(以下引用)
福音主義(ふくいんしゅぎ、英語: Evangelicalism)とは、キリスト教の教派・神学分類の用語である。
福音主義・福音派[編集]
宗教改革当時[編集]
元来、キリスト教において宗教改革の立場を採る考え方を福音主義と呼んだ。21世紀初頭を代表する英国聖公会の福音派神学者であるアリスター・マクグラスによると「『福音的(Evangelical)』と言う言葉は16世紀に遡り、カトリックの思想家の中で、信仰や実践について、中世後期の教会と結びついたものよりも、より聖書的なものに立ち返ろうとした人々」のことを指して、他のカトリックから区別したとされる。プロテスタントが「福音主義・福音派」と呼ばれたのは、このように教会における権威の所在を「聖書のみ」とし、神のことばに求めたからであった。
近年の用法[編集]
マクグラス他によれば「福音派」は、今日では大きな4つの前提を中心としているとされる。
- 聖書の権威と十分性
- 十字架上のキリストの死による贖いの独自性
- 個人的回心の必要性
- 福音伝道の必要性・正当性・緊急性
マクグラスは「他のすべての事柄はアディアフォラ、つまり『無関心な事柄』とみなされる傾向がある」としている。すなわち、上記4点以外については多様な見解・立場を受け入れるのである[1]。
(以下引用)
グーツヘルシャフト
ぐーつへるしゃふと
Gutsherrschaftドイツ語
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例
さて、本題のほうだが、世の中の人間の半分はIQが50以下(笑)という事実が厳然としてあり、その下の部分の人間は、おそらく漫画すら真に理解する能力が無く、本を読む力はもちろん無い。テレビを見ていても、その「読解力(理解力)」は、送り手が意図したものとかなりかけ離れていると思われる。
つまり、山本氏が思う、「後で仲直りするための喧嘩」の類は、大方の非知的な視聴者にはそれほど先読みされていないわけだから、後で仲直りしたら喜んで、「イイ話ダナア」となるのであり、そういう話を書けないクリエイターは「マイナークリエイター」になるのだと思われる。
要するに、クリエイターは、同じクリエイターレベルの知能を消費者に期待してはいけない、ということだ。優れた創作物が同時代人に正当に批評されることはむしろ例外的だと思うのが正しいと私は思っている。優れた作品は、一部の「知的な消費者や批評者」が正当に批評し、それがやがて大きな力となって一般消費者にもその価値が知られるのがふつうだろう。
それは漫画の神様の手塚治虫ですら例外ではなく、一時期は、子供にあまり人気が無くて評価が下がっていたのだが、だんだんと大人層の評価が上がることで作家生命を維持したのである。つまり、手塚が出てきた時には彼に比肩する漫画家がいなかったが、手塚を模倣した漫画が世にあふれ出すと、子供の目には手塚とそのエピゴーネンの違いが分からず、手塚を特に評価しなくなったわけだ。これは手塚のせいではなく、「批評家としての子供」の側の問題だ。子供には「ウンコだシッコだパンツだ」という漫画のほうが「面白かった」だけにすぎない。
- 山本貴嗣 @atsuji_yamamoto 9時間9時間前
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自分はもうスレてるというか「あとで仲直りするための喧嘩とかよせよ」とか思うんですが(そんなこと言ってるからマイナーなのかもですが)、最後に和解するためにいがみあう親子とか、映画でもドラマでも見てると茶番みたいで辛いんですよね。いいから最初から仲良くしててくれw
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山本貴嗣さんがリツイート
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昨日TVで『キング・オブ・デストロイヤー/コナンPART2』やってたのをチラッと観た。怪物がシュワを投げ飛ばした後の身のこなし方がどうもプロレスラーっぽい動きで、調べてみたら中の人はアンドレ・ザ・ジャイアントだった。なるほど。pic.twitter.com/QtyuNwobyV
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続き)そういうこと全然わかんなくて「なんてひどいやつだ許せん!」とか「この作者はこんなことを思ってるのか許せん」とか誤解し怒り始める人いますけど、ふつうの人ってそういうベタな演出見た瞬間にわかる、とかいう感覚ないんですかね。それとも創作を生業にしてる人間の特殊技能なんでしょうか;
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ドラマとかであからさまにひどいことを言うひどいキャラとか出てくるじゃないですか。創作者としては「あーわかったわかった、ここから始めといて後でひどい目に遭うとか、自分の愚かさに気づいて大改心するとかのタメのひどさね。またこの手かよ、見飽きたよその演出」とかいうポジションなのに(続く
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山上たつひこの自伝的エッセイの一部で、「自分の武器」を手に入れていない時代の創作者の創作の状態がどんなものかよく分かる。満蒙開拓団の青年を主人公にしただけでも、「光る風」を後に描いた人間の志向性が分かる。本質的に真面目な性格だからこそ、「がきデカ」のギャグも生まれたのではないか。その真面目さ(あるいは人生の悲惨や不条理)への疑いを持つ時にその落差から笑いへの切り口が生まれる。
赤字にした部分は創作初心者へのアドバイスになりそうだ。
(以下引用)
「国境ブルース」は満蒙(まんもう)開拓団の日本人青年とロシア娘の愛と別れを描いた物語である。
「愛と別れ」とはミもフタもないけれど、この作品についてはそれ以外の言い回しを探す気力が湧かない。
ぼくは旧満州を舞台に、映画「ドクトル・ジバゴ」の向こうをはって一大抒情詩を謳い上げるつもりであったようだ。むろん、抒情詩にも何にもならなかった。主題を曖昧(あいまい)においたまま描き始めたため、焦点が所在不明のぼやけた戦争ドラマになってしまった。時代考証は御座成(おざな)りで、登場人物の性格づけや相関関係もありきたりだった。そして絵──、ぼくのペン先からおずおずと現れる描線ときたら誰かの借り物のようだった。これは「神代の国にて」においても同じことが言える。ぼくの肉体から精神が離脱して抜け殻になったぼくの姿を見ている。抜け殻のぼくは漫画を描いている。
「心ここにあらず」ではない。文字通り心は抜け出して空っぽなのである。浮遊する存在であるぼくは筋肉の記憶だけでペンを蠢かせる漫画家を(こいつはどこへ行き着くつもりなのだろう)とハラハラしながら眺めている。
ギャグという手法を手中にするまでのぼくはおおむねこんな精神状態で仕事をしていたように思う。
1689年にネルチンスク条約が締結され、国際的にも満洲全域が正式に清朝の国土と定められた。その後、清朝はロシアの脅威に対抗するため、兵士を駐屯させる。しかし王朝末期に弱体化した清朝はロシアの進出を抑えきれず、1858年5月28日のアイグン条約、1860年11月14日の北京条約の2つの不平等条約によって、満洲地域の黒竜江以北及びウスリー川以東のいわゆる外満洲地域はロシアに割譲されることとなった。そして1860年には政策を転換して、漢族の移住を認め、農地開発を進めて、次第に荒野を農地に変化させた。この民族移動のことを「闖関東」という。1900年にはロシア軍によってブラゴヴェシチェンスクで清国人数千人が虐殺されるアムール川事件が起きる。
1904年から勃発した日露戦争は日本の勝利に終わり、上記の条約によって確保されていたロマノフ王朝の満洲における鉄道・鉱山開発を始めとする権益の内、南満洲に属するものは日本へ引き渡された。弱体化した清朝は1911年の辛亥革命で倒された。翌年成立した中華民国は清朝領土の継承を宣言するが、実態は各地域の軍閥による群雄割拠の状態であり、満洲は張作霖の軍閥の支配下となる。清朝崩壊後、満洲へは社会不安から流民となった漢民族の移入が急増する。1908年の満州人口は1583万人であり、それが満州事変前には3000万人まで増加している。
北満洲におけるロシア権益は保持されていたが、一次大戦やロシア革命の混乱により支配力は低下し、ロシア革命に対する干渉戦争として行われたシベリア出兵により、外満洲属するウラジオストクを連合軍が、北満洲及び外満洲の大部分、さらにはバイカル湖周辺までを日本軍が占領する事になった。1920年には日本占領下のニコラエフスクを赤軍パルチザンが襲撃し、破壊と住民虐殺が行われ6,000人余りが処刑され、日本人も700人余りが殺戮された(尼港事件)。日本以外の連合軍は1920年に、日本は1922年に撤退し占領は解除された。
ソビエト連邦は東清鉄道の経営権をロシアから継承していたが、1928年に満洲を実効支配する張学良政権はこの権益の武力による略奪を行おうとした。これに対しソ連は満洲に侵略し、中華民国軍を破り中東鉄道の権益を確保し、権益を再確認する協定を結んだ後撤退した(中東路事件)。
1931年に日本(大日本帝国)は満洲事変を契機に満洲全域を占領し、翌1932年に満洲国を建国した。満洲国は清朝最後の皇帝であった愛新覚羅溥儀を元首(執政、のち皇帝)とした。これは清朝最後の皇帝だった愛新覚羅溥儀は退位させられる際に中華民国から満州に独自の国家を設立することを希望していた[要出典]ことが背景にあった。満洲国は事実上日本の支配下となった。日本は南満洲鉄道や満洲重工業開発を通じて産業投資を行い、品種改良で寒さに強い品種を植えることで不毛の地ばかりだった満州に農地が多数開墾され、荒野には工場を建設して開発した。満州で治安が良くなり、交通が開け、貨幣が統一された。満州国建国以前の満州では、軍閥が独自紙幣を発行し、奥地になるほど治安が悪く、農民は安心して耕作ができなかった。満州国は統一した通貨を発行して、満州各地で流通させたことで信頼のある貨幣経済が成立した。奥地にまで道路や鉄道が建設され、治安が良くなると農民も農作物を市場に出して稼ぐようになった。電話線など通信網も張り巡らせ、奥地など満州の地方にも病院や工場、また初等教育への進学率低かった対策に学校も設立した。日本による投資を受けて経済的に豊かになり、群雄割拠状態で乱れていた中華民国時代からの突然の経済発展を受けて、中国民国側から豊かさを求めて多くの移民が流入した。そのため、満州国地域における日本人以外の人口は満州国建国以前よりも増加した。背景にはインフラがほとんどなかったが投資・開発を受けて居住可能地域が増加したこと、日本から持ち込まれた品種からも農耕作可能地域が増加したことにある。満州国成立した1932年には約3000万だった終戦までには約4500万人に増加した。3万人の小さな町が近代都市に発展して、約13年間で300万人に膨れ上がっている[1]。ただし、人口増加率で見ると満州建国前と大差はない。
1945年8月、第二次世界大戦終結直前にソ連軍が満洲に侵攻、満洲国は崩壊し、ソ連は満州を占領して中華民国への返還を遅らせた(東北問題)。その後、中国共産党が国共内戦に勝利し、満洲は中華人民共和国の領土となった。暫くはソ連との結びつきの強い高崗が独自の地方運営を行っていたが[2]、後に毛沢東に粛清された。満州地域は満州国時代のインフラ整備・開発政策の成果が残っていたため、共産主義体制下の中華人民共和国でも豊かな土地であった。しかし、1990年代以降の改革開放政策により、上海や深圳市など華東、華南の経済特区の経済成長が著しくなる一方、満州国時代のインフラのままだったことで、逆に経済的には立ち遅れた地域となった[3]。中国政府はインフラ設備の更新や古い工場の立替、外資の導入、遼東半島を含む環渤海経済圏を設定した。
満洲に存在した日本の株式会社[編集]
- 南満洲鉄道株式会社
- 満洲重工業株式会社
- 満洲航空株式会社
- 満洲海運株式会社
- 株式会社満洲映画協会
- 満洲拓殖公社
- 満洲電信電話株式会社
- 株式会社昭和製鋼所(後の満洲製鉄株式会社)
- 日満商事株式会社
- 株式会社辰村組