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坂口安吾の短編「心霊殺人事件」は、淡白なミステリーだが、ミステリーの素材として面白い要素が多い。第一に、終戦直後を舞台としているために、戦争時の混乱がまだ尾を引いていて、戦時の犯罪を戦後の犯罪の動機とすることができる。第二に、殺人事件が起こった「心霊実験」よりも、その前に発生している「荷物の移動」が実は殺人事件の動機だったこと(重要性の錯覚)。第三に、戦時の犯罪の事情や人物を膨らませることで、物語を重厚にできる。これは、戦犯のほとんどは実際には(米軍捕虜虐待など欧米関係以外には)実際には逮捕も処罰もされず、戦後の日本でのうのうと生きていたということなどの「哲学的問題」にもなる。また、話の脇役として出てくるサイコパス的人物が、キャラクターとして面白い。私は悪役を描くのが苦手なのだが、このキャラは活かせそうな気がする。中国で殺人強姦を繰り返した日本人将校が、戦後の日本社会で一見平凡なサラリーマンとして生きているのが面白い。なお、大金持ちのボディガード兼秘書という仕事も、悪役らしくていい。表向きは秘書、裏ではボディガードという二面性がいい。
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「紙屋研究所」から記事の一部を転載。文中の「本書」とは、独ソ戦に関する大木毅の岩波新書である。
現在のロシア人(ロシア連邦全体か)の多くがスターリンを歴史的偉人のナンバーワンとしているらしいということは前にも書いた気がするが、スターリンに関する西側諸国の人々の意識は西側マスコミと西側御用学者らによって作られたもので、おそらくかなり偏向している可能性が高いと思う。もちろん、彼が残酷な国内統治をした事実もあるだろうが、それは「ソ連邦を維持する」目的のために、治安維持に不適切な行動を取った人々を処置したという、或る意味では「為政者として当然の行為」だとも言える。現在の「反プーチン」運動者の逮捕なども、そう見れば当然だとなる。簡単な話、自分の所属する会社の前で会社の悪行を大声で叫び、会社社長の醜聞を暴露する社員がガードマンに排除されるのと同じである。もちろん、そうした悪事の存在が事実なら、それを排除すべきではない、とリベラリスト風の偽善的御託を言うことはできるが、世の中、性善説で動いているわけではない。

(以下引用)


 次に「ソ連はなぜ独ソ戦初期にあれだけ派手にやられたのに、体制が崩壊せず、しかも勝利できたのか」問題。

 これは第3章第四節からの記述が対応している。

 本書にも書かれているが、ヒトラーが「ソ連軍など鎧袖一触で撃滅できる」(本書p.32)と考えており、「純軍事的に考えても、ずさんきわまりない計画」(同前)を立ててしまったように、スターリン支配のもとで国はボロボロだろうと思われていたわけである。

 ところが、頑強に抵抗し、ついにはドイツを倒してしまった。

 この点では、本書は、「おおかたの西側研究者が同意するところ」(p.114)としてスターリニズムへの拒否意識があったがゆえに緒戦では数百万の捕虜を出したが、ドイツ側の残虐が明らかになるにつれ民衆も反ドイツになっていたという紹介をまずしている。しかし、これは大木がツッコミを入れているように、多くの人がドイツとの戦争に志願している実態と合わない。

 ぼくも、本書「文献解題」で「一読の価値がある」として紹介されているスヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ『戦争は女の顔をしていない』(岩波書店)を読んだ時、ソ連の女性兵士たちがどのような経過で志願していくのかを注意深く読んだ。彼女たちはドイツ軍の蛮行を目の当たりにするよりも前に、開戦と同時に志願している場合が多い。共産主義的な動機もあれば、祖国防衛というナショナリズムの感情もあるし、家族を守りたいという素朴な感情もある。しかし、総じて、今の日常と体制を支持している感情から、熱烈な志願を行なっているように読めた。

 

 

 本書(大木本)では、アメリカのソ連研究者、ロジャー・R・リースの説明を紹介して、内的要因(「内発的要因」というべきだろうか)と外的要因(「外在的要因」というべきだろうか)に分け、前者について、

自らの利害、個人的な経験から引き起こされたドイツ人への憎悪、スターリン体制の利点に対する評価、先天的な祖国愛(p.116、強調は引用者)

 と書いている。

 「大祖国戦争」という命名に象徴される「ナショナリズム共産主義体制の擁護が融合された上に、対独戦の正当性が付与」(p.117)という規定を大木は行なっている。

 「大祖国戦争」という形でナショナリズムに訴えた宣伝が功を奏したことはぼくから見ても間違いないとは思うのだが、ぼくが気になっているのは、リースがあげている「スターリン体制の利点に対する評価」という点なのである。

 スターリン体制によって成し遂げられた工業化はベースのところでソ連国民によって支持されていたのではないか? と思うのだ。前述の『戦争は女の顔をしていない』で出てくるインタビューには、露骨な体制支持やイデオロギー支持はそれほど多くないが、守るべきものとしての日常、例えばそれは夢のある進路のようなものも含まれるが、そういう日常を支持している庶民が、志願をしている。つまりそれは「スターリン体制の利点に対する評価」があったのではないかと推測できるのである。

 加えて、ソ連側が初期にあれほどの打撃を受けているのに、なぜ次々と戦車や弾薬を補給できたのかは極めて大事な問題だ。それはスターリン体制が工業化を達成したことと不可分の話ではないだろうか。

 さらに加えておけば、本書はそもそも「ソ連の人的・物的優位」は「勝利の一因」として認めつつも、「作戦術にもとづく戦略次元の優位」(p.224)という原因を提示している。本書の新たな「意義」という側面からすれば、この点の指摘の方が実は重要なのだが(ぼくにとってはそれほど関心を持てない点でもあった)。

 何れにせよ、この「ソ連はなぜ独ソ戦初期にあれだけ派手にやられたのに、体制が崩壊せず、しかも勝利できたのか」問題については、対応する記述が本書にはある。その点をどう評価するかは、読む人がそれぞれ判断すればいい。

人類が移住できる可能性が唯一あるのは(月を除けば)火星くらいだろうと私は思っている。というのは、火星には水もあるのではないかと思われるからだ。確か、火星の極地方には氷があるのではないか。「火星の運河」と呼ばれているのも、本当に大昔には河だったというのが私の想像だ。まあ、火星に火星人がいたか、あるいは人類の祖先がいて地球に移住したかどうかは分からないが、この地球の環境があまりに悪化したら、人類の火星移住も本気で考えていい。ただし、それはあと数百年先の話だろう。今の時代に核戦争を起こす馬鹿な国は存在しないと思いたい。核戦争は人間の手ではコントロールできないだろう。つまり、地球全体を破壊する行為である。核戦争以外の環境汚染なら、あと数世紀は地球は持続するだろう。



隔離環境での生活研究が可能な米アリゾナ州の巨大施設「バイオスフィア2」(山敷庸亮・京大総合生存学館教授提供) © KYODONEWS 隔離環境での生活研究が可能な米アリゾナ州の巨大施設「バイオスフィア2」(山敷庸亮・京大総合生存学館教授提供)

 人工の海など地球の生態系が再現され、隔離環境での生活研究が可能な米アリゾナ州の巨大施設「バイオスフィア2」で8月上旬、火星移住を想定し、日米の宇宙飛行士や学生による共同実習が実施される。

 参加する京都大の学生らが30日、学内で記者会見し、理学部2年平井颯さん(19)は「有人宇宙探査の仕事に携わるのが夢。いつか、火星でフィールドワークできるようになれば」と話した。

 現地で指導に当たる山敷庸亮・京大総合生存学館教授(地球惑星科学)によると、バイオスフィア2は第2の生物圏の意味で、1991年に建設。鉄とガラスなどで造られ、砂漠や熱帯雨林などを再現してある。

小田嶋隆のブログからの転載だが、さすがに鋭く的確な分析である。松本人志のヤンキー性が若い人々からの支持の大きな原因だろうし、知的層の松本への嫌悪感の原因だろう。ヤンキーというのは「力の支配」を大前提として受容するものであり、日本の権力構造と親和性が高いのである。民主主義とは水と油だ。もちろん、日本は民主主義国家でもないし法治国家でもない。





2019/07/29

松本人志二題

松本人志氏の動向が注目を引いているようなので、以前、彼について書いた原稿を二本ほどブログ上に召喚することにしました。
寛大な気持ちでご笑覧いただければさいわいです。

いずれも、コアマガジン社が刊行しております「実話BUNKAタブー」という月刊誌に、オダジマが連載している「電波品評会」という1ページコラムのコーナーに掲載したテキストです。

1本目の、「たけしvs松本」が2017年10月号、2本目の「松本vs太田」が2019年7月号の掲載だったはずです。

 

【北野武 vs 松本人志】

 

北野武 vs 松本人志
  北野武 松本人志
言語能力 ☆☆☆☆ ☆☆☆☆
批評性 ☆☆☆☆ ☆☆
教養 ☆☆☆☆ ☆☆
ヤンキー度 ☆☆☆☆☆ ☆☆☆☆☆

 

 上原多香子問題へのフジテレビからの圧力を示唆したツイートや、日野皓正の体罰へのコメントなど、ここしばらく、松本人志の発言が炎上するケースが目立っている。原因は、ひとことで言えば、本人がご意見番のつもりで述べたコメントや、批評的だと思って発信しているツイートが、いちいち凡庸だからだ。
 本稿では、どうしてこんなことになってしまったのかを検証するべく、比較対象として、ご本人のロールモデルと思われる北野武を配した上で考えてみる。
 まず「言語能力」は、両人とも非常に優秀だ。ただ、たけしの言葉が散文的であるのに対して、松本の繰り出す言葉はあくまでも口語的だ。にもかかわらず、「空気読む」「上から目線」「ドヤ顔」といった、現代社会への根源的な批評を含んだ新語は、むしろ松本の口から出てきている。まあ、天才なのだろう。
 とはいえ「批評性」は、たけしの圧勝だ。時事、社会、政治、文化、芸術、歴史など、あらゆる分野に関して、独自の視点を持っているたけしと比べると、反射神経だけでものを言っている松本の言葉はひたすらに浅薄だ。この批評という作業への自覚の欠如が、映画監督としての作品の優劣として如実に露呈している。ステージという一回性の魔法の中で揮発的な言葉のやりとりを繰り返すお笑いの世界では、本人の存在感が批評性を放射する奇跡も起こり得るわけだが、ひとつひとつのカットを意識的に積み上げることでしか創作の質を確保できない映画の世界では、粘り強い思考力と一貫した批評的知性を持たない人間は何も残すことができない。
 三番目の「教養」もたけしと松本では比較にすらならない。口では無頼なことを言いながらも、いたましいまでの勉強家であるたけしとは対照的に、松本は、文字通りの天才として、かれこれ30年以上、自分の才能の上にあぐらをかき続けている。それを可能ならしめた才能の巨大さは、たしかに稀有なものだが、結果としてもたらされている人間としての内容の希薄さは、もはや相方ですらカバーできない。
その点、一定の基礎学力を備えているたけしは、自分に何が欠けているのかを自覚している点で、教養人の条件を満たしている。ほとんど何も知らないがために無駄な全能感を抱くに至っている松本の惨状に、たけしのような人間は簡単には転落しないだろう。
 最後の「ヤンキー度」だが、これは二人とも満点だ。
 多少現れ方は違っているが、二人がヤンキー美学を信奉する人間であり、彼らの持ち前の笑いのセンスが、ホモソーシャルの内部で痙攣的に繰り返される暴力衝動に根ざしたものである点は、みごとなばかりに共通している。腕と度胸と現場感覚を信頼していること、仲間内の信義を最上位に置いていること、肉体性を持たない言葉を信用しないこと、権力勾配のある場所でしか笑いを生み出せないことなどなど、彼らの世界観ならびに人間観は、どれもこれも任侠の世界の男たちの地口軽口から一歩も外に出ていない。
 もっとも、たけしも松本も、お笑いの世界にいたことでヤンキー化したわけではない。むしろヤンキーだったからこそ笑いの世界でチャンピオンになれたのであって、つまりこれは、元来、お笑いはヤンキーのものだったというお話に過ぎない。マッチョでない笑いは二丁目でしか受けない。私は善し悪しを言っているのではない。これは仕方のないことだ。
 近年、深夜帯のテレビで、オネエの皆さんやゲイ的な笑いが存在感を増しているのは、東西のお笑いのキングが、いずれもあまりにもマッチョであることへの反動なのだね。きっと。
(2017年9月9日執筆)

 

【松本人志 vs 太田光】

 

松本人志 vs 太田光
  松本人志 太田光
教養 ☆☆ ☆☆☆☆
独創性 ☆☆☆☆ ☆☆☆
共感能力 ☆☆ ☆☆☆☆☆
人脈形成力 ☆☆☆☆ ☆☆

 

 川崎での無差別殺人事件に際しての、ダウンタウン松本人志のコメントと、爆笑問題太田光のコメントが対照的だったことが話題になっている。松本が「凶悪犯は不良品」という端的な犯人罵倒のコメントを発したのに対して、大田は「そういう思いにかられることは誰しもあって、自分がそういう状態から立ち直ったのは、ピカソの絵に感動したからだった」という自らの体験談を披露している。
 それぞれの言葉への賛否は措いて、この二人が対照的な立ち位置の芸人であることは万人の認めるところだろう。
 まず「教養」だが、これは文句なしに太田の勝ちだ。松本には日本のマトモな大人としての基礎教養が欠けている。一方、太田は勉強家で、日々様々な分野の情報収集を怠っていない。結果として、20代の頃まではたいして目につかなかった両者の教養の差は、50代を迎えて、取り返しのつかない格差となって表面化している。
 次の「独創性」は、松本に軍配があがる。この男の場合、なまじの教養が身についていないことが、かえって余人の追随を許さない独自の発想を生む土壌になっている。一方、太田のネタは、見事ではあっても先人の業績を踏まえたアイディアで、その点で独創性には乏しい。
 三番目の「共感能力」は、他人の気持ちを汲み取ることができるかということなのだが、この点において太田の能力は突出して高い。彼は、金持ちや貧乏人というありがちな設定だけでなく、いじめられっ子や自殺志願者、ブスといった虐げられた人々や、美人、権力者、スターなどなど、あらゆるタイプの人間の内面をかなり正確に自分の中に取り込む能力を備えていて、そのことが彼の不思議な芸域の広さを支えている。一方、松本は他人の気持ちがわからない。わかろうともしていない。もっとも、その松本の一種狷介不屈な決めつけの独特さが、彼の生み出すシュールな芸に生きていることは認めなければならない。練り上げたコントや漫才のアドリブの中で松本が繰り出すどうにも素っ頓狂なキャラクターの面白さは、「決して他人を理解しない」その絶対的に孤立した人間の魂から生まれた鬼っ子のようなものだ。おそらく太田には、これほどまでに規格外れのお笑いキャラを創造することはできない。
 最後の「人脈形成力」は、芸人にとって両刃の剣となる資質だ。自分の周りに支持者や応援団を集めておかないと、演芸の世界で継続的な影響力を維持することは不可能だし、かといって、他人と安易に同調していたら肝心の芸の切っ先が鈍ってしまう。
 両者を比べてみると、50歳を過ぎていまだにオタク気分の抜けない太田は、たいした人脈を築くことはできない。若い連中の面倒を見る度量はないし、誰かの子分になる柔軟さはさらに持っていない。松本は、他人にアタマを下げることのできない男だが、自分より下の立場の芸人のためにひと肌脱ぐことは厭わない。それ以上に、彼の芸風は、仲間とツルむというヤンキーの所作の中からしか導き出されないコール&レスポンスそのもので、その意味で、人脈(あるいは「子分」)こそが、彼の生命線でもある。
 さて、普通に考えて、蓄積や教養を持たない松本の未来は暗いはずなのだが、現状を見るに案外そんなこともない。
 というのも、お笑いファンのコア層が、松本とともに順次老いて行く令和の時代のお笑いコンテンツは、老いたるヤンキーの繰り言あたりに落ち着くはずで、とすれば、松本はやはりメインストリームであり続けるだろうからだ。
 太田は老いない。
 早めに引退すると思う。
(2019年6月6日執筆)

 

以上です。おそまつさまでした。
なにぶん、dropboxからサルベージしたテキストなので、誤字・脱字などはご容赦ください。




「稲生物怪録」を「愛の物語」と言ったのは谷川健一(民俗学者)のオリジナルではなく、稲垣足穂の「稲生物怪録」を下敷きにした作品の最後に、「愛の経験というものは、一度経験すると、それなしではいられなくなる欠点がある」という趣旨のことを書いて、妖怪との数日を過ごした少年が、もはや去った妖怪に「もう一度出ておいで」と呼びかけることで、少年と妖怪との戦いの日々が愛の経験であったという、意想外の指摘をしているところから来たものだろう。この言葉で、単なる面白い妖怪譚であった作品全体がまったく違った色に染め替えられるという、魔術的な終わり方である。
そして、愛についてのこの箴言は、世界中の愛に関する名言の中でもひときわ特異な、思いがけない言葉で、人を愛の本質についての物思いに耽らせる。




さんがリツイート

『稲生物怪録』のことを谷川健一氏が「愛の物語」と表現していた記憶が、ぼんやりと。小学館の雑誌に談話として掲載されていた気がして、手元の分を探しましたが見つからず。私の思い違いの可能性も濃厚ですが。



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