映画の出来はともかく役者さんが路上でパンツの中に手を入れてボリボリ掻いて「あ〜インキン痒か〜」でもう正視できなかった。
子供がネット配信の「ドラクエⅢ」を入れてくれたので、そればかり何周もしているのだが、未だに「商人」や「盗賊」を最後まで育てたことが無いし、「遊び人」は使ったことが一度もない。遊び人のギャグが寒すぎるので、連れ歩くのが不快なのである。
昔のスーファミ版より劣化しているのは、キャラ画像が三流漫画家が描いたとしか思えないことと、「すごろく」が無くなったことだが、冒頭の「性格診断」も劣化している気がする。バリエーションが極端に少なくなったのではないか。
まあ、それらの欠点は欠点として、やはり一番私好みのRPGではある。易しすぎ、短すぎのⅠや、途中から極端に難しくなって完走がほぼ不可能なⅡにくらべてゲームバランスが一番いい。世界の広さもちょうどいい。ドラクエはⅢで終われば伝説のゲームになったのではないか。Ⅳ以降は蛇足だと思う。
Ⅲは物語の内容やゲーム構成などはいいのだが、キャラクターが死んでも簡単に生き返る、というのは、まあ、子供向けゲームとしては正解なのかもしれないが、私としては、ゲーム内の仲間の死は本当の死として描いたほうがスリリングで強烈な迫力になったのではないかと思う。ただし、ルイーダの酒場で新しいキャラクターを作れることにする。つまり、新しい仲間と組んで再起をめざすのである。そして、死んだ仲間の墓を酒場の後ろに作る。ゲームが終わった後、そこに墓参りするのもいい。
もうひとつ、戦いで「重傷を負う」場合を作ってほしかった。怪我をしたら戦闘力は下がり、ある程度のダメージを負うと戦闘不能になり、後方に下げられるわけだ。戦闘中のダメージ回復は、無しである。最悪のダメージは、もちろん死である。
そして、戦闘が終わっても、重傷を負った仲間はすぐには回復しない。宿屋で療養することになる。その場合、旅を続けるなら仲間を一人欠いた状態で旅することになる。後で、回復した仲間のもとを訪ねて、ふたたび合流することもできる。怪我からの完全回復はしない状態で合流することもできるが、その場合はそのキャラの戦闘力は下がったままである。
また、能力指標として「精神力(気力・集中力)」というのがほしい。この指標が高いキャラは、メダパニやスリープ(ドラクエでは何と言ったか忘れた)にはほとんどかからない、というわけだ。これは戦闘への参加回数によって少しずつ数字が上がることにする。つまり、精神的経験値だ。
そういうようなゲームコンセプトで作るなら、ドラクエⅠもⅡもⅢもリメイクする価値があるだろう。特に、「死んだら終わり」ということにするだけでも、プレイヤーに与える印象がまったく違ったゲームになるはずだ。最後まで仲間をひとりも死なさずに完走したら、その感動も大きいだろう。いわば、「人命尊重型RPG」である。
昔のスーファミ版より劣化しているのは、キャラ画像が三流漫画家が描いたとしか思えないことと、「すごろく」が無くなったことだが、冒頭の「性格診断」も劣化している気がする。バリエーションが極端に少なくなったのではないか。
まあ、それらの欠点は欠点として、やはり一番私好みのRPGではある。易しすぎ、短すぎのⅠや、途中から極端に難しくなって完走がほぼ不可能なⅡにくらべてゲームバランスが一番いい。世界の広さもちょうどいい。ドラクエはⅢで終われば伝説のゲームになったのではないか。Ⅳ以降は蛇足だと思う。
Ⅲは物語の内容やゲーム構成などはいいのだが、キャラクターが死んでも簡単に生き返る、というのは、まあ、子供向けゲームとしては正解なのかもしれないが、私としては、ゲーム内の仲間の死は本当の死として描いたほうがスリリングで強烈な迫力になったのではないかと思う。ただし、ルイーダの酒場で新しいキャラクターを作れることにする。つまり、新しい仲間と組んで再起をめざすのである。そして、死んだ仲間の墓を酒場の後ろに作る。ゲームが終わった後、そこに墓参りするのもいい。
もうひとつ、戦いで「重傷を負う」場合を作ってほしかった。怪我をしたら戦闘力は下がり、ある程度のダメージを負うと戦闘不能になり、後方に下げられるわけだ。戦闘中のダメージ回復は、無しである。最悪のダメージは、もちろん死である。
そして、戦闘が終わっても、重傷を負った仲間はすぐには回復しない。宿屋で療養することになる。その場合、旅を続けるなら仲間を一人欠いた状態で旅することになる。後で、回復した仲間のもとを訪ねて、ふたたび合流することもできる。怪我からの完全回復はしない状態で合流することもできるが、その場合はそのキャラの戦闘力は下がったままである。
また、能力指標として「精神力(気力・集中力)」というのがほしい。この指標が高いキャラは、メダパニやスリープ(ドラクエでは何と言ったか忘れた)にはほとんどかからない、というわけだ。これは戦闘への参加回数によって少しずつ数字が上がることにする。つまり、精神的経験値だ。
そういうようなゲームコンセプトで作るなら、ドラクエⅠもⅡもⅢもリメイクする価値があるだろう。特に、「死んだら終わり」ということにするだけでも、プレイヤーに与える印象がまったく違ったゲームになるはずだ。最後まで仲間をひとりも死なさずに完走したら、その感動も大きいだろう。いわば、「人命尊重型RPG」である。
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地名や人名の漢字は当て字が多く、初見で読めというのが無理なものはたくさんある。そういうのを度外視しても、たとえば「好事家」を「こうじか」ではなく「こうずか」と読む、などというのは無理な感じがある。「好事家」以外で「事」を「ず」と読む例があるだろうか。
2019
映画というのはもともと絵空事を「本物風に味付けして」見せるものであり、それを「こんなの絵空事じゃん」と思いながら見たら即座に崩壊する世界である。
逆に「絵空事は絵空事として面白ければいいじゃん」というのがアニメである。実写では不可能な描写や実写だと汚らしくなる対象が抵抗感無く見られるようになる。「NEW GAME!」など、現実には汚らしい親父たちがブラック企業でこき使われる話で、それを実写でやったら悲惨で醜いだけだろう。最近の萌え絵アニメのほとんどは、女の子たちを不細工にしたり男の話にしたら成立しない話ばかりである。
フィクションの中でリアリズムが大事なのは、「そこをリアリズムで描かないと子供でもアホ臭く思うだろう」という部分だけだ。
たとえば、私が子供のころに見た日活映画だと、喧嘩の場面で、拳が当たってもいないのに相手が吹っ飛ぶとか、東映時代劇で、まるで踊りでしかないチャンバラ場面などは、子供心に白けたものである。もっと大きなホラだと、たとえば東映SF映画などで地球に彗星がぶつかるから地球に噴射機をつけて軌道から動かす、という大法螺など、まったく抵抗感なく見られたのだ。
つまり、設定自体が空想的なフィクションだという前提ならどんなに非現実的でもいいが、日常的な部分のデティールこそリアリズムが大事だ、ということである。
ただし、日常性のリアリズムと言っても、下のツィートにある「パンツの中に手を入れてボリボリ掻いて『あ~インキン痒か~』」を実写でリアルに描いてそれを面白いと思う観客がDQN以外にいるか、という話だ。要するに、作り手自身がDQNだから実写と漫画の違いを理解していないのである。
実写化で成功した漫画は、非常に少ないのだ。
逆に「絵空事は絵空事として面白ければいいじゃん」というのがアニメである。実写では不可能な描写や実写だと汚らしくなる対象が抵抗感無く見られるようになる。「NEW GAME!」など、現実には汚らしい親父たちがブラック企業でこき使われる話で、それを実写でやったら悲惨で醜いだけだろう。最近の萌え絵アニメのほとんどは、女の子たちを不細工にしたり男の話にしたら成立しない話ばかりである。
フィクションの中でリアリズムが大事なのは、「そこをリアリズムで描かないと子供でもアホ臭く思うだろう」という部分だけだ。
たとえば、私が子供のころに見た日活映画だと、喧嘩の場面で、拳が当たってもいないのに相手が吹っ飛ぶとか、東映時代劇で、まるで踊りでしかないチャンバラ場面などは、子供心に白けたものである。もっと大きなホラだと、たとえば東映SF映画などで地球に彗星がぶつかるから地球に噴射機をつけて軌道から動かす、という大法螺など、まったく抵抗感なく見られたのだ。
つまり、設定自体が空想的なフィクションだという前提ならどんなに非現実的でもいいが、日常的な部分のデティールこそリアリズムが大事だ、ということである。
ただし、日常性のリアリズムと言っても、下のツィートにある「パンツの中に手を入れてボリボリ掻いて『あ~インキン痒か~』」を実写でリアルに描いてそれを面白いと思う観客がDQN以外にいるか、という話だ。要するに、作り手自身がDQNだから実写と漫画の違いを理解していないのである。
実写化で成功した漫画は、非常に少ないのだ。
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アシさんが某漫画のドラマ化に関して漫画なら可愛い絵柄もあってファンタジーとして見れてた過剰な出来事が生身の俳優が演じると汚らしく見えるというあるある意見。俺は松本零士原作、曽根中生監督の『元祖大四畳半大物語』(80)思い出す。
私は栗本薫のファンではないが、「グイン・サーガ」は日本大衆小説史に残る優れた作品だと思っており、それが未完に終わったのはその欠点でも何でもないと思っている。それは「大菩薩峠」が未完に終わったのと同じことである。逆に、その方が読者の想像力に訴えて魅力を増すとすら言えるだろう。
「グイン・サーガ」の場合は、どう終わるかより、途中途中のエピソードや描写のほうが主な魅力なのである。冗長さを言うならば、むしろ序盤のほうに冗長な描写は多い。これは作者が推敲というものを(頭脳内での推敲ではなく、書いたものの推敲を)まったくせず、特に、冗長な部分の削除という作業をまったくしなかったからだろう。と言うのは、作者は一番最初に「世界で一番長い小説を書く」と言明していたからである。
ところが、そういう「雑な」書き方にもかかわらず、書かれた人物が生きて躍動している、というのがこの小説の素晴らしいところである。まあ、当人が言っているように、創作の神が降りてきて、彼女は自動書記状態で書いていたと思う。
私がこの一文を書いたのは、下のツィートなどを読んで、「グイン・サーガ」は出来の悪い小説だと誤解する人がかなり出てくるだろうと思うからである。物語を完結させることに過大な意味を求めるべきではない。物語の元である現実人生には死以外には「完結」など無いではないか。物語の「完結」のほうがむしろご都合主義だとすら言えるのである。
「グイン・サーガ」の場合は、どう終わるかより、途中途中のエピソードや描写のほうが主な魅力なのである。冗長さを言うならば、むしろ序盤のほうに冗長な描写は多い。これは作者が推敲というものを(頭脳内での推敲ではなく、書いたものの推敲を)まったくせず、特に、冗長な部分の削除という作業をまったくしなかったからだろう。と言うのは、作者は一番最初に「世界で一番長い小説を書く」と言明していたからである。
ところが、そういう「雑な」書き方にもかかわらず、書かれた人物が生きて躍動している、というのがこの小説の素晴らしいところである。まあ、当人が言っているように、創作の神が降りてきて、彼女は自動書記状態で書いていたと思う。
私がこの一文を書いたのは、下のツィートなどを読んで、「グイン・サーガ」は出来の悪い小説だと誤解する人がかなり出てくるだろうと思うからである。物語を完結させることに過大な意味を求めるべきではない。物語の元である現実人生には死以外には「完結」など無いではないか。物語の「完結」のほうがむしろご都合主義だとすら言えるのである。
山本貴嗣 @atsuji_yamamoto 7時間7時間前
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やはり「一人ペリー・ロ●ダン」の荒行は無理があったか;>RT
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6件の返信 3件のリツイート 17 いいね
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山本貴嗣さんがリツイート
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そう思います。 100巻に至る随分手前で、100巻での完結を投げた、と感じました。 作者の気持ちはどうであれ、読み手としては物語に冗長さを感じて離れてしまいましたね。https://twitter.com/komorikentarou/status/1162975779690409985 …
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3件の返信 22件のリツイート 27 いいね
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私は「ハサミ男」を読む前から殊能将之のツィッターが好きで、実に頭のいい人だなあ、と思っていたので、その突然の死が残念でならない。作品としては、「ハサミ男」は傑作だが、他の作品は数作読んだ限りではその域に達していない。まあ、風変わりな味はあった。なお、アブラム・デイビッドスンが好きだったらしく、その作品集の翻訳もしているが、私にはさほどの作家とも思えなかった。殊能氏は独学でフランス語を勉強してフランスの推理小説の翻訳もしていたと思うが、世の中には実に能力の高い人もいるものだ。
ただ、その突然の死の原因(死因)がさっぱり分からないのも不思議である。確か、ツィッターが中断して数日後にその死が明らかになったのではなかったか。とすると、自殺だと思うのだが、ネットで調べられないのは、近親者がその事情について口を閉ざしているのかと思う。
ただ、その突然の死の原因(死因)がさっぱり分からないのも不思議である。確か、ツィッターが中断して数日後にその死が明らかになったのではなかったか。とすると、自殺だと思うのだが、ネットで調べられないのは、近親者がその事情について口を閉ざしているのかと思う。
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今更だけど『ハサミ男』(殊能将之著・講談社文庫)を読了。連続殺人鬼「ハサミ男」が、自分と同じ手口で女子高生を殺した犯人を追う、「連続殺人鬼が探偵役」という妙味のある趣向。何を書いてもネタバレになりそうで、ただもう「お見事」と言うしかない。「ハサミ男」を追う目黒西署の刑事たちもいい。
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冬山想南
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