映画の出来はともかく役者さんが路上でパンツの中に手を入れてボリボリ掻いて「あ〜インキン痒か〜」でもう正視できなかった。
映画というのはもともと絵空事を「本物風に味付けして」見せるものであり、それを「こんなの絵空事じゃん」と思いながら見たら即座に崩壊する世界である。
逆に「絵空事は絵空事として面白ければいいじゃん」というのがアニメである。実写では不可能な描写や実写だと汚らしくなる対象が抵抗感無く見られるようになる。「NEW GAME!」など、現実には汚らしい親父たちがブラック企業でこき使われる話で、それを実写でやったら悲惨で醜いだけだろう。最近の萌え絵アニメのほとんどは、女の子たちを不細工にしたり男の話にしたら成立しない話ばかりである。
フィクションの中でリアリズムが大事なのは、「そこをリアリズムで描かないと子供でもアホ臭く思うだろう」という部分だけだ。
たとえば、私が子供のころに見た日活映画だと、喧嘩の場面で、拳が当たってもいないのに相手が吹っ飛ぶとか、東映時代劇で、まるで踊りでしかないチャンバラ場面などは、子供心に白けたものである。もっと大きなホラだと、たとえば東映SF映画などで地球に彗星がぶつかるから地球に噴射機をつけて軌道から動かす、という大法螺など、まったく抵抗感なく見られたのだ。
つまり、設定自体が空想的なフィクションだという前提ならどんなに非現実的でもいいが、日常的な部分のデティールこそリアリズムが大事だ、ということである。
ただし、日常性のリアリズムと言っても、下のツィートにある「パンツの中に手を入れてボリボリ掻いて『あ~インキン痒か~』」を実写でリアルに描いてそれを面白いと思う観客がDQN以外にいるか、という話だ。要するに、作り手自身がDQNだから実写と漫画の違いを理解していないのである。
実写化で成功した漫画は、非常に少ないのだ。
逆に「絵空事は絵空事として面白ければいいじゃん」というのがアニメである。実写では不可能な描写や実写だと汚らしくなる対象が抵抗感無く見られるようになる。「NEW GAME!」など、現実には汚らしい親父たちがブラック企業でこき使われる話で、それを実写でやったら悲惨で醜いだけだろう。最近の萌え絵アニメのほとんどは、女の子たちを不細工にしたり男の話にしたら成立しない話ばかりである。
フィクションの中でリアリズムが大事なのは、「そこをリアリズムで描かないと子供でもアホ臭く思うだろう」という部分だけだ。
たとえば、私が子供のころに見た日活映画だと、喧嘩の場面で、拳が当たってもいないのに相手が吹っ飛ぶとか、東映時代劇で、まるで踊りでしかないチャンバラ場面などは、子供心に白けたものである。もっと大きなホラだと、たとえば東映SF映画などで地球に彗星がぶつかるから地球に噴射機をつけて軌道から動かす、という大法螺など、まったく抵抗感なく見られたのだ。
つまり、設定自体が空想的なフィクションだという前提ならどんなに非現実的でもいいが、日常的な部分のデティールこそリアリズムが大事だ、ということである。
ただし、日常性のリアリズムと言っても、下のツィートにある「パンツの中に手を入れてボリボリ掻いて『あ~インキン痒か~』」を実写でリアルに描いてそれを面白いと思う観客がDQN以外にいるか、という話だ。要するに、作り手自身がDQNだから実写と漫画の違いを理解していないのである。
実写化で成功した漫画は、非常に少ないのだ。
-
-
アシさんが某漫画のドラマ化に関して漫画なら可愛い絵柄もあってファンタジーとして見れてた過剰な出来事が生身の俳優が演じると汚らしく見えるというあるある意見。俺は松本零士原作、曽根中生監督の『元祖大四畳半大物語』(80)思い出す。
PR
私は栗本薫のファンではないが、「グイン・サーガ」は日本大衆小説史に残る優れた作品だと思っており、それが未完に終わったのはその欠点でも何でもないと思っている。それは「大菩薩峠」が未完に終わったのと同じことである。逆に、その方が読者の想像力に訴えて魅力を増すとすら言えるだろう。
「グイン・サーガ」の場合は、どう終わるかより、途中途中のエピソードや描写のほうが主な魅力なのである。冗長さを言うならば、むしろ序盤のほうに冗長な描写は多い。これは作者が推敲というものを(頭脳内での推敲ではなく、書いたものの推敲を)まったくせず、特に、冗長な部分の削除という作業をまったくしなかったからだろう。と言うのは、作者は一番最初に「世界で一番長い小説を書く」と言明していたからである。
ところが、そういう「雑な」書き方にもかかわらず、書かれた人物が生きて躍動している、というのがこの小説の素晴らしいところである。まあ、当人が言っているように、創作の神が降りてきて、彼女は自動書記状態で書いていたと思う。
私がこの一文を書いたのは、下のツィートなどを読んで、「グイン・サーガ」は出来の悪い小説だと誤解する人がかなり出てくるだろうと思うからである。物語を完結させることに過大な意味を求めるべきではない。物語の元である現実人生には死以外には「完結」など無いではないか。物語の「完結」のほうがむしろご都合主義だとすら言えるのである。
「グイン・サーガ」の場合は、どう終わるかより、途中途中のエピソードや描写のほうが主な魅力なのである。冗長さを言うならば、むしろ序盤のほうに冗長な描写は多い。これは作者が推敲というものを(頭脳内での推敲ではなく、書いたものの推敲を)まったくせず、特に、冗長な部分の削除という作業をまったくしなかったからだろう。と言うのは、作者は一番最初に「世界で一番長い小説を書く」と言明していたからである。
ところが、そういう「雑な」書き方にもかかわらず、書かれた人物が生きて躍動している、というのがこの小説の素晴らしいところである。まあ、当人が言っているように、創作の神が降りてきて、彼女は自動書記状態で書いていたと思う。
私がこの一文を書いたのは、下のツィートなどを読んで、「グイン・サーガ」は出来の悪い小説だと誤解する人がかなり出てくるだろうと思うからである。物語を完結させることに過大な意味を求めるべきではない。物語の元である現実人生には死以外には「完結」など無いではないか。物語の「完結」のほうがむしろご都合主義だとすら言えるのである。
- 山本貴嗣 @atsuji_yamamoto 7時間7時間前
-
やはり「一人ペリー・ロ●ダン」の荒行は無理があったか;>RT
-
6件の返信 3件のリツイート 17 いいね
-
今後は興味のあるツイートがもっと表示されるようになります。 取り消す取り消す
-
山本貴嗣さんがリツイート
-
そう思います。 100巻に至る随分手前で、100巻での完結を投げた、と感じました。 作者の気持ちはどうであれ、読み手としては物語に冗長さを感じて離れてしまいましたね。https://twitter.com/komorikentarou/status/1162975779690409985 …
-
-
3件の返信 22件のリツイート 27 いいね
-
私は「ハサミ男」を読む前から殊能将之のツィッターが好きで、実に頭のいい人だなあ、と思っていたので、その突然の死が残念でならない。作品としては、「ハサミ男」は傑作だが、他の作品は数作読んだ限りではその域に達していない。まあ、風変わりな味はあった。なお、アブラム・デイビッドスンが好きだったらしく、その作品集の翻訳もしているが、私にはさほどの作家とも思えなかった。殊能氏は独学でフランス語を勉強してフランスの推理小説の翻訳もしていたと思うが、世の中には実に能力の高い人もいるものだ。
ただ、その突然の死の原因(死因)がさっぱり分からないのも不思議である。確か、ツィッターが中断して数日後にその死が明らかになったのではなかったか。とすると、自殺だと思うのだが、ネットで調べられないのは、近親者がその事情について口を閉ざしているのかと思う。
ただ、その突然の死の原因(死因)がさっぱり分からないのも不思議である。確か、ツィッターが中断して数日後にその死が明らかになったのではなかったか。とすると、自殺だと思うのだが、ネットで調べられないのは、近親者がその事情について口を閉ざしているのかと思う。
-
-
今更だけど『ハサミ男』(殊能将之著・講談社文庫)を読了。連続殺人鬼「ハサミ男」が、自分と同じ手口で女子高生を殺した犯人を追う、「連続殺人鬼が探偵役」という妙味のある趣向。何を書いてもネタバレになりそうで、ただもう「お見事」と言うしかない。「ハサミ男」を追う目黒西署の刑事たちもいい。
戦艦大和に関する軍事オタクのスレッドコメントの一部だが、「大艦巨砲主義」の根本的誤りを見事に指摘している。そもそも、巨砲主義というのは、「敵の弾の届かない遠距離から撃って、こちらの弾は相手に当てたい」という素朴な考えだが、移動する相手に遠距離から撃っても、弾が相手に届くころには相手は移動しており、その移動位置を予測して撃っても、まず当たるはずはない。つまり、盲撃ちみたいなものだ。基本を考えただけでも巨砲主義の愚かしさは分かるはずだが、当時の海軍上層部は日露戦争の日本海海戦の幻想に囚われ続けていたのである。
29: 天王星(神奈川県) [BR] 2019/08/13(火) 19:44:39.17 ID:/opGhUAt0
あの大砲は対地攻撃にこそ有効だった
動く標的に長距離で撃っても当たらない
動く標的に長距離で撃っても当たらない
768: ベガ(山城・丹波・丹後國) [US] 2019/08/14(水) 07:23:52.60 ID:W36dbRxh0
>>29
これだわ
これだわ
プロフィール
HN:
冬山想南
性別:
非公開
カテゴリー
最新記事
P R