連歌とは何かと言えば、要するに「洒落た会話の応酬」である。
クラブでホステスを相手に飲んでいた偉い人が
「わしゃあもう眠くなったよ。遅くなったし、帰るかな」
と言うと、そのホステスが
「夢の中で、いい人でも待ってるんでしょ」
と茶化す。
まあ、そういう応酬を歌の形でやれば、それが連歌だ。と言うより、そんなところから始まったのだろう。
小夜ふけていまは眠たくなりにけり(天暦御門)
夢に逢ふべき人や待つらん(滋野内侍)
クラブでホステスを相手に飲んでいた偉い人が
「わしゃあもう眠くなったよ。遅くなったし、帰るかな」
と言うと、そのホステスが
「夢の中で、いい人でも待ってるんでしょ」
と茶化す。
まあ、そういう応酬を歌の形でやれば、それが連歌だ。と言うより、そんなところから始まったのだろう。
小夜ふけていまは眠たくなりにけり(天暦御門)
夢に逢ふべき人や待つらん(滋野内侍)
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世阿弥「風姿花伝」の一節。(現代語訳)
「いったい、鬼の物まねは、重大な難事がある。うまくやればやるほど、面白くはないといった道理があるのだ。鬼は恐ろしいのが本質だ。恐ろしさの心と面白さの心とでは、まるっきり正反対だ。」
これはある種のホラー映画やリアリズム絵画、リアリズム芸術一般の盲点ではないか。ある物事を見事に描き出せば描き出すほど観る者は不快になるわけである。しかも、それが見事であれば、それだけで批評家たちに絶賛され、高く評価されることになるが、「面白くない」から大衆からはそっぽを向かれることになる。純文学などもそうだろう。
「いったい、鬼の物まねは、重大な難事がある。うまくやればやるほど、面白くはないといった道理があるのだ。鬼は恐ろしいのが本質だ。恐ろしさの心と面白さの心とでは、まるっきり正反対だ。」
これはある種のホラー映画やリアリズム絵画、リアリズム芸術一般の盲点ではないか。ある物事を見事に描き出せば描き出すほど観る者は不快になるわけである。しかも、それが見事であれば、それだけで批評家たちに絶賛され、高く評価されることになるが、「面白くない」から大衆からはそっぽを向かれることになる。純文学などもそうだろう。
「てには」は「てにをは」だが、古文では「語と語、分節と分節の接着剤的語」を意味したらしい。つまり、現代のように助詞だけを意味するのではなかったようだ。
たとえば、次の前句の「中々に(かえって、の意)」はそこで文が終わることはありえないので、「てには」に相当する。
「覚めやすき夢の面影中々に」
こうした前句の場合は、付け句はほとんど自動的に「随」になるしかない。それを「請けてには」と言うようだ。ただし、前句の内容を明確にし、あるいは深化させないと「二句一章」とならず、連歌の意味が無い。
この前句に対して専順という連歌師(だろうか)はこう付けた。
「仮寝くやしき小夜の山風」
「小夜」は歌語で、「夜」と同じだが、優雅な感じになる。「セレナーデ」を「小夜曲」と訳したのは名訳だろう。「仮寝」は「旅寝・野宿」の意味だと三省堂例解古語辞典にあるが、おそらく「行きずりの情事」の意味があると私は見ている。というのは、「難波江の葦のかりね(刈り根・仮寝)のひとよ(一節・一夜)ゆゑ、身を尽くしてや恋ひわたるべき」の仮寝は、明らかに男女が共寝したことを意味しているからだ。単なる旅寝や野宿ではない。
そして、この付け句の「仮寝」も、男女が行きずりの情事をしたことを意味する、あるいは含意するからこそ「夢の面影」という前句の中の肝となる語と意味がつながるのである。
なお、私が今読んでいる、そして最近書いている連歌関係の元ネタとしているのは角川書店の「鑑賞日本古典文学第24巻中世評論集」だが、その中でこの連歌の訳はこうなっている。
「覚めやすい夢に見た面影はかえって……。その仮寝の夢はまことに口惜しい気がする。小夜の山風にうちさまされて。」
意味が分かるだろうか。古語を無難な現代語に逐語的に置き換えた(あるいは古語をそのまま残して全体を現代語らしくした)だけである。私は、この訳を読んでも意味が分からなかった。まず、「さ夜」の意味が分からないし、「仮寝」の意味も分からない。そこで、辞書を引いて、「仮寝」の意味を自分で考えて解釈することで、この連歌全体の意味がおおよそ分かったというわけだ。古文を学ぶことが困難なのがよくわかる。つまり、この「中世評論集」の訳文のように説明がまったく不親切で不十分だからである。
ここで話を終わってもいいが、フェアプレーをするために、私自身の訳文を考えてみる。
「醒めやすい夢の中で見たあの人の面影はかえって」
「(いつまでもその面影を忘れたくない・見ていたかったから)旅寝を醒ましたこの夜中の山風が悔しいことだ」
たとえば、次の前句の「中々に(かえって、の意)」はそこで文が終わることはありえないので、「てには」に相当する。
「覚めやすき夢の面影中々に」
こうした前句の場合は、付け句はほとんど自動的に「随」になるしかない。それを「請けてには」と言うようだ。ただし、前句の内容を明確にし、あるいは深化させないと「二句一章」とならず、連歌の意味が無い。
この前句に対して専順という連歌師(だろうか)はこう付けた。
「仮寝くやしき小夜の山風」
「小夜」は歌語で、「夜」と同じだが、優雅な感じになる。「セレナーデ」を「小夜曲」と訳したのは名訳だろう。「仮寝」は「旅寝・野宿」の意味だと三省堂例解古語辞典にあるが、おそらく「行きずりの情事」の意味があると私は見ている。というのは、「難波江の葦のかりね(刈り根・仮寝)のひとよ(一節・一夜)ゆゑ、身を尽くしてや恋ひわたるべき」の仮寝は、明らかに男女が共寝したことを意味しているからだ。単なる旅寝や野宿ではない。
そして、この付け句の「仮寝」も、男女が行きずりの情事をしたことを意味する、あるいは含意するからこそ「夢の面影」という前句の中の肝となる語と意味がつながるのである。
なお、私が今読んでいる、そして最近書いている連歌関係の元ネタとしているのは角川書店の「鑑賞日本古典文学第24巻中世評論集」だが、その中でこの連歌の訳はこうなっている。
「覚めやすい夢に見た面影はかえって……。その仮寝の夢はまことに口惜しい気がする。小夜の山風にうちさまされて。」
意味が分かるだろうか。古語を無難な現代語に逐語的に置き換えた(あるいは古語をそのまま残して全体を現代語らしくした)だけである。私は、この訳を読んでも意味が分からなかった。まず、「さ夜」の意味が分からないし、「仮寝」の意味も分からない。そこで、辞書を引いて、「仮寝」の意味を自分で考えて解釈することで、この連歌全体の意味がおおよそ分かったというわけだ。古文を学ぶことが困難なのがよくわかる。つまり、この「中世評論集」の訳文のように説明がまったく不親切で不十分だからである。
ここで話を終わってもいいが、フェアプレーをするために、私自身の訳文を考えてみる。
「醒めやすい夢の中で見たあの人の面影はかえって」
「(いつまでもその面影を忘れたくない・見ていたかったから)旅寝を醒ましたこの夜中の山風が悔しいことだ」
連歌の付け合いの心理的流れを、分かりやすい語句の連歌で考察してみる。
「なれにし人も夢の世の中」
という七七に、どう五七五を付けるか。
これは、明らかに人事である。しかも、おそらく恋の句である。愛した人との離別後の寂しさである。人生をはかなむ気持ちである。わずか七七に「お腹いっぱい」の人事が詰め込まれている。
とすれば、ここは人事との「逆」で自然を詠み、気分をさっぱりさせると共に、しかも「別れ」とか「はかなさ」の気分は共通部分として残すことで連歌としての一貫性を出す、という方向がベストだとなる。そこで、能阿という連歌師はこう続けた。
「山桜けふの青葉をひとり見て」
「けふ(今日)の青葉」とは、桜の花が散ってだいぶ時が経ったということだ。つまり、桜の花との「別れ」、開花の時がもはや「夢」となるだけの時間経過、散った櫻花の「はかなさ」による人生のはかなさの象徴という七七との共通部分がここにはある。
この二つを続けて読むと、見事に和歌として成立している。しかも名歌と言っていい。
「山桜けふの青葉をひとり見て なれにし人も夢の世の中」
以上、宗祇の「老いのすさみ」を解説した文章を参考に私の分析を述べた。
「なれにし人も夢の世の中」
という七七に、どう五七五を付けるか。
これは、明らかに人事である。しかも、おそらく恋の句である。愛した人との離別後の寂しさである。人生をはかなむ気持ちである。わずか七七に「お腹いっぱい」の人事が詰め込まれている。
とすれば、ここは人事との「逆」で自然を詠み、気分をさっぱりさせると共に、しかも「別れ」とか「はかなさ」の気分は共通部分として残すことで連歌としての一貫性を出す、という方向がベストだとなる。そこで、能阿という連歌師はこう続けた。
「山桜けふの青葉をひとり見て」
「けふ(今日)の青葉」とは、桜の花が散ってだいぶ時が経ったということだ。つまり、桜の花との「別れ」、開花の時がもはや「夢」となるだけの時間経過、散った櫻花の「はかなさ」による人生のはかなさの象徴という七七との共通部分がここにはある。
この二つを続けて読むと、見事に和歌として成立している。しかも名歌と言っていい。
「山桜けふの青葉をひとり見て なれにし人も夢の世の中」
以上、宗祇の「老いのすさみ」を解説した文章を参考に私の分析を述べた。
連歌師の宗牧の書いた連歌論書「四道九品」の中に書かれていることらしいが、連歌の作り方をマトリックス的に説明しているのが面白い。
四道とは、「添・随・引放・逆」の付様
九品とは、「恋・花・月」という連歌の肝となる部分について「初の初・中・後」「中の初・中・後」「後の初・中・後」の場合で考えよ、ということらしい。
通常は、「初・中・後」だけを考えて自己満足するものだが、それを細分化しているのが面白い。
良く言われる「これは終わりの始まりだ」というフレーズは、案外、ここから来ているのではないか。「思い返せば、あの時が、この恋の終わりの始まりだったのである」という感じだ。
なお、「四道」も、発想法として考えると連歌以外にも利用できるだろう。
添:ある事柄を考えたら、それと並列して描くと効果的なものを考えてみる。
随:ある事柄を考えたら、その結果として生じる事柄を考えてみる。
引放:当面の事柄から想念を引き放って展開してみる。
逆:当面の事柄の反対事象や反対事件を考えてみる。
四道とは、「添・随・引放・逆」の付様
九品とは、「恋・花・月」という連歌の肝となる部分について「初の初・中・後」「中の初・中・後」「後の初・中・後」の場合で考えよ、ということらしい。
通常は、「初・中・後」だけを考えて自己満足するものだが、それを細分化しているのが面白い。
良く言われる「これは終わりの始まりだ」というフレーズは、案外、ここから来ているのではないか。「思い返せば、あの時が、この恋の終わりの始まりだったのである」という感じだ。
なお、「四道」も、発想法として考えると連歌以外にも利用できるだろう。
添:ある事柄を考えたら、それと並列して描くと効果的なものを考えてみる。
随:ある事柄を考えたら、その結果として生じる事柄を考えてみる。
引放:当面の事柄から想念を引き放って展開してみる。
逆:当面の事柄の反対事象や反対事件を考えてみる。
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冬山想南
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