「第一次世界大戦で連合国側の人間をもっとも殺したのはドイツではなく、同じ連合国の米国だった」
と読み替えると面白い。なお、米国自体が原住民(インディアン)の大量虐殺で建国された国である。その虐殺の記憶が「自国民や自民族以外を殺すのは悪ではなく(自分たちが生き残るための)善である」という無意識の自己正当化思想となり、伝統化していると思う。
(以下引用)
米軍に最初のクラスターが出ていたスペイン風邪、時あたかも第一次世界大戦の真っ最中で、米国の参戦によって欧州に広まったが、どこも戦争中で疫病蔓延の事実は極秘扱いだった。スペインは中立で参戦しなかったため情報が発信されており、このためスペイン風邪という迷惑な名称になってしまった。
下のツィート(漫画家あさりよしとお)を見て、この映画がなぜさほど評判にならなかったのか、分かったように思う。同じ監督の「アリエッティ」でもそうだったのだが、監督自身に話を構成する能力が無いから脚本家にお任せし、その脚本の欠点を把握することができないのだろう。つまり、監督として根本的な欠陥があるのではないか。映像専門で、作画監督などをするべき人だと思う。
その欠陥を端的に言えば、「映像メディアは説明ではなく描写で語れ」という大原則をこの監督は分かっていないのだろう。言葉だけで説明するなら、画面(映像)は何のためにあるのか。ある意味、映像以外に何も無い初期の「映像詩人」監督(名前は失念。「君の名は。」の監督。あ、新海誠)が、映像だけでも多くのファンを得たのも、それが映像メディアの本質にかなっていたからである。無理に話を作った「ジブリのパチモン」アニメでは新海誠は失敗している。脚本に他人の手を入れることで「君の名は」は成功した。
話を作る能力が無い点では細野監督も同じである。原作があり、脚本は他人が書いた「時を駆ける少女」は成功したが、自分が脚本の大筋を書いていると思われる「狼こども」以降は愚作の連発だ。
(以下引用)
マーニーの過去、久子の説明が軸ではなく、映画『砂の器』みたいに、当時の再現で進んでくれていたら、また評価は変わったんだろうけど。
現代数学で最も重要な難問とされる「ABC予想」を証明したとする京都大数理解析研究所の望月新一教授の論文が、同研究所の編集する専門誌「PRIMS」に掲載されることが3日までに決まった。論文はインターネット上に2012年から公開されていたが、8年越しで専門誌に掲載されることとなる。
【写真】京大に看板「中止だ中止!」
整数では足し算と掛け算ができるが、ABC予想はその二つの演算の絡み合い方に関する問題。1980年代に欧州の数学者たちに提唱された。ABC予想の成立を仮定すると、多くの未解決の予想が証明されるため重要な問題とされてきた。論文は四つあり、計約600ページに上る。
PRIMSの編集委員長は望月教授だが、同研究所の柏原正樹教授と玉川安騎男教授が共同編集委員長となり、望月教授を除いた特別編集委員会をつくって今回の論文を審査した。
望月教授は発表したコメントで、証明の難しさについて「既存の数学理論と難しさの種類が違うことはあると思う」と説明。専門の研究者にとっても「まったく違う枠組みの議論につまずいてしまうことも起こり得る」とした。
望月教授は、16歳で米プリンストン大に飛び級で入学、19歳で同大学数学科を卒業。2002年に32歳で京大の教授に就任した。京都で研究してきた意味について「数学の研究を進めるには、ある程度話が通じる相手がある程度の人数いる環境でないと難しい」とし、数理解析研究所に優れた研究者たちが在籍する利点を強調した。
京都新聞
問題は、なぜ男はメカが好きで女は衣服が好きなのか、ということだ。メカというのは「力の拡大」手段だから、男の闘争本能に通じ、衣服は「美の拡大」手段だから女の性的本能に通じるのだろうか。
なお、私はメカよりも武器が好きで、ただの木の棒でも持っていると嬉しくなる。刃物も大好きだし、道具類は(武器に転用できるので)だいたい好きだ。より原初的な、あるいは幼稚なタイプなのだろう。鉛筆でも一本の紐でも武器になる。
(以下引用)
メカが必要な漫画なら女性作家のところに男が行くのは珍しくもないと思いますよ?一条ゆかりは言わずもがな、青池保子さんの「エロイカより愛をこめて」の戦車とかも男性の手でしょう。 水野英子さんのところでは初めて「日文ペン」というペン先を知りました。
主演がスチュアート・グレンジャーで、私は彼の主演作は「キング・ソロモン」を以前に見て、魅力の無い俳優だなあ、としか思わなかったが、この作品では好演である。監督の力量の違いだろう。監督はジョージ・スチーブンスで、確か「シェーン」の監督でもあったのではないか。
で、見ながら思ったのだが、大佛次郎の「鞍馬天狗」は実はこの「スカラムーシュ」の換骨奪胎だったのではないか、ということだ。フランス革命前夜の王統派(貴族)を新選組、民衆派が勤王の志士として、鞍馬天狗がスカラムーシュだとしたら、ぴったり符号する。
いや、そんなことは誰かがすでに指摘しているか、大佛次郎自身が言っているかもしれないが、私は鞍馬天狗にもスカラムーシュにも関心が無かったので、記憶にない。
それにしても「血闘」という邦題はひどい。この邦題をつけた人は、スカラムーシュというのが欧州の芝居や大衆文学の世界でどのような意義を持つか、まったく知らなかったのだろう。
なお、下の解説には出ていないが、映画の原作小説の作者はサバティーニと言ったと思う。大佛次郎の「鞍馬天狗」も、サバティーニの大衆小説を下敷きにしたと思う。あるいは、案外、上記の映画が下敷きかもしれない。見事な換骨奪胎だと一般庶民はその類似性にまったく気づかないのである。
(4月1日追記)某サイトからの転載で、ここには「鞍馬天狗」との類似性は言及されていないが、大佛次郎が「スカラムーシュ」を読んでいたことは明白なようだ。つまり、「スカラムーシュ」から2つの作品を作ったのではないか。どちらも、下敷きにしたスカラムーシュの「フランス革命」を「明治維新革命」に転用したわけである。
『鞍馬天狗』評判後、大佛は『照る日くもる日』(1926~1927年『大阪朝日新聞』連載)で初めての新聞小説を担当します。当時29歳。20代の青年が大手の新聞小説を担当すると言う大抜擢でした。
同時期、吉川英治が『大阪毎日新聞』に起用され、『鳴門秘帖』(1926~1927年)を連載し、新聞連載小説のひとつの転機となっていきます。
『照る日くもる日』は、勤王の志を持つ浪人・細木新之丞の子・年尾が主人公です。大旗本・加納八郎と一刀流指南・岩村鬼堂らの佐幕派に、父を殺された年尾が敵を討つ物語です。ラファエル・サバチニの剣士の復讐を描いた小説『スカラムーシュ』を下敷きにしています。