例のサイトの解説部分で、多くの氏族が名前の由来を偽っているという理由で天皇がクガタチを命じる話だが、下の解釈は「クガタチ」というものに実に合理的な説明を加えていて感心した。
同じ行為でも、時間的順序で明確な差が出る、ということ、「時間差」という「目に見えないもの」を利用する、というのは実に狡猾である。この詐欺に不満の声を上げた人間は、その反抗自体がケシカランとして処罰されたのではないか。中世西洋の魔女裁判も同じだっただろう。つまり、「権力犯罪」である。
(以下引用)
そこで、お湯を沸かして、次々に手を突っ込んでいった。泥を掴んでくれば「正しい」。火傷すれば「嘘をついていた」となります。
おそらく、お湯を炊き始めて、順番に有力者から探湯(クカタチ)をしていった。当然、火をつけて間もなくはお湯の温度は低いので、最初の氏族は問題が無かった。しかし、徐々にお湯の温度があがり、弱小氏族は火傷をしていった。そのまま弱小氏族は氏姓を失った。
同じ行為でも、時間的順序で明確な差が出る、ということ、「時間差」という「目に見えないもの」を利用する、というのは実に狡猾である。この詐欺に不満の声を上げた人間は、その反抗自体がケシカランとして処罰されたのではないか。中世西洋の魔女裁判も同じだっただろう。つまり、「権力犯罪」である。
(以下引用)
そこで、お湯を沸かして、次々に手を突っ込んでいった。泥を掴んでくれば「正しい」。火傷すれば「嘘をついていた」となります。
おそらく、お湯を炊き始めて、順番に有力者から探湯(クカタチ)をしていった。当然、火をつけて間もなくはお湯の温度は低いので、最初の氏族は問題が無かった。しかし、徐々にお湯の温度があがり、弱小氏族は火傷をしていった。そのまま弱小氏族は氏姓を失った。
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前回引用した文章にこういう部分がある。
韓国式銅剣文化は紀元前5世紀頃から韓半島の清川江以南部地域を中心に発展していた青銅器文化に青銅器時代後期またはこの時期から鉄器が使用されはじめたことから初期鉄器時代とも呼ばれます。代表的な青銅遺物には刃部が直線的に伸びる韓国式銅剣をはじめ銅矛、銅戈のような武器と精文鏡、各種鈴類などの儀器があります。
つまり、朝鮮半島は紀元前五世紀のころには日本より「戦争の先進国」だったということであり、だからこそ大和朝廷が日本の支配政権になったのだろう。
なお、古代史における朝鮮半島は小さな集団が群立していただろうし、その総体を表すには「朝鮮」という呼び名と「朝鮮人」という呼び名しか適合しないわけで、私がいつもブログに「朝鮮」とか「朝鮮人」と書くのに差別的な意味はまったく無い。それが差別なら、日本を日本と言い、日本人を日本人と言うのも差別である。
韓国式銅剣文化は紀元前5世紀頃から韓半島の清川江以南部地域を中心に発展していた青銅器文化に青銅器時代後期またはこの時期から鉄器が使用されはじめたことから初期鉄器時代とも呼ばれます。代表的な青銅遺物には刃部が直線的に伸びる韓国式銅剣をはじめ銅矛、銅戈のような武器と精文鏡、各種鈴類などの儀器があります。
つまり、朝鮮半島は紀元前五世紀のころには日本より「戦争の先進国」だったということであり、だからこそ大和朝廷が日本の支配政権になったのだろう。
なお、古代史における朝鮮半島は小さな集団が群立していただろうし、その総体を表すには「朝鮮」という呼び名と「朝鮮人」という呼び名しか適合しないわけで、私がいつもブログに「朝鮮」とか「朝鮮人」と書くのに差別的な意味はまったく無い。それが差別なら、日本を日本と言い、日本人を日本人と言うのも差別である。
国立博物館ホームページから転載。
写真の銅剣の形状は日本でこれまで出土した銅剣とほぼ同じで、銅剣は朝鮮半島から(銅剣のオリジナルは中国で、朝鮮半島は経由地にすぎないかもしれないが)日本に伝わったと見ていいのではないか。
そして、その金属の「柄」(中子?)の部分が異常に短いのは、これが木製の柄に付けて用いられたこと、そして、ここが重要だが、その金属の中子(と言ったか、木製の柄に収まる部分だ)の極端な短さは、これが「剣」ではなく、「槍」として用いられた事実を示すだろう。つまり、木製の柄の部分が後世発見されていないのは、金属部分だけが貴重品として特別に保管され、木製柄の部分は腐食して消滅したのだと思う。仮にこれが「剣」だったなら、横方向の打撃に耐えきれず、刀身が柄から即座に抜けて使用不可能になっただろう。刺突に用いる槍だから、打撃が縦方向で、木に埋める部分(中子)は短くても良かったのである。
なお、銅剣が祭祀のためのものだったという説は私は採らない。祭祀用なら、あれほどの数が作られたはずがない。数が増えれば「有難み」は減る道理である。たとえば「草薙の剣」が三つも四つも百以上もあったら、誰が有難がるか。
と書いた後で、写真の「銅剣」の形状(一見刃に見える部分の下から十センチくらいのところにすべてわずかな窪み、あるいは小さな欠落がある。)を見て、考えが変わった。
つまり、私は、「刃」に見える部分がすべて実際に刃だったと考えて、上記のことを書いたのだが、実は、一見刃に見える部分の一番下の十センチくらいは、木の柄に埋め込まれた、とすれば、やはり「銅剣」だったと見るのが正解かもしれない。つまり、丸い中子だけだと木の柄の中で刀身が回ってしまう(つまり、刃の向きが安定しない)可能性があるので、刀身が柄の中で回らないように、刀身の下十センチくらいは柄に埋め込んだ可能性がある、というわけだ。中心部を円筒状に少しくり抜いた二枚の木の柄で剣の両側から挟み、紐で柄全体をきつく巻くような形態だったのではないか。
(以下引用)
写真の銅剣の形状は日本でこれまで出土した銅剣とほぼ同じで、銅剣は朝鮮半島から(銅剣のオリジナルは中国で、朝鮮半島は経由地にすぎないかもしれないが)日本に伝わったと見ていいのではないか。
そして、その金属の「柄」(中子?)の部分が異常に短いのは、これが木製の柄に付けて用いられたこと、そして、ここが重要だが、その金属の中子(と言ったか、木製の柄に収まる部分だ)の極端な短さは、これが「剣」ではなく、「槍」として用いられた事実を示すだろう。つまり、木製の柄の部分が後世発見されていないのは、金属部分だけが貴重品として特別に保管され、木製柄の部分は腐食して消滅したのだと思う。仮にこれが「剣」だったなら、横方向の打撃に耐えきれず、刀身が柄から即座に抜けて使用不可能になっただろう。刺突に用いる槍だから、打撃が縦方向で、木に埋める部分(中子)は短くても良かったのである。
なお、銅剣が祭祀のためのものだったという説は私は採らない。祭祀用なら、あれほどの数が作られたはずがない。数が増えれば「有難み」は減る道理である。たとえば「草薙の剣」が三つも四つも百以上もあったら、誰が有難がるか。
と書いた後で、写真の「銅剣」の形状(一見刃に見える部分の下から十センチくらいのところにすべてわずかな窪み、あるいは小さな欠落がある。)を見て、考えが変わった。
つまり、私は、「刃」に見える部分がすべて実際に刃だったと考えて、上記のことを書いたのだが、実は、一見刃に見える部分の一番下の十センチくらいは、木の柄に埋め込まれた、とすれば、やはり「銅剣」だったと見るのが正解かもしれない。つまり、丸い中子だけだと木の柄の中で刀身が回ってしまう(つまり、刃の向きが安定しない)可能性があるので、刀身が柄の中で回らないように、刀身の下十センチくらいは柄に埋め込んだ可能性がある、というわけだ。中心部を円筒状に少しくり抜いた二枚の木の柄で剣の両側から挟み、紐で柄全体をきつく巻くような形態だったのではないか。
(以下引用)
37年ぶりに一堂に会した和順大谷里の青銅遺物
支配者の象徴、韓国式銅剣
青銅器製作技術の極致、精文鏡
剣と鏡、誰がどのように使ったのか?
祭政一致の社会を意味する剣と鏡
仁徳記には、百済からの朝貢があったという記述が多い。一方で新羅へも朝貢の要求はするが、新羅がそれに応じることは少なかったようだ。
大和朝廷発展期に朝鮮の各国の政治体制が整っていなかったのは事実だろうが、では百済や新羅は日本の属国だったのだろうか。日本側はそう思っていただろうが、朝鮮側はどう思っていたか。
私は、百済の王族か地方首長が大和朝廷の祖だと考えているが、それは朝鮮半島の国家体制が日本より進んでいたという意味ではない。単に「戦争慣れした民族」だ、というだけの話である。だから日本の支配者になれたわけだ。そして、日本征服の段階において軍事技術の発展もあったのだろう。だから朝鮮半島にちょっかいも出したのだろうが、そのメリットがよく分からない。土地の産物と言っても、コメの収量が多いわけでもなく、名産品があったとも思えないのだが、養蚕技術や機織り染色などは日本より進んでいたのだろう。そのひとつの答えが、「捕虜」にして、その技術や知識を日本でのさまざまな仕事に使う、というものだ。
大和朝廷発展期に朝鮮の各国の政治体制が整っていなかったのは事実だろうが、では百済や新羅は日本の属国だったのだろうか。日本側はそう思っていただろうが、朝鮮側はどう思っていたか。
私は、百済の王族か地方首長が大和朝廷の祖だと考えているが、それは朝鮮半島の国家体制が日本より進んでいたという意味ではない。単に「戦争慣れした民族」だ、というだけの話である。だから日本の支配者になれたわけだ。そして、日本征服の段階において軍事技術の発展もあったのだろう。だから朝鮮半島にちょっかいも出したのだろうが、そのメリットがよく分からない。土地の産物と言っても、コメの収量が多いわけでもなく、名産品があったとも思えないのだが、養蚕技術や機織り染色などは日本より進んでいたのだろう。そのひとつの答えが、「捕虜」にして、その技術や知識を日本でのさまざまな仕事に使う、というものだ。
仁徳天皇(三十三)百衝はいつも軍の右の先鋒に
TWEET Facebook はてブ Google+ Pocket原文
五十三年、新羅不朝貢。夏五月、遣上毛野君祖竹葉瀬、令問其闕貢。是道路之間獲白鹿、乃還之獻于天皇。更改日而行、俄且重遣竹葉瀬之弟田道、則詔之日「若新羅距者、舉兵擊之。」仍授精兵。新羅起兵而距之、爰新羅人日々挑戰、田道固塞而不出。時新羅軍卒一人有放于營外、則掠俘之、因問消息、對曰「有强力者、曰百衝、輕捷猛幹。毎爲軍右前鋒、故伺之擊左則敗也。」時新羅空左備右、於是田道、連精騎擊其左。新羅軍潰之、因縱兵乘之殺數百人、卽虜四邑之人民以歸焉。
現代語訳
即位53年。新羅が朝貢しませんでした。
夏5月。上毛野君(カミツケノキミ)の祖先の竹葉瀬(タカハセ)を派遣して、その朝貢しなかったことを問わせました。この道路(ミチ)の間に白鹿(シロキカ)を獲りました。すぐに帰って天皇に献上しました。それで日を改めて行きました。しばらくしてまた重ねて竹葉瀬(タカハセ)の弟の田道(タジ)を派遣しました。天皇が詔(ミコトノリ)して言いました。
「もし新羅が拒絶したら、兵を挙げて撃て」
精鋭の兵を授けました。新羅は兵を起こして拒絶してきました。新羅人は日々、戦いを挑んできました。田道(タジ)は塞(ソコ=砦のこと)を固めて出ませんでした。その時、新羅の軍の兵卒の一人が営(イオリ=陣営)の外に出ました。それを捕らえました。消息(アルカタチ=内情)を問いました。答えて言いました。
「強力(チカラ)のある人がいます。百衝(モモツキ)といいます。軽く、早く、勇猛で、強い。いつも軍の右の先鋒です。左から撃てば敗れるでしょう」
そこで新羅は左を空けて、右に準備していました。そこで田道は精鋭の騎兵を連ねて、その左を撃ちました。新羅の軍は逃げて潰れました。兵を放って追い、数百人を殺しました。四つの邑の人民を捕らえて帰りました。
夏5月。上毛野君(カミツケノキミ)の祖先の竹葉瀬(タカハセ)を派遣して、その朝貢しなかったことを問わせました。この道路(ミチ)の間に白鹿(シロキカ)を獲りました。すぐに帰って天皇に献上しました。それで日を改めて行きました。しばらくしてまた重ねて竹葉瀬(タカハセ)の弟の田道(タジ)を派遣しました。天皇が詔(ミコトノリ)して言いました。
「もし新羅が拒絶したら、兵を挙げて撃て」
精鋭の兵を授けました。新羅は兵を起こして拒絶してきました。新羅人は日々、戦いを挑んできました。田道(タジ)は塞(ソコ=砦のこと)を固めて出ませんでした。その時、新羅の軍の兵卒の一人が営(イオリ=陣営)の外に出ました。それを捕らえました。消息(アルカタチ=内情)を問いました。答えて言いました。
「強力(チカラ)のある人がいます。百衝(モモツキ)といいます。軽く、早く、勇猛で、強い。いつも軍の右の先鋒です。左から撃てば敗れるでしょう」
そこで新羅は左を空けて、右に準備していました。そこで田道は精鋭の騎兵を連ねて、その左を撃ちました。新羅の軍は逃げて潰れました。兵を放って追い、数百人を殺しました。四つの邑の人民を捕らえて帰りました。
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解説
古事記にはない話
新羅は何回盾突くのやら。その度に、日本は使者を派遣したり、兵を派遣して、鎮圧します。新羅はかなり反抗的だったと。それに対してどうして百済は反抗しなかったのか? むしろ融和したのはなぜか?
新羅は何回盾突くのやら。その度に、日本は使者を派遣したり、兵を派遣して、鎮圧します。新羅はかなり反抗的だったと。それに対してどうして百済は反抗しなかったのか? むしろ融和したのはなぜか?
私が最近日本書紀を読んでいるのは、それを使った創作を考えているためでもあるが、それ以上に、その不自然なところを「解釈」するのが面白いからだ。
下の記述の「(殺される女の)肌を露出させるなよ」「手足の飾りの玉を取るなよ」というのは、「レイプしたりするなよ」という意味ではないか。殺される雌鳥皇女と皇后は姉妹だったので、少しの情けを示したのだろう。
なお、仁徳天皇の仁慈を褒める記述が書紀の仁徳記には多いが、その一方でこのような暗殺や好色な部分も書き残しているのは、そういうのは権力者にとっては当たり前という認識だったのだろう。
史書の常として、「権力者を褒めた部分は大半が嘘」「悪行の記述は事実」と思うのが読書姿勢としては無難だと思う。逆に「敵側の悪行(醜行)の大半は嘘」と考えられる。
下の記述の「(殺される女の)肌を露出させるなよ」「手足の飾りの玉を取るなよ」というのは、「レイプしたりするなよ」という意味ではないか。殺される雌鳥皇女と皇后は姉妹だったので、少しの情けを示したのだろう。
なお、仁徳天皇の仁慈を褒める記述が書紀の仁徳記には多いが、その一方でこのような暗殺や好色な部分も書き残しているのは、そういうのは権力者にとっては当たり前という認識だったのだろう。
史書の常として、「権力者を褒めた部分は大半が嘘」「悪行の記述は事実」と思うのが読書姿勢としては無難だと思う。逆に「敵側の悪行(醜行)の大半は嘘」と考えられる。
仁徳天皇(二十八)雌鳥皇女と隼別皇子の逃避行
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卌年春二月、納雌鳥皇女欲爲妃、以隼別皇子爲媒、時隼別皇子密親娶而久之不復命。於是、天皇不知有夫而親臨雌鳥皇女之殿、時爲皇女織縑女人等歌之曰、
比佐箇多能 阿梅箇儺麼多 謎廼利餓 於瑠箇儺麼多 波揶步佐和氣能 瀰於須譬鵝泥
爰天皇知隼別皇子密婚而恨之、然重皇后之言、亦敦友于之義而忍之勿罪。俄而、隼別皇子、枕皇女之膝以臥、乃語之曰「孰捷鷦鷯與隼焉。」曰「隼捷也。」乃皇子曰「是我所先也。」天皇聞是言、更亦起恨。時隼別皇子之舍人等歌曰、
破夜步佐波 阿梅珥能朋利 等弭箇慨梨 伊菟岐餓宇倍能 娑弉岐等羅佐泥
天皇聞是歌而勃然大怒之曰「朕以私恨、不欲失親、忍之也。何舋矣私事將及于社稷。」則欲殺隼別皇子。時皇子率雌鳥皇女、欲納伊勢神宮而馳。於是、天皇聞隼別皇子逃走、卽遣吉備品遲部雄鯽・播磨佐伯直阿俄能胡曰「追之所逮卽殺。」爰皇后奏言「雌鳥皇女、寔當重罪。然其殺之日、不欲露皇女身。」乃因勅雄鯽等「莫取皇女所齎之足玉手玉。」雄鯽等、追之至菟田、迫於素珥山。時隱草中僅得兔、急走而越山、於是、皇子歌曰、
破始多氐能 佐餓始枳揶摩茂 和藝毛古等 赴駄利古喩例麼 揶須武志呂箇茂
爰雄鯽等知兔、以急追及于伊勢蔣代野而殺之。時雄鯽等、探皇女之玉、自裳中得之、乃以二王屍埋于廬杵河邊而復命。皇后令問雄鯽等曰「若見皇女之玉乎。」對言「不見也。」
比佐箇多能 阿梅箇儺麼多 謎廼利餓 於瑠箇儺麼多 波揶步佐和氣能 瀰於須譬鵝泥
爰天皇知隼別皇子密婚而恨之、然重皇后之言、亦敦友于之義而忍之勿罪。俄而、隼別皇子、枕皇女之膝以臥、乃語之曰「孰捷鷦鷯與隼焉。」曰「隼捷也。」乃皇子曰「是我所先也。」天皇聞是言、更亦起恨。時隼別皇子之舍人等歌曰、
破夜步佐波 阿梅珥能朋利 等弭箇慨梨 伊菟岐餓宇倍能 娑弉岐等羅佐泥
天皇聞是歌而勃然大怒之曰「朕以私恨、不欲失親、忍之也。何舋矣私事將及于社稷。」則欲殺隼別皇子。時皇子率雌鳥皇女、欲納伊勢神宮而馳。於是、天皇聞隼別皇子逃走、卽遣吉備品遲部雄鯽・播磨佐伯直阿俄能胡曰「追之所逮卽殺。」爰皇后奏言「雌鳥皇女、寔當重罪。然其殺之日、不欲露皇女身。」乃因勅雄鯽等「莫取皇女所齎之足玉手玉。」雄鯽等、追之至菟田、迫於素珥山。時隱草中僅得兔、急走而越山、於是、皇子歌曰、
破始多氐能 佐餓始枳揶摩茂 和藝毛古等 赴駄利古喩例麼 揶須武志呂箇茂
爰雄鯽等知兔、以急追及于伊勢蔣代野而殺之。時雄鯽等、探皇女之玉、自裳中得之、乃以二王屍埋于廬杵河邊而復命。皇后令問雄鯽等曰「若見皇女之玉乎。」對言「不見也。」
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現代語訳
即位40年春2月。
雌鳥皇女(メドリノヒメミコ)を後宮に入れて妃としようと思って、隼別皇子(ハヤブサワケノミコ)を媒(ナカダチ)としました。その時に隼別皇子は密かに自ら雌鳥皇女(メドリノヒメミコ)を娶って、報告をしませんでした。それで天皇は雌鳥皇女(メドリノヒメミコ)に夫が居るのを知らないで、自ら雌鳥皇女の住居へと行きました。その時、皇女のために織物を織っている女人たちが歌を歌っていました。
ひさかたの 天金機(アメノカナバタ) 雌鳥(メトリ)が 織る金機(カナバタ) 隼別(ハヤブサワケ)の 御襲料(ミオスヒガネ)
天皇は密かに結婚したことを知り、恨みました。しかし皇后の言葉を重要視して、はばかりました。また友于(コノカミオトト=兄弟間の友情)の義(コトワリ)を篤(アツ)く思っていたので、我慢して罪としませんでした。しばらくして、隼別皇子は皇女の膝枕をして伏せていました。それで語って言いました。
「鷦鷯(サザキ=ミソサザイという鳥の古名=仁徳天皇のこと)と隼(ハヤブサ)ではどちらが速いでしょうか?」
答えて言いました。
「隼が速い」
皇子は言いました。
「これはつまり、私が先んじている所だ(=優れているということ)」
天皇はこの言葉を聞いて、さらに恨みました。そのとき、隼別皇子の舎人たちが歌を歌って言いました。
隼は 天に上り 飛び翔り 齋(イツキ)が上の 鷦鷯(サザキ)取らさね
天皇はこの歌を聞いて、甚だ大いに怒って言いました。
「朕(ワレ)は私的な恨みをもって親族を失いたくは無いから、我慢してきた。どうして舋(キズ=落ち度)があったら、私事の男女の揉め事が国の一大事になってしまうというのか」
すぐに隼別皇子を殺そうと思いました。そのとき、皇子は雌鳥皇女を連れて、伊勢神宮に逃げようと走っていました。天皇は隼別皇子は逃走したと聞いて、すぐに吉備品遲部雄鯽(キビノホムチベノオフナ)と播磨佐伯直阿俄能胡(ハリマノサエキノアタイアガノコ)を派遣して言いました。
「追いついたところですぐに殺せ」
皇后は言いました。
「雌鳥皇女はまことに重い罪にあたる。しかし、殺すときは皇女の(衣服や装飾を取り去り)肌を露わにしないように」
それで雄鯽(オフナ)たちに勅(ミコトノリ)して言いました。
「皇女の身につけている足玉手玉(アシダマタダマ)を取るなよ」
雄鯽たちは追いかけて菟田(ウダ)に到着し、素珥山(ソニヤマ)に迫りました。そのときに草の中に隠れて、僅かに免れることが出来ました。急いで逃げて山を越えました。それで皇子は歌を歌いました。
梯子(ハシタテ)の 険(サガ)しき山も 我妹子(ワギイモ)と 二人越ゆれば 安蓆(ヤスムシロ)かも
雄鯽たちは逃げられたと知って、急いで伊勢の蔣代野(コモシロノノ)で追いついて殺しました。そのときに雄鯽たちは皇女の玉を探って、服の中から得ました。すぐに二人の王(隼別皇子と雌鳥皇女)の屍(カバネ=死体)を廬杵河(イホキガワ)のほとりに埋めて、報告しました。皇后は雄鯽に問うて言いました。
「もしかして、皇女の玉を見ましたか?」
答えて言いました。
「見てません」
雌鳥皇女(メドリノヒメミコ)を後宮に入れて妃としようと思って、隼別皇子(ハヤブサワケノミコ)を媒(ナカダチ)としました。その時に隼別皇子は密かに自ら雌鳥皇女(メドリノヒメミコ)を娶って、報告をしませんでした。それで天皇は雌鳥皇女(メドリノヒメミコ)に夫が居るのを知らないで、自ら雌鳥皇女の住居へと行きました。その時、皇女のために織物を織っている女人たちが歌を歌っていました。
ひさかたの 天金機(アメノカナバタ) 雌鳥(メトリ)が 織る金機(カナバタ) 隼別(ハヤブサワケ)の 御襲料(ミオスヒガネ)
歌の訳(「ヒサカタ」は天に掛かる枕詞)空に舞う雌鳥の金機(カナバタは金属部分のある機織り機)で、雌鳥が織るよ。金機で織るよ。隼別が着る服を織るよ。
天皇は密かに結婚したことを知り、恨みました。しかし皇后の言葉を重要視して、はばかりました。また友于(コノカミオトト=兄弟間の友情)の義(コトワリ)を篤(アツ)く思っていたので、我慢して罪としませんでした。しばらくして、隼別皇子は皇女の膝枕をして伏せていました。それで語って言いました。
「鷦鷯(サザキ=ミソサザイという鳥の古名=仁徳天皇のこと)と隼(ハヤブサ)ではどちらが速いでしょうか?」
答えて言いました。
「隼が速い」
皇子は言いました。
「これはつまり、私が先んじている所だ(=優れているということ)」
天皇はこの言葉を聞いて、さらに恨みました。そのとき、隼別皇子の舎人たちが歌を歌って言いました。
隼は 天に上り 飛び翔り 齋(イツキ)が上の 鷦鷯(サザキ)取らさね
歌の訳隼は天に昇り、飛び翔り、斎場(祭祀・儀式の場=神社など)の上にいる鷦鷯を取ってしまいなさい(=隼別皇子は仁徳天皇を殺してしまえ)。
天皇はこの歌を聞いて、甚だ大いに怒って言いました。
「朕(ワレ)は私的な恨みをもって親族を失いたくは無いから、我慢してきた。どうして舋(キズ=落ち度)があったら、私事の男女の揉め事が国の一大事になってしまうというのか」
すぐに隼別皇子を殺そうと思いました。そのとき、皇子は雌鳥皇女を連れて、伊勢神宮に逃げようと走っていました。天皇は隼別皇子は逃走したと聞いて、すぐに吉備品遲部雄鯽(キビノホムチベノオフナ)と播磨佐伯直阿俄能胡(ハリマノサエキノアタイアガノコ)を派遣して言いました。
「追いついたところですぐに殺せ」
皇后は言いました。
「雌鳥皇女はまことに重い罪にあたる。しかし、殺すときは皇女の(衣服や装飾を取り去り)肌を露わにしないように」
それで雄鯽(オフナ)たちに勅(ミコトノリ)して言いました。
「皇女の身につけている足玉手玉(アシダマタダマ)を取るなよ」
雄鯽たちは追いかけて菟田(ウダ)に到着し、素珥山(ソニヤマ)に迫りました。そのときに草の中に隠れて、僅かに免れることが出来ました。急いで逃げて山を越えました。それで皇子は歌を歌いました。
梯子(ハシタテ)の 険(サガ)しき山も 我妹子(ワギイモ)と 二人越ゆれば 安蓆(ヤスムシロ)かも
歌の訳梯子を立てたような険しい山であっても、わたしの愛する人と二人で超えるならば、ふかふかの蓆(ムシロ)に座ってるようなものだ。
雄鯽たちは逃げられたと知って、急いで伊勢の蔣代野(コモシロノノ)で追いついて殺しました。そのときに雄鯽たちは皇女の玉を探って、服の中から得ました。すぐに二人の王(隼別皇子と雌鳥皇女)の屍(カバネ=死体)を廬杵河(イホキガワ)のほとりに埋めて、報告しました。皇后は雄鯽に問うて言いました。
「もしかして、皇女の玉を見ましたか?」
答えて言いました。
「見てません」
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解説
古事記
古事記では皇后である石之日売命(磐之媛)の死が描かれていませんから、女鳥王(雌鳥皇女)の「手玉足玉を取るなよ!」と発言したのはあくまで石之日売命(磐之媛)ということになっています。
しかし日本書紀では磐之媛は死に、八田皇女が皇后となっているので、ここで「手玉足玉を取るなよ」と言っているのは八田皇女です。八田皇女と雌鳥皇女は「同母姉妹」です。
ちなみに仁徳天皇から見ると八田皇女と雌鳥皇女は二人ともが「異母妹」にあたります。萌え。
ということは、八田皇女が「手玉足玉を取るなよ」と発言したのは姉としてのせめてもの「情け」ということになります。全然不自然じゃないんです。
伊勢神宮に逃げる理由
神社は当時、犯罪者が逃げ込むところで、逃げ込んだら朝廷も手が出せ無い場所だったようです。だから伊勢を目指したのです。
古事記では皇后である石之日売命(磐之媛)の死が描かれていませんから、女鳥王(雌鳥皇女)の「手玉足玉を取るなよ!」と発言したのはあくまで石之日売命(磐之媛)ということになっています。
しかし日本書紀では磐之媛は死に、八田皇女が皇后となっているので、ここで「手玉足玉を取るなよ」と言っているのは八田皇女です。八田皇女と雌鳥皇女は「同母姉妹」です。
ちなみに仁徳天皇から見ると八田皇女と雌鳥皇女は二人ともが「異母妹」にあたります。萌え。
ということは、八田皇女が「手玉足玉を取るなよ」と発言したのは姉としてのせめてもの「情け」ということになります。全然不自然じゃないんです。
伊勢神宮に逃げる理由
神社は当時、犯罪者が逃げ込むところで、逃げ込んだら朝廷も手が出せ無い場所だったようです。だから伊勢を目指したのです。
プロフィール
HN:
冬山想南
性別:
非公開
カテゴリー
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