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内田樹による「いい加減な書評」に対する、その書の編集者による批判だが、問題の書評は内田樹の「うっかりミス」と言うべきか、内田樹という人物の本質的な「底の浅さ」を示すものかは、私は彼の著作をロクに読んでいないので分からない。ただ、SNSでの発言にはしばしば他の人からは出て来ない鋭い指摘があるので、有益な知識人だとは思っている。
まあ、社会批判の内容が、常に「自分は安全圏にいる」ことを意図しているように見えるのは、マスコミ言論人としては仕方が無いのではないか。つまり、内田の発言はそう割り引いて受容するべきかと思う。逆に言えば、そういう言い方であってもちゃんと権威や権力への批判も一応しているから偉いと言うべきかもしれない。
下の記事も、内田が天皇制擁護者であることへの反感が、あるいは内田の書いた書評への反発の動機の一部かもしれないが、まあ、書評について書かれた内容が事実なら、内田による反論は難しいだろう。有名人や大家でも、雑な仕事をすると、こうなるという例である。

なお、私が「弘法も筆の誤り」ではなく「猿も木から落ちる」を記事タイトルにしたのは内田樹を猿扱いしたのではなく(私の数倍頭が良く、数十倍知識があるだろう。)、弘法にたとえるほどの「名人・達人」ではないだろう、ということである。




ASANOT BLOG / アサノタカオの日誌

編集者。本、旅、考える時間。

内田樹氏によるホ・ヨンソン詩集『海女たち』の書評に異議を表明します

 


2020年5月2日の西日本新聞に、内田樹氏によるホ・ヨンソン詩集『海女たち』(姜信子・趙倫子訳)の書評が掲載されました。その内容に異議を表明します。以下は出版元にて本書の編集を担当した立場にある、しかしながらあくまで一個人としての見解です。

個人や組織を非難・批判する内容ではありません。また、コロナ禍の大変な時期に書評掲載にご尽力いただいたすべての皆様への感謝の気持ちを片時も忘れたことはありません。今日の言論やメディアのあり方に対する問題提起として、投稿します。

 

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内田樹氏による、韓国済州島の詩人であるホ・ヨンソンの詩集『海女たち』の書評は、率直に言って一語たりとも読むべきところのない内容で、この情報を共有すべきかどうか悩みました。私がなぜ、ここまで強い言葉遣いで語りはじめるのか、自身の考えを少し丁寧に述べさせていただきます。本書の内容に関してはこちらを参照してください。

そもそも、800字という限られた文章量の半分以上、控えめに計算して全57行中42行を、対象となる本ではなく《自分語り》に費やす文章を《書評》とは呼べない、と私は考えます。冒頭から「私は韓国文学についてほとんど何も知らない」「どうしてそんな人間に書評を依頼してきたのか、よく理由がわからない」「訳者の姜信子さんとのご縁だろう」などという裏話や憶測を16行以上、書いているのですが、訳者によるとこうした書評依頼の経緯説明は誤解を招く不正確な記述です。

「思想家」を名乗り、マスメディアという公的な場で書評という枠組みで語るなら、好意的であれ批判的であれ、なによりもまず《他者の書物の内容を評する》という最低限の作法を守り、議論の責任を果たすことが必要です(当たり前のことを書いています)。また「武道家」でもある氏ですが、このたびの書評は道場破りの奇襲攻撃のようなものであり、書物の内容との真剣勝負を避け、不意打ちのようなやり方で斜め後ろから対象を斬りつける言論にほかならず、そうしたものを私は、言論に関わる編集者として、また一読者として容認できません。

内田氏は「さいわい私は(韓国)済州島には二度行ったことがある」と文中で証言しています。うち一回は「その地の痛ましい歴史にも詳しい…伊知地紀子さん引率の「修学旅行」」をしたという、誰もができるわけではない特別な学びの体験をもっているのであれば、「知らない」「理由がわからない」などと言い訳をすべきではないと個人的には思います。韓国「文学」の専門家ではなくとも、フランス「文学」を専攻したプロフェッショナルな人文学者であれば、また『街場の日韓論』という共著の編者であれば、なおさらです。

にもかかわらず書評の終盤まで、「私の主宰する凱風館」と「(済州島の)大衆食堂で食べた「さばの味噌煮」」という、氏の周囲にいる一部の仲間以外の読者とは共有しがたい、また書物の内容とは関係のない《自分語り》に居座りつづける文章を読み、私はその無責任な言動にひたすら情けないと思いました。あえて、思想家・専門家のような顔をせず、一般的「国民」である「おじさん」の顔で「日本人」およびその周辺の諸問題を語る、という氏独特のパフォーマンスである可能性を考慮しても、私的なブログではない新聞書評という場においては明らかにやりすぎです。

唯一、やや冷静な気持で受け取ることができたのは最終段落にみられる「生活者の顔を」以降の指摘ですが、詩集が体現する「見知らぬ老女(=生活者)」の顔を前にして「ひるむ」とだけ評して論を閉じるのは、常識的に失礼なことです。詳述は控えますが、植民地主義の歴史への反省を踏まえた近年の人文学の諸成果を振り返ると、文中の「俺は(済州島の老女である)この人と血縁だったのに」という「ひるむ」を受けての「血縁」発言は不用意なのもであり、大きな疑問を感じました。

責任ある言論人として内田氏に必要だったのは、「何も知らない」ゆえに書けないないのであれば書評の依頼を断ることでした。しかし人間関係であれその他の理由であれ仕事として引き受けたのであれば、対象について「何も知らない」としても、「何も知らない」他者のまなざしを借りて自分自身のひるむ顔をみつめ、自分自身の無知を問い直し、さらに氏が著述でおこなう表現を借りれば、「では、この老女の顔は私ではない誰に向けて語りかけているのか」と省察を深める「成熟」の態度であったと思います。書評の最後に見られる漱石夢十夜』への言及も、文学者である評者による苦し紛れの衒学的仕掛けに見えて、後味の悪いものです。

内田氏はリベラル的な思想をもつ人文学者でありながら天皇主義・保守主義を掲げています。そして国民国家などの社会制度が抱える諸問題を所与のものとして追認したうえで現状分析と未来予測の言説を次々と繰り出し、「市民」や「知性」などの用語によって代弁されるあるポジションに安住したいと願う一定数の大衆=ファンの関心を集める、権威主義的ポピュリスト・エリートです。

したがって、たとえばホ・ヨンソンの詩集がそうであるように、社会制度が抱える諸問題を所与のものとして追認することなく、「市民」や「知性」などの用語に長いあいだ安住できなかった女性たち、母たち、肉体労働者たち、反乱者たち、在日コリアンを含む離散民たち、歴史のなかで居場所をもたなかったものたちの声を現在において探求するような批判的な営みにはきわめて冷淡なのだと思われます。

私は、内田氏のメディアでの発言、ブログやSNSの投稿を追いかけるほどの熱心な読者ではありません。しかし、2001年の『ためらいの倫理学』から2014年の『日本の身体』まで、氏の主要な著作を敬意を持って読んでおり、時事問題に関して目の覚めるような知見を得たと感じることもありましたが、しばしば上記で見立てたような疑問も抱いてきました。が、それ以降の近年の著作は読んでおらず、また私自身の内田氏の思想理解も浅いものだと自覚していますので、それらを含めて氏のこれまで言論を再検証することは今後の課題とさせてください。

さて、西日本新聞の文化部は《書評》を依頼した以上、《特定のファンではなく不特定多数の読者を対象にした書評なので、ご自身のことではなく本のことを書いてください》と穏当な修正を求めるべきではなかったでしょうか。また冒頭で記したような、氏が憶測する書評依頼の経緯説明は誤解を招く記述なので当然、事前に関係者に確認すべきでした。が、著名人に忖度するあまり、当たり前の原稿チェック機能すら果たすことができないのは、私自身もその一員であるマスコミ・出版産業の根深い問題です。

左から右に自動的に流すような形で、内田氏ご本人がホ・ヨンソン詩集について「しかたがないので適当なことを書いてしまった」(2020年3月29日、Twitterでの発言)と予告した通り、あのような《ひとり言》に近い書評としては異常なテキストが新聞に堂々と掲載され、またそれが許されるのは、著者がほかならぬ《内田樹》という権威だからであると私は考えます。しかし内田氏に書評を書いてほしいと希望する気持ちは私自身にもありましたし、上記すべての批判の刃はそのまま自分自身に向けて、しばらく言論界の末席にいるものとして反省の時間をもちます。





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見た物を映像として記憶する能力の無い人間は絵が描けないし、おそらく書道も上手くならないだろう。私がそれである。映像的な想像力すら無い。ほとんど言葉で思考が生成される。

(以下引用)


弓月 光
@h_yuzuki
「絵」って頭の中にあるモノを手と道具で紙とかキャンバス等に【そのまま描く】ものです。その訓練として「目で見たモノを一度頭に入れて手で同じものに描く」[写生やマネ絵]事が上達の一手段ではあります。
だいぶ前にヨーロッパのどこか(だったと思う)でボウガン(「ボーガン」という表記は馴染めない。)を使った殺人事件があり、ホテルの滞在客が数人殺されたと思うが、事件がその後解決したという話は聞かない。
下の記事の事件では、犯人が家族の一員であり、犯行を認めているようなのだが、犯行の動機がまだ分からない。まあ、家族というのは毎日顔を突き合わせるだけに突発的な殺人衝動の対象になりやすいらしく、殺人事件があれば、まず家族を疑え、というのは犯罪捜査のセオリーだったと思う。もちろん、下の記事の事件は怨恨動機だろうが、ここまでの行動に出るだけの動機があったのだろうか。まあ、物事の軽重は人によって異なるから、些細な不快感でも抑えきれない人間はいるのだろう。
それはともかく、ボウガンのような危険な武器の購入に法的規制が無いというのは驚いた。


(以下引用)

宝塚ボーガン殺傷 容疑者の高校時代の校長と同級生「驚いている」
 

 6月4日、兵庫県宝塚市の住宅で家族ら4人がボーガンで撃たれて死傷した事件で、逮捕されたこの家に住む大学生の男が「伯母を電話で呼び出した」という趣旨の供述をしていることが分かりました。警察は計画的に犯行に及んだ可能性もあるとみて調べています。

 4日に殺人未遂の疑いで現行犯逮捕された大学生の野津英滉容疑者(23)は、自宅で伯母の野津百合江さん(49)をボーガンの矢で殺害しようとした疑いが持たれています。

 自宅内を捜査員が確認すると、1階の部屋で祖母の好美さん(75)が倒れているのが見つかり、リビング兼台所で母親のマユミさん(47)、風呂場前で弟の英志さん(22)が見つかりました。いずれも頭に矢が刺さった状態で見つかり、野津容疑者が所有していたボーガンも現場で見つかっています。

 野津容疑者は取り調べに対し「家族を殺すつもりだった」と供述し、さらに、「別居していた伯母を電話で呼び出した」という趣旨の供述をしていることが分かりました。

 高校時代の同級生は…

 「(野津容疑者は)しゃべっていて面白いし、驚いてますね。特にケンカとかもしたことがない。」(高校時代の同級生)

 野津容疑者がかつて通っていた高校の校長も「友達も多く素行などに問題もなかった。彼からボーガンや武器にまつわる話を聞いたことがなかったので、驚いている。」とコメントしています。

 死亡した野津容疑者の弟・英志さんについて同級生は…

 「友達の名前だったので、すごくびっくりして悲しくなりました。たまによくある兄弟の言い合いみたいなのはあったと思うんですけど、今回の事件に至るぐらいのケンカみたいなのは聞いたことがなかった。」(弟・英志さんの同級生)

 ボーガンの威力は一体どれほどなのか。検証した映像を見てみると、数m先に置かれた電子レンジに向かって、矢を放つと、矢が完全に電子レンジを突き抜けていました。ボーガンはインターネットなどで簡単に購入することができ、過去にも凶器として使われた事件も起きていますが、購入や所持については法規制はありません。

 警察は野津容疑者が計画的に犯行に及んだ可能性もあるとみて、動機などを調べています。


作品も人格も嫌い(当然、個人的意見である。)だが、これはいい指摘だと思う。
なお、この人のツィッターには他人の面白いツィートがリツィートされている量が多いので、重宝していて、その点には感謝している。感謝合掌www
ちなみに、海辺に棲む原始的種族は海岸の生物を瞬時に発見するが、都会文明圏の人間にはどこに何がいるかさっぱり分からないそうだ。つまり、海岸の形状や生物のパターン認識が出来ている種族とそうでない種族の違いだろう。生活や生存に必要な技能は自然と身に付くものだ、という話。それを「脳内ソフト」と言う、漫画家氏の表現もいい。プロというのは、才能とは別に、その種の「脳内ソフト」が修練で身に付いた人間が大半だろう。

(以下引用)


山本貴嗣
@atsuji_yamamoto
これ単純に筋力とか反射神経の問題じゃなく、脳内に山の斜面などの不整地で「今ここに手と足を置いているが次に移動すべき場所、つかまり足を置くポイント」というのを瞬時に判定してそこに移動するソフトが出来上がってる蛮族と、できていない文明人の違いじゃないかと思っています。
引用ツイート
山本貴嗣
@atsuji_yamamoto
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あと山野を跋渉して身につく身体能力と、いわゆるスポーツ競技で身につくそれは違うらしいと気づいたのは、江戸っ子の妻(学生時代はスポーツ大好き少女だった)と結婚後丹沢山地に行った時。私は田舎では運動能力最低の部類だったのだが山の斜面などをストレスなく登る私に妻が追従できなかった。
みんみんぜみという人のツィートで、画像はコピーできなかった。
その画像の中に、「片手で持てば太刀は長く使える」という言葉があって、これは時間的な長さではなく、距離だろう。つまり、両手持ちだと太刀の届く距離が短く、片手持ちだと長くなる、ということである。物理的に考えて当然だ。
野球での内野守備の「バックハンド禁止」は、おそらく「不精せずに球まで走り、体の正面で両手で捕れ」の意味であり、体の右側(グラブの反対側)の打球で、近距離で体が届くぎりぎりだが強い打球に対してはバックハンド(正確にはグラブの片手持ち)のほうがグラブが届く距離は長いに決まっている。三塁手へのライン側の打球はそれが多いと思う。

(以下引用)

実戦で片手で太刀を持つ事が舐めプという話ですが、むしろ常に諸手で太刀を使えると思う方が舐めプだと思われます。
(画像は松山主水より細川忠利への目録、戦場で片手で太刀を使う利点について)
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