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人間の目は、白黒の絵を見ると、黒いのが描かれた部分で、白い部分は余白だと見る先入観(あるいはメカニズム)があるのかもしれない。
この絵の場合は、馬の輪郭が一本線でないことと、輪郭線以外にも意味不明の黒線が多いのが、錯視の原因だろう。


小学校の図書館で借りて生まれて初めて読んだ宮澤賢治の童話集。先日古本屋で50年ぶりくらいに再開したんですが恐ろしいことに表紙に馬が描かれてることに初めて気がついた。子供の頃はなんか線がモジャモジャしてる抽象的な絵だとばかり思ってた。何回も繰り返して読んだのになー。













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冒頭にナレーションなどで状況説明をするというのは、言われてみれば悪手かもしれない。観客(読者)はそれを記憶して先に進むしかないわけだから、観客(読者)に過剰な負担をかけるわけである。
私はついこの間、山田風太郎の「忍法八犬伝」を読み、それが面白かったので、市民図書館で山田風太郎の他の作品を探して、「飛騨忍法帖」というのを借りてきたのだが、冒頭部分にいきなり六人もの名前が出てきて、少しうんざりした。まあ、忘れたら忘れたでいいさと気楽に読めばいいのだが、やはりどこかに「自分は雑な読み方をしている」という気の重さが残るわけである。これは娯楽小説としては欠点だろう。
これが「水滸伝」などだと、登場人物は主要人物だけでも108人と多いのだが、ひとつひとつの話の登場人物は少なく、あまり名前を覚える必要はないし、自然に覚えるのである。やはり、古典的な大衆小説は「人間の生理」というのをよく分かっている。
まったく状況説明をしない代表例が「エバンゲリオン」で、あれは最後まで説明をしなかった。それでも、キャラが立っていたので、視聴者は、その回その回を単独で楽しめたのである。

私は、大衆小説や漫画や映画の「基本的な(あるいは一番重要な)教え」として、「説明するな。描写しろ」という指針がある、と思っている。説明とは、観客や視聴者の想像力や理解力を信頼していない、ということなのである。




(以下引用)

テレビアニメ『母をたずねて三千里』には、冒頭、何も考えずに状況説明ナレーションを入れる愚挙を戒められた。 
ナレーションに頼るのは、楽に『描いた』気になれる罠がある。 
(使わなくはないが、ページの圧縮と、リズム作りだな)
















いや、実にどうでもいい話なのだが、昭和52年に買って今年平成19年(だったか?)まで乗っていたとしたら、30年間使っていたわけで、年あたり800キロしか乗っていない。1日当たり2キロか3キロである。歩ける距離だろうwww
私など、自動車は下駄代わりとしか思っていなかったから、初心者のころは、どこかに軽くぶつけたりこすったりは当たり前だった。だが、まあ、こういう骨董品を買う方も買う方である。



昭和52年に新車で買い、大事にしておられた車輌買取ました!実走2万4000キロ。鳥肌レベルに綺麗すぎて大事にしてたのが伝わりますた。。引き上げ時オーナーさんの寂しそうな顔を見て感情移入で泣きそうになったのは秘密。










山本貴嗣が、あれほど長い間漫画家をやっているのにヒット作らしい作品がほとんど無い理由はこの辺にあるのではないか。つまり、自分以外の人間の心理に対する共感や同情や想像力が本質的に欠けているように思う。たとえば、「好きな人もいっしょにいる」というのは個人的な話であり、それによって一般人の多くが抱えている孤独や不満足感を切り捨てていいはずがない。
いや、切り捨ててもいいが、そうした人間が描く作品もまた他人からは切り捨てられるのではないか。
まあ、他人に受け入れられなくても、自分は自分の好きな作品を描く、というのなら、それは商業誌に載せる作品ではなく、いくら技術が高かろうが精魂込めようが、趣味の作品だろう。熟達度の高いヘンリー・ダーガーである。つまり、書いた作品をひとつも外に出さず、自分のアパートの中で膨大な紙(作品)に埋もれて死んでいくのと本質的には同類であるわけだ。
ちなみに、彼の作品はエロと暴力の描写が多い作品だとそのツィッターに載る絵を見ると想像できるが、エロと暴力は大衆的人気を得るもっとも確実なテーマであるにも関わらず、彼の名前が世間的にほとんど知られていない理由は、単純に「これは俺(わたし)には面白くない。肌が合わない」と感じる漫画ファンが多いからだと思う。
逆に、自分の趣味に徹底的にこだわり、売れても売れなくてもいいという姿勢を一生続けていくのも、生き方としては悪くはないだろう。まあ、(自己批判能力の欠如による)自己満足という無形の檻の中で生きる人生ではあるが、自分が幸福と思えば幸福なのである。本人が「閉じ込められた監獄から脱出する話もどうでもいい」と既に書いているのは、自分自身の「無形の檻」を無意識に感じて、自己防衛の予防線を張っているのかもしれない。




  1. 同じ理由で、閉じ込められた監獄から脱出する話もどうでもいい。すばらしいできなのかもしれないが。や、中学のころ映画館で見た「パピヨン」は感動したけど。

  2. 時空を超えて成人が学生になる設定、あの頃はよかったと思う人にはいいかもだけど、金も時間も自由にならないし好きな人もいっしょにいる今とくらべて何一ついいことないので、なぜそんな夢のない設定から始めないといけないのかと思って興味がわかない。いいのは体力と生活の心配がないくらいか。









前回に書いた記事に関する補足だが、ブラックホールを「もう一つの宇宙への入り口」と考えるなら、SF的には面白いかもしれない。数学での「正の数と負の数」のように、ブラックホールの向こう側には「負の宇宙」が存在する、という考えだ。この地球から突然消えた存在は、地球上の小さなブラックホールを通って「負の宇宙」へ転送されたわけである。まあ、ドラえもんの「どこでもドア」の一形態とも言える。『漂流教室』なども、それ。
向こう側の世界では、すべてが反転している、というアイデアもあるが、それだと内臓が外にあるような生き物が存在したりしてグロである。まあ、「すべてが反転」ではなく、数学的な世界や物理現象の多くが反転する、というのならいいかもしれない。
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