忍者ブログ
[206]  [207]  [208]  [209]  [210]  [211]  [212]  [213]  [214]  [215]  [216
日本の古代を舞台に小説や脚本を書こうという場合に一番の障害が人名である。名前が長い上に、難しい漢字が使われており、いちいち漢字検索しながら書くのも面倒である。
まあ、プロならエディターとか何とかいうソフトでも使い、難しい名前などは事前登録して一発変換できるようにするのだろうが、ワードだとなかなか簡単にはいかない。というより、私自身がワードの使い方を良く知らない。
古代人の名前の面倒くささは、読む人にとっても障害だろう。いちいち振り仮名をつけないと、何度も何度も「これ、どう読んだっけ」ということになる。
天皇名も、我々が知っている天智とか天武というのは、あれは諡号であり、生前にそう呼ばれていたわけではない。また、本名も恐らく「忌み言葉」として、呼ぶのを避けていたと思う。
とりあえず、「剣と鏡」の製作方針としては、人名は実在人物とは違う名前でありながら、誰に相当するかは推定できるようにしたいと思っている。


たとえば、


中大兄皇子=中皇子
大海人皇子=海士皇子

などである。これは名前を簡略にする意図と、「皇室タブー」を避ける意図がある。まあ、天皇に関するネタを書いた時点で皇室タブーに触れることになるのは仕方がないが、今の右翼は皇室よりも安部のほうが大事なようだから、昔のように右翼に命を狙われることもないだろう。

稿を変えて、全体の大筋を考えてみたい。まあ、最初の大構想とそれほど違いはないが、資料なども読んで、細部が少し形になってきたような気もするから、ラフスケッチ的な筋を書いておくわけだ。もちろん、カットしたり増やしたり順序を変えたり、後でいろいろ変更はするはずだ。

いきなり、聖徳太子の時代から始めるか、大化の改新の前後から始めるか、というのが構想上の大問題で、聖徳太子の話は大化の改新の話の中に組み込むのがいいか、とも思っている。つまり、大きなボリュームを聖徳太子の話に使う必要は無い気がする。ただし、蘇我氏の専横というのが大化の改新の大きな原因であり、「天皇(皇室)親政」というのが皇室の念願だったということを描く上で、蘇我氏の傀儡としての聖徳太子の話と山背大兄王の死の話は必要かと思う。

言葉遣いの点では、完全に現代語を使う予定である。英語(カタカナ語)すら入れるかもしれない。古代の衣服を着ていても、古代人の中味(特に政治意識)はほとんど現代人と変わらない、というのがこの作品の潜在的テーマなのである。

できれば、シェークスピアの史劇のような「血と嵐の匂い」を感じさせるものにしたい、というのが望みだが、もちろん自分にそんな能力など無いのは分かっている。ただ、どんなにチャチでも、その先鞭をつけたい、というだけだ。


今思い付いたが、「戯曲的部分」「小説的部分」「随想的部分」「論文的部分」を全部入れて書くのはどうか。これはフィールディングの「トム・ジョーンズ」などにもある書き方で、読者が長い話に退屈しないで済む利点がある。それに、ここまでメモしてきた私の感想などもかなり材料に使えるだろう。もともと私は小説(フィクション類)を読むのも書くのも苦手で、漠然とあれこれ考察するのが好きなだけだから、私の体質にも合っているかもしれない。


とすると、史実とはまったく無関係な現代人2人を登場させ、大化の改新や壬申の乱の真相などについての無責任な論評(居酒屋論議)を合間合間に挟み込む、という手法もいいかもしれない。「大海人皇子=忍者」論などという話も居酒屋話には向いていそうである。つまり、現代人のひとりのモデルは井沢元彦、としてもいい。
実は、私がこの「剣と鏡」脚本メモの中で書いてきた感想は、素人が古代史を「楽しむ」という上では、わりといい内容なのではないか、と自負している。素人が疑問に思うことをそのまま書き、あるいは少しネットで調べたものをコピーしただけだが、学校で習う「死んだ古代史」が、少しは生き返ったのではないか。コピー部分は別として、感想部分(あるいは疑問を提示した部分)は、青少年の読み物として悪くないと思っている。












PR
井沢元彦の「天智暗殺説」によれば、天智は(大津京から)現京都市伏見区醍醐の巨椋池(現在は干拓されて存在しない?)の木幡山まで狩りに来て、そこで暗殺された、とされているが、滋賀の大津から京都の伏見(あるいは宇治)あたりまで狩りに来るか、という疑問を最初私は持った。現在の感覚で、滋賀から京都南部まで行くのは大変だろう、と思ったからだ。しかし、地図で直線距離を測ると、実はその間、20キロから25キロ程度なのである。走っても行ける距離であり、馬ならなおさらだ。その間には特に土地の起伏も無いだろうし。
ちなみに、直木孝次郎「壬申の乱」に、旧日本陸軍の騎兵の標準歩速が書かれていて、次のようになっている。

常歩(なみあし):分速110m
速足(はやあし):分速210m
伸長速足(しんちょうはやあし):分速310m
駈足(かけあし):分速420m
襲歩(しゅうほ):分速800m以上


これらを交互に交えたようである。速足と常歩を交えて分速150m平均とすれば、時速9キロで、3時間弱で大津から木幡まで来られるだろう。なお、古代人は朝が早い(遠出する時は特に)ので、夜明け前に出発したと思う。

井沢元彦は天智暗殺を大海人皇子自身が手を下してやったとしているが、年齢的にさすがにそれは無理だろうと思う。まあ、映像的には面白い場面にはなりそうだ。
聖徳太子の仏教理解は仏教の本質に迫るものだったと私は思っているが、それは「世間虚仮唯仏是真」の言葉(特にその前半)がまさに仏教の本質だと私は思っているからだ。この目に映る世間の姿は我々の主観によってそう見えている、いわば一種の幻影であり、それを「虚仮」と言っているわけである。そして、自分が仏となって観る世界が真実の世界だ、ということだ。
ただし、これは「般若心経」による私自身の仏教理解であり、聖徳太子の頃に太子が「般若心経」を読んでいたとも思えないので、「三経義疏」から太子の仏教理解がどんなものだったか知ろうと調べてみると、太子の「三経義疏」については花山信勝が第一人者であるらしい。
実は私は中退した大学(東大ではない)で花山氏の講義を一度だけ聞いたことがある。当時の私の知識と頭脳ではまったく理解できない内容だったが、その講義も「聖徳太子と三経義疏」といった内容だった記憶がある。下の記述を見るとなかなかの大物で、そうした人物の実物を見たことがある、というだけでもいわば昭和の歴史の端っこに触れた経験かと思うので、書き留めた。
なお、私が実見した有名人として、浅草オペラの名歌手の何とかいう人がいたが、名前は失念した。これは「日劇ミュージックホール」の最後の公演に出演していて、その演出が黒テントの演出者の、これも有名人だった。東京にいると、現代の歴史の一幕に触れる機会がある、というのは大きなメリットである。これは私の若いころの話である。




花山信勝

Jump to navigation Jump to search

花山 信勝(はなやま しんしょう、1898年明治31年)12月3日 - 1995年平成7年)3月20日)は、日本の仏教学者浄土真宗本願寺派僧侶東京大学名誉教授

概要[編集]

石川県金沢市生まれ。第四高等学校卒、東京帝国大学印度哲学科卒。大学院で日本仏教史を専攻し、東洋大学教授、東京大学文学部教授、國學院大學教授等を歴任する。1935年昭和10年)、『聖徳太子御製法華経義疏の研究』で学士院恩賜賞を受賞。

1946年昭和21年)2月から巣鴨拘置所教誨師となり、東條英機ら七人のA級戦犯の処刑に立ち会い、その時の模様を『平和の発見-巣鴨の生と死の記録』に記した。東條は、「米国憲兵と一緒に合掌するのも仏縁だね」と笑っていた、と語った。なお被告の重光葵の手記『巣鴨日記』には、長期間の収監で精神的に消耗していた被告たちにとって、花山との接触はひとつの救いでもあった、という旨の記述がある。(『文藝春秋1952年昭和27年)8月号掲載、翌年に文藝春秋新社刊)

家族[編集]

長男の花山勝道は、金沢で浄土真宗本願寺派「宗林寺」の住職を務めた。

次男の花山勝友は仏教学者、武蔵野女子大学副学長を務めたが、父の後を追う形で同じ年に病没した。なお次男勝友や門下生達との座談会での回想が、『東方学回想 Ⅵ 学問の思い出〈2〉』(刀水書房、2000年)に収録。

著書[編集]

  • 『聖徳太子御製法華義疏の研究』 東洋文庫, 1933
  • 『聖徳太子の仏教』 仏教年鑑社, 1936
  • 『聖徳太子と日本文化』 日本文化協会、1937
  • 『日本の仏教 内閣印刷局』(国体の本義解説叢書), 1942
  • 『憲法十七条の精神』 厚徳書院, 1943
  • 『日本仏教』 三省堂, 1944
  • 『勝鬘経義疏の上宮王撰に関する研究』 岩波書店, 1944
  • 『白道に生きて』 北方出版社, 1948 (顕真叢書 ; 1)
  • 『平和の発見 巣鴨の生と死の記録』 朝日新聞社, 1949
    • 『「巣鴨の生と死 ある教誨師の記録」』 中公文庫, 1995
  • 『万世を照らすもの-仏教学徒の記録』 酣灯社, 1949
  • 『永遠への道 わが八十年の生涯』 日本工業新聞社, 1982
  • 『聖徳太子と憲法十七条』 大蔵出版, 1982
  • 『太平洋戦争とお念仏』 国際真宗学会, 1986



あまり資料ばかり読んでいて、最初の考えがどんなだったか忘れそうなので、ここでもう一度最初の構想を載せておく。
最後に書いてある配役(人物イメージ)などは、だいたいこんな感じでいいと思うが、ほかにも重要人物はたくさん出てきそうである。NHK大河ドラマにできるくらいの内容のある歴史的事件なのだが、そんなのを書いていたら、5年くらいかかりそうで、完成まで生きていられる自信がないし、自分にそんな才能があるとも思わない。私はプロデューサー的感性には自信があるが、物そのものを作るのは苦手なのである。
なお、中大兄皇子を源頼朝のイメージとしたが、もう少し陰険陰性の感じがいい。大久保利通とも少し違う。大久保は無私の人だが、中大兄皇子はチェザーレ・ボルジアのイメージだ。そういう、残酷冷酷な感じで、しかも恰好いい俳優というと、若いころの仲代達矢だろうか。中臣鎌足が山崎努。大海人皇子は、豪快で少し粗暴で勘の良さそうな「魅力的な野獣」という感じ。三船敏郎と誰かをミックスした感じか。
なお、四部構想ではなく三部構想がいいかと思う。聖徳太子の時代は二部に分けるほどではない。第二部と第三部を一続きにしたほうが、登場人物の連続性の上からも良さそうだ。



まだ漠然とした想念なので、これを文章化するかどうか分からないが、日本の古代史に関する小説かシナリオを構想してみようかと思っている。

内容としては、推古朝から天智天武朝までのドラマである。推古朝とは要するに聖徳太子の時代だ。もっと詳しく言えば、蘇我氏時代である。蘇我氏と物部氏の仏教受容に関する闘争(戦争)を皮切りに、蘇我氏の傀儡としての聖徳太子の姿、その息子の山背大兄王の父聖徳への反発、推古の後継者争い(田村皇子と山背大兄王の争い)、蘇我蝦夷がなぜ蘇我系統の山背大兄王ではなく田村皇子擁立に乗り気だったのか、また蘇我入鹿(と蝦夷)がなぜ山背大兄王一族を滅亡させたのか、などが前半で、この争いが中大兄皇子に与えた精神的影響を基にして大化の改新(乙巳の朝廷クーデター)が後半の前半(妙な言い方だが、後半開始早々にこの大ドラマが起こるわけだ。)で、大化の改新の影の立役者としての中臣鎌足(大久保利通タイプ)の「政治ゲーム」あるいは王座を巡るゲーム(ゲームオブスローンズ)を描いていく。
中臣氏は神祇官の家であり、仏教と共に勢力拡張をしてきた蘇我氏とは根本的な敵である。つまり、聖徳太子時代の仏教受容争いの遺恨が大化の改新の裏の原因で、表の原因としては、中大兄皇子が有力豪族(蘇我氏)の傀儡的存在でしかない皇室の在り方に疑問を持ち、唐から帰朝した南淵請安や僧旻らの「中国政治情報」を得て、皇室中心の中央集権国家を作る構想を持ったということ。特に皇室を良しとするのではなく、むしろ大化の改新(特に乙巳の乱)とは中大兄皇子による「長いナイフの夜」だった、という構想である。
タイトルとしては「剣と鏡」というのを暫定案として考えている。これは皇室の三種の神器のうちのふたつで、天下を治める者は剣と鏡の心を持たねばならない、ということ。剣は言うまでもなく他人を従わせる武器であり、鏡は自分自身を見る道具、つまり自分の内面を治める(自己コントロールをする)道具だ。
後半の後半は壬申の乱が中心、つまり大海人皇子が兄天智(中大兄皇子)の息子である大友皇子と戦って天皇の座に付き、ここにゲームオブスローンズが完結する、という構想である。

大きく4部構想としたら

第一部 仏教伝来
第二部 聖徳太子の死と山背大兄王の死
第三部 大化の改新
第四部 壬申の乱

という感じで、主人公は第一部第二部は蘇我蝦夷と聖徳太子
第三部第四部は中大兄皇子と中臣鎌足がメインだが、他の登場人物ももちろん重要である。
さらに大きく括れば、第一部第二部は蘇我氏が中心、第三部第四部は中臣氏が中心とも言える。
つまり、政治を陰で動かしてきた力を描きたいのである。壬申の乱の時に中臣鎌足が生きていたかどうか後で調べるが、鎌足がいなかったために壬申の乱が起こった、という感じで描きたい。


主要キャスト(配役は暫定)

蘇我蝦夷:草刈正雄(策士だが抜けたところもあり、魅力的な感じ)
聖徳太子:平岳大(又は、もう少し小柄で大人しい感じの俳優。)
推古天皇:鈴木京香(威厳のある年増美女)
山背大兄王:佐藤健(気が強く、思慮に欠ける若者)
田村皇子:岡田将生(意志が弱く、お人よし)
蘇我入鹿:長瀬智也(粗暴、乱暴、強引無礼)
中大兄皇子:堺雅人(温厚な顔に似合わず案外悪人。頭がいい。源頼朝のイメージ)
中臣鎌足:(陰謀家)
大海人皇子:岡田准一(若くて豪快でやや思慮に欠ける感じ)
額田王:山本美月(少しアホっぽい方が意外性があっていい)
皇極(斉明)帝:夏木マリ(もう少し若く、なるべく狂気を感じさせる女優がいい)
余豊璋:安田顕(百済からの人質の王子。斉明帝の恋人で、斉明の異常な百済救援の真の動機。ハンサムだがあまり頭は良くなく、思慮に欠ける。斉明との関係で中年の俳優がいい)

南淵請安: (大化の改新の知的指導者)




「大海人皇子(天武天皇)による天智天皇暗殺」説(井沢元彦「逆説の日本史」)をどう考えるか、どう扱うかというのは「剣と鏡」の中心部に関わる問題だが、これにイエスとした方が論理的な整合性は取りやすいようだ。
というのは、国際情勢との関連があるからだ。

671年6月:栗隈王(後に壬申の乱で天武に協力)の太宰府長官任命
同年11月:唐使郭務悰来日(日本と唐との同盟締結のためか)
同年12月3日:天智天皇死去(公式には病死。井沢は暗殺説)

この頃、新羅は唐との戦い(主に百済の遺臣を利用)の最中で、唐と日本が同盟を結べば国家存亡の危機になるので、その同盟を阻止するために、親新羅派の大海人皇子が皇位に就くことは非常に好都合であった。天智朝廷は百済からの亡命者が多く、反新羅が主流だったと考えられる。
なお、天智は狩りの途中で殺害され、遺体が見つからない(前掲書による)ため暗殺かどうかあやふやだったことが、大友皇子側の大海人皇子への対応が遅れた理由だったかと思う。
なお、天智天皇が即位した年に、新羅のスパイである坊主が草薙剣を盗んで逃走し、捕らえられた(?)事件があったことからも、新羅が天智天皇の「反新羅・親百済」姿勢に危機感と反感を持っていたのは確かだろう。

私としては、中大兄皇子と大海人皇子は、ライバルであると同時にお互いの才能や力量を認め合った間柄だとしたいので、最後に天智暗殺の話が来るとなるとあまりに殺伐としてしまうのが難点である。

昨日の記事のカッコ内の補足が、いい加減な書き方をしたために変になったのだが、今、はっきりと「訂正」とした。ついでに書くと、「日本」の呼称が670年の新羅への遣使から始まったとすると、日本朝廷の「中華思想」(もちろん、日本を「中国」つまり中心の国とする中華思想だ。)の高まりを新羅は明確に把握しただろうから、天智朝廷への危機感も増しただろう。当然、親新羅の大海人皇子へのアプローチも強化されたと思う。壬申の乱の原因の半分くらいは、こうした国際情勢と関係があるのではないか。



<<< 前のページ 次のページ >>>
プロフィール
HN:
冬山想南
性別:
非公開
P R
忍者ブログ [PR]

photo byAnghel. 
◎ Template by hanamaru.