この時から、皇室の朝鮮半島における日本の権益奪回とともに、中国(隋など)への傲慢な「対等外交」要求が始まるのである。
なお、仏教受容の政治思想的意味をぼんやり考えているが、未だ熟していない。要するに、仏教思想という、政治とまったく対照的な思想をなぜ日本の皇室が(自ら称する「神の子孫である皇室」と矛盾するにも関わらず)受け入れたのか、という謎だ。
もちろん、ローマ帝国におけるキリスト教認容と同じく、その政治的効果を考えたのだろうが、それがどういうものか、だ。ちなみに、皇室の人間にとって自分らが神の子孫などでないことはあまりにも当たり前の話で、それは「大衆向けプロパガンダ」にすぎないことは、皇室やその縁者には常識だったはずである。これを竹熊健太郎の言葉を借りれば、「顕教に対する密教」と言う。宗教内部の最高の階級の人間にとっては、その宗教がインチキであることは明白だ、ということだ。
中国史料における任那[編集]
- 『三国志』魏書東夷伝・弁辰諸国条の「弥烏邪馬」が任那の前身とする説がある。
- 広開土王碑文(414年建立) : 永楽10年(400年)条の「任那加羅」が史料初見とされている。
- 『宋書』では「弁辰」が消えて、438年条に「任那」が見え、451年条に「任那、加羅」と2国が併記される。その後の『南斉書』も併記を踏襲している。
- 『梁書』は、「任那、伽羅」と表記を変えて併記する。
- 525年前後の状況を記載した『梁職貢図』百済条は、百済南方の諸小国を挙げているが、すでに任那の記載はない。
- 『翰苑』(660年成立)新羅条に「任那」が見え、その註(649年 - 683年成立)に「新羅の古老の話によれば、加羅と任那は新羅に滅ばされたが、その故地は新羅国都の南700〜800里の地点に並在している。」と記されている。
- 『通典』(801年成立)辺防一新羅の条に「加羅」と「任那諸国」の名があり、新羅に滅ぼされたと記されている。
『太平御覧』(983年成立)、『冊府元亀』(1013年成立)もほぼ同様に記述している。
なお、宋書倭国伝によると、451年に、宋朝の文帝は、倭王済(允恭天皇に比定される)に「使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事」の号を授けたという。また、478年に、宋朝の順帝は、倭王武(雄略天皇に比定される)に「使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事、安東大将軍、倭王」の号を授けたという。
『日本書紀』における任那[編集]
『日本書紀』(720年成立)崇神天皇条から天武天皇条にかけて「任那」が多く登場する。
- 崇神天皇65年と垂仁天皇2年の条は一連の記事で、任那と日本の最初の関係の起源を語る。
- 応神天皇7年と25年の記事のうち25年の条は『百済記』の引用である。
- 雄略天皇7年のあたりからかなり詳しい伝承がふえ、同天皇8年の記事では「日本府行軍元帥」の文字がみえ、倭の五王の三韓における軍事指揮権との関係が推察される。同21年の記事は有名な百済の一時滅亡と熊津での百済再建に絡んでの記事である。
- 顕宗天皇3年、阿閉臣事代が任那に赴いたこと、紀生磐宿禰が任那に拠って自立の勢いを示したことが見える。
- 継体天皇3年にも記事があり、同天皇6年の条は有名な「四県二郡割譲事件」の記事、同21年の条は「磐井の乱」に絡んでの記事である。23年、24年にも金官加羅の滅亡の前後をめぐる詳しい伝承がある。
- 宣化天皇2年、大伴狭手彦を任那に派遣した。
- 欽明天皇からはおびただしく記事が増え、ほぼ毎年任那関係の事件が見える。欽明2年(541年)4月の条に「任那」に「日本府」を合わせた「任那日本府」が現れ、同年秋7月の条には「安羅日本府」も見える。同天皇23年(562年)の条には、加羅国(から)、安羅国(あら)、斯二岐国(しにき)、多羅国(たら)、率麻国(そつま)、古嵯国(こさ)、子他国(こた)、散半下国(さんはんげ)、乞飡国(こつさん、さんは、にすいに食)、稔礼国(にむれ)の十国の総称を任那と言う、とある。この10国は562年の任那滅亡に近い最末期の領域である。
地理上、任那が朝鮮半島における日本に最も近い地域であり、重要な地域であったことに由来し、日本の史料が最も豊富な情報を提供している。これらの史料によると日本(倭)は、任那滅亡後に新羅に「任那の調」を要求しており、従来日本(倭)に対し調を納めていた事実が書かれている。
- 新羅による任那征服と推古朝の新羅征討
『日本書紀』によれば、飛鳥時代にも朝鮮半島への軍事行動が計画された。西暦562年、任那日本府が新羅によって滅ばされた。これを回復するための「征討軍」が推古朝に三度、計画され、一度目は新羅へ侵攻し、新羅は降伏している[20]。
まったく別の話だが、五世紀の「倭の五王」の時代に、倭が朝鮮半島の中南部の百済新羅任那を属国化していたのは好太王碑文や『宋書』の記述などから見ると事実らしい。まあ、属国というと語弊があるが、その上位的存在だったようだ。とすれば、日本書紀に時々、百済や新羅から日本(大和朝廷)への朝貢があったという記述があるのもあながち嘘ではないかもしれない。さらに言えば、神功皇后の征韓も神話ではなく事実かもしれない。また、神武東征も事実かもしれない。
現在の私の推測では、百済か任那から来た一族(「騎馬民族」と言うほど騎馬が当時意味を持っていたとは思わないが、騎馬の知識や技術はあっただろう。)が九州の邪馬台国の支配者にのし上がり(あるいは簒奪し)、「戦争の先進国」であった朝鮮半島の経験と、当時としては高度な武器(青銅器と鉄器)を用いて中国地方の豪族(出雲族)を滅ぼし、東に進んで奈良盆地に大和朝廷を打ち立て、さらに東に進んで関東地方まで勢力範囲とした、というものだ。当時の日本の地方支配者は、西部劇の騎兵隊に対するインディアン程度の戦争遂行能力しかなかったと思われる。戦闘訓練を積んだ兵士の一隊がいれば、どの地方も容易に征服できたのではないか。
なお、関東地方で東征をやめたのは、それ以上は森林地帯がほとんどで、征服する価値は無いと見做したからだろう。稲を主食とする民族の支配者にとって、稲作が不可能な土地を奪っても意味はないのである。
以下 ウィキペディアより
矛と槍は、穂先(剣の部分)の付け根部分の構造で区別される。 矛は穂先の根本がソケット状(袋部)になっており、そこに柄を差し込むものをいい、槍は逆に穂先の根元を柄に差し込むものをいう。
現在の滋賀県なども近畿の周縁部という意識だっただろうから、天智天皇の大津京遷都は奈良盆地の豪族たちの強い反発を生んだと思う。織田信長の安土桃山城といい、滋賀に本拠地を置いたらロクなことはない、というのは、恐らく琵琶湖周縁は防御に適さない地形だからだろう。
なお、古代史ではやたらと遷都されているが、それを大変な事業だと思うのは「遷都」という言葉から来る錯覚で、古代には「都市」そのものは成立していないと思う。要するに、宮廷(今のアメリカならワシントンDC程度の規模だろう)の場所が移動しただけの話で、「都市」の引っ越し、つまり何万もの人が引っ越ししたわけではないだろう。皇族と、宮廷に地位のある一部豪族が移動しただけだと思う。平城京が出来て初めて本物の都市が生まれたのではないか。
本来的に、宮廷があるから都なのであり、居住民が多いから都というわけではない。明治維新で遷都令が出ていなくても、東京に皇居が移り、政府があればそこが都になるわけだ。都とはもともとは「宮の居所」だろう。
ついでながら、公務員は「みやつこ」つまり、「宮の子(宮に所属し、従う者)」である。この場合の「つ」は所属関係を表わす。「天つ風」の類だ。「子」が従属関係を示すのは儒教から来ていると思う。「家の子郎党」の「子」も同じ。
古代[編集]
飛鳥時代[編集]
奈良盆地を拠点とした大和政権は、7世紀初めには冠位十二階の制定などに見られるように国家としての体制を整備していった。7世紀半ば、大化の改新によって天皇中心の中央集権を進める皇太子中大兄皇子(後の天智天皇)は、朝鮮半島の百済が滅亡すると、百済復興を目的として、47,000人もの大軍を朝鮮半島に派遣した。しかし663年に唐と新羅の連合軍に白村江の戦いで敗北し、朝鮮半島における影響力を失った。その後、唐・新羅の日本列島侵攻が予想されたため、対馬や壱岐などの重要地域に防人や烽火を設置し、各地に山城が築かれた他、北九州の外交と防衛の拠点である大宰府には水城を設置して敵の侵攻に備えた。天智天皇の死後、皇位継承を巡って、671年に大友皇子と大海人皇子の間に壬申の乱が発生した。1ヶ月に渡って近畿圏各地で戦闘が繰り広げられ、古代最大の戦争に発展した。このとき、大海人皇子は東海道、東山道の諸国から兵を動員し、大友皇子側は東国と吉備、筑紫(九州)に兵力動員を命じている。これらの兵力は歴史学で国造軍と呼ばれ、中央・地方の豪族が従者や隷下の人民を武装させて編成していた。
律令制と軍団の設立[編集]
白村江の戦いの敗北により、国防力の増強が必要となった。豪族の兵であった国造軍に変わり、国家が兵士を徴兵し[7]、民政機構から分独立した[8]軍団[9]が組織されることとなった。律令制が本格的に導入されると軍事制度も整備され(軍防令)、中央官制の兵部省が設置され、徴兵を可能にする戸籍の整備が進んだ(正丁(成年男子)3人に1人が兵士として徴発される規定であった)。徴兵された兵士は各地に設置された軍団に配属された。原則としては現地勤務であるが、一部の兵士は宮中警備を担う衛士と九州防衛を担う防人となった。一個軍団の兵員数は二百人から千人の間であるが、千人を超える例も存在したと考えられている。軍団は3~4郡ごとに設置されており、九州では各国に2~4個軍団(1600~4000人)が置かれていたことが記録に残っている。軍団兵士の数は20万人に達したとの見方もある[10]。但し、軍団の兵士は交代で勤務しており、通常の兵力は定数の数分の一であった。なお蝦夷と対峙する陸奥国には、軍団とは別に鎮守府に属する鎮兵と呼ばれる固有の兵力が常設配備されていた。鎮守府は始め多賀城(現宮城県多賀城市)におかれ、後に胆沢城(現岩手県奥州市)に移された。多賀城は防御のために周囲を長大な柵で囲まれていたが、この内部に陸奥国府がおかれていた。この他にも蝦夷に対する備えとして、軍事・行政機能を有する多数の城柵が築かれた。
軍団兵士は、自弁で弓矢・大刀・小刀等を用意する必要があった[11]。その他の官給の武器として矛や弩があり、弩に関しては体格と腕力に優れた者が隊(50名)ごとに各2名ずつ選ばれて射手の教育を受けた[12]。弓馬が得意なものは騎兵とすることとなっていたが[13]、多くは歩兵であったと考えられる[14]。騎兵は、基本的に弓射騎兵であるが[15]、槍を扱う突撃騎兵も存在したと推定される[16]。甲冑としては鉄製のものは少なく、「綿襖甲」・「綿襖冑」[17]や「革製甲」[18]が使用されていた。
「『家伝上』によると、大海人皇子は壬申の乱に際し、吉野から東土に向かうとき、嘆じて『若し大臣(鎌足)をして生存せしむれば、吾豈に此の苦しみに至らんや』といったという。」
とある。天智天皇の酒宴において激発して床に槍を刺した大海人皇子を天智が怒って殺させようとしたが鎌足がそれを止めた、という話も合わせて、天智と大海人皇子の間をつないでいたのが鎌足だったと見ていいのではないか。
なお、壬申の乱は、通説(「日本書紀」の記述に基づく。つまり、大友側の圧迫によってやむにやまれず、緊急避難的に実行された、とする。)とは異なり、天智の死(あるいは大友皇子の即位)と同時に実行が決定されたものと思われる。
と言うのは、壬申の乱の際の大海人皇子の行軍過程(2皇子との合流)があまりに上手く行きすぎているからである。情報伝達網の貧弱な古代に、「伊勢(鈴鹿)で合流しよう」と言い送っていたはずの高市皇子が、鈴鹿に向かう途中の大海人一行と、伊勢手前の伊賀(現在の柘植のあたりか)で上手く出逢っているのである。これは、高市皇子には急使を送る以前にあらかじめ「25日に伊賀で待て」と言い送っており、大津皇子には後から送った使者に「25日に鈴鹿で合流だ」と伝えさせたのだろう。だから二人の皇子との合流点が違うことになったのだろう。つまり、天智の行軍行程は最初から綿密に計算されていたわけだ。大津皇子は年少でもあり、秘密を秘匿できるかどうか不安があり、また、上手く大津宮を脱出できるかどうか不確かなので、彼にはぎりぎりまでスケジュールを明かさなかったのではないか。
さらに、「日本書紀」ではさりげなく書いてある「伊賀の(近江朝廷の)駅家を焼く」というのは、そこにいた官吏とその家族を皆殺しにしたのだと思う。駅家は交通の要路の重要ポイントであり、不審な動きがあれば即座に近江朝廷に通報が行くことになっていたと私は想像している。だから、その通報をさせない、というのが「駅家を焼く」意図であり、焼くよりも役人を皆殺しにするのが目的だろう。伊賀は当時、大友皇子に親和性の高い土地だった。
文中の「横刀」には別の個所で「たち」と振り仮名がついている。なぜこのような表記をしているのかは不明。学者の間では普通に使われる表記なのだろうか。
私が知りたいのは、青銅の剣の切断力と刺突力だが、それが分からないと古代の戦いの実情が非常に想像しづらいのである。
もうひとつ、兵器ではなく兵士の戦闘能力もよく分からない。壬申の乱当時は兵農分離は無く、農民がそのまま戦に駆り出されたはずなので、兵士としての訓練はほとんど無かったと思う。では、どのような戦い方をした、あるいはさせたのか、想像しにくい。
壬申の乱では、大海人皇子は最初は美濃にある自分の個人的領地の農民を徴兵して戦争に突入したと思うが、その人数もよく分からない。せいぜい数百人程度ではなかったか。やがて友好的豪族の支援を得て、近江朝廷との本格的戦争に入ったのかと思う。
農民の、領主に対する忠誠心というのもよく分からない。戦に駆り出された農民が素直に戦ったのかどうか。逃亡する者をどう防止したのか。そこに、「督戦隊(前線から逃亡する兵士を斬り殺すと威嚇して戦いを強制する部隊)」的なシステムがあったのかどうか、そのあたりは史書にはほとんど出てこないようなので、気になって仕方がない。
(以下引用)
■初めに
青銅の剣では春秋時代の越王勾践の緻密な彫刻を施した剣が有名だが、青銅製刀剣の全盛期の春秋時代、既に南方の大国楚等では、鉄製の剣が現れている。長さはまだ短く、全長は古代ローマ帝国の軍団兵が使用したグラデイウスよりも短い40cm弱の短寸であった。しかし、数回の折り返し鍛錬がされていて、浸炭処理もされていたようで、武器としては、ある程度の切断能力と強度があったと考えられている。
戦国時代後期になると鉄製の長剣が楚、韓、燕等の国々で出現し、戦国七雄の一つ北の燕下都では、冶金技術が発達して鍛錬による高炭素の武器も製作され初め、更に強度を増すための焼き入れ加工も行われていた。
天下を統一した秦が従来型の青銅製武器を主に武装の軍隊で争覇戦に勝利したのに対し、敗れた楚、韓、燕の諸国が最新の鉄製武器製造技術を持っていた矛盾は、幾つかの先端技術だけでは総合力に勝る覇権国家に勝てない、現代でも通じる問題点を提示しているように感じる。
その他にも楚、韓、燕等の鉄製武器製造の先進国には問題点があった。例えば、燕の下都の鉄工房の技術力は高かったが、材料の供給能力も含めた生産能力は低く、燕の国軍における鉄製武器の装備率は相当に低かった。その為、一般の兵のほとんどは従来型の青銅製武器を装備して秦との戦い望んだと想像される。
一方の南方の雄者楚でも秦との決戦が近づいた戦国時代末期には、70cm以上の長い直刀が造られ始めているが、この国でも燕と同様に軍隊全体に十分な鉄製武器を供給することは、楚の滅亡時まで遂に達成出来なかった。
■中国の鉄製刀剣普及の時代
短命であった秦帝国の後を受けた劉邦の前漢の時代が、古代中国における青銅製武器と鉄製武器の世代交代の時代と考えられる。劉邦の時代に青銅製武器が主流だった漢帝国も西域で匈奴と対峙した武帝の頃には、鉄製武器の比率は向上し、前漢末期にはほぼ世代交代が終わり、戈や矛、剣、刀の主要武器が鉄製に切り替わっている。
鉄製の刀剣も短い短刀から1mと超える長い環首長刀まで各種の長さの物が出揃い、刀剣の鞘や柄の材料も木や竹で製作された物や、布、繊維で補強され柄、赤い漆で装飾された鞘なども出現し始めてくる。
漢はご存じのように紀元前後で前漢と後漢に分かれるが、前漢の鉄製武器の大発展期を経て、後漢になると色々な鉄の周辺技術が大きく向上している。
その一つが鉄鉱石を溶かす炉の改良で、水車を用いた小型の溶鉱炉が発明されている。鉄鉱石を原料とした安定な鉄素材の供給は、素材を折返し鍛錬したりする鍛冶の熟練度の向上と共に、鋭利で弾力性に優れた長刀の量産を可能にしている。
後漢の時代の剣の弾力性と曲がりに対する復元力は極めた高かったと現代中国人は胸を張って主張しているが、刀剣の弾力性や切断性を比較できるほどの健全な刀剣が漢代古墓から出土していると思えないし、もし、健全な刀剣の出土があったとしても、貴重な古代の文化財で、ものを斬ったり、曲げ試験を実施したり出来るとはとうてい考えられない。
漢代の環首長刀の形状の一例を挙げると元幅は約3cm、重ね約1cmで、断面は平造りで、長さは長いもので1mを超える長剣もあった。柄と刀身は一体構造の為、軍用としての強度は高く、破損に対する耐性もある程度あったと思われる。
この頃の大陸性や朝鮮半島製の剣や直刀が舶載されて、我が国の権力者に順次、普及していったと考えられる。また、朝鮮半島南部の加羅で生産された鉄の原料を購入して、我が国で加工した刀剣も時代と共に出てきたと考えられる。
■古代型刀剣の完成期:唐代
三国志の時代を経て、南北朝に少しずつ進化した古代中国からの様式を持つ刀剣は唐代に至って、一応の完成を見たと考えられる。
戦陣用の環首長刀は漢以降順次改良されていった。漢代の環首長刀の断面形状の二等辺三角形に近い平造りの形状から、切断力と刀身の強度を両立させた切刃造りも現れ、中には切刃部分の幅が広がった切断力を更に向上させた刀身も見られ始めている。
柄と刀身も漢代のような一体加工では無く別個の分離した形となり、茎も形成され、区や目釘穴も設けられている。また、環首の部分も独立して加工され、装飾性も大きく向上している。文化の爛熟した盛唐期は刀剣の外装も華やかになり、正倉院に伝来する刀装具にもその影響を大きく受けたものが伝存している。
当時、東アジア最大の帝国唐の刀剣は完成度も高く周辺の朝鮮半島や日本に強い影響を及ぼした。『唐大典』の中の「武庫令」には、表現は異なるが、儀仗用、護身用、横刀、斬馬刀の4種類の刀剣の記載がある。
横刀の表現も隋から始まり、唐では軍隊の八割が真っ直ぐな横刀を所持して戦った。当に環首直刀が大量に作られ、実戦に用いられた時代であった。一方、新しい形状の萌芽もこの時代から始まっている。西域諸部族が用いた湾刀も中唐から唐末になると直刀と共に混用され始めたのであった。
唐の隆盛と環首直刀の完成度の高さは、周辺諸国に強い影響を及ぼさずには、置かなかった。唐の環首直刀は貴族達の求める豪華な装飾性と一般兵士に支給する為の実戦的な強度の双方を兼ね備えていたのであった。