忍者ブログ
[136]  [137]  [138]  [139]  [140]  [141]  [142]  [143]  [144]  [145]  [146
某ブログから取ったものだが、そのブログでは宦官が「皇帝付きの奴隷」とか書かれていて、その表現はどうなのかな、と思う。「奴隷」という言葉の印象とは異なり、宦官とは皇帝の側近であり、大きな権力を持っていたからだ。つまり、「国王への奏上者が大臣などより大きな権力を持つ」という、古代から中世にかけてよく見られた現象である。国王というものは、二代目以降になると自分の遊楽にしか興味が無い人間も多いから、政治的な進言など「聞いても理解できない」わけである。「帝王学」などというのは後世の作り話だろう。
そもそも、大臣たちも別に「国民」のことなど考えてはいない。「税収の貢ぎ手」としての国民を「生かさず殺さず」に維持しないと特権階級である自分たちの存続も危うくなるという最低限の常識を持っていただけにすぎない。ところが、二代目三代目の国王にはその常識も無く、自分は生まれつき栄耀栄華を与えられており、すべての人間は自分に奉仕して当然だ、と思っているわけだ。政治などは「誰かが適当にやればいい」としか思わない。だから、悪大臣に政治の実権を握られたりする。悪大臣も、賢い人間だと、国王になるより、馬鹿な国王を飾り物にしているほうが得であると分かるから、大臣としての権力をふるっていわゆる「苛斂誅求」の残酷な政治を行い、国民の怨嗟を買う。やがて山賊のような連中が蜂起して政府を倒し、新王朝を打ち立てる。そして、以下、同じループである。
なお、「王座のゲーム」とは「ゲームオブスローンズ」の訳だが、あのテレビ映画(と言うべきだろう。)にも「国民」はまったくと言っていいほど登場しない。それが当然なのである。昔の政治に「国民(人民)などいない」のが当たり前で、政治とは権力をめぐる武力と陰謀の闘争しか意味しない。庶民とは「弱者」であり、軽蔑と収奪の対象でしかないのである。言い換えれば、上級国民の目には下級国民すべてが「奴隷」だったのである。(今でも内心ではそうかもしれないwww)



宦官を写した写真はいくつか残されています。例えば、次の写真は皇帝溥儀の寝所であり生活空間である養心殿の管理を任された太監たちです。


左から楊子真(養心殿禦前太監)、王鳳池(養心殿東夾道二帶班)、劉興橋(養心殿禦前太監)。王鳳池は宣統帝溥儀の同性愛のパートナーとして知られています。

宦官は、清朝が倒れた後も廃帝溥儀の暮らす紫禁城で彼に仕え、偽満州国建国とともに新京(長春)にも移り、中華人民共和国の時代になっても生き続けました。宦官の写真の中で、恐らく世界で一番有名なのは、「決定的瞬間」で知られるアンリ・カルティエ=ブレッソンによって、1948年、中華人民共和国建国前夜に北京で撮られた次の写真でしょう。


アンリ・カルティエ=ブレッソン「中国宮廷の宦官、北京、1948年」

確か大阪芸大だったかがブレッソンのコレクションを持っていて、まとめて展覧会をしたときこの写真を見ました。題名がないと「おばあさん」と間違えたでしょう。、


PR



「麒麟がくる」という題名も、明智光秀を主人公にするというのも「失敗の匂い」が最初からするので見ていないが、見なくて正解だったか。そもそも、「麒麟がくる」というのは麒麟児(秀才)を迎える側の言葉や心理であり、期待感である。では、それは誰の言葉や心理なのか。普通に考えれば、織田信長だろう。では、織田信長は明智光秀をそれほどの期待感で麾下に迎えたのか。そうかもしれないし、そうでないかもしれない。しかし、それが失望に終わったことは確実である。ならば、この「麒麟がくる」とは、「実現されなかった空しい期待」を意味するわけで、視聴者がそれを無意識に感じ取るだろうという私の推定は無理だろうか。そもそも、明智光秀を「麒麟」(だった)と思う人間がどれだけいるか。
いや、「麒麟」とは、「麒麟児」ではなく、国家の瑞祥だ、とするなら、織田信長は明智光秀を迎えたことで天下布武への足掛かりをつかんだ、という話になるが、そんな史実はまったくないだろう。
まあ、単にフィクションとしてでも、明智光秀のような「裏切り者」を主人公にするというのは、大冒険である。庶民は、そういう「暗い人間」を嫌うからだ。老年期の好色性や残忍さが知られるようになったとはいえ、秀吉とは明るさが段違いだ。
私は大久保利通を、近代日本を作った一番の功績者だと思っているが、彼を主人公にした大河ドラマを作るのは無理だろう。それも、「明るさ暗さ」の問題だ。



その他

「戦のない世の中」のために戦う主人公というのは大河ドラマでは月並みなんだけど、戦国武将である以上、結局戦乱のなかに埋没する人生を歩むことになる。その根本的な矛盾と葛藤にきちんと向き合って描けるのか? 第1話を見る限り正直期待薄し…

このスレッドを表示
取り消す
  • さんがリツイート
    13時間前

    自領が野盗の襲撃を受けるとか、売られていく女子供を見かけたとか、行きずりの少女が火事に巻き込まれるとか、戦乱の被害といっても所詮他人事のエピソードにしかなっていない。もっと親密な人や自分自身が傷ついて、戦の痛みと悲しみが骨身にしみるようなエピソードが必要だったと思う。

    このスレッドを表示
    取り消す
  • さんがリツイート
    13時間前

    例えば、望月医師との会話。なぜか誇りがどうのと語っていたけど、そこはベタでも「武士は人殺しだから看てやらん。刀や鉄砲を提げたまま人を助けてくれと頼むのか?」みたいに言わせればテーマとも直結するし、以前は女子供を見棄てた光秀が今度は火に飛び込んで子供を助ける理由にもなろうに。

    このスレッドを表示
    取り消す
  • さんがリツイート
    13時間前

    「麒麟がくる」2日たってもモヤモヤしてるので吐き出すことにする。 人殺しの道具である鉄砲を手に入れてはしゃいでるような奴が戦乱のない世を本気で願ってるとは到底思えないんだよ。 女子供が戦争捕虜として売られていくのを見て見ぬ振りするような奴が。 主人公のキャラが成立していない。

    このスレッドを表示
名前は知っていたが忘れた。それよりも、このナイフの柄の形状が、なぜこれなのか、昔から疑問に思っている。この形状である合理的な理由があるだろうか。持ちにくく、強く握れば折れる可能性も高いだろう。強く握れないから力をこめて刺すのも切るのも難しいのではないか。メリットがまったく分からない。
このナイフに限らず、世界の刃物の中には不合理と思われる形状のものがたくさんある。刃の部分が波型の刃物などもそれだ。あれでは鞘に入れるのも抜き出すのも不可能だろう。鞘を最初から考えず、戦争時にしか使わないのだろうか。それでも、波型である理由が分からない。「芸術性」かww





  1. さんがリツイート

    これの正しい名前をしっている人はオタクとみていい

  2. さんがリツイート





「シロクマの屑籠」というブログの記事の一部である。
敗戦末期の陸軍と海軍の分裂状態が無くても日本は負けたとは思うが、海軍の勝手な行動が南洋の島々の陸軍兵士たちを飢餓と病気による大量死に追い込んだのは間違いない。その意味では、戦後に海軍関係者によって流された「陸軍悪玉論」は的外れであり、海軍こそが日本の敗戦の主犯だったと言ってよいかと思う。
しかし、中国を既に我が領土と見做していたのが下の地図からも推測できる。軍隊が進出したらそれだけで自国領土と思う甘さが見て取れる。まあ、一番最初の戦略構想そのものがいい加減すぎたのである。日本のような小国が「大和魂(兵士の勇敢さ)」だけでこれだけの広い範囲で戦えると思うこと自体がキチガイである。
将棋の盤面を四倍くらいにし、相手はこちらの四倍から十倍の駒を持って勝負して勝てるか、という話だ。もちろん、相手の王将も四つか五つくらいあるわけだ。


 

 

 
 令和の絶対国防圏。
 
 もう、タイトルだけで言い切ってしまったような気がするが、令和時代の日本は、絶対国防圏の頃の日本になんだか似ていると思う。
 
 絶対国防圏とは、アメリカの反攻作戦を受けて1943年9月の御前会議で決まった「絶対に守るべき」「ここが破れたら敗戦確定」とみなされた防衛ラインのことだ。
 
 しかし上の地図をみていただいてもわかるように、この絶対国防圏、えらく範囲が広い。絶対国防圏が本土からみて南南東の方向に大きく張り出しているのは、ここにカロリン諸島などが含まれるためだが、こんなに広い範囲を絶対国防するのはかなり無理がある。
 

昭和の歴史〈7〉太平洋戦争 (小学館ライブラリー)

昭和の歴史〈7〉太平洋戦争 (小学館ライブラリー)

  • 作者:木坂 順一郎
  • 出版社/メーカー: 小学館
  • 発売日: 1994/09
  • メディア: 新書
 
 小学館『昭和の歴史7 太平洋戦争』では、絶対国防圏を決定する御前会議について、以下のように記している。
 

けっきょく陸軍の「絶対国防圏」思想と海軍の前方決戦主義という戦略構想の不一致をかかえたまま、九月三〇日の御前会議でつぎのような「今後採るべき戦争指導の大綱」が決定された。
(中略)
 そのため「絶対国防圏」の東側地域に展開していた約三〇万の陸海軍部隊は、置き去りにされ、やがて各地で守備隊玉砕の悲劇があいつぐ素地がつくられた。しかもこの御前会議では、「絶対確保圏を確保する自信があるのか」という原嘉道枢密院議長のきびしい質問にたいし、永野軍令部総長が「絶対確保の決意あるも勝敗は時の運である。……今後どうなるか判らぬ。戦局の前途を確言することは出来ぬ」と答えたため議場がにわかに緊張し、東条首相と杉山参謀総長があわてて打ち消すという一幕がみられた。軍部の最高指導者の一部は、戦局の見通しに自信をうしないはじめていた。

 
 絶対国防圏と名付けたものの、指導部もこれを守り切る自信が無かったようだ。そのうえ海軍は絶対国防圏の外側に固執し、サイパンやグアムの防衛にあまり力を入れていなかった。
 
 あれもこれも守りたい・どれも捨てられない意思決定の結果として、絶対国防圏は絵に描いた餅のような内容になり、アメリカ軍という現実によって粉砕されてしまった。
 








ヒロイズムから騎士道精神や他者への献身を取り去れば、「プリミティブなマッチョイズム」、つまりジャイアンイズムになるのではないか。「空手バカ一代」に憧れて極真会館に入る類である。それがヤクザ礼賛になると社会悪にもなる。
小田嶋師のような感性は正常であるはずだが、DQN嫌悪と同様にむしろ異端視されるのがこの世界である。インテリでも精神的にはDQNという人間は案外多い。さらに、「女性のマッチョイズム」もあるし、女性の精神的DQNは膨大にいるだろう。
最近は「正義は相対的なものだ」という意見から出発して「正義など無意味だ」という考えになり、それが「力こそすべてだ」というプリミティブなマッチョイズムになっている傾向があると思う。


余談だが、80年代当時は、プロレスファンを公言することで「オレはそこいらへんの硬直したインテリとは違うんだぜ」てなことをアピールする実にイヤミったらしい文化人がいたものなのが、00年代以降になると、アイドルをネタによく似た自己演出を試みる人間が登場しはじめた気がしている。

  • 「公開当時はそれはそれで立派な映画だったのだろうな」とは思うものの、私が実際に見たのは1990年代以降だったので、ひとつひとつのエピソードの底に流れる精神性や、場面の演出手法の浅薄さにあきれた。「はいはい強い強いw」という感じかな。

    このスレッドを表示
    取り消す
  • 5時間前

    ついでに言えばだけど、「実録モノ」と呼ばれた「仁義なき戦い」以前の、いわゆる「任侠モノ」の一連のヤクザ映画(「昭和残侠伝」とか「唐獅子牡丹」とか)については、ほとんど共感を感じることができない。というよりも、ちゃんちゃらおかしくて見ていられない。

    このスレッドを表示
    取り消す
  • 5時間前

    だからたとえば「ゴッドファーザー」のような隅から隅まで完璧に作劇されている素晴らしい作品を見ても、いくつか「なにをイキがってるんだか」と、口を曲げて笑いたくなる場面を発見してしまう。因果なことだと思っている。

    このスレッドを表示
    取り消す
  • 5時間前

    たぶん私は、プリミティブで率直なナマのマッチョイズムを嫌っている以上に、意図的かつ演劇的に再構成されたエンターテインメントとしてのマッチョイズムに敵意を抱いているのだと思う。自分ながらやっかいな感情だとは思うものの、きらいなものはきらいで、これはもうどうしようもないのだよ。

    このスレッドを表示
    取り消す
  • 6時間前

    もう十分に時間が経過して、ほとぼりがさめたと思うので、あらためて蒸し返しておきたいのだが、私がプロレスに対して冷淡だった理由の大きな部分は、「一周回ってプロレスの味方であることを言明してみせるインテリ」の口吻のうさんくささに辟易していたからです。まあ、みんな死んじゃったけど。

    このスレッドを表示
    取り消す
  • 6時間前

    ずっと若い頃、プロレスに冷淡なものの言い方をしたことで、幾人かの知人と疎遠になってしまった。なので、ある時期から、この娯楽(なのか興業なのかスポーツなのか演劇なのかということも含めて)には、なるべく言及しないように心がけてきた。あれは、実にやっかいな話題だった。

    このスレッドを表示
<<< 前のページ 次のページ >>>
プロフィール
HN:
冬山想南
性別:
非公開
P R
忍者ブログ [PR]

photo byAnghel. 
◎ Template by hanamaru.