地政学という言葉は好きではないが、地理的に満州は周辺諸国の争奪の地となっていて、政治史的に面白い。日本単独だと朝鮮半島が国際政治の重要地である。こういう土地に住む人々は絶えず外力に翻弄されることになる。下の記事中の地図の意味が不明だが、おそらく第二次大戦勃発時の満州周辺だろう。つまり、朝鮮半島は日本の支配領域だという意味で「JAPAN」と書いているのだと思う。
満洲族(17世紀に女真族から名称変更)が後金を起こして同地を統一支配した後、国号を改めた清朝が明に代わり、満洲地域及び中国内地全体が満洲民族の支配下に入る。清朝は建国の故地で後金時代の皇居(瀋陽故宮)がある満洲地域を特別扱いし、奉天府を置いて治めた。後には奉天府を改めて東三省総督を置き、東省または東三省(奉天、吉林及び黒竜江の3省)と呼んだ。 当初は「遼東招民開墾例」(1644年)をはじめとする勧民招墾の諸法令を公布し,漢族の満洲植民を奨励していたが、1740年以降は封禁政策を取り漢民族が移入することを禁じた。 近代の17世紀になると、ロシア帝国の南下の動きが激しくなり、ロシアと清朝との間でこの地域をめぐる紛争が数度起きた。ヴァシーリー・ポヤルコフやエロフェイ・ハバロフなど、ロシア人の探検隊が黒竜江流域に南下・侵入し、村落を焼いたり捕虜をとったり毛皮を取り立てたりして植民地化の動きを見せたため、これを追い出し国境を定める必要が生じた。1689年にネルチンスク条約が締結され、国際的にも満洲全域が正式に清朝の国土と定められた。その後、清朝はロシアの脅威に対抗するため、兵士を駐屯させる。しかし王朝末期に弱体化した清朝はロシアの進出を抑えきれず、1858年5月28日のアイグン条約、1860年11月14日の北京条約の2つの不平等条約によって、満洲地域の黒竜江以北及びウスリー川以東のいわゆる外満洲地域はロシアに割譲されることとなった。そして1860年には政策を転換して、漢族の移住を認め、農地開発を進めて、次第に荒野を農地に変化させた。この民族移動のことを「闖関東」という。1900年にはロシア軍によってブラゴヴェシチェンスクで清国人数千人が虐殺されるアムール川事件が起きる。
1904年から勃発した日露戦争は日本の勝利に終わり、上記の条約によって確保されていたロマノフ王朝の満洲における鉄道・鉱山開発を始めとする権益の内、南満洲に属するものは日本へ引き渡された。弱体化した清朝は1911年の辛亥革命で倒された。翌年成立した中華民国は清朝領土の継承を宣言するが、実態は各地域の軍閥による群雄割拠の状態であり、満洲は張作霖の軍閥の支配下となる。清朝崩壊後、満洲へは社会不安から流民となった漢民族の移入が急増する。
北満洲におけるロシア権益は保持されていたが、一次大戦やロシア革命の混乱により支配力は低下し、ロシア革命に対する干渉戦争として行われたシベリア出兵により、外満洲属するウラジオストクを連合軍が、北満洲及び外満洲の大部分、さらにはバイカル湖周辺までを日本軍が占領する事になった。1920年には日本占領下のニコラエフスクを赤軍パルチザンが襲撃し、破壊と住民虐殺が行われ6,000人余りが処刑され、日本人も700人余りが殺戮された(尼港事件)。日本以外の連合軍は1920年に、日本は1922年に撤退し占領は解除された。
ソビエト連邦は東清鉄道の経営権をロシアから継承していたが、1928年に満洲を実効支配する張学良政権はこの権益の武力による略奪を行おうとした。これに対しソ連は満洲に侵攻し中華民国軍を破り中東鉄道の権益を確保し、権益を再確認する協定を結んだ後撤退した(中東路事件)。
1931年に日本(大日本帝国)は満洲事変を契機に満洲全域を占領し、翌1932年に満洲国を建国した。満洲国は清朝最後の皇帝であった愛新覚羅溥儀を元首(執政、のち皇帝)とした。満洲国は日本の傀儡政権であり、この時期の満洲は事実上日本の支配下となった。日本は南満洲鉄道や満洲重工業開発を通じて産業投資を行い、農地や荒野に工場を建設し、その利益を搾取した。また、蒙開拓移民が入植する農地を確保するため、既存の農地から地元農民を移住させる等の政策を実施し、元々住んでいた住民の抗日レジスタンス運動を高揚させた。
1945年8月、第二次世界大戦終結直前にソ連軍が満洲に侵攻、満洲国は崩壊し、ソ連は満州を占領して中華民国への返還を遅らせた(東北問題)。その後、中国共産党が国共内戦に勝利し、満洲は中華人民共和国の領土となった。暫くはソ連との結びつきの強い高崗が独自の地方運営を行っていたが[1]、後に毛沢東に粛清された。
1990年代以降の改革開放政策により、上海や深圳市など華東、華南の経済特区の経済成長が著しくなる一方、満洲は古いインフラ設備により、逆に経済的には立ち遅れた地域となっていった。現在中国政府はインフラ設備の更新や古い工場の立替、外資の導入、遼東半島を含む環渤海経済圏を設定するなどして積極的に経済振興を行っており、大都市では経済の活性化がみられる。
とりあえず、
1ノット=時速1海里
1海里=1850m(約2キロと覚えればいい)
が分かっていれば、いいかと思う。現在の速さで言えば、20ノット(時速35キロくらい)が軍艦の平均的速度ではないか。時速40キロなら高速船、時速30キロなら低速船というイメージか。つまり、公共道路上の自動車の速さとだいたい同じ感じだろう。
なお、艦砲射撃(敵からの防御も含む)の関係で、艦列の組み方が大事になるのだと思う。
船の長所と短所[編集]
長所[編集]
- 法と気象の条件を満たせば港・洋上を問わず任意の場所に長期間待機が可能。
- 待機中は推進機関の停止が可能なため、待機時のコストが低い。このため災害派遣時には被災地の沖合に拠点を作ることが出来る。
- 大量・大型貨物輸送が(一度に)可能である
- 陸上運搬が困難な巨大な重量物も容易に運搬することができる
- 一度に大量の貨物を少人数の船員で運搬できる
- 低速で良ければ長距離での輸送コストが非常に低い
- 高速航行を求めなければ、エネルギー効率が良く、燃料も安価な重油などが使用できるため、燃費が非常に良い。低速航行であれば造波抵抗は小さいままで粘性摩擦抵抗や粘性圧力抵抗が抵抗の主体となり、大型船にすればするほど燃費は向上して大量の輸送物を低コストで運べる。
- 陸上交通と異なり、海や湖を隔てた国や地方同士での輸送が行える
- 交通インフラとして港の整備だけで済む。効率は劣るが、港がなくてもヘリコプターで荷物を積み下ろしすることも可能。
- 道路や鉄道の建設を行うにしても、山や川といった地形によってルートが制約される陸上交通と異なり、繋がった水上であればどこへでも行ける
- 航空機や陸上交通機関では困難な、巨大船の建造が可能である
- 船舶は航空機や車輌と比べて大きさの割に安く作れる
- 比較的幅が取れるので船内設計の自由度が高く、航空機や車輌に比べて多様な船室設計が行える
- 海や塩湖では船に塩害対策を施すことが前提となるが、他の交通手段と比べて可動部分が少ないために寿命が長い
- 航空機・鉄道と比べ気象による影響を比較的受けない
- 航空機と比べれば事故や異常事態発生時のリスクが少ない
短所[編集]
- 速度(航海速力)が遅い
- 速度が向上するにつれてエネルギー効率が悪くなり、燃費が悪くなる
- 陸上での移動車輌はおもに車軸の転がり抵抗や走行による空気抵抗が速度とエネルギー効率(燃費)を決めているが、水を押し分けながら進む船舶では水の密度と粘性のために抵抗が大きく、特に造波抵抗は速度向上を阻みエネルギー効率(燃費)の増悪を産む
- ウォータージェット推進や水中翼船は高速であるが、エネルギー効率が悪い
- 制動距離が長い
- 転針・進路変更が遅い
- 船が進路を変更するには舵が動いて船体が向きを変え(転針)、船体側面で水から圧力を受けることで船が持つ慣性力が偏向されて進路が変わるまでに時間が掛かる。スクリュープロペラが前進方向で回転しなければ舵の効率は極端に悪い。
- 乗りなれないと船酔いを起こすことが多く、旅客運送としては欠点となる
- 迅速に積み下ろしを行うには港を用意しなければならない
- 河川のない内陸では使えない
- 陸路と比べ運航時間が気象に左右される傾向がある
- 橋や運河、海峡によっては高さや幅、深さに制約がある
- 内陸では季節により水量不足で運航できない場合がある。湖沼、外洋でも、凍結により運航できない場合がある。
- 大型船では小さなトラブルでも大惨事となり得る
- バラスト水による自然生態系への悪影響がある
小説としてはさほど面白いとは思わない。と言うか、興味を感じない部分(エロシーンやアクションシーン)はほとんど読み飛ばしたので、小説としての評価は私にはできない。まあ、ちらりと読んだだけだと、読む価値は無さそうに見えた。
「歴史考察小論」としては、かなり優れたものだと思うので、なまじ小説にしたから誰からも相手にされない作品になったのではないか。同じ小説家として、井沢元彦だけが豊田有恒の考察に言及した程度だろう。
だが、あれほど興味深い「壬申の乱」が、小説になるとこの程度にしかならない、ということが分かったのは収穫と言えば収穫である。壬申の乱の面白さは、謎の解明にあるわけだ。ならば、その謎の解明過程をこそ描くべきであり、小説部分はまったく余計ということになる。
つまり、私が壬申の乱を小説仕立てにしようが、脚本仕立てにしようが、歴史マニア以外はまったく興味を惹くこともなく、また歴史マニアであれば、そのフィクション部分には批判的な目しか向けないだろう、と予測できるわけだ。
これが、壬申の乱がこれまでほとんどフィクション界と無縁だった理由だろう。もちろん、「天皇家タブー」に触れるというのも大きい。
なお、同作品中の指摘として、「高市の皇子、大津の皇子が近江京を脱出できたのは、(大海人皇子の娘で大友皇子の妻である)十市の皇女が手引きしたからだ」というのは、言われてみればその可能性は非常に高い、と思った。また、壬申の乱の間中、十市の皇女が近江朝廷側の情報を常に大海人皇子に流していたとしたら、この乱が大海人皇子側の一方的な戦いになった理由も分かる。
作品の欠点としては、大海人皇子は忍者だったという説を根幹にして、作品全体がまるで山田風太郎か漫画の忍者物みたいになっていることだ。もちろん、大海人皇子が遁甲を学んだというのは日本書紀にも明記されているが、その遁甲を完全に「忍術」としているのはどうかと思う。
しかし、大海人皇子が中大兄皇子の影の存在として様々な暗殺に携わってきた、という説は面白い。べつに忍者だろうが無かろうが、暗殺を彼が行ってきた、というのは「剣と鏡」の大筋として使えるだろう。もちろん、大海人皇子の方が年長で、高向王(皇極女帝の先夫)の子供、という説を豊田も採っている。
(追記)下のウィキペディアの説明にあるように、遁甲は占術・呪術であり、忍術ではない、というのが一般的理解であり、私もそれに与する。
大化の改新(乙巳の変)の謎のひとつに、入鹿暗殺の場に居合わせた古人大兄皇子(だったか?)が、怯えて家に帰った後、「韓人(からひと)が入鹿殿を殺した」と言ったとかいう話がある。これは、三韓の貢とか何とかいう儀式の場で暗殺されたので、その使者に暗殺者が化けていたという説を私も採るが、「書紀」には、中大兄皇子が斬り付けたという記述もあるので、謎とされているわけだ。
「二つの顔の大王」では、中大兄皇子が韓国人(百済人)だ(詳しくは、百済の皇子)ということが周知の事実だったから、この「韓人」はまさに中大兄皇子を指すのだ、としている。
ちなみに、大海人皇子は高句麗人、ということのようだ。
「剣と鏡」については、メモは続けるつもりで、考察も続けるが、パソコンやネットが信頼できないので、ネットで書くかどうかは決めかねている。
とにかく、ウィンドウズ10(現パソコン)になってからワードの使い勝手がひどく悪くなっているのである。書き始めてだいぶたってから、いきなりネット接続が不可能になったりしたら最悪である。
まあ、そのメモを使った作品にするとしたら、メモを書くこと自体創作の一部ではある。
そして、渡来人というのは、故国で失敗した人間であるというのは、今の時代で田舎に行く都会人のほとんどが都会での失敗者であるのと同じだ。もっとも、失敗とは言っても、政治的敗北や戦乱の結果だろう。言ってみれば、「亡命者」である。
そういう人々にとっては、日本のような「ど田舎」に行くこともそこで生涯を送ることも残念無念なことだったと思うが、その反面、そこでは(文化的差異のために)最初からチートとして生き直すことができたわけで、素晴らしい運命だと見做すこともできたのだ。
小林恵子氏の「ふたつの顔の大王」は、古代の日本の大王の多くは実は朝鮮半島その他の渡来人であり、しかも故国でも日本でも王位に就いたのだ、としていて、あまりにも奇想が過ぎると思わないでもないが、日本書紀などの記述が天武以降の「皇室による荘厳化と自己正当化」の記述が相当入っているだろうという当たり前の推定を前提とすれば、実はどのような推測も可能になり、その推測の是非を決めるのは推測内容の合理性と幾つかの資料との間の整合性しかないのである。
ある研究(コンピューターシミュレーション)によれば、弥生時代から7世紀までの1000年間に渡来した帰化人の数は数十万人から百万人に達すると言う。しかも、恐らくそのかなりな割合が古代日本の「上級国民」になっただろうというのは、最初に書いた通りだ。とすれば、古代日本こそ実は「(東)アジア内グローバリズム」の時代だったのであり、くだらない日本国粋主義はせいぜいが幕末の尊皇攘夷思想あたりから始まったファナチシズムにすぎないのではないか。そもそも、現日本人のかなりな割合が帰化人の子孫であるのは明白なのである。しかもそれは上級国民ほどそうだと推定されるのだ。