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「庭を歩いてメモをとる」というブログ(読書メモらしい)から抜粋転載。
最後のあたりを見れば、継体の出自が朝鮮(任那か百済)であることは明白だと思うが、ブログ筆者や記事に引用された書物の筆者は、どうしても天皇は純粋日本人だとしたい思いから、それを見ないようにしているようだ。もともと日本人の中でも弥生人の多くは中国や朝鮮から来たのであり、純粋日本人など、蝦夷(東北北海道地方の土着民族)くらいだろう。現在に至る、中央政府の東北地方軽視政治の理由もそこにあるかと思う。




庭を歩いてメモをとる

おもしろいことや気になることのメモをとっています。

「実在と系譜が確実な最初の天皇」継体天皇はなぜ天皇になれたのか

(2018年1月16日更新)

第26代継体天皇は多くの歴史上の人物の中でも、かなり興味深い人です。

まず、歴史的に実在と系譜が明らかな最初の天皇と言われていること。つまり、多くの考古学者の間で、現在の皇室の源流とみなされている人物なのです。

また、それまでの天皇とはかなり離れた血筋の人物で、西暦507年の即位後大和国の都に入るのに19年かかっています。つまり即位に賛否両論あったようなのです。

なぜそのような論争があったのか?なぜそのような人物が最終的には天皇になれたのか?

こういった疑問への回答を示しつつ、継体の来歴、さらに人となりまでを描き出しているのがこの本でした。

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継体埋葬時の服の復元(今城塚古代歴史館にてよしてる撮影)


なぜ継体天皇以前の大王(天皇)の血筋(仁徳王統)は滅んだのか

なぜ継体天皇が選ばれたかを知るには、まず継体天皇以前の大王家の状況を知る必要があります。いったい何があったのでしょう。

雄略天皇の王族抹殺

まず第一に、雄略天皇が王族を次々と消していったことが挙げられます。

  • 第21代雄略天皇(5世紀後半在位)は、政治的・軍事的な天性・先見性を備える反面、王の座を得るまでに何人もの兄弟や従弟を容赦なく殺害。 
  • 雄略の近親者殺害に関する逸話としては、2代後の第23代顕宗天皇は父の敵である雄略天皇陵を破壊しようとしたが、兄(後の第24代仁賢天皇)から諫められる・・・という出来事があったほどである。

これだけ派手にやれば、後継者が減るのも当然、という気はします。

一応フォローしておくと、上のメモにもあるように、雄略天皇はただ残虐なだけではなかったようです。「エンカルタ総合大百科2002年」から引用します。

「古事記」「日本書紀」には、治世中は罪のない人を鳥養部(とりかいべ)におとしたり、吉備田狭(きびのたさ)をあざむき妻をうばうなど暴虐記事が多い。しかし葛城・吉備などの臣姓豪族を没落させ、大臣・大連制度の導入で大伴氏や物部氏など身内の連姓豪族の地位をあげることに功績があったともいえる。渡来人の大和への移住をすすめて王家の財政基盤を充実させながら、大王(おおきみ)としての専制権力をかためていった。Microsoft(R) Encarta(R) Reference Library 2002. (C) 1993-2001 Microsoft Corporation. All rights reserved.

この「王族抹殺」により、王権は一旦衰退します。第21代雄略陵と推定される岡ミサンザイ古墳は全長238メートルもありますが、以降第22代清寧陵115メートル、第24代仁賢陵(推定)が122メートルとほぼ半分の長さとなっています。

武烈天皇の「残虐非道」エピソードの背景

ちなみに、継体天皇の前の第25代武烈天皇は、妊婦の腹を割いたとか人を樋に流しそれを矛で刺して喜んだなどという異常な行動が記録されています。これは、跡を継がせる血統の近い者が途絶えてしまったため、武烈と継体の血筋があまりにも離れてしまうことになったが、その継体に王位を継がせるには前代が異常な人物であったとするしかなかったためだと言われています。

このような武烈の残虐非道ぶりは「日本書紀」にのみ書かれており「古事記」には一切出てきません。そのことからも、武烈のエピソードは真実ではないこと、逆に言うとそこまでして継体を跡継ぎにするしかなかった事情があった、ということが推測できます。

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継体・武烈の血筋の「距離」
ウィキペディア「継体天皇」から抜粋

さて、本書では、なぜ継体かという疑問に対し、明確にこれだという回答を示しているわけではないですが、通読すると浮かび上がってくるキーワードがあります。それは国際性です。

継体の国際性

継体の実績:

  • 百済に対する援軍と領土拡大譲歩を行った(これは失策と考えることもできるが)
  • その見返りに百済から五経博士を派遣してもらった。これは単なる人的交流ではなく、当時の日本になかった重要な統治文化の輸入であった。博士とともに日本にやってきたものは:
    • 「氏」名の成立。記録によると、雄略(第21代)期には名字はなかったが、継体(第26代)〜欽明(第29代)期に成立
    • 和風諡号(天皇の死後に名を贈ること)と殯(葬儀)宮儀礼 等
  • 半島で活躍し帰国した首長に冠などを与え評価
  • 秦氏など渡来人を重用

たしかに、継体はこのような積極的な対外交渉を行っていたようです。ではその素地はどこにあったのでしょうか。

  • 継体の故郷・滋賀県高島は当時国際性の高い土地だった:
    • 渡来人が暮らしていた(オンドルなどが発掘されている)
    • 日本海経由で九州有明沿岸地域と結ばれ海外に開かれていた

継体天皇の父彦主人王は、もともと近江坂田にいましたが、彼の代で琵琶湖対岸の高島に移りました。そこは当時の国際ルートだったというわけです。これが継体の飛躍につながっているのでは、というのが著者の指摘です。

私はこれを読んで納得するとともに、現代において、自分の仕事や子ども達の将来のために国際性の高い場所・職・学校などを求める人々と似た思いがあったのかななんて想像をしてしまいました。




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大和朝廷(現皇室)の本格的な成立は、実は継体欽明朝であり、継体は朝鮮(任那)出自の人間だったのではないか、と今のところ私は思っている。継体天皇の時にそれまでの血筋との断絶があったのはほぼ確かだろう。継体が仁徳天皇か誰かの遠い子孫(5代くらい後の子孫)である、というのはアリバイ作りのための虚偽だと思う。文字通り、ここで前皇室(当時は「皇室」ではなく「大王家」)の血統が断絶し、継体天皇によって「体が継がれた」わけである。
継体以降の天皇が任那奪還を至上命題としてきたのは、そこが始祖の地であるからだろう。
なお、「天皇」と呼称するのは継体の次の欽明からで、それまでは「大王」であったらしい。つまり、中国の「皇帝」の向こうを張って「皇」の字を堂々と使い始めたのは、任那喪失が原因だろう。朝鮮に任那が存在しない以上、中国(当時は隋か)を気にする必要はないと「気が大きく」なり、もう一つには、自分の存在を高く誇示することで任那喪失の精神的埋め合わせをしたわけである。





磐井の乱

経緯[編集]

真偽は定かでないが『日本書紀』に基づいて、磐井の乱の経緯をたどるとおよそ次のとおりである。

527年(継体21)6月3日、ヤマト王権の近江毛野は6万人の兵を率いて、新羅に奪われた南加羅・喙己呑を回復するため、任那へ向かって出発した(いずれも朝鮮半島南部の諸国)。この計画を知った新羅は、筑紫(九州地方北部)の有力者であった磐井(日本書紀では筑紫国造磐井)へ贈賄し、ヤマト王権軍の妨害を要請した。

磐井は挙兵し、火の国(肥前国肥後国)と豊の国(豊前国豊後国)を制圧するとともに、倭国と朝鮮半島とを結ぶ海路を封鎖して朝鮮半島諸国からの朝貢船を誘い込み、近江毛野軍の進軍をはばんで交戦した。このとき磐井は近江毛野に「お前とは同じ釜の飯を食った仲だ。お前などの指示には従わない。」と言ったとされている。ヤマト王権では平定軍の派遣について協議し、継体天皇大伴金村物部麁鹿火巨勢男人らに将軍の人選を諮問したところ、物部麁鹿火が推挙され、同年8月1日、麁鹿火が将軍に任命された。

528年11月11日、磐井軍と麁鹿火率いるヤマト王権軍が、筑紫三井郡(現福岡県小郡市三井郡付近)にて交戦し、激しい戦闘の結果、磐井軍は敗北した。日本書紀によると、このとき磐井は物部麁鹿火に斬られたとされているが、『筑後国風土記』逸文には、磐井が豊前の上膳県へ逃亡し、その山中で死んだ(ただしヤマト王権軍はその跡を見失った)と記されている。同年12月、磐井の子、筑紫葛子は連座から逃れるため、糟屋(現福岡県糟屋郡付近)の屯倉をヤマト王権へ献上し、死罪を免ぜられた。

乱後の529年3月、ヤマト王権(倭国)は再び近江毛野を任那の安羅へ派遣し、新羅との領土交渉を行わせている。

以上のほか、『筑後国風土記』逸文には交戦の様子とともに磐井の墓に関する記事が残されている。また、『古事記』は、筑紫君石井(いわい)が天皇の命に従わないので、天皇は物部荒甲(物部麁鹿火)と大伴金村を派遣して石井を殺害させた、と簡潔に記している。『国造本紀』には磐井と新羅の関係を示唆する記述がある。

意義[編集]

磐井の乱が古代の重要事件として注目されるようになったのは、1950年代前半のことである。当時、林屋辰三郎藤間生大門脇禎二らは、磐井の乱について、ヤマト王権による朝鮮出兵が再三に渡ったため九州地方に負担が重なり、その不満が具現化したものと位置づけた。

これに対し、『日本書紀』に記す磐井の乱は潤色されたものであり、実際は『古事記』に記す程度の小事件だったとする主張が、1960年代に入ってから坂本太郎・三品彰英らから出された。ただしそれらの主張は磐井の乱が持つ意義を否定するものではなかったことと、乱の意義に着目した研究が続けられた結果、磐井の乱を古代史の重要事件と位置づける見方が通説となった。

1970年代半ばになると、継体期前後に国家形成が進展し、ヤマト王権が各地域の政治勢力を併合していく過程の中で、磐井の乱が発生したとする研究が鬼頭清明・山尾幸久・吉田晶らによって相次いで発表された。従前、磐井の乱は地方豪族による中央政権への反乱だと考えられていたが、これらの研究は古代国家の形成という点に着目し、乱当時はすでに統一的な中央政権が存在していた訳ではなく、磐井が独自の地域国家を確立しようとしたところ、国土統一を企図するヤマト王権との衝突、すなわち磐井の乱が起こったとした。

関連項目[編集]

「任那日本府」というものが存在していたかどうか、というヤフー質問箱の回答のひとつだが、他の日本国粋主義的なコメントにくらべ、かなり冷静で客観的な回答だと思う。私も、だいたいこんな感じだったのだろうと思っている。
任那という国があり、そこから日本に渡った人たちも多かったので、その故郷との行き来も多かったのではないか。しかし、「日本府」などは存在しなかっただろう。まして、その地が日本の植民地だったというのは当時の日本政府の誇大表現だと思う。せいぜいが朝鮮半島に用があって行った官吏用の宿舎がある程度だったのではないか。しかし、それでも任那滅亡で「親倭的な土地」が失われたのは日本政府には痛かったのだと思う。





ベストアンサー以外の回答

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    jun********さん

    2008/3/2115:33:55

    『任那日本府』についてのかつての定説は現在では動揺しており、新たな進展を求めつつ現在も論争中です。

    旧説では、『任那日本府』は近代の『朝鮮総督府』とオーバーラップして理解され、大和朝廷の植民地たる任那地方を支配する出先機関であると説かれてきた。しかし現在では、そのような『任那日本府』は虚像として否定されたと言える。

    そもそも『任那日本府』が謎と言われる根底には、それを記す日本側史書と朝鮮史書の間の著しい食い違いがある。
    例えば『任那日本府』という言葉からして『日本書紀』にしか採録されていない。朝鮮古代史の基本文献である『三国史記』『三国遺事』には任那日本府という言葉が存在しないだけでなく、大和朝廷が朝鮮南部に長期に渡って政治的影響を与えたとする『日本書紀』の記述を裏付ける証拠はむろんのこと、その痕跡を見つけ出すこともかなり困難である。にも関わらず、かつての皇国史観では、『韓史、虚妄なり』と朝鮮史書を一蹴してきた事実がある。

    当然のことながら、朝鮮史書を重視する韓国・北朝鮮の研究では日本列島の政治的影響が朝鮮半島に及んだとする学説は一顧だにされないのが実状である。

    初めに韓国・北朝鮮の代表的学説を述べる。『分国論』という学説によると、日本書紀に記された任那とは、日本列島に存在した任那系渡来人による殖民国すなわち任那本国の分国であり、任那日本府はそれを統括するために大和朝廷が設けた機関だとする。又、任那は巨済島を指すとの見解もある。このように、韓国・北朝鮮では任那日本府を朝鮮半島を舞台とした歴史とは切り離して考えようとする。

    一方、最近の日本における研究では、【植民地支配の出先機関】とする旧説こそ斥けられるものの、当時の日本列島の政治的勢力が朝鮮半島南部の政治動向に何らかの関与をしたとの視点はなお継承されており、朝鮮における研究とは今なお大きな相違点がある。

    では、日本における研究での任那日本府とは如何なるものか?本来、任那とは現在の韓国釜山市付近を本拠とした国の名称である。朝鮮史料では任那加羅・任那加良或いは金官国と呼び、又は単に伽倻ということもあったが、任那と略称する使用例はない。一方、日本書紀は、この国を任那・金官・南加羅などと呼ぶ。ところが厄介なことに日本書紀が記す任那とは必ずしも任那本国を指すとは限らず、他に①加羅(伽耶・伽倻)地域全体の地理的名称、②加羅地域に存在した小国群の総称、③任那日本府などを意味する場合がある。

    任那日本府についての記載があるのは、欽明天皇の時代である530~540年代を中心にして6世紀前半全体に渡る。例外として5世紀中頃、雄略天皇の時代に『日本府行軍元帥』なる用例があるが、史料として信頼できないので無視してよい。

    日本府という表記は6世紀当時のものではなく、後代、倭から日本へと国号が改められた後に加筆修正されたと思われ、本来は、倭府とでも書いてあったのだろう。
    現在最古の『日本書紀』の注釈書である『釈日本記』は、任那日本府を任那之倭宰と注釈している。つまり、日本府とは、倭宰(ヤマトノミコトモチ)の意味というのが、平安・鎌倉時代の解釈だったのである。(『ミコトモチ』とは『御言持』の意であり、天皇の使者を指す)

    この釈日本記の注釈を勘案しつつ、『日本書紀』を注意深く読めば、『在安羅諸倭臣』とあるのが注目される。つまり、日本府の実体とは、倭の使者そのもの或いはその集団であって、なんらかの権力機構・機関を想像するのは妥当とは言えないのである。

    ところで、これらの諸倭臣が530年頃から安羅(慶尚道威安)に駐在したとの確証はあるが、任那加羅を含め安羅以外にいた証拠はない。従って厳密には、『任那日本府』と呼ぶのは正確ではない。

    要するに、任那日本府の実像は、安羅に駐在する『諸倭臣』が大和朝廷と連絡をとりつつ、任那諸国の代表と外交上の問題を協議し、時には百済王とも連絡している、ということなのである。

    ところが、『日本書紀』には、『任那官家』『弥移居』(ミヤケ)などと記す例もあり、任那諸国があたかも大和朝廷が国内に設置した屯倉(ミヤケ)と同一であるかのように思わせたのである。これらは、日本書紀編纂時の朝鮮観の産物である。

    斉明天皇の死後、皇太子中大兄皇子が即位せず皇太子のまま政務を執った(称制した)ことは知られているが、その理由を究明した人は少ない。しかし、西嶋定生の「日本歴史の国際環境」(東京大学出版会)にその理由が明快に書かれている。それは、白村江の戦いの惨敗で唐を恐れた中大兄皇子が、「天皇」という名を用いることを唐に対して憚ったからだ、という、言われてみれば当然の話である。
    「天皇」の名は「皇帝」と同じであり、「世界(天下)の支配者」の意味であるから、中国の皇帝と日本の天皇が両立できるはずはない。しかし、軍事力的に日本は唐に対抗できるはずがないから、唐との決戦が不可避になるまでは天皇即位を隠忍自重しようと中大兄皇子は考えた、というわけだ。これは国粋主義者には我慢がならない話だろうが、政治的リアリストとしては当然の、理性的な判断だろう。
    新羅の国王など、7世紀後半の唐の朝鮮出兵(唐新羅戦争)に対し、ほぼ全勝しながら、唐に詫びの使者を送り、唐との全面戦争を避け、その結果、朝鮮の支配権を確立したのである。これが、リアルかつ賢明な政治というものだ。
    なお、白村江の戦いの後、唐は2年に一度くらいの割で倭国に使者を送ってきたが、それはおそらく唐の冊封体制の中に入ることを求めたものかと思う。だが、唐としても、朝鮮出兵でかなりな消耗を強いられた経験から、日本と全面戦争をすることは避けたかったのだろう。これが壬申の乱の間もその後も倭国が唐に侵攻されなかった理由だと思う。

    なお、大海人皇子が実は中大兄皇子より年長で、同母兄である、という証拠として、「中大兄皇子」はなぜそういう名前になったのか、ということを考えた。もちろん、私の想像だ。
    古文では「中」は「真ん中」だけでなく「二番目」の意味がある。つまり、中大兄皇子が長兄なら「中」とは言わないはずだ。つまり、異父兄ではあるが、兄である人、つまり大海人皇子がいたから斉明女皇の「二番目の皇子」と呼ばれた、というわけだ。「大」は美称である。「二番目だが皇位継承権の点では上である」ことを「大」の字が示したものだ、という説はどうだろうか。
    史が本名で、不比等(比等せず:比べるものもない凄い奴)の名は自分で勝手に作った当て字だという「中二病不比等」というネタを考えたが、残念ながら不比等は壬申の乱の時13歳くらいで、政争には参加していないようなので、「剣と鏡」には使えそうもない。しかし、日本古代史の影の主人公として鎌足と不比等父子を「剣と鏡」の骨組みとする考えは変わらない。ただし、天武天皇朝鮮人血統説のほうが面白いので、そちらを主軸にするかもしれない。
    鎌足の死の場面をプロローグとし、不比等の登場をエピローグにする、という手もある。



    藤原不比等

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    藤原不比等
    Fujiwara-Fuhito.jpg
    藤原不比等(菊池容斎・画、明治時代)
    時代 飛鳥時代 - 奈良時代初期
    生誕 斉明天皇5年(659年
    死没 養老4年8月3日720年9月9日
    別名
    諡号 文忠公、淡海公
    官位 正二位右大臣、贈正一位太政大臣
    主君 天武天皇持統天皇文武天皇元明天皇元正天皇
    氏族 藤原氏
    父母 父:藤原鎌足、母:与志古娘
    兄弟 定恵不比等氷上娘五百重娘耳面刀自、斗売娘
    蘇我娼子、五百重娘、賀茂比売、県犬養三千代
    武智麻呂房前宇合麻呂宮子長娥子光明子多比能
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    藤原 不比等(ふじわら の ふひと)は、飛鳥時代から奈良時代初期にかけての公卿藤原鎌足の次男。文献によっては(ふひと)と記されている場合もある。『興福寺縁起』『大鏡』『公卿補任』『尊卑分脈』などの史料では天智天皇落胤と書かれる。諡号文忠公、国公は淡海公

    概要[編集]

    藤原不比等は、天智天皇から藤原氏の姓を賜った藤原鎌足の子である。文武天皇2年(698年)には、不比等の子孫のみが藤原姓を名乗り、太政官の官職に就くことができるとされた。不比等の従兄弟たちは、鎌足の元の姓である中臣朝臣姓とされ、神祇官として祭祀のみを担当することと明確に分けられた。このため、不比等が藤原氏の実質的な家祖と解することもできる[1]

    天智天皇の皇胤説[編集]

    前述のように不比等は実は鎌足の子ではなく、天智天皇の落胤であるとの説がある。『公卿補任』の不比等の項には「実は天智天皇の皇子と云々、内大臣大職冠鎌足の二男一名史、母は車持国子君の女、与志古娘也、車持夫人」とあり、『大鏡』では天智天皇が妊娠中の女御を鎌足に下げ渡す際、「生まれた子が男ならばそなたの子とし、女ならば朕のものとする」と言ったという伝説(実際に男子=不比等が生まれた)を伝える。『帝王編年記』『尊卑分脈』などの記載も同様である。

    平安時代まではこの伝説はかなりの信憑性を持っていたと考えられ、『竹取物語』でかぐや姫に求婚する5人の貴公子の1人車持皇子のモデルは不比等とされている。これは、母が車持氏出身の皇子、という意味の名である。

    歴史学者の間では皇胤説の支持は少ないが、もし本当に皇胤であったとすれば、後の異例とも言える不比等の出世が、天武天皇持統天皇代に行われた皇親政治(天智・天武系皇子を朝廷の要職に就け、政治の中枢を担わせた形態)の延長として考えることも可能になるとして、支持する学者もいる[2]

    なお同様の伝承は平清盛にも存在し、『平家物語』にも白河法皇の落胤という説があるとして、巻第六「祇園女御」に祇園女御が生んだ子が男子ならば平忠盛に授け、女子ならば自分が引き取るという、全く同様の逸話が述べられている。

    また続けて、先例として天智天皇と鎌足の話が述べられているが、ここでは天皇の子とされているのは不比等ではなく定恵である(『多武峯略記』には、定恵は孝徳天皇の落胤とする説を載せている)。

    不比等という名前についても、壬申の乱の後、天智天皇系の皇子ということで田辺史大隅(たなべのふひとおおすみ[3])の家にしばらくかくまわれていた[4]ことと関連する説がある。

    もっとも、藤原(中臣)鎌足は大化の改新以来、日本の外交責任者の地位にあり、当時外交使節として活躍していたのが僧侶と史(フミヒト:書記官)及び彼らが持っていた漢文や儒教・仏教の知識であったことから、自分の長男(定恵)を僧侶として、次男(不比等)を史として育てて、将来的に自分の役割を補佐・継承させる意図が存在していたとして、皇胤説に否定的な見方もある[5]。また、後年の『大宝律令』の編纂には不比等だけでなく、田辺史(氏)に属する2名が関わっていたことが知られているが、これが不比等の推挙であると同時に田辺大隅ら田辺史の一族が法律知識を有して不比等の知識を授けた可能性を示している[6]

    略歴[編集]

    11歳の時、父・鎌足が死去。父の生前の関係から、近江朝に近い立場にいたが、壬申の乱の時は、数えで13歳であったために何の関与もせず、近江朝に対する処罰の対象にも天武朝に対する功績の対象にも入らなかった。だが、中臣金をはじめとする鎌足の同族(中臣氏)の有力者が近江朝の要人として処罰を受けたこともあって、天武朝の初期には中臣(藤原)氏は朝廷の中枢から一掃された形となっており、有力な後ろ盾を持たない不比等は『日本書紀』の天武天皇2年(673年)5月条にある大舎人の登用制度によって出仕して下級官人からの立身を余儀なくされたと考えられている。

    天武朝の後期に入ると、不比等は従兄弟の中臣大嶋[7]とともに草壁皇子に仕えたとみられている。東大寺正倉院の宝物として『国家珍宝帳』に記載されている「黒作懸佩刀」は草壁皇子から不比等に授けられた皇子の護り刀で、後に皇子と不比等自身の共通の孫である聖武天皇に譲られたと伝えられている[8]

    『日本書紀』に不比等の名前が出るのは持統天皇3年(689年)2月26日(己酉)に判事に任命されたのが初出で持統天皇所生である草壁皇子に仕えていた縁と法律や文筆の才によって登用されたと考えられている。また、こうした経歴から不比等が飛鳥浄御原令の編纂に参加していたとする説もある[6]

    文武天皇元年(697年)には持統天皇の譲位により即位した草壁皇子の息子・軽皇子(文武天皇)の擁立に功績があり、更に大宝律令編纂において中心的な役割を果たしたことで、政治の表舞台に登場する。また、阿閉皇女(元明天皇)付き女官で持統末年頃に不比等と婚姻関係になったと考えられている橘三千代の力添えにより皇室との関係を深め、文武天皇の即位直後には娘の藤原宮子が天皇の夫人となり[9]、藤原朝臣姓の名乗りが不比等の子孫に限定され、藤原氏=不比等家が成立している。

    文武天皇と宮子の間には首皇子(聖武天皇)が生まれ、さらに橘三千代との間の娘である光明子を聖武天皇に嫁がせたが、光明子は不比等の死後、不比等の息子の藤原四兄弟の力によって光明皇后となり初の非皇族の人臣皇后の例となった。

    不比等は氏寺の山階寺を奈良に移し興福寺と改めた。その後、養老律令の編纂作業に取りかかるが養老4年(720年)に施行を前に病死した。養老律令を実施したのは孫の仲麻呂の時である。

    不比等とその息子の藤原四兄弟によって、藤原氏の繁栄の基礎が固められるとともに最初の黄金時代が作り上げられた。

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