汝や知るみやこは野辺の夕ひばり。東西陣営、千日手。伝説の足軽も登場。スーパーいい話の、駿河のお屋形さまはスーパーいい人・・・なだけでもなさそうで、なかなかしたたかな側面も。伊都さまそろそろ覚悟を決めるか?新九郎の身の周りがいろいろ動き始めそう。
毎月27日が楽しみです。 #新九郎奔る
いつも行く食堂でウェイトレスのお姉ちゃんがこっそり料理にサービスをしてくれたのだが、かえってその後、その食堂に行きにくい気持ちになったのである。
つまり、「また行く」→「またサービスを期待して来たな?」と思われるのではないか、と思ってしまうわけだ。今なら、他人が心の中でどう思おうが構わない、(自分にはどうしようもないことを悩んでも無駄)と思えるのだが、若いころは自意識が服を着て歩いているようなものだから、他人の心の中が気になって仕方がないのである。
なお、若いころの私は芸能人にも負けないくらいな美男子だったから(www)、そのお姉ちゃんはただ素直に私への好意を見せたのだろう。その後私がその食堂に行かなくなって彼女ががっかりしたのなら済まないことをしたと思っている。
(以下引用)
人に親切にされるとその人と関わりたくなくなるんだけど同じような人いる?
気を使われるのが申し訳ないんや
一つは、「キャラクターを考える時、自分の好み以外の要素をあえて入れる」であり、これは創作方法のひとつの極意かもしれない。
もう一つは、北崎氏はバストの大きい女性が好みではないが、「世の男性はバストの大きい女性が好きかもしれない」と考えて研究した、ということで、胸の大きい女性を「世間がもてはやす」のは実はマスコミによる洗脳である可能性が高いということだ。私自身、漫画やグラビアなどの巨乳はグロテスクだとしか思わない。
どんな貧乳でも、赤ちゃんを産めば、授乳に必要な程度の大きさにはなるwww
同様に、普通の女性はべつに巨チンが好きだとは思わないのだが、これはどうなのだろうか。私は女性ではないので分からない。それほど巨根がいいなら、女性にとって出産は最大の快楽だろうwww
(以下引用)
麻生さんの胸のお話
あれはですね、自分の描いたヒロインを愚弄するために書いたコメントでもなんでもないんです。
キャラクターを考える時に一つ「作者の好み」以外の要素をあえて書き込んでおく。
すると最初は自分の妄想から生み出されたキャラクターにもかかわらず、「この女の子はなんでこうなんだろう?」みたいな興味がわくんです。愛着がでてくる。
「もっと深く知りたい。」みたいな。
…いや、「だらしない●●」が「作者の好み以外の要素」なのか?と問われると自信はないですが(笑)
単行本3巻巻末の「クピドの裏側」でもちらと描きましたが、個人的には巨乳スキーなわけでは(もともとは)ありませんでした。
10代の頃、「世の男性読者はバストが大きい女性の方が好きなんじゃあるまいか」と思い立ち、一所懸命(写真集等を見ながら)研究した記憶があります。
いわば思春期の性的嗜好を、作品のためにむりやり改変するという、一歩間違えれば危険なことになりかねない荒療治…病気ではないので療治ではないですが(笑)…の結果、今ではすっかりどっちのバストも美しいと思うしだいでございます。
そんなわけで麻生さんのバスト、描いていて楽しいですよ(笑)
なお、「両面と(麻雀の)リャンメン」は意味が違う、という指摘は、言われてみればそうだな、と思うが、同じであるような気もする。「どちら側からでもOK」という機能からすれば同じだ、と言っていいのではないか。
引用元:http://viper.2ch.sc/test/read.cgi/news4vip/1545960704
全くゆとりは
ベーター→エレベーター
テンパった
○、×でマンガンだわ
とかは通じるのにな
そんな事を書いてた時代なんか無いぞ
ゆりちゃん可愛い
頼むから止めて
「安牌を切る」まででひとつの意味なのに安牌だけで使うやつ多すぎてモヤッとする
何言ってんだ?切ろうが切るまいが安牌なわけだが
中途半端な知識で突っ込むなよ
でも麻雀でも「現物だし安パイ」とか言うから別に間違いじゃなくね?決まった熟語にするような単語じゃないような
麻雀やってるやつはわかって使ってるけど、安牌って言葉だけが独り歩きして語源も知らず使ってるやつが多い
「あなた安牌しか踏まないねぇ」とか言われたときはイラッとした
百歩譲って言うのは良いとしても伝わらなくて切れるのは筋違いだよな
しらなかったのかw
通じなきゃ何の意味もない
リャンメン、安パイは微妙
他は通じない
俺の感覚だと中国語の方だわreachはボクシングで「リーチが長い」みたいな使い方しかしてない気が
reach → 立直 だよ、麻雀がアメリカに渡ってから生まれた言葉だから立派な麻雀用語
パチンコやビンゴの所謂リーチも全部そこ発祥
ちなみにリューイーソーとチートイツもアメリカ生まれ
“リーチの語源は英語のreach”というのは、ずーっと昔、どこかのプロが思いつきで書いたヨタです。こういう人にかかると、日本語の「スルっと」、あるいは「すり抜ける」の語源は英語のThrough(スルー)だと云いかねません。
出典http://www9.plala.or.jp/majan/yogo07.html
まず立直は中国語発音でリーチなんて読めないし、そして中国語でこんな単語は存在しないし元々立直という役も存在しない
俺は英語が語源のどっかに関わってると思ってる
オールグリーン、セブンペアーズと同時期に生まれた役という説を覆す証拠になりそうなものを図書館で捜したけど俺にはみつけられなかった
私は、ここに書かれている「三つの理由」にまったく納得できなかったのだが、他の人は納得するのだろうか。
経済学で数学が必要になるのは要するに経済学者などになるために学位論文を書く時に数学を使っていないと認められないから、それだけではないか。要するに、一般の学生には不要だろう。たとえば、統計を理解するなど、中学レベルの数学で十分ではないか。あるいは保険や金融に数式が出てきても、それは格好つけでしかなく、顧客を騙せれば十分なのではないかwww
経済学とは要するに大きな国家経済を考察するものであって、国家経済に数学は必要ない、と私は思っている。数学が論理的だ、というのも「数学という枠の中」での話であって、生きた社会は論理では動かない。むしろ「群集心理」で動くものである。
(以下引用)
経済学部教員コラム vol.44
2014.07.21 経済学科 細矢 祐誉
「なぜ経済学は数学を使うのか?」
経済数学担当の細矢です。はじめまして。
さて、このコラムを読んでいる学生の中には、経済学でなぜ数学を使わなければならないのか、ということにぴんと来ていないひとも多いことでしょう。このコラムでは、経済学でどうして数学を使うのか、という問いに対して、簡単に答えてみようと思います。
まず第一に、これは経済学だけではなく経営学だろうと政治学だろうとなんでもそうなのですが、「統計」を使う学問はすべて、統計学のお世話にならなければなりません。そして、勉強してみればすぐわかるのですが、統計学は数学理論の塊です。なので、きちんと統計を理解するために数学が必要です。
第二に、これも経営学などと共通するところですが、いわゆる金勘定が出てくるところに計算は不可避である、という事情があります。かけ算だって立派な数学です。ましてや、金利などが複雑に絡んでくる財政や金融などを理解するためには、かなり高等な知識がどうしても必要になります。
第三に、これは経済学特有の事情ですが、経済学は元々、政府の立場に立って「どのように経済を運営していくか」を考える学問であります(会社の立場に立って運営の仕方を研究する経営学とは、ここが違う点です)。つまり、経済学とは経済という巨大システムをうまくデザインするための学問なのです。そして多くの人間が関わる複雑怪奇なシステムである「経済」をきっちりデザインするためには、数学的思考がなければ不可能です。
最後に、これが実は本質的に最も重要なのですが、数学は「公平」だという事実があります。たとえば、経済や社会について「学生」と「教授」が論戦になった場合、たとえ「学生」のほうが実は正しいことを言っていたとしても、周りで聞いている人々はどうしても「教授」のほうが正しいと思い込んでしまいがちです。これは「教授」という肩書きの持つ権威がそうさせるわけですが、数式が正しいか間違っているかという問題には、この肩書きが通用しません。なぜなら、数式の正否というのはただの客観的事実であり、訓練さえすれば誰でもチェックできるし誰でも検算できるからです。ですから、正しい指摘でさえあれば、「学生」が「教授」に勝つこともできる――この公平性が支持されたが故に、いまの経済学は数学を多く使うようになったのです。
そんなわけで、経済数学はこのようにして経済学で使われる数学について、その重要なところをなるべくごまかしのない形で教えることを目標とする授業です。気になった学生は、ぜひぜひ受講してみてください。
(経済学科 細矢 祐誉)
いや、係助詞としての「や」は文末ではなく文中に置くのだが、終助詞としては文末に置くわけで、係助詞というのはもともと終助詞だったのが強調のために文中に置かれた、一種の倒置法だというのが大野晋の説である。
この和歌の場合は、通常の終助詞だった気がする。「汝や知る」では、「や」による強調があるために、逆にそこで文が完全に終わってしまい、「お前は知っているか? いや、知らないだろう」という反語的なニュアンスまで出てきてしまう気がする。つまり、余韻が無くなるのである。終助詞の方がまだ後に続く感じがする、というのもおかしいが、要するに、話が「お前は知っているか?」と来たら「えっ、何を?」と続くということである。
「汝知るや、都は野辺の夕ひばり。上がるを見ても落つる涙は……」
なお、「都は」の、この「は」の使い方を、「は」は主語を表わすものではなく、「話題(話題の中に大小がある場合はその大きいもの)」を示すものだ、という例にするといいと思う。つまり、「都」と「野辺」と「夕ひばり」という話題の中の三つの要素のうち最大の「都」を先に提示して、そこから、「野辺」「夕ひばり」と視点を絞っていくわけだ。
こういう「絞り込み」(逆に、小さいものが段々とクローズアップされていく、と言ってもいい)は日本語の話法の特質の一つだと思う。あるいは、日本人の発想法のひとつとも言える。たとえば、地名を表わすのに「日本国東京都千代田区何丁目何番地」と書くようなものだ。
(追記)今調べたら、「汝や知る」が元歌らしい。つまり、私の間違いだが、ここはあえて「汝知るや」の方が歌としてはいい、と強弁しておくwww
落つる涙は
飯尾彦六左衛門尉
(なれやしる みやこはのべの ゆうひばり あがるを
みても おつるなみだは)
意味・・この京都は大乱で全く焼け野原になってしまい、
そこから夕ひばりは空へさえずって上がって行く
が、それを見ても落ちる私の涙を、夕ひばりよ、
お前は知っているか。
応仁の乱は、京都で、1467年から1477年まで10
年余り続き、邸宅・町屋・名所古跡はあらかた灰
になってしまった。それを見て嘆いた歌です。
注・・汝や知る=「や」は疑問の係助詞。
落つる涙は=「は」は叙述を強める助詞。
作者・・飯尾彦六左衛門尉=いいおひころくざえもんの