亡くなられた方がどれだけの、膨大で地道な時間を人知れずアニメに使ってきたか、のべ何万人何億人のひとの時間を豊かにしたか、ヒトの幸せの総量を増やしたか。そんな方々がなぜこんな苦しいつらい終わり方をしないといけないのか。
この事件(京アニ放火大量殺人事件)は、無差別殺人という理不尽さと、貴重な文化資産の破壊という、二重の凶悪さを持つ犯罪である。
たつき氏の下のツィートは、娯楽産業の意味や価値というものを端的に指摘した言葉でもある。
私自身はべつに京アニのファンでも何でもないが、アニメというジャンルによって「豊かな時間」を送り、「人生の幸せの総量」を増やしてきた人間だ。
たつき氏の下のツィートは、娯楽産業の意味や価値というものを端的に指摘した言葉でもある。
私自身はべつに京アニのファンでも何でもないが、アニメというジャンルによって「豊かな時間」を送り、「人生の幸せの総量」を増やしてきた人間だ。
はぁとふる倍国土@夏コミ(日)西A74aさんがリツイート
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その手の「汚いもの」を誇張的に描く作品というのは、描いてる本人は何が楽しくて描いているのだろうか。もちろん、その手の「暗いリアリズム」を、「人間の真実を描いている」素晴らしい芸術だ、と思い込んでいる文学青年や文芸批評家というのが昔は多かったわけだが、今でも各ジャンルにその手の人間はいるようだ。逆に、白樺派的な理想主義や人道主義やロマンチシズムは「甘い」とされて軽蔑されたりする。幸い、その手の「人間の真実を描いた」作品は、大衆的人気を得ることはない。
わかる。映画でも漫画でもときどき、人間のいやな面、暗黒面みたいなのを描いて、これが人間だ見ろ!みたいな感じで「人間を描いた」つもりになってるケースあるけど「そんなこたあみんな知ってるんだよ」感しかないことが多い。おっさんの底にエロじじいがとか子どもでも知ってる。>RT
「ファウスト」の最後の完全な満足(「時よ止まれ、お前はあまりに美しい」)が、実はメフィストフェレスの仕組んだヴァーチャルリアリティ内の出来事だったというオチによる「新ファウスト」。実際、VRとはそういうものであり、虚構世界で生きるということだ。言い換えれば、現実の中の満足と、虚構だと知らない状態の虚構世界の中での満足に違いは無い、ということである。
麻雀好きな男が、ジャン牌の八索(パッソー)を手に握って死んでいたので、そのダイイングメッセージは何か、とあれこれ推理される。
「八の字が名前にある八田のことだ」
「いや、これは字形から見てMを表し、森田のことだ」
「いや、Mを反対にしたWのことで、和田のことだ」
「いや、これは中国人が犯人である意味で、隣室の趙さんのことだ」
正解は、ヤマハの「パッソーラ(パッソーだ)」を使っている誰かであった、という話。
まあ、今時、パッソーラが現役で使われているかどうかは知らん。
「八の字が名前にある八田のことだ」
「いや、これは字形から見てMを表し、森田のことだ」
「いや、Mを反対にしたWのことで、和田のことだ」
「いや、これは中国人が犯人である意味で、隣室の趙さんのことだ」
正解は、ヤマハの「パッソーラ(パッソーだ)」を使っている誰かであった、という話。
まあ、今時、パッソーラが現役で使われているかどうかは知らん。
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