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日本が「アジアのアートの拠点」だった時代や時期が存在するとは思わないし、特に「現代アート」に関しては、(もともと西洋の物まねとして始まったため)海外から評価されたこともほとんど無いような気がする。
下の「芸術家」は、確かエロとグロを主なテーマとする「現代アート」の人間だったと思うが、一般庶民はもう少し上品な志向性を持っているのではないか。
ただし、日本の伝統文化の中の美術性は海外でも高く評価されており、それには「現代アート」の自称芸術家たちはほとんど寄与していない。むしろ、漫画やアニメ(芸術家ではなく、職人の創造物)などをアートとして評価している海外の人間は結構いる。




さんがリツイート

アジアの「アートの拠点」が日本でなくなったのは現代アートに無理解な一般人のせいという芸術家の被害妄想的なツイートを読んで、日本が一時期「アートの拠点」だったのは経済の御蔭で一般人にそこまでの影響力はないということを知っていて、あえて一般人にぶつけたいものがあるんだろうなと思った。



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このツィートを見て、即座にレイ・チャールズの「愛さずにはいられない」の歌詞の一節を思い出した。(原題の「I can't stop loving you」は、「愛さずにはいられない」ではなく、「君を愛することは止められない」と訳すのが正しいが、もちろん、こんな間延びしたタイトルではダメである。)うろ覚えだが、こんな一節だ。

They say that time heals the broken heart,

But time has stood still,since we've been apart 





さんがリツイート

今日、テーブルに頭ぶつけた息子が泣いてたから、「時間がたてば治るよ」って声かけたんだけど。しばらくして頭さすりながら「時間まだ座ってるね」って言っててかわいさに悶絶した…そうだね、立つの反対は座るだよね。

今、ロシア語の表記を覚えようとしているのだが、キリル文字アルファベットを書く方は何とかなりつつあるが、読む方は覚えきれない。そのために、下のツィートの発言者の名前の読みが気になるので、一字一字その字の発音との対照をしてみると、
「ハヤーミ・ラセンジェイン」となるだろうか。「ハヤーミ」は「速見」か「速水」か「早見」だと思うが、下の名前が日本人の名としては読めない。
なお、肉欲棒太郎は「ナニワ金融道」の登場人物だったと思うが、ソムデン・ポチョムキッドが記憶に無いので元ツィッターを見ると、「じゃりン子チエ」に出てきたらしい。それほどインパクトのある名前だろうか。むしろ、タイあたりにいかにもいそうな名前に思える。






さんがリツイート

死ぬまで脳裏に刻まれているであろうインパクトネームといえば、肉欲棒太郎とソムデン・ポチョムキッドですかね...



例によって書きながら考えていくつもりだが、「悲劇の本質は主観と客観の相剋だ」というテーゼを思い付いたので、それについての考察である。
たとえば、「ロミオとジュリエット」というのは、主人公の恋人たちが、お互いの家の敵対関係という客観関係を無視して、恋愛という主観を突き進めた結果の悲劇であると見做せる。
ほとんどの悲劇は、主人公の感情という主観が、周囲の客観的情勢とぶつかっている。そこに、周囲の人物の主観とのぶつかりあいも生じる。つまり、「主観対主観の相剋」という面もあるわけだが、だいたいにおいて強烈な感情を持っているのは主人公側であり、主人公が仏教的な諦念を信条としていたら、悲劇的な物語はまったく生まれないだろう。たとえば、自然災害では大量の人間が死ぬが、それ自体が物語性を持っているわけではない。その前の、幸福な生活の断絶が悲劇なのである。幸福とは感情、つまり主観によって生じるものだ。それが自然という客観の前に滅びるのが悲劇なのであり、大量死そのものは、人間が蟻の巣穴に水を流し込むのと変わりは無い。

私が物語を書くのが苦手なのは、人間の感情というもの自体があまりに主観的すぎて共感できないからかもしれない。人物を人形として扱って物語を書く、推理小説などは、それはそれで「文学的感興」には欠けるわけで、やはり芸術というのは、才能豊かな作家が作った世界を観客として楽しむのが私には合っているのだろう。別に人物が喜怒哀楽の行動をしなくても、たとえば梶井基次郎の作品のように、「感覚や超感覚を刺激する」作品もあるわけで、芸術というのは、やはり凄い世界だと思う。

今気づいたが、「客観」を引っくり返せば「観客」になるのが面白い。観客は出来事を第三者の客観的立場から見ることで、事態の喜劇性や悲劇性を「気持ちよく」楽しむわけである。
「日々平安録」の中の「『ロシア革命百年の謎』を読む」という記事の一節だが、「現在のロシア人がもっとも尊敬する歴史的人物はスターリンで、二番目がプーチン、三番目がプーシキンで四番目がレーニンで、最悪がゴルバチョフ」というのが面白い。これは西洋マスコミおよび日本マスコミによる洗脳に溺れている日本人には意外だろうが、少し考えれば当然だと思う。
つまり、ロシアの民衆を農奴的状態から救い出したのがロシア革命であり、スターリンはソ連がもっとも困難な時期に見事に(もちろん、その強権的部分が西洋側から非難されてきたわけだ。)国家経営を行ってソ連を大国にした。レーニンは、いわばロシア革命の途中から出てきて手柄を奪っただけの存在にすぎない。あるいは、ただの思想家だ。そして、ゴルバチョフは、その大国ソ連を崩壊させた最大の張本人であるわけだ。

(以下引用)





 そして、本書を読んで、教えられるところは多々あったのだが(たとえば、現在のロシア人がもっとも尊敬する歴史的人物スターリンで、二番目がプーチン、三番目がプーシキンで4番目がレーニンで、最悪がゴルバチョフであるとか)、文学観点からロシア革命、あるいはソ連という国家を論じるという行き方に強烈な違和感を感じた。それで、以下、その違和感が何によるのかということを少し考えてみたいと思う、
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