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まあ、現代では純文学でベストセラーという事例は滅多にないことからも、世間の平均的読解力水準や芸術理解力水準は分かる。世界文学の古典は「大衆文学」でもあったから評判になり、「純文学性」つまり、思想的な高さがあったから古典となったわけだ。DQN的な、趣味の低劣な人間が多い国なら、その国でベストセラーになるのは恥でさえあるだろう。


猪原賽【宇宙戦争 連載中】
@iharadaisuke
「なんでこんなつまらんマンガが売れてるんだろ」違います、あなたがその絵柄/キャラ/ジャンル/話が苦手、趣味に合わないだけで、合う人が多いのです。 「こんなマンガがトップかよ、俺がこの雑誌に持ち込んだら即入賞だな」違います、こんなマンガを好む読者が多い雑誌だからあなたは勝てません。
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「in deep」の一節で「レギオン」という言葉が聖書のマルコによる福音書の中に出てくるということに関する記述である。

(以下引用)

先ほどの「マルコによる福音書」は、この映画の中に出てきて、当時聖書など知らない私は、この下りをこの映画ではじめて知ります。映画での場面の説明的に書きますと、以下のように出てきます。

エクソシスト3の場面より説明

老刑事が、悪魔的な殺人事件の現場で、「部分的に焼かれている聖書」を見つける。刑事は「聖書の焼かれている部分」に着目し、その部分を家にある聖書で読み直す。

刑事 「イエスは悪霊の取りついた男の名を聞かれた。その者は答えて言った。レギオン・・・大勢だから・・・」

刑事 「・・・大勢・・・・・」

このように、刑事は、

「大勢」

という言葉を呟くのですけれど、これが意味するところは、

「悪魔の代行者がこの世にはたくさんいる」

という意味でもあるはずで、つまり、

「この世は、悪魔の手先のような存在で満ちている」

と。

では、

「どのような存在が悪魔の手先なのか」

ということについて、エクソシスト3では明確に書かれているのです。それは、

「一般の人間」

なのです。

どんな人間なのかといいますと、その内容が、今のような時代には大っぴらには表現しにくいかと思いますが、

「心の弱い人間たち」

なのです。

エクソシスト3では、途中から精神病院が舞台になりますが、

・精神を病んでいる
・意志が弱い
・良心が弱い

というような人たちは容易に悪魔にコントロールされるというような雰囲気の描写が続きます。


(以上引用)

英和辞書でregionは「地方、範囲、領域」だが、regを語頭に持つ語の中でregiment「連隊、大勢」、あるいはregnant「統治する、優勢の、流行の」などが、「大勢の」のニュアンスを持つ言葉だろうか。
で、レギオンは悪魔そのものではなく、「悪魔に憑(と)りつかれた者」の意味があるかと思うが、ドストエフスキーの「悪霊」も、悪霊そのものを主題とするものではなく、悪霊に憑りつかれた者、つまりレギオンとしてのスタヴローギンを描いたものではないか。そのスタヴローギンは、能力的には何でも為しうる人間でありながら、「精神を病んでいる」「意思が弱い」「良心が弱い」ために、何事もなせず、ただ無力な幼女を犯すという最低の行為しかできなかった人間として描かれる。
神という存在が完全に否定された現代では、無数のレギオンが地上を埋めているかもしれない。

ただし、上で書いた「精神を病んでいる」は、現代科学の定義の上での精神病ではおそらくない、ということを一言しておく。これは理性的に、あるいは道徳的に健全さを失っている意味だろう。現代科学の「精神病」は単に社会的不適合を病気扱いする傾向が強い。これは金儲け至上主義の資本主義の帰結だろう。つまり、コミュ力が第一義である社会から「病気」として排除されるわけだ。昔なら「職人気質」だったものすら今では病気扱いである。
まあ、物書き志望者以外には用の無い豆知識だが、メモしておく。
ヤクザと暴力団は違うと言う意見には、やっていることは同じだ、と答えておく。と言うより、ヤクザは江戸時代(あるいは明治時代)までで、現代ではそれがより悪質化して暴力団になったわけだ。

鈴木智彦/SUZUKI TOMOHIKO
@yonakiishi
「『会長・若頭』って最近はある」と電話かかってきた。説明を聞いて納得し、さっきの言い方だと逃げ道がなく、突っ込みを躱せないので消去、訂正します。ごめん。 でも基本的には「会は会長・理事長」「組は組長・若頭」「一家は総長・若頭か理事長」がパターンです。会で若頭だと、へぇ~ってなる。
これは、案外的を射ているかもしれない。
なんでコナンのような設定ガバガバのお子様探偵物が女性に受けるのか、と不思議だったのだが、案外、人が死んだ殺されたという話自体が女性は好きなのかもしれない。推理小説を書く女性作家が多い理由も案外それだろうか。男はどうせ戦争で殺し合いをするが、女性が人を殺すのはだいたい犯罪の場合で、わりとリアル感を伴った身近な気持ちでスリルを味わえるのだろう。つまり、遊園地で絶叫乗り物に乗るのと同じで、性的に興奮するのではないか。犯罪は金銭問題や恋愛問題など、生活におけるスッタモンダが反映されるが、戦争だと無造作に大量の死が頭上から落ちてくるだけだから、味気ないわけだ。
なお、戦場において日常の恨みを晴らす、という話がチェスタトンにあるが、そういう、「戦争の中の日常と犯罪」という話は案外少ない。そういう主題で書いてみたい気持ちはあるが、面倒な作業になりそうである。
戦場での上官による犯罪を主人公の犯罪だと誤解され、終戦後にその被害者の近親によって復讐されるという「不条理劇」のサスペンス小説を中学生向けの学習雑誌付録で昔読んで、それが強い印象に残っているが、作者の名前は憶えていない。


(以下引用)


24名無しのアニゲーさん :2020/09/21(月) 21:14:33 ID:- ▼このコメントに返信
コナンは子供じゃなく女受け
ホモとか関係なく、女は人が殺されて動機がドロドロなの好きだからな
相棒とか科捜研の女とかが好きなのも主婦だし




私は昔から、小説や漫画などの与える快感は主人公の「上昇感覚」だという説を持っている。たとえば「レ・ミゼラブル」のジャン・ヴァルジャンは、最下層の身分で泥棒の罪で監獄に半生の間入れられ、無一文で世間に放り出される。これ以上はない、最底辺の境遇だ。それが、ミリエル司教との出会いをきっかけに厚生し、工場経営者、市長として尊敬される身分になる。そしてコゼットを養女として育てることで親としての幸福も得る。そういう上昇感覚が読者にも共感されるわけだ。そして後半ではその身分と境遇を捨てることで、社会的には再び底辺の生活になるが、自分を犠牲にしてコゼットの恋人を救ったことで、いわば「天上的レベル」で至高の位置に上るわけである。
つまり、前半は物質的・世俗的上昇であり、後半は宗教的・精神的上昇の物語である。だから、読んでいて読者にこの上ない幸福感や快感を与えるのである。
で、「最初から高い立場にいる人間」が権力をふるう話は面白いか、と言えば、やはりそこには上昇感覚は無い。
そこを勘違いしているのが多くの「なろう小説」であり、特に「異世界転生物」だろう。主人公が最初からあらゆる才能に恵まれた「なろう主人公」や、異世界転生で超人的能力を身に付けた主人公の話を読んで、面白いのは最初の間だけだろう。そこにはもはや上昇感覚は無いからだ。
なぜこんな話をしたかと言うと、昨日一昨日と半村良の遺作「獄門首」を読んで、やはり上手い作者だし、面白いのだが、その面白さが「読む快感」とは少し違うなあ、と感じたからである。つまり、私の言う「上昇感覚」の方向性が違うという感じだ。主人公はゴマの蠅の子供で幼くして両親を失くし、寺の小僧みたいな身分で育てられる。ところがこの主人公はあらゆる才能に恵まれ、何をやっても成功するのである。つまり、「なろう主人公」だ。では、その主人公の成功がそのまま読者の快感となるかというと、それが少し違う。それは、主人公が世俗的なモラルを持っていないからではないか、というのが私の推定である。
「超人」というのは、モラルに縛られるという弱さすら持たないからこそ超人なのだ、ということは分かる。しかし、ではそのような超人が好き勝手をやる話を読んで面白いか、快感があるか、と言えば、それは「ウルトラ・スーパー・デラックスマン」を読めば明白である。読者は主人公の破壊的行動に面白さを感じながらも、そのモラルの無さに眉を顰めるはずだ。なぜなら、読者である我々は、その「超人」に蹂躙される弱者であり平凡人であるのは明白だからだ。
確かに、弱点を持たない超人というのは多くの人の夢であり理想だろう。誰でもそういう立場になりたいと思う。しかし、全知全能の神になって面白いか、と言えば、面白くもなんともないのは自明だろう。面白半分で世界を創造し、気まぐれに世界を破壊して、何が面白いのか。いつでもどこでも好き勝手に美女を犯して何が面白いのか。
モラルというのは「禁止の体系」である、という指摘がある。まさにその通りであり、モラルに従うというのは束縛されることだ。では、それは無意味かと言うと、世界からあらゆるモラルが消えた状態を想像したらいい。それは野獣の世界そのものだろう。あらゆる悪が許される世界なのである。
なろう主人公というのは、自分だけがモラルを超越し、他の人間はモラルに従うから別の話だ、という反論も可能だろう。では、幼児を相手にゲームなりスポーツをして、勝って面白いか。
勝利が面白いのは、勝つ相手が「悪」だからであり、強敵だからだ、ということを私は指摘しておきたい。つまり、必然的に主人公は善の立場であり、モラルに即した話でないと、実は面白くない、快感は無い、ということだ。
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