軍生活の中での作業中や、戦闘中においては裸足が多かったのではないだろうか・・・。



注1:『図録・日本の合戦武具事典』p.238
注2:東京多摩地域の古老(大正生)よりの聞き取り。
日本の古代を舞台に小説や脚本を書こうという場合に一番の障害が人名である。名前が長い上に、難しい漢字が使われており、いちいち漢字検索しながら書くのも面倒である。
まあ、プロならエディターとか何とかいうソフトでも使い、難しい名前などは事前登録して一発変換できるようにするのだろうが、ワードだとなかなか簡単にはいかない。というより、私自身がワードの使い方を良く知らない。
古代人の名前の面倒くささは、読む人にとっても障害だろう。いちいち振り仮名をつけないと、何度も何度も「これ、どう読んだっけ」ということになる。
天皇名も、我々が知っている天智とか天武というのは、あれは諡号であり、生前にそう呼ばれていたわけではない。また、本名も恐らく「忌み言葉」として、呼ぶのを避けていたと思う。
とりあえず、「剣と鏡」の製作方針としては、人名は実在人物とは違う名前でありながら、誰に相当するかは推定できるようにしたいと思っている。


たとえば、


中大兄皇子=中皇子
大海人皇子=海士皇子

などである。これは名前を簡略にする意図と、「皇室タブー」を避ける意図がある。まあ、天皇に関するネタを書いた時点で皇室タブーに触れることになるのは仕方がないが、今の右翼は皇室よりも安部のほうが大事なようだから、昔のように右翼に命を狙われることもないだろう。

稿を変えて、全体の大筋を考えてみたい。まあ、最初の大構想とそれほど違いはないが、資料なども読んで、細部が少し形になってきたような気もするから、ラフスケッチ的な筋を書いておくわけだ。もちろん、カットしたり増やしたり順序を変えたり、後でいろいろ変更はするはずだ。

いきなり、聖徳太子の時代から始めるか、大化の改新の前後から始めるか、というのが構想上の大問題で、聖徳太子の話は大化の改新の話の中に組み込むのがいいか、とも思っている。つまり、大きなボリュームを聖徳太子の話に使う必要は無い気がする。ただし、蘇我氏の専横というのが大化の改新の大きな原因であり、「天皇(皇室)親政」というのが皇室の念願だったということを描く上で、蘇我氏の傀儡としての聖徳太子の話と山背大兄王の死の話は必要かと思う。

言葉遣いの点では、完全に現代語を使う予定である。英語(カタカナ語)すら入れるかもしれない。古代の衣服を着ていても、古代人の中味(特に政治意識)はほとんど現代人と変わらない、というのがこの作品の潜在的テーマなのである。

できれば、シェークスピアの史劇のような「血と嵐の匂い」を感じさせるものにしたい、というのが望みだが、もちろん自分にそんな能力など無いのは分かっている。ただ、どんなにチャチでも、その先鞭をつけたい、というだけだ。


今思い付いたが、「戯曲的部分」「小説的部分」「随想的部分」「論文的部分」を全部入れて書くのはどうか。これはフィールディングの「トム・ジョーンズ」などにもある書き方で、読者が長い話に退屈しないで済む利点がある。それに、ここまでメモしてきた私の感想などもかなり材料に使えるだろう。もともと私は小説(フィクション類)を読むのも書くのも苦手で、漠然とあれこれ考察するのが好きなだけだから、私の体質にも合っているかもしれない。


とすると、史実とはまったく無関係な現代人2人を登場させ、大化の改新や壬申の乱の真相などについての無責任な論評(居酒屋論議)を合間合間に挟み込む、という手法もいいかもしれない。「大海人皇子=忍者」論などという話も居酒屋話には向いていそうである。つまり、現代人のひとりのモデルは井沢元彦、としてもいい。
実は、私がこの「剣と鏡」脚本メモの中で書いてきた感想は、素人が古代史を「楽しむ」という上では、わりといい内容なのではないか、と自負している。素人が疑問に思うことをそのまま書き、あるいは少しネットで調べたものをコピーしただけだが、学校で習う「死んだ古代史」が、少しは生き返ったのではないか。コピー部分は別として、感想部分(あるいは疑問を提示した部分)は、青少年の読み物として悪くないと思っている。












井沢元彦の「天智暗殺説」によれば、天智は(大津京から)現京都市伏見区醍醐の巨椋池(現在は干拓されて存在しない?)の木幡山まで狩りに来て、そこで暗殺された、とされているが、滋賀の大津から京都の伏見(あるいは宇治)あたりまで狩りに来るか、という疑問を最初私は持った。現在の感覚で、滋賀から京都南部まで行くのは大変だろう、と思ったからだ。しかし、地図で直線距離を測ると、実はその間、20キロから25キロ程度なのである。走っても行ける距離であり、馬ならなおさらだ。その間には特に土地の起伏も無いだろうし。
ちなみに、直木孝次郎「壬申の乱」に、旧日本陸軍の騎兵の標準歩速が書かれていて、次のようになっている。

常歩(なみあし):分速110m
速足(はやあし):分速210m
伸長速足(しんちょうはやあし):分速310m
駈足(かけあし):分速420m
襲歩(しゅうほ):分速800m以上


これらを交互に交えたようである。速足と常歩を交えて分速150m平均とすれば、時速9キロで、3時間弱で大津から木幡まで来られるだろう。なお、古代人は朝が早い(遠出する時は特に)ので、夜明け前に出発したと思う。

井沢元彦は天智暗殺を大海人皇子自身が手を下してやったとしているが、年齢的にさすがにそれは無理だろうと思う。まあ、映像的には面白い場面にはなりそうだ。
聖徳太子の仏教理解は仏教の本質に迫るものだったと私は思っているが、それは「世間虚仮唯仏是真」の言葉(特にその前半)がまさに仏教の本質だと私は思っているからだ。この目に映る世間の姿は我々の主観によってそう見えている、いわば一種の幻影であり、それを「虚仮」と言っているわけである。そして、自分が仏となって観る世界が真実の世界だ、ということだ。
ただし、これは「般若心経」による私自身の仏教理解であり、聖徳太子の頃に太子が「般若心経」を読んでいたとも思えないので、「三経義疏」から太子の仏教理解がどんなものだったか知ろうと調べてみると、太子の「三経義疏」については花山信勝が第一人者であるらしい。
実は私は中退した大学(東大ではない)で花山氏の講義を一度だけ聞いたことがある。当時の私の知識と頭脳ではまったく理解できない内容だったが、その講義も「聖徳太子と三経義疏」といった内容だった記憶がある。下の記述を見るとなかなかの大物で、そうした人物の実物を見たことがある、というだけでもいわば昭和の歴史の端っこに触れた経験かと思うので、書き留めた。
なお、私が実見した有名人として、浅草オペラの名歌手の何とかいう人がいたが、名前は失念した。これは「日劇ミュージックホール」の最後の公演に出演していて、その演出が黒テントの演出者の、これも有名人だった。東京にいると、現代の歴史の一幕に触れる機会がある、というのは大きなメリットである。これは私の若いころの話である。




花山信勝

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花山 信勝(はなやま しんしょう、1898年明治31年)12月3日 - 1995年平成7年)3月20日)は、日本の仏教学者浄土真宗本願寺派僧侶東京大学名誉教授

概要[編集]

石川県金沢市生まれ。第四高等学校卒、東京帝国大学印度哲学科卒。大学院で日本仏教史を専攻し、東洋大学教授、東京大学文学部教授、國學院大學教授等を歴任する。1935年昭和10年)、『聖徳太子御製法華経義疏の研究』で学士院恩賜賞を受賞。

1946年昭和21年)2月から巣鴨拘置所教誨師となり、東條英機ら七人のA級戦犯の処刑に立ち会い、その時の模様を『平和の発見-巣鴨の生と死の記録』に記した。東條は、「米国憲兵と一緒に合掌するのも仏縁だね」と笑っていた、と語った。なお被告の重光葵の手記『巣鴨日記』には、長期間の収監で精神的に消耗していた被告たちにとって、花山との接触はひとつの救いでもあった、という旨の記述がある。(『文藝春秋1952年昭和27年)8月号掲載、翌年に文藝春秋新社刊)

家族[編集]

長男の花山勝道は、金沢で浄土真宗本願寺派「宗林寺」の住職を務めた。

次男の花山勝友は仏教学者、武蔵野女子大学副学長を務めたが、父の後を追う形で同じ年に病没した。なお次男勝友や門下生達との座談会での回想が、『東方学回想 Ⅵ 学問の思い出〈2〉』(刀水書房、2000年)に収録。

著書[編集]

  • 『聖徳太子御製法華義疏の研究』 東洋文庫, 1933
  • 『聖徳太子の仏教』 仏教年鑑社, 1936
  • 『聖徳太子と日本文化』 日本文化協会、1937
  • 『日本の仏教 内閣印刷局』(国体の本義解説叢書), 1942
  • 『憲法十七条の精神』 厚徳書院, 1943
  • 『日本仏教』 三省堂, 1944
  • 『勝鬘経義疏の上宮王撰に関する研究』 岩波書店, 1944
  • 『白道に生きて』 北方出版社, 1948 (顕真叢書 ; 1)
  • 『平和の発見 巣鴨の生と死の記録』 朝日新聞社, 1949
    • 『「巣鴨の生と死 ある教誨師の記録」』 中公文庫, 1995
  • 『万世を照らすもの-仏教学徒の記録』 酣灯社, 1949
  • 『永遠への道 わが八十年の生涯』 日本工業新聞社, 1982
  • 『聖徳太子と憲法十七条』 大蔵出版, 1982
  • 『太平洋戦争とお念仏』 国際真宗学会, 1986



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