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最近、論語に興味があるので、それを読みながら、思い浮かんだことや考えたことをメモ的に書いていく。(念のために言えば「思い浮かぶ」と「考える」は別の思考である。「思い浮かぶ」は記憶の単なる想起であり、「考える」は「考察」であり、思考の深化だ。)

なお、参考資料として金谷治訳注の「論語」(岩波文庫)と、宮崎市定の「論語」(岩波現代文庫)を主に使用し、漢字は明治書院の「新釈漢和(新修版)」で調べるが、私自身の解釈をいきなり書くことも多いかと思う。何しろ、「論語」は紀元前の書であり、当時の漢字の意味が後世では分からないことも多いのである。つまり、漢和辞典にある説明が正しいとは限らないのであり、肝心なのはその解釈が合理性があるかどうかだ。

第一回は、「里仁第四」の「君子の天下におけるや適もなく、莫もなし」の解釈だ。

全体は「子の曰く、君子の天下に於けるや適も無く、莫も無し。義にこれ与(とも)に比(した)しむ」という文で、書き下しは金谷による。
なお、宮崎による書き下しは「君子の天下におけるや、適なきなり、莫なきなり、義をこれ与(とも)に比す」である。

今回は漢文そのものも書くが、面倒なので、これ以降は漢文は省略することが多くなると思う。

子曰 君子之於天下也 無適也 無莫也 義之興比

というのが、一応見やすく分かち書きした漢文原文である。
訳は、金谷のものが

先生がいわれた、「君子が天下のことに対するには、さからうこともなければ、愛着することもない。(主観を去って)ただ正義に親しんでいく」

宮崎の訳が

子曰く、諸君は天下に立って、古語にあるように、平平淡淡、ただ正義に味方する、という風にやってくれ。

で、見てのとおり、まったく異なっている。
宮崎の訳は全体に強引で「古語にあるように」の古語を明示せずに「無適以下は何か古語の引用かと思われる」という感じで、勝手な訳をすることがある。
金谷のものは、従来の説の中で妥当と金谷が思うものを選択したもののようだ。
しかし、それが本当に正しいか、というと、そうとも限らないだろう。
「無適也 無莫也」の訳(さからうこともなければ、愛着することもない)を不自然に思うのは私だけではないと思う。その後のカッコの中の(主観を去って)も、どれほどの意義がこの文章に関してあるのかどうか疑問なところだ。

ということで、ここから私の解釈になる。

「適」は「適合」の意味だ、というのがまず私の解釈である。
そして「莫」は「漠」と同じで、「ぼんやりしていること」だ、というのが私の解釈である。

問題は「適合」が何への適合かということだが、ここで「論語」の中でも有名な「君子は器ならず」を想起すればよい。つまり、君子というのは、何か特定目的や特定用途にだけしか使えない人材であってはならない、ということだ。
だから、君子は何かの用途に単に適合するだけではダメだ、ということである。
そういう人物を使えるのは王侯の見る目次第だから、なかなか取り立てられない。そこで漫然と時を過ごしてはならない、刻苦勉励せよ、というのが、「ぼんやりしてばかりでもいけない」つまり「漠(莫)なきなり」である。
その勉励の内容が、「学問仲間とともに義を考究する」ことなのである。

というわけだが、全体の訳は「君子は天下において、適材適所という単なる「器」では困るが、また用いられないからといってぼんやりしていては困る。常に義を考究しなさい」となる。これで「君子は器ならず」とも一貫性が生まれるわけである。
ついでだが、「比す」は「比較検討する」意味だと解釈している。

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私は天皇肯定論者なのだが、要は日本文化と伝統の象徴としての天皇の存在を貴重だとする思想であり、また日本国憲法肯定者として、憲法の規定する「国民統合の象徴としての天皇」を尊重する意味での天皇肯定論者である。
そして、ネットで見る「天皇否定論」の根拠がどうもよく分からないので、その分析と考察をしてみる。ただし、メモ的なものだ。詳しい考察は後に回すつもりである。

最初に、私が考える「天皇否定論」の根拠を箇条書きにしてみる。もちろん、見落としもあるだろう。その中で私が重要と考えるのは「感情的に天皇の存在が許せない」というものだが、「感情論だからダメ」とは決めつけるつもりはない。ある意味では論理よりも強いのが感情だろう。ただ、とりあえず、ここでは「天皇否定論」と「天皇肯定論」を両方並べて、どちらがより合理的か、あるいは正当性があるかの比較をしてみるつもりだ。

Ⅰ 天皇否定論

1:日本国憲法は国民の平等を謳っており、天皇を国民の上位に置くのは許せない。
2:日本は「民主主義国家」であり、本来は君主的存在だった天皇は不要である。
3:天皇を「国民統合の象徴」とする意義はない。
4:天皇やその親族にかかる財政負担が無駄である。
5:昭和天皇のために死んだ無数の国民の死の責任が昭和天皇にあり、その子孫である天皇家自体、否定されるべきである。
6:天皇が神道連盟などの宗教に利用される可能性が大きい。
7:右翼が天皇を担ぎ上げて、日本を全体主義国家にする可能性がある。
8:天皇が存在しなくても、日本国民は何ひとつ困らない。
9:その他

Ⅱ 天皇肯定論(それぞれ「否定論」の否定であるが数字は対応していない。)

1:日本の歴史は天皇が大きな要素であり、天皇は日本文化の伝統であり象徴である。
2:現在の天皇は単なる象徴であり、日本国民の上位にあるわけではない。
3:憲法は天皇の政治関与を禁じており、民主主義と矛盾する存在ではない。
4:天皇に関係する予算は外交儀礼上必要だが、不満なら削減すればいい。
5:祖先の罪は子孫に関係しない。
6:神社等との関係が大きな問題になった事例は敗戦後は存在しない。
7:天皇が「象徴天皇」である限り、政治利用は不可能である。
8:天皇がいなくなれば、他国との違いが無くなり、「日本人」は過去と断絶する。
9:その他
漢文を読む時に危険なことは、漢字一文字を、それを使った熟語から判断することである。
宮崎市定は東洋史学では優秀な学者だと思うが、彼が訳した「論語」の中にはかなり独断的で首をひねる解釈が多い。
たとえば、「因」を「因循」としている類だ。「因循」の中心語は「循」であり、これは「循環」が「回る」意味であり、堂々巡りであることを考えれば、「因循」とは「原因となる何かが繰り返される状態」であり、ポイントは「循」の字にあることが分かる。つまり、「因」だけでは「因循」の意味にはなりようがないのである。一回きりの現象にも「原因」はあるだろうが、それが繰り返しにならないと「因循」にはならないのである。つまり、「因循」の中心語は「循」であり、「因」一字では「因循」の意味とすることは不可能である。

「君子不器」を「君子は器械であっては困る」と訳したのも同様であり、孔子の時代に「器械(機械)」など存在しない。器は器(うつわ)以外の何物でもない。要するに、何かひとつの用途にしか使えない人間、あるいは容量の決まっている人間ではいけない、ということだろう。

魅力のある女性の形容として「素もって絢(あや)となす」の「素」を「白粉(おしろい)」とするのもおそらく間違い。「素顔のままで絢爛たる美しさがある」ということだろう。

まあ、文学的センスの無さの故かと思う。
私の別ブログに載せた格闘技関係記事だが、我ながら素晴らしい内容なので転載する。4が複雑すぎるが、私の補足だけで十分だろう。



(以下自己引用)


私の別ブログより転記および追記。趣味で書くかもしれない小説や脚本の小ネタ用に保存。

「ミックマック」と言われる、米海軍格闘術についてのメモ。(「ミックマク」「ミックマップ」かもしれない。)*一部は私が勝手に解釈と追加。

1)銃剣術:銃床で払い(殴り)、銃剣(ナイフ)で切り、刺す。刺す箇所は顔。5センチも刺せば脳に達し、死ぬ。
2)裸締め:肘が相手の顎の位置に来るようにする。つまり、前腕と上腕が相手の頸動脈を挟む。両手を組んで締める。5秒くらい軽く締めるだけで失神する。(気管を締めて窒息させるには10秒以上かかるので、頸動脈を締めるほうが合理的。殺したくない場合も頸動脈がいい。)
3)足払い:相手が回し蹴りに来たときにもっとも有効。相手が蹴りを放つ瞬間に、前進して組み付き、相手の上体を押しながら、相手の軸足を刈る。つまり、相手の軸足は前に回転し、相手の上体は後ろに回転するという、回転の相乗作用が起こる。相手の後頭部は地面に激突するので、練習はクッション性のある床やゴム片などを敷き詰めた上でないと不可。
4)後ろから組みつかれた時の対応:ひじ打ちを右、左と、後ろの相手に放ち、相手を動揺させる。上体を前にかがめ、相手の足を自分の股間から取りつつ前に回転する。回転後は、自分の下半身が相手の下半身に密着し、自分の腕は相手の足を取っているようにする。相手の左足を自分の両足で制御しながら、相手の右足を自分の両腕で逆関節方向に引き、股裂きの形にする。強く引けば、相手の膝関節を破壊できる。(単純に、腰を落として前転するだけで、不利な状況からの脱出が可能だと私は思うし、その後の「股裂き」姿勢にもっていくにはかなりの修練が必要だろう。また、後ろの相手の顔面への頭突きなども有効ではないか?)
5)武器が無い時は、近くにあるものを何でも武器にする。:石、砂(目つぶし)、枝、etc(割り箸のような小枝でも、鼻や、顎の下から脳に突き刺せば相手を殺せる。)
6)常に、最悪の条件での戦いを想定して練習する。
7)戦いの際の移動の歩幅は小さく。:実戦では、倒れたら終わりである場合が多い。
この結果を見れば、学年による成績の差は歴然としており、言い換えれば、早生まれの子は実際上1学年上の児童とハンデ無しで競争させられ、衆目の前で屈辱を受けるわけである。それが生涯のコンプレックスや人格形成の要因になることも多いだろう。
運動会への強制参加がいかに非人道的か分かる。
勉強の場合には、それほど年齢による差は無い。特定知識の習得経験があるか無いかの差だけである。それにおいても、屈辱経験は、人格をかなりゆがめると思う。
学校教育に、はたして「競争」や「成績公表」は、本当に必要なのだろうか。


(以下引用)



新体力テスト全国平均値

新体力テストの結果は、順番をつけるものではありませんが、同級生の平均値と比べてみることも、自分の体力・運動能力を知るうえでの参考となります。

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