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漫画史上の評価では圧倒的に石森章太郎が上だが、写実的な画力という点では、自分の漫画の絵のテイストが写実に近い(顔は漫画だが、それ以外はリアルな)望月三起也のほうが上手いのではないかと予想するが、下の絵が、どちらがどちらのものかは不明。私の勘では、下手な方(向かって左、上半身全体の絵)が石森章太郎ではないかと思う。


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石森章太郎と望月三起也が描いたオードリー・ヘップバーン。



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「町山智弘アメリカ日記」から転載。
「アレックスの凶悪さを徹底的に描かなかった場合、彼から意志の自由を奪った政府がより凶悪な存在であることに観客は『あまりに容易に』同意するだろう」つまり、善人の意志の自由を奪う政府は凶悪だ、と観客は考えるが、その対象がアレックスのような掛け値なしの悪党だと、「この政府は正しいのではないか」と悩むことになる、その逡巡こそが自由意志の問題を考える上で大事だ、ということだろう。
なお、厳密には、「何かを考える」のが「意思」で、「何かを目指すこと」が「意志」かと思うが、それを明確に使い分けている人はいないと思う。
アレックスの場合には思考能力は残っているから「意思」はあるが、ある種の物事(悪と見なされること)を考えるとひどい苦痛に見舞われることになる。つまり、「意志」が疎外されるわけだ。こうした状態が「時計仕掛けのオレンジ」にたとえられるわけである。





2014-06-03 「時計じかけのオレンジ」と自由意志Add Startetu-oDoraneko1986Doraneko1986

f:id:TomoMachi:20140607014214p:image:w360:left

1971年、『サタデー・レビュー』掲載のスタンリー・キューブリックのインタビュー

ペネロープ・ヒューストン アンソニー・バージェスの原作(『時計じかけのオレンジ』)は1962年に出版された時に読みました?

キューブリック 最初に読んだのは2年半前だ。テリー・サザーンからもらったんだ。『2001年宇宙の旅』の撮影中に。私はあまり時間がなくて、本棚の山ほどある読まなきゃならない本の中に突っ込みっぱなしだった。ある晩、私は本棚の前を通って、そのペイパーバックが根気よく本棚に残ってるのを見て、手に取った。そのままいっきに読み終わってしまった。第一章を読んだだけで、素晴らしい映画になるのは明らかだった。

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ミッシェル・シマンによるスタンリー・キューブリックのインタビュー

http://www.visual-memory.co.uk/amk/doc/interview.aco.html

ミッシェル・シマン 『時計じかけのオレンジ』については沢山の違う解釈がなされてきましたが、監督ご自身はあの映画をどうご覧になりますか?

キューブリック この映画の中心にあるのは自由意志についての問いに他ならない。善悪を自分で選ぶことができなければ人間性は失われてしまうのでは? タイトルが示すように時計じかけのオレンジになってしまうのでは?

Michel Ciment: Since so many different interpretations have been offered about A Clockwork Orange, how do you see your own film?

Stanley Kubrick: The central idea of the film has to do with the question of free-will. Do we lose our humanity if we are deprived of the choice between good and evil? Do we become, as the title suggests, A Clockwork Orange?

アレックスの社会に対する暴力的が決して赦されないものに見えることは大切だ。だからこそ、彼が国家によって害のないゾンビにされた時、観客は善悪の相対性について意味深い結論に達することができる。もし、アレックスが乱暴で非情な悪党に見えなければ、彼から善悪を選ぶ自由を奪った国家権力はより凶悪だということに観客は簡単に同意するだろう。しかし、たとえどんなに赦しがたく邪悪な犯罪者でも植物のようにしてしまうのはやはり間違っていると明確しなければならない。そうでなければ、昔のハリウッド製のリンチ反対西部劇と同じ論理の罠に落ちてしまう。その手の映画では、無実の者がリンチされることで、テーマを無意味にしている。無実の者をリンチすることに賛同する人がいるはずがない。しかし、たとえ有罪の者、ひどい犯罪を犯した者であってもリンチすべきでないという意見に彼らは賛成するだろうか? 

It is absolutely essential that Alex is seen to be guilty of a terrible violence against society, so that when he is eventually transformed by the State into a harmless zombie you can reach a meaningful conclusion about the relative rights and wrongs. If we did not see Alex first as a brutal and merciless thug it would be too easy to agree that the State is involved in a worse evil in depriving him of his freedom to choose between good and evil. It must be clear that it is wrong to turn even unforgivably vicious criminals into vegetables, otherwise the story would fall into the same logical trap as did the old, anti-lynching Hollywood westerns which always nullified their theme by lynching an innocent person. Of course no one will disagree that you shouldn't lynch an innocent person -- but will they agree that it's just as bad to lynch a guilty person, perhaps even someone guilty of a horrible crime?




こういう現象は漫画に特有かもしれない。小説などだと、そういう脱線自体が作品としての破綻だと、批評家や真面目な小説愛好家に批判されるからやりにくいだろう。
ところが、英国の小説にはしばしばそういう脱線があり、スターンだったと思うが、脱線こそ小説の太陽である、という趣旨のことを言っていたと思う。フィールディングなども、その種の脱線が多く、「小説とはどんな書き方をしてもいいのだ」ということを後世の人々に教えてくれている。



漫画家がコマの端にちらっと描いたギャグや軽い遊びの絵が世間の、ごく少数ではあるけど誰かの琴線に触れ、一生反芻できるほど深く記憶される現象が好き。表には出ないけど読者の中でその他愛ないものがずっと生き続けるの。普段忘れてるけど時々思い出すの。何十年も。作者の死後も。冥利に尽きる。

































トラックや船の横に書かれた「横書き日本語」がしばしば欧米式の左から右に読む方式ではなく右から左に読む方式であるのは、「動く方向の先から後ろに読んでいく」意味だと思っていたが、上記の絵ハガキが本物なら、「四高」とか「記念」などの書き方を見ると、昔の「横書き日本語」は右から左に読むのが普通だったのかもしれない。そもそも、縦書きは右から左に読むのだから、横書きもそうして当たり前、という考えだったのではないか。つまり、欧米式に慣れた現代人だから、横書き日本語も左から右に読む習慣になっただけかもしれない。もっとも、上の絵ハガキも、右から左に読む方式も併存しており、「どちらでもいい」というルーズなものだったのかもしれない。























この編集者が、それまで漫画家志望者に有効な「キャラを立てる方法」を提示できなかったくせに、「キャラを立てろ」と言ってきたなら、かなり無能な編集者だろう。「ひとつの逸話は百の設定に勝る」も、特に根拠のある言葉ではなく、当人の主観であり、その方が「編集者として楽」というだけのことではないか。
なお、「キャラを立てろ」はおそらく小池一夫が最初に言いだしたことだと思う。劇画村塾で漫画家志望者にそうアドバイスをしていたようだ。だが、小池自身が提示した「キャラの立て方」はかなり癖が強く、下品な印象であり、私は好きではなかった。確かに、「強烈なもの」は印象が強いが、下品になる、というのは何事にも言えることである。
漫画においてキャラを立てようと思うのなら、何よりも独自の絵の個性があることだろう。たとえば諸星大二郎は、その絵だけで諸星大二郎の作品だと分かる。そうすれば、人物のキャラ立ちなど問題ではなくなるのである。ファンは諸星の世界に浸りたいだけなのだから。ちなみに、私は諸星のファンではない。キャラ立ちというか、絵の個性から言えば、日野日出志(字はこうだったか)なども強烈な個性だが、私はこちらも好きではない。
藤子不二夫の絵など、穏やかそのものだが、誰が見ても藤子不二雄作品だと分かる絵である。
絵の個性というのは、いわば「作者自身がキャラ立ちしている」ということだ。ファンは漫画家としてのその個性を愛するのである。(その個性が現実の作者の個性であるかどうかは関係は無い。もちろん、内奥ーー思想や性癖や気質ーーが近いからこそ作品からにじみ出るのである。)




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①キャラを立てようという話をすると、決まってツンデレだとか、悲惨な過去のトラウマがあるとか、特殊能力とかの設定を並べ立ててくる問題。どうしたもんかと思っていたのですが、なんとなく解決策が見えてきました。

「設定ではなく逸話を出せ。一つの逸話は百の設定に勝る」

です。




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