第十一章 アクシデント
昼食を終えて道を歩き始めた三人は、前方から来る乗馬の一団に気づいた。
その五人の一団は、狐狩りをしている貴族の子弟らしいとフリードはすぐに見て取った。中で最もきらびやかな服装をしているのが貴族で、後はその家来だろう。
彼らはフリードたちの前で馬を止めた。
「おい、お前らはどこの者だ。ここはカロヴィング家の領地だ。余所者が、無断で通行する事は許されぬ」
五人の中の中心らしい、へちまのような顔をし、口髭を生やした若者が横柄な口調で言った。その間も、彼の目は好色そうにマリアをじろじろ眺めている。
「怪しい奴らだ。エルマニア国の廻し者かも知れません」
家来のむさくるしい顔の髭男が言った。
「殺してしまいましょう」
「いや、わしはその娘が気に入った。下女に使おう。その娘を置いていけばここを通る事を許そう」
若者の言葉にフリードが答える前に、ジグムントが大声で答えた。
「断る。どうせ女を慰み物にするつもりじゃろう」
「この老いぼれめ。大人しく渡せば無事に済むものを。かまわん。こいつらを斬り殺せ」
若者の言葉で、家来たちは馬から下りてフリードたちに歩み寄った。
まだ馬に乗っているフリードとジグムントは、顔を見合わせ、頷き合った。
ジグムントの手が腰の剣に触れたかと思うと、あっという間に、自分の馬を貴族の若者の馬に走り寄せ、その首を切り飛ばした。若者の首は、ころころと道に転がり、きょとんとした顔をして止まった。
「こいつら、若君を殺したぞ!」
家来たちは、思いがけない事態に、悲鳴のような声を上げた。
「斬れ、斬れ! 斬り殺せ」
もう一人が叫んで、剣を抜いてフリードの馬に走り寄った。
フリードは剣を抜いて、馬上からその男の肩に斬りつけた。男は、「うわっ」と叫んで倒れた。
その間に、ジグムントはもう二人倒している。
残った一人は、馬に飛び乗ってこの場から逃げようとした。フリードは馬の横腹に結びつけてあった弓を取り、逃げていく男に向かって矢を射た。矢は男の背中に突き立ち、男は馬から転落する。
ジグムントは、地面に転がっている四つの体を調べて、注意深く剣で息の根を止めた。
「わしらが下手人だと知られてはまずいからの」
目をそむけるマリアに向かって、弁解するようにジグムントは言う。
「金目の物は持ってないようだ。剣と馬と服くらいじゃ。さて、しかしこいつらの持ち物を売るとわしらが下手人だと分かってしまう。もったいないが、捨てていくことにしよう」
「これは何ですかね」
フリードが、主人らしい若者の懐を探って、一枚の封書を取りだした。
「手紙のようだな。しかし、わしは字が読めん」
「僕もです」
フリードとジグムントは、困ったように顔を見合わせた。
「私が読めますわ」
マリアの言葉に、フリードはその手紙を彼女に渡した。
マリアは、その紙を広げ、読み上げた。
「前に申し上げた通り、いざという時に我が方のためにお働き頂ければ、アストーリャ、モントーリャ、エデール三郡の領主任命を確かにお約束申し上げる。この手紙は、他言無用のこと。
ジルード殿へ。H」
マリアが読み上げるのを聞いて、フリードとジグムントは再び顔を見合わせたが、今度は驚きのためであった。
「これは、裏切りの約束のようだな。このカロヴィング家は、王家の縁戚だが、それが国王を裏切ろうとしておるようだ」
「どうしましょうか」
「放っておくさ。これを王に知らせたところで、信じては貰えまい。我々がこのカロヴィングの馬鹿息子を殺した罪に問われるだけだろう。それよりも、いよいよ戦が近いようだな。我々が名を上げる好機かもしれん」
「それにしても、この男は、なぜこの手紙を廃棄せずに持っていたのですかね」
「戦が終わった後で、約束の履行を迫るためだろう。口約束で相手を裏切らせて、事が終わると約束を反故にするのは、戦ではよくあることだ」
「もしかして、わざわざ手紙に書いたのは、もしもこの手紙が国王の手に渡ったら、フランシア国に内紛が起こるかもしれないと期待してですかね」
ジグムントは、ほほう、という顔でフリードを見た。
「お主、なかなか賢いな。おそらくそうだろう。Hというのは、エルマニア国の国王ヘンリックだろうが、つまり、エルマニア国にとっては、どっちに転んでも損はないわけだ」
フリードは、自分の身近に、国家的事件が起こっていることに、胸が高鳴るのを覚えた。そのため、マリアとの事で鬱屈していた心が、だいぶ軽くなるように感じたのであった。
第十二章 マリアの家
「カロヴィング家というのは、どんな家なのですか」
フリードはジグムントに聞いた。
「今のフランシア王、マルタンのメロリング家の縁戚で、このカロ州を納めている領主だ。カロ伯と呼ばれている」
「それがエルマニア国と内応して国王を裏切ろうとしているわけですね」
「まあな。カロは首都パーリャに近いから、ここからパーリャに侵攻されたら、危険ではあるな」
「で、我々はこれからどうします」
「まあ、マリアを両親の元に送り届けてから考えることにしよう」
ジグムントの言葉に、フリードは頷いた。
彼らがフランシアの首都パーリャに着いたのは、それから五日後だった。フリードがローラン国の家を出てからは、もう二月近くなっている。季節は夏の盛りであった。緯度の高いフランシアだが、夏はさすがに暑い。日差しを避けて木の陰で休んでいる間に街道を往来する人々の様子を眺めると、心なしかローラン国よりは、人々の身なりも洒落て洗練されているように思える。
「さすがにパーリャはにぎやかだな。まだ町に入る前から、このように人通りが多い」
田舎者のフリードは、感心して独り言を言った。山賊の砦から持ち出した服を着て、貴族風の格好はしているものの、その格好が板についていない感じで、きまりが悪い。ジグムントとマリアの方は見慣れた風景らしく、平然と周りの行き来を眺めている。
マリアの家は、パーリャの中心街にあった。大きな石造りの商家である。看板には「アキムの店」とだけ書いてある。もっとも、ほとんどが文盲であるこの時代、その看板の字を読める人間は一部の貴族と僧侶くらいのものだが。
中に入ると、広い店内は、美術館の展示場のように、様々な品が整然と並んでいる。客らしい数人の貴族の男女が、あちこちに佇んでそれらの品物を眺めて話をしている。
宝石や美術品や武具を扱う店のようだな、とフリードは見て取った。
マリアと両親の再会は、想像通りお涙頂戴物だったが、マリアの父のアキムは、なぜマリアが、自分の迎えにやった手代とではなく、妙な老人や若者と一緒なのか、疑問に思ったようであった。
「こちらの方々は? ジャンはどうしたのだ」
「実は、帰る途中で山賊に襲われて、ジャンは殺されてしまいました。この方たちが山賊から私を救って下さったのです」
マリアは言いにくそうに言った。言った事は嘘ではないが、山賊に捕らえられてからの話に大幅な省略があるのは、仕方のないところだろう。
「それはそれは、娘が大変なお世話になりました。お礼は後ほどの事にして、まずは内でごゆるりと旅の疲れを癒してください」
アキムは、自らフリードたちを自宅に案内した。
こちらの方も、かなり大きな三階建ての邸宅である。
「シモーヌや、この方々を上客用の客間にご案内して、精一杯お世話して差し上げなさい。大事なお客様だから、粗相の無いようにな」
アキムは、ちょっと意地悪そうだがきれいな顔をした女中に、そう命じた。
「はい、旦那様」
シモーヌと呼ばれた女中は、つんと澄ました顔でお辞儀をして、フリードたちをそれぞれの部屋に案内した。
フリードは、これまで、このような豪華な部屋は見たことがなかった。
部屋の壁は檜の鏡板で、表面には何か塗料が塗られて光沢を放っている。窓は、この当時の事だから、庇の下に、ガラスの代わりに、油を塗って光を透すようにした布が張られ、天井から床まで届く綴れ織りのカーテンがその両脇に掛かっている。部屋の中央には紗の蚊帳のかかったベッドがある。ベッドの木は黒檀か紫檀らしい。ヨーロッパに産する木ではないから、おそらくわざわざアフリカから取り寄せた物だろう。
隣の小部屋が風呂場になっていて、これにも驚かされる。部屋毎に風呂場がついているのは初めて見たのである。
フリードはゆっくり風呂に入って、体の疲れを癒した。夏だから水風呂だが、道中の埃と汗を流すと、爽快そのものである。
夕食は食堂で行われたが、三十人ほど座れる長テーブルの一方にアキムとその妻のサラ、マリアとジグムント、フリードの五人が固まるように座り、それに給仕が三人、女中が三人ついた。
「それで、あなた方はこれからどうなさるおつもりですか」
長い旅の話でひとしきり会話がはずんだ後、食後のリキュールを飲みながら、アキムがフリードたちに訊ねた。
「まもなく戦が始まりそうなので、それに参戦するつもりです」
フリードは答えた。
「しかし、失礼だが、あなた方は貴族ではないでしょう。ならば、一兵卒として参戦なさるのですか?」
アキムの言葉に、フリードとジグムントは顔を見合わせた。この事は、彼らも悩んでいた問題だった。
「もしも、よろしければ、傭兵隊をお作りになってはいかがですか。資金は私がお出ししますよ」
アキムは微笑を湛えて言った。
「しかし、そんなご迷惑をおかけするわけにはいきません」
フリードの言葉を手でアキムは押しとどめた。
「いやいや、あなたがたは、マリアの恩人であるばかりでなく、人柄も、武芸の腕の方も素晴らしいようだ。たった二人で、十人以上もの山賊を退治したのですからな。その腕を見込んで金を出すのです。どうせ、この国がエルマニア国との戦いに負ければ、私らの財産は、保証されないでしょう。その時、あなた方が私たちを護ってくれるなら、こんな心強い事はない。そのための金なら、少しも惜しくはありませんよ」
「そいつは嬉しい話だ。フリード、この話を受けなきゃあ罰が当たるぞ」
ジグムントは、フリードに言った。
「分かりました。有り難くお引き受けします」
「では、明日からでも私兵の募集をしてください。ぐずぐずしてはいられませんからね」
アキムは、執事に命じて、金箱から金の入った皮袋を二つ持って来させた。
「ここに、大型金貨で百枚あります。銀貨に崩せば、一万シルにはなります。これだけあれば、百人くらいの兵隊は雇えるでしょう。足りなければ、また私に言ってください」
フリードは、小さなメロンほどの大きさの、そのずっしりとした金袋を受け取った。これほどの金額を手にするのは、もちろん初めてである。
「もちろん、その金で飲み食いなさろうが、どのように使おうが、あなた方の勝手です。要は、あなた方がこの金を使って、のし上がる事です。あなた方が出世すれば、私たちにとってもいい事でしょうからね」
アキムは鷹揚な笑顔で言った。おそらく、彼の財政から言えば、この程度の金ははした金であるのだろう。
その晩は、フリードは思いがけなく手に入れた大金の事ですっかりいい気持ちになってぐっすり休んだが、一方のジグムントの方には、夜中にこっそりとマリアが忍んできて、こちらもフリード以上にいい気持ちで一夜を過ごしたのであった。
第九章 マリアの秘密についての現実的で説明的な章
マリアがフランシアの北の山地にある温泉地に送られたのは、彼女が十歳の時だった。娘の病弱なのを気にした両親が、彼女をそこで療養させようと思ったのである。
彼女の付き添いには、乳母が付いて、家庭教師も付いていた。保養所には数十人の滞在客がいたが、そのほとんどは老人で、彼女のような少女は珍しかった。しかも、幼いながらも彼女の美しさは目立っていたので、彼女は狼の間に送られた子羊のようなものであった。
最初に彼女の処女を奪ったのは家庭教師の男だった。彼はマリアの乳母ともできていたが、まだ十歳とはいえ、段違いに美しいマリアへの欲望を抑えきれず、ある午後、乳母が昼寝をしている間に、ほんの子供であるマリアの処女を暴力で奪ったのであった。
もちろん、マリアは自分が何をされたのか分からなかった。
だが、何度目かに家庭教師に性交の相手をさせられている時に乳母が部屋に踏み込み、気違いのように喚いたので、自分がいけないことの相手をさせられているのだと分かったのであった。
二人目の相手は、宿の主人だった。乳母と家庭教師が彼女を残して外出している時に、合い鍵を使って彼女の部屋に入ってきて、彼女を床の上に押し倒して犯したのである。
三人目は滞在客の老侯爵だった。漁色家だが、老齢と病気で体の不自由な彼は、この美少女に惚れこみ、主人に金を払って、彼女を自分の部屋に呼び、執事に手伝わせながら思いを遂げた。ついでにその執事も後でお相伴にあずかったのであった。まるでルイス・ブニュエルの映画にでもでてきそうな話である。
こうして、十六で保養地を出るまでに、彼女はすでに四人の男とそれぞれ数十回の性交渉を持っていた。しかし、まだ快感は知らなかったし、自分は男に対する何かの義務をやらされているのだとしか思っていなかった。おそらく、男という物は、女にこのような行為を強いる特権があるのだろう、と思っていたのである。
彼女が性交の快感を知ったのは、実は山賊に捕らえられている間の事だった。
温泉地から首都パーリャに戻る途中、山賊たちに捕らえられて、最初、数人に輪姦され、それから砦に連れて行かれて頭目の女にされたのだが、この髭面で醜男の頭目が女に関してはなかなかの腕達者だったのである。彼は固い蕾のようなこの美少女の体を様々に弄り回し、やがてその努力は実を結んで、マリアは、この口の臭い野獣のような頭目との性交に快感を覚えるようになった。少なくとも、この醜悪な男は、女の体を良く知っていたし、精力も抜群であったのだ。しかし、性愛の相手としてはともかく、マリアは彼を好きになることだけはできなかった。嫌いな相手に抱かれながらエクスタシーを感じる事に、彼女は何か自分の体が恐ろしく、罪深いような気持ちにさえなったのである。
彼女の初恋も、この頃だった。やはり山賊の一人で、口髭を生やした、にやけた色男がいたが、無知な少女にありがちな事で、彼女はこの男に恋をした。しかし、この男はマリアの自分への恋心に気づいたものの、親分の女に手を出す事は怖くて、彼女の自分への熱い視線に気づかぬ振りをしていた。
そうしているうちに、フリードとジグムントが現れ、親分も色男も含めて山賊どものほとんどを、蝿でも殺すようにあっけなく殺してしまったというわけである。
そういう意味では、フリードはマリアの救い主ではあるが、自分に性の快感を教えた男と初恋の相手を殺した相手でもあったのである。これはフリードのまったく気づかない事であったが、世の中には、そういう水面下の事情というものがあるもので、自分が善い事をしてやったと思う当の相手から恨まれる事もあるわけだ。しかし、マリアは善良な娘だったから、やはり自分が山賊の手から救い出された事を感謝するべきだろうとは思っていたし、若くハンサムなフリードが好きにもなりかかってはいた。とはいえ、まだ初恋の人の死の痛手からは抜け出していず、フリードに抱かれたのも、愛情よりはやはり義務の念からに近かったのである。
マリアは、見たところはまったく天使のような美少女だったが、それだけに男の毒牙にかけられやすくもあり、このような運命を辿ってきたのであった。幸運だったのは、これだけの性体験の間に、まだ一度も妊娠していなかったことくらいだが、これは彼女の生来の体質によるものであった。
芸能界の美少女タレントなどに対し、ロマンチックな夢想を抱いている若い男性には残酷な話だが、およそ世の中の現実とはこのようなものであり、美人や美少女がいれば、たいていは近くにいる不良青年などに蕾を散らされているものなのである。美男美女というものは、ある意味では野獣の餌のようなものであり、本人にとって美貌が幸福に結びつくとは限らないものなのだ。オスカー・ワイルドなどは「美貌は、君、災いだよ」と言っているくらいである。
第十章 林の中
さて、フリードとマリアとジグムントはビエンテの町を出て、パーリャに向かった。途中、フリードを悩ませたのは、ジグムントが、休憩の度にマリアを近くの林の中に連れて行くことであった。もちろん、それが何を意味するのか、フリードは分かっていた。
満足そうな顔で戻ってくるジグムントと、衣服を乱し、顔を上気させているマリアの顔を見ると、フリードの胸は嫉妬で一杯になった。ならば、自分もマリアにお願いすれば良さそうなものだが、若い男にありがちなプライドのために、フリードにはそれが出来なかった。
ジグムントの方は、そうしたフリードのお上品ぶりを内心では半分憐れみ、半分嘲笑っていた。彼はもはや、恥や外聞、他人の思惑などというものから超越しており、この年でまだ毎日のように性欲があり、マリアという美しい旅の連れ合いに恵まれた事を幸運としていた。まったく、この世に生まれて、しかもこの年になって、マリアのような美少女と寝られる事くらい幸運な事はあるまい。
しかし、パーリャも近くなってくると、フリードの強情も揺らぎ始めた。もうすぐ、この美しいマリアとはお別れなのだ。
ある日の午後、昼飯のために休憩した時、フリードは顔を真っ赤にしながら、マリアに言った。
「マリア、僕と来てくれ」
ジグムントは、(やっと強情を捨てたか)、という顔でフリードを見た。
マリアは、嬉しそうにフリードに頷いて付いて来た。
「もう私の事を嫌いなのかと思ってました」
林の中で、マリアはフリードに言った。
「嫌いなもんか。だって、君はあの爺さんの相手ばかりしているじゃないか」
「だって、あの人も私の恩人ですもの」
これに対して、フリードは言う言葉が無かった。
「君は、誰の相手でもするのか。そんなの……娼婦じゃないか」
「娼婦とは、マグダラのマリアのような人でしょうか。よくわかりませんが、私はただ、恩を受けた人に恩を返そうと思って……」
「だからって、何も、こんな形でなくたって」
「だって、私にほかに何があるのでしょう。フリード様は私を抱きたくないのですか?」
「そうじゃない、僕は……」
フリードには、これ以上論理的な説明はできなかった。自分がマリアと「したい」と白状する事は、まるで自分が動物的な人間であるかのように聞こえるし、「したくない」と言えば嘘になる。
「僕は……あなたを抱きたいのだ。だが、あなたをほかの奴に抱かせたくない」
「そんなの、無理ですわ。私はあの方を嫌いではないし、あの方が私を求めますもの。私を求める人を、どうして拒めるでしょう」
もはや言葉は無駄であった。フリードは、敗北感を抱きながらマリアと性交し、精神は惨めであったが、この上ない絶頂感を感じて肉体は満足したのであった。
林から戻るとジグムントが皮肉な目でフリードを見た。
「満足したようだな。マリアは満足させたか?」
「はあ?」
女を満足させるなどという考えは、フリードの頭にはまったく無かった。いや、一部の上流階級の漁色家などを除いて、この当時の男のほとんどは、女にも性欲があるなどという考えは持っていなかったのである。
「仕様の無い奴だな。女の体に火をつけたままにしとく気か。どれ、この青二才の後始末をわしがつけてやろう」
ジグムントはマリアの手を引いて、林の中に連れて行った。マリアが嬉しそうにその後を付いて行った事が、フリードに屈辱感を与えた。
やがて、林の中からマリアのすすり泣くような声が聞こえてきた。もちろん、快楽の泣き声である。
フリードは石の上に腰を下ろし、両手で耳を塞いだ。
再び戻ってきたマリアは、顔を上気させ、足元がふらふらしていた。
「私、もうあなた達と離れられない。お願い、私をあなた達の端女にでもして、連れていって下さい」
マリアはジグムントにすがりついて、言った。
「それもいいが、まずは両親に会わんとな」
ジグムントは、優しく彼女の髪を撫でながら言った。
昼食の間、フリードは黙りがちであった。なぜ、この若くたくましい自分よりもマリアはこの年寄りを選ぶのか。そこには、自分の知らない秘密の技術がありそうである。
(畜生、俺は力であらゆる美女を手に入れてやる。女に愛されるのではなく、女を奪うのだ)
屈辱感から、普段の善良さにも似合わずフリードはそんな野蛮な事を考えながら昼食を終えた。善人でも、いつでも善人らしく考えるとは限らないものなのである。
こうしたフリードの鬱屈を晴らす機会は、そのすぐ後に訪れた。
第七章 ビエンテの夜
「まずは旅籠じゃな。ビールでも一杯やって疲れを直そう」
ゆったりと馬を歩ませて町に入りながら、ジグムントは言った。汗と埃にまみれた顔は、早くも喉を通るビールの味を想像して、弛んでいる。こんな時代にビールがあったのかと疑う、作者の私よりも無知な読者のために言っておくと、ビールは紀元前から知られた飲み物である。ただし、もちろん、冷蔵庫でキリキリと冷やされたビールなどというものは無い。良く冷やされたビールを飲む喜びは、下戸どもが何と言おうと、現代に生まれた大きなメリットの一つである。
ビエンテの町は、他の町に比べて裕福らしく、石造りや煉瓦造りの立派な家が多い。しかも、道路に砂利が敷かれているのにフリードは驚いた。ローラン国の首都でも、道は土のままで、雨がふるとひどいぬかるみになるのが普通である。
「この道では、馬には少々可哀想じゃな」
ジグムントは呟いて馬から下りた。フリードたちもそれに習う。
やがて、フリードたちは旅籠を見つけ、中に入ってビールを注文した。
「さすがにくたびれたのう。これで風呂に入れれば、ぐっすり眠れそうじゃ」
ジグムントは生ぬるいビールを三杯飲むと、すぐに酔いが回ったらしく、先に部屋に引き上げた。
フリードとマリアは言葉少なに夕食を終え、それぞれの部屋に入った。フリードとジグムントは同じ部屋だが、マリアの部屋は別に取ってある。
その夜、フリードの部屋の扉が小さくノックされた。フリードはベッドから起きて扉を開けた。マリアが外にいた。
「お話があります。私の部屋に来てください」
フリードは胸をどきどきさせながらマリアの部屋に行った。
マリアは、しばらくためらっていたが、やがて思い切ったように言った。
「フリード様は、私がお嫌いですか?」
「い、いいえ、嫌いだなんて」
「では、私を抱いてください。それとも、山賊などに汚された女の体を抱くのはお厭ですか」
「まさか、そんな事は考えたこともありません」
「わたしは、フリード様が好きです。でも、私はこのような汚れた身。山賊から救われたお礼をすることもできません。せめて、もし、お厭でなければ、私の体を自由にしてください」
「そんな、あなたは汚れてなどいない」
「ならば、どうぞ……」
マリアは言葉をとぎらせた。
マリアの申し出を断るのは、かえってマリアを傷つけることだと、フリードにも分かった。
「本当に、いいのですね」
フリードは、マリアをベッドに横たえ、その耳元に囁いた。
「ええ……」
マリアは恥ずかしそうに言った。
月光が、窓から差し込んでいる。
その光の中で、フリードはマリアの着ているものを脱がせた。
真っ白な裸身が彼の前にある。神々しいばかりに美しいとフリードは思った。
……
以下、元の文章ではおよそ一ページくらいのエロシーンがあったのだが、この文章が公表されると作者の幼い娘たちに対して父親の威厳が保てなくなるので、残念ながら割愛する。読者は、自分で想像するように。
……。
フリードはすっかり満足して、大きく溜め息をついた。
マリアは裸の上半身をベッドの上に起こしてフリードにやさしくキスし、呟くように言った。
「これで、少しでもお礼になったかしら。でも、もうすぐでお別れなのだから、こんな女の事など忘れてね」
「忘れるもんか。マリア、パーリャに着いた後も、会って貰えないか」
「分からないわ。お父様やお母様が、どうするか」
夜が明ける間際まで、フリードはマリアと共にベッドの上にいた。若いフリードだから、最初の交合の後すぐに元気を取り戻し、二度、三度とした事は言うまでもない。
名残を惜しみながら自分の部屋に戻ると、同じ部屋で寝ていたジグムントが声を掛けた。
「どうだったかな。マリアとうまくいったか」
フリードはどぎまぎしながら闇の中で頷いた。
「え、ええ」
「若いというのはいいのう。だが、お前さんたちが結ばれて良かったわい。パーリャに着くまでお前があの子に手を出さなければ、よっぽどわしが頂こうかと思っとった。あんな美人を目の前にして手を出さんのは、間抜けだぞ。その点、あの山賊どもの方が余程賢いわい。欲しいくせに我慢する、その我慢で何がどうなるのじゃ。食いたい物はさっさと食わねば、二度とあるとは限らん。それがこの世の真実というものだ」
ジグムントは起きあがって、言った。
「さて、わしもマリアにお願いしてみようかな。お前たちのせいで、何だかむずむずして、このままでは寝られぬ。あの子が厭だと言えばそれまでの話。言ってみる価値は十分にあろう。それとも、お前はそれを止めるか?」
フリードは、あっけにとられた。ジグムントのような老人が、まさかこんな事を言い出すとは思いもしなかったからだ。
「い、いいえ。それはマリアの気持ちしだいですから」
「そうかな。それがお前の本心だとはわしには思えん。だが、お前がそう言うなら、そうしておこう」
ジグムントは部屋を出て行った。
残されたフリードは、呆然と佇んでいた。まさか、自分の保護者だとも理解者だとも思っていたジグムントが、このような仕打ちをしようとは。しかし、マリアがあのような老人を相手にすることはあるまい、と考えて、フリードは自分の心を慰めた。
だが、ジグムントはそのまま二時間ほども帰ってこなかったのであった。
第八章 男と女についての思弁的駄弁
翌朝、遅い朝食の席で、フリードは、マリアと顔を合わせる事ができなかった。昨夜の自分との間の出来事よりも、その後ジグムントとどうなったのかが気になって、マリアの顔が正視できなかったのである。その心理は、自分でもよく分からない。マリアが、自分に対して恥ずかしいだろうから、彼女の顔を見るのが悪い気がするのか、それとも、そんな事を気にする自分の心がちっぽけで恥ずかしいのか。
ジグムントは、帰ってきてからも、何があったかは、意地悪く、言わなかった。今朝もいつも通りに、いや、いつも以上に上機嫌で、マリアに冗談口など叩いているが、マリアとジグムントがいつもより馴れ馴れしく見えるのは、自分の気の廻しすぎなのだろうか。そんな事を考えていると、フリードは自分が厭になってきた。
もしもマリアがジグムントと寝たのなら、こんな誰とでも寝るような女など忘れてやる、とフリードは幼稚な決心をした。彼のために弁護するなら、男というものは、女の純潔や貞潔を神聖なものと思い、女が自分のためだけの物であることに異常なまでの誇りと喜びを感じるものであり、トルストイの「クロイツェル・ソナタ」に見事に描かれているように、自分の女と信じていた女の「裏切り」ほど男を絶望させるものはないのである。
女性は、その時の自分の感情がすべてであり、性的な情熱の前では、いかなる道徳も女を縛れない。だからこそ男の作った道徳は、女を縛り付けることに重きを置いているのである。たとえば、中近東あたりでは、男が女の体に触れる事を厳しく戒め、買い物の釣銭の受け渡しすら、手渡しはしないという。これは、女性が肉体的な接触に興奮しやすいものであることから来ているものであり、昔の人間は、女性をそういう誘惑から遠ざけることで道徳的な危険性から守っていたのである。これはある意味では一つの叡智だが、女性を縛り、苦しめるものでもあった。女が性的に解放された現代では、逆に男が自らの偏狭な「倫理」によって苦しむ世の中になったわけで、昔、女を苦しめたつけが男に回ってきたわけだ。
男は愛する女が過去にも未来にも自分ひとりだけのためのものである事を望むが、女にとっては、今この時に男が自分を愛し、自分に尽くし、自分に服従してさえいればいいのである。女性はむしろ浮気な男の心を自分に向けさせることに情熱を傾けるものである。どちらかといえば、堅物の男よりも浮気者の男の方が女にはもてるものであり、この事をバルザックは「女というものは、他の女が興味を持たないような男には興味を持たないものだ」と言っている。
女性は概して、自分自身の考えよりも他人の評価を重んじるものである。(ただし、世の亭主たちは知っているとおり、自分の亭主の意見にはまったく耳を貸さないものだが)他の女の目から見てから評価されない男は、男として価値が無いと、女性は心の奥底では考えている。したがって、一人の女にもてたければ、人気者になって女全員にもてねばならない。もっとも、これは一般論であって、中には世間的評価と関係なく男を好きになる女もいるにはいるし、ヤクザのような最低の人間を好きになる女は数え切れないほどいる。(このことは、女性が世間の道徳よりも、男の「力」を重んずることの証でもある)つまり、女が興味を持つ対象になるかどうかは、恋愛の出発点にしかすぎないのである。男でも、美貌に恵まれているというだけで女たちから興味を持たれる存在になることはよくあるが、そういう人間が本当にもてているとは限らない。このことは、女に本当にはもてたことがない作者が保証する。数学的に言えば、この事から作者は美貌であることに……ならないか。
女にもてる男というものは、結局は女好きな男、女にまめな男に限られるのである。相手が自分に欲望を持っているからこそ、女性もその男を好きになるのであり、女より本やテレビゲームが好きな男が女にもてるわけはない。ついでに言うならば、一般の女にもてない作者も、自分が興味を持った女性(というのは、たいていは美しい女性だが)からは、自惚れではなく、なかなか好感を持たれるのである。しかし、作者は家庭が何よりも大事なので、それ以上に進めないというのが辛いところだ。
このような脇道に話が逸れるのを嫌う向きもあることは知っているが、私は小説の良さとは作者とのお喋りにあると信じているので、このような十八世紀イギリス小説風の無駄話が時折出てくるのは許して頂きたい。スターンだったか、「脇道こそ小説の太陽である」とか言っているが、まったくそうだと作者は考えているのである。
ついでに白状しておくと、この小説の書き方もまったくスターン流で、つまり「最初の一筆は作者が書く。しかし、その後どうなるかは神のみぞ知る」というもの、要するに、何の構想も当てもなく、思いつくままに書いていくだけである。しかし、もしもこの小説に何か自由で気楽な雰囲気が感じられるならば、それはこの書き方が小説の神様の神意に叶っているせいだろう。まったく、世の中に見事な小説は腐るほどあるが、作者自身が楽しんで書いている小説は、滅多にないのではなかろうか。そのせいで、「上手いが面白くない。ケチのつけようはないほど見事だが、さっぱり楽しくない」という小説がやたらに多いのである。かの夏目漱石も、「吾輩は猫である」や「坊ちゃん」の頃は、作者自身が楽しんで書いている事がはっきり分かるが、その後の真面目小説になると、明らかにその楽しさは無くなっている。
おそらく、その真面目小説のお陰で彼はちゃんとした作家であると認められ、教科書にも取り上げられるような文豪となったのだろうが、山田風太郎氏などのように、彼の傑作は「猫」と「坊ちゃん」である、と断言する慧眼の士もいるのである。
ついでに、そういう事が気になる向きに教えておくと、マリアは実際にジグムントと寝たのであった。詳しくは次の章で述べるが、彼女は、山賊たちに拉致されるずっと前から、ほとんどが強姦される形ではあったが数回の性体験はあり、山賊の女とされた経験の後では、自分の貞操などというものにはもはやまったく価値はないと考えていた。だから、自分の体が欲しいという男がいたら、それがよほどいやな男でない限りは、誰にでも自分の体を提供する考えになっていたのである。
見かけと実際のこうした食い違いは世の中に結構あるものであり、まったく手の届かない清純な美女と思っていた女が、案外簡単に男に身を任せるという事は多い。ある人物の客観的価値と、本人の自己判断による価値とは別物なのである。そのために、下品なブスが、自分をとんでもない高値で売ることに成功することもあれば、天上的な美女が、つまらない男にあっけなく身を任せることもある。いや、女性は、自分を望む男に身を任せるのが常だから、強引で卑しい男ほど、美女を手に入れるものである。ゲーリー・クーパーのようなシャイな美男子が美女を手に入れるのは、ハリウッド映画だけの話である。
ある昔の漫画の中で、美女に惚れた醜男を慰めて、その友人が、「あきらめてはいけないよ。だって、あの人は悪趣味かもしれないじゃないか」と言うのがあったが、確かに相手が悪趣味なら、ブスや醜男の方が有利かもしれない。要するに、自分の主観だけで最初から決め込んでしまってはいけないということである。
さて、脇道が思いがけず長くなった。しばらくはこのような無駄口は叩かず物語の進行に努めるつもりなので、真面目な読者は安心して貰いたい。
第五章 山賊の後宮
二人が砦に入った時は、残る山賊は逃げ去った後だった。しかし、そこに二人は思いがけない物を見た。
砦の奥の部屋を開けると、そこに若い娘が二十人ほどもいたのであった。
山賊達に拐かされてきた娘たちであった。おそらく、この近辺の村の娘たちか、街道を旅する商人の娘だろう。
娘たちは、二人が山賊たちを倒した事を知って、歓声を上げた。
フリードとジグムントは、思いがけない光景に、目を見合わせた。
ジグムントは、さらに奥の部屋を探索し、留守番の山賊が持ち逃げし損なった財宝類を掻き集めてきて、それを娘たちの前にぶちまけた。
「お前達、山賊の慰み者となって傷物になった以上は、普通に結婚するのは難しいだろう。これを皆で分け、家への土産にするなり、商売の元手にするなりしたらよい。金さえあれば、結婚しようという馬鹿、いや、結婚相手も見つかるぞ」
娘たちは再び歓声を上げた。
「これこれ、奪い合いをするでない。公平に、公平にな」
ジグムントが娘たちに言う間に、フリードは物問いたげに自分の方を見ている娘に気が付いた。
「君は? どうして貰わないの」
娘は寂しげに微笑んだ。
「お金なんて。……自由になれただけで十分ですわ」
その娘は、娘たちの中でも特にきれいな顔をしているだけに、フリードは彼女に心引かれるものを感じた。
「あのう……」
その娘がフリードに言った。
「お願いがあります。図々しい願いかもしれませんが」
「どんな事ですか」
「私たちをそれぞれの家まで送って貰えないでしょうか。先ほど、二人逃げていったという話ですが、山賊はここ以外にもいます。家に戻る途中で山賊たちに遭えば私たちはまた連れ戻されてしまいますから」
フリードはジグムントの方を見た。
ジグムントは頷いた。
「よかろう。その娘さんの言う通りだ。このまま山賊に連れ戻されては、仏作って魂入れず、だからな」
古臭い俚諺でジグムントは娘の申し出を承諾した。
山賊達の馬は、全部で十三頭残っていて、その馬が役に立った。娘達を二人ずつ馬に乗せて旅をすることができたからである。
娘たちの数は、正確なところ、二十一人だった。皆、十人並み以上の顔をしているのは、ここに連れてきた娘たちの中で顔のまずい者は、最初に殺されていたからである。それを目の前で見せられた娘たちが山賊たちの意に従わざるを得なかったのは当然だろう。
その二十一人の娘たちをそれぞれの家に送り届けるのは、大変な苦労であったが、その苦労というのは、娘たちのお喋りのためであった。奴隷の身から解放された嬉しさからか、娘達はひばりのように陽気になってはしゃぎ、中にはフリードに大胆にモーションをかける(死語)娘もいる始末であった。そのへんは、娘とはいえ、山賊たちの夜の相手をしてきた娘たちであるから、女を知らないフリードに太刀打ちできるわけがない。しかし、フリードは、あの寂しげな顔の娘を意識して、他の娘とそういう関係になることができなかった。
ジグムントの方は、老人のくせにこの思わぬハーレム状態にすっかり大喜びである。娘達と卑猥な冗談に打ち興じて大笑いをしている。それどころか、夜にはどうも、娘たちの寝所に行って不埒な事をしているようである。
ともあれ、最後から二人目の娘を家に送り届けた時は、フリードはほっと一息つき、ジグムントは残念がった。
最後に残ったのがあの寂しげな顔の娘であったのは、フリードにとっては嬉しいことだった。
娘の名はマリアと言った。抜けるように色が白く、うるんだような大きな黒い瞳に長い黒髪。いかにも若い男が惚れそうな、絵に描いたような美少女である。
彼女は、フランシアの首都、パーリャの商人アキムの娘だということである。体が弱く、小さい頃から東の保養地で療養しながら成長し、体も丈夫になったので、都の両親の所へ戻ろうとする途中、山賊達に襲われたのであった。
第六章 憲法第九条?
山を下りてフランシアに入ってからすでに半月ほどが過ぎていた。あたりの風景は、ローラン国とはだいぶ違って平野が多く、田畑も多い。作物は小麦かライ麦が多いが、ブドウ畑も多く、またフリードが見たこともない作物も見られる。
季節は初夏で、爽やかな気候は旅には最適であり、しかも隣にマリアという美しい娘がいるので、若いフリードは幸福そのものだった。なにしろ、生まれてから十七になるまで育った村には、女は百人くらいしかいず、その中で適齢期の娘は十人くらい、となると、その中に美人のいる確率がゼロに近いことは言うまでもない。その中ではまあまあの顔をした娘が、自分こそがフリードの未来の嫁だと勝手に決め込んでフリードにまとわりついていたが、フリードはこの娘にもまったく興味は持てなかった。美人が一人もいない自分の村の女たちから推測して、彼が世の中の女全体に期待を持たなくなったのも当然だろう。マリアという娘の美しさは、彼の女性観そのものを変えるものであったのだ。
マリアは無口な娘で、自分から話をする事はほとんど無く、問われた事に答えるだけであったが、やはり山賊の女にされていた事が心の傷になっているのだろうと、フリードは彼女の心を推察していた。
娘たちをそれぞれの家に送り届ける度に馬が余っていったので、その余った馬は悪い馬から順に売り払っていき、ジグムントとフリードの懐には金がたっぷり出来ていた。この当時、馬は人間以上に価値があったのである。従って、九頭分の馬の代金というと、まず普通の町人なら一生遊んで暮らせるくらいの金額であった。
馬に乗っているお陰で、重い鎧を運ぶ苦労も無く、しかも山賊の根城にあった武器類には槍、剣、盾などもたっぷりあったので、フリードとジグムントの武器も今は充実していた。と言っても、それらの武器は、今の所、馬の背に乗せているだけだが。山賊の残した武器類は、もちろん二人が身につけるのに十分な以上にあったが、その大半は通りがかりの町で売り払い、金に換えてある。
「パーリャまでは、まだだいぶ遠いのですか」
フリードはジグムントに聞いた。
「そうだな。あと五日くらいかかるかな」
「やはり、広い国ですね。それに、平和そうだ」
「さあな。わしには、庶民が生活に満足しているようには見えんがな」
「そうですか?」
フリードは驚いて、小麦畑で畑仕事をしている人々を見直した。彼と目が合った百姓は、慌てて目を逸らした。フリードを騎士だと思って、恐れている様子である。
「そうですね。何か、びくびくしているみたいです」
「どこの国でもそうじゃよ。武器を持たぬ者たちは、武器を持った階級を恐れ、その意に従わざるを得んのだ。人間が人間らしく生きるには、この世の中では、武器を持つしかない」
「いいえ、違います」
珍しく、マリアが憤った口調で言った。
ジグムントは、大人しいマリアのこの反応に驚いて、彼女の顔を見た。
「皆が武器を持って争い合うなんて、間違ってますわ。皆が武器を捨てればいいのです」
ジグムントは、穏やかな微笑を浮かべてマリアを見た。
「お嬢さん、それは理想というものじゃよ。わしは今のこの世の中の話をしているのだ」
「分かってます。でも、人々が心に理想を持たないから、今の世の中があるのではないでしょうか。人々が、自分の欲望よりも良心を重んずるようにならないと、この世の中はいつまでたっても野獣の世界のままですわ」
ジグムントは肩をすくめて議論を打ち切った。この事は、長い隠者暮らしの間に何度も彼自身考えてきた事であり、結局は、人間性自体が変わらない限り、この世から暴力と闘争は無くならない、そして、世界中の人の人間性が変わることは不可能だというのが彼の結論だった。
人間性そのものを善とし、変わり得るものと考えるか、それとも悪とし、変わり得ないものと考えるかは、主観の問題であり、議論しても平行線を辿るだけであろう。
フリードも、大人しいマリアの、この激した態度に驚いたが、言葉を挟めずにいた。こちらは、この種の問題についてまったく考えた事も無かったからである。彼は善人だったが、反射神経の男であり、単純に自分がするべきだと思った事を反射的にするだけの人間であった。こういう人間は、自分の考えや行動について分析する習慣もないから、議論はできない。現代人なら、まったくの阿呆扱いされるタイプの人間、出世のできない人間である。むしろ、フリードたちのような腕力の時代に生まれたほうが良かった人間も、現代の人間の中にもたくさんいるだろう。作者自身、腕力は無いものの、口先で生きるよりは剣で生きたほうがずっといいと思っているのである。
やがてフリードたち一行の前に町が現れた。ローラン国なら首都になれる大きさだが、フランシアの町としては中くらいだろう。
「ビエンテの町じゃな。ここで休んでいくことにしよう」
ジグムントの言葉に、フリードとマリアは頷いた。
第三章 騎士への道
六畳ほどの大きさの室内には、大きな木箱のようなベッド以外には家具らしい物はない。部屋の壁には、聖者の像が棚に載っていて、お灯明が上げられている。窓から見えた明かりは、この灯明であった。
「御覧の通り、ここにはベッドは一つしかない。床に寝て貰うしかないが、それでもいいかね」
老人は、フリードをじっと見て言った。
老人は、年の頃は五十くらいだろうか。背が高く、肩幅が広く、まだ腰も曲がっていない。骨太のがっしりした体は、若い頃何かで鍛えたものらしく思われる。頭はてっぺんがほとんど禿げて、灰色の髪がその禿頭の周りを後光のように囲んでいるところは、何やら神々しい感じさえある。しかし、その目は、鋭かった。
「もちろん結構です。屋根と壁さえあれば、文句はありません」
「食事はパンと水しかないぞ」
「それも結構です。私が干し肉と炙り肉を持っていますから、それを一緒に食べましょう」
「ほう、炙り肉とは有り難い。ここのところ肉とは縁がなかったから、肉の味を忘れておったところだ」
老人は部屋の隅にあった大きな樽を運んできて、それを食卓にした。
「そのベッドに腰掛けなさい。わしはこっち側に座る」
樽の上に置かれた炙り肉を老人は手に取って、逞しい歯で噛みちぎった。まだ、歯が抜ける年ではなさそうだ。
「うむ、美味い。年は取っても、やはり肉より美味いものはない」
老人は美味そうに兎の炙り肉を食い尽くした。
「ところで、お前はどうしてこんな山の中を歩いておる」
「フランシアに行こうと思って旅をしているのです」
「ほほう、どうしてだ」
フリードは返事に困ったが、嘘をつくことに慣れていなかったので、つい本当の事を言ってしまった。
「実は、人を殺して逃げているのです」
「ほう、そんな無邪気な顔をして、お主は人殺しなのか。どんな事情で殺したのだ」
老人は面白そうな顔をした。フリードの言葉に驚いた様子はない。
フリードは、この老人が自分の人殺しの話を少しも怖がらないので、安心して、村を離れた事情を話した。
老人は、頷いた。
「そんな事か。それならお前には罪はない。父親を救うためにお前が役人に刃向かったのは、息子としては当然だ。だが、それでお主は居場所を失ったわけだな。そいつはとんだ災難だった。しかし、何が自分の幸いになるかは分からん。お前には、これからいいことがあるはずだ。お前は、いい顔をしている」
「あなたには、人の運命が分かるのですか? あなたは魔法使いですか?」
「そんなものではないが、人の運命は性格によるものだし、性格は人相に現れるものじゃ。悪相の善人などいた例はない。もっとも、美男がいい人相だというわけでもないがな。わしの知っている極悪人は、この上ない美男だったわい」
フリードは、老人の言葉の端々から、この老人が数奇な運命を送ってきた人間であるように感じた。
「あなたは、どんな方なのですか」
フリードは思い切って老人に尋ねた。
「おお、言い忘れておった。わしはジグムントと言って、フランシアの騎士だった者だ。長い間あちこちの戦場で人殺しをしてきたが、そんな暮らしに嫌気がさして、ここに籠もって隠者のような暮らしをしているのだ」
騎士と聞いて、フリードの目が輝いた。騎士になることは、フリードの長い間の憧れだったのである。
「騎士の身分を捨てるなんて、もったいない」
「なあに、お前だってその気になれば、すぐに騎士になれるさ。どこかの戦場に潜り込んで敵の大将の首を一つ上げればいい。それを手みやげに仕官するのだ」
「そんな簡単なものですか」
「どこの国王も、腕のいい騎士は欲しがっている。ただし、そのために金を使うのはいやがるから、鎧兜を自弁して、馬も自弁できるなら、いつでも騎士として召し抱えるさ」
「そんなものですか」
「そんなものだ。世の中というものは、表を見れば雁字搦めだが、いくらでも抜け道があるものさ」
ジグムントの言葉は、フリードを考え込ませた。自分は生まれた時から平民で、それ以外の身分になれるなどと考えたこともなかったが、そうではなかったのである。
「もしも、お前が騎士になりたいのなら、わしの武具をお前にやってもいいぞ。昔の記念に取って置いたが、どうせあの世までは持っていけん。先ほどの炙り肉の礼に、お前にやろう」
ジグムントは、ベッドにしている木箱の上のマットを上げて、木箱の蓋を開けた。
木箱の中から取り出したのは、見事な作りのプレートメイル、つまり、板金鎧である。兜や籠手もついている。木箱の奥から、老人はさらに、立派な剣を取り出した。
「どうだ。なかなか見事な剣であろう。戦場で何人もの敵を倒してきた業物だ」
老人が鞘から抜いた剣は、獣脂でも塗ってあったらしく、錆一つついてなかった。さすがに、研いでないだけ輝きは鈍かったが、いかにも実戦で使われた物らしい風格がある。
「今のわしでは、これだけの重さの鎧を着ては動けん。お前はなかなか逞しい体をしておるから、大丈夫だろう。どうだ、わしがお前の従者をしてやろうか」
「えっ」
フリードは自分の耳を疑った。
「いや、話をしているうちにもう一度世間を見たくなってきたのだ。このまま栗鼠や猿を相手に山の中で死んでいくのもつまらん。わしはお前の顔が気に入った。お前さえよければそうしてもいいが?」
「従者だなんて。私があなたの従者をするならともかく」
「騎士も従者も同じようなものだ。それに、この年では、騎士よりは従者の方がわしは気楽だ。戦場で命を賭けて戦うのはお前に任せる」
「分かりました。それなら、是非お願いします」
「だが、騎士になる以上は、いつ剣で命を落としても後悔するなよ」
「分かってます。剣一つで名を挙げるのは、ぼくの夢でしたから」
「本当のところ、戦場では、剣はあまり役に立たんよ。少なくとも、プレートメイルを着た相手には、長柄の斧か棍棒の方がよほど役に立つ。わしは、剣は、斬るよりも殴りつけるのに使ったものだ」
ジグムントは、剣を片手に颯爽と戦場を駆け巡る自分の姿を思い描いてうっとりとなっていたフリードの想像に水を掛けるような現実的なことを言った。
その晩のフリードの夢は、未来の自分が騎士の身なりで戦場に出ている姿だったが、敵の騎士(なぜかジグムントのような気がした)に棍棒で馬から叩き落とされるという、あまり威勢の良くないものだった。
第四章 山賊よりも山賊
翌日、朝食の後で、老人は自分の荷物をまとめ、フリードと共に小屋を出た。例の鎧兜は箱に収めてフリードが担ぐ。重さは、三十キロ、つまり子供一人分くらいあるだろうか。さすがの剛力のフリードも、この荷物を背負って山越えをすると考えると、気が滅入った。
「剣くらいはわしが持ってやろう」
ジグムントは、額に汗を浮かべているフリードの後から、気楽そうに歩いてくる。荷物は、杖のほかは、小さな皮袋を腰につけているだけだ。
「まったく、プレートメイルなどというものは、戦場以外では場所ふさぎなものだ。重ければ、捨ててもかまわんぞ」
老人の言葉にフリードは首を横に振った。こんな財産を、まさか捨てることができるわけがない。
「どこかで馬を手に入れたいところだが、山を越えるまではそれもまあ無理だな。疲れたら休むがいいぞ」
「いいえ、あなたこそ、無理なさらず」
礼儀正しいフリードは、老人を労る事を忘れないが、大荷物を背負ったフリードと、身軽なジグムントでは、どちらが従者か分からない。
荷物運びのほかに、フリードは食料の調達もしなければならない。木の枝に鳥がとまっていたりしたら、荷物を置いて弓を構える。
父親譲りの弓の腕でフリードが獲物を射止めるのを見たジグムントは、びっくりした。
「お主、凄い弓の腕だな。それだけの腕があれば、国王付きの弓隊に入れるぞ」
「いえ、私は、射撃手ではなく、騎士になりたいのです」
「まあ、確かに射撃手は、騎士より一段低く見られているからな」
ジグムントは、頷いて言った。
国境の山脈は、低いが広い。見渡す限り森林が続き、いつになれば出られるとも分からない。隣国フランシアへの山中の道はあるにはあるが、ここからはかなり離れているので、山の中を歩くしかない。
山に入って何日後か、フリードとジグムントは、山の中に不思議な物を見た。木を組んで作った要塞である。山の斜面を利用して作った小さな砦だ。規模から言えば多くても二、三十名くらいしか収容できないだろう。
「あれは?」
「うむ、おそらく山賊の砦だな。ここを根城にして、麓に出ていって強盗を働いているのだろう」
ジグムントは、フリードを見て、にやりと笑った。
「どうだ、一つ力試しをしてみんか?」
「力試し?」
「そうだ。二人で山賊共をやっつけるのだ」
「たった二人でですか?」
「そうさ。お前の弓の腕なら、遠くから何人か倒すことができる。相手の人数が五人以下になれば、二人でも何とかなるだろう。まあ、剣での戦いは任せておけ。プレートメイルさえ着ていれば、少々の剣の打撃には耐えられる。こっちが動くのも大変だがな。しかし、わしは弓は苦手だから、わしがプレートメイルを着て戦うしかあるまい。幸い、ここ数日の山歩きで、体調はいい。若い頃の半分くらいの力は出せるだろう」
若い頃の半分の力で、五人もの敵の相手ができるものかな、とフリードは疑わしく思ったが、ここはジグムントを信じることにした。山歩きをしていても、確かにジグムントの身のこなしは、相当な武術の達人であると見えたからである。
フリードとジグムントは、砦を見下ろす事の出来る崖の上に登って、砦の中を眺めた。柵で囲まれた砦の中には馬場があり、馬小屋がある。馬小屋には馬が五頭ほどいるようだ。しかし、山賊の人数が五人程度かどうかは分からない。山賊は今、仕事で「出張中」かもしれない。
「人間の数は?」
ジグムントがフリードに聞いた。老眼で遠視のジグムントだが、若いフリードの方が元猟師だけに遠くまで細かく見える。
「今いるのは二人です」
「少なすぎる。おそらく留守番だな。本隊が戻ってきた時に、人数が十人くらいなら、やることにしよう。それ以上は危険だ」
ジグムントはあくびをし、プレートメイルを着たまま、剣を抱いて木の根元に座り、居眠りを始めた。こういうところは年寄り臭いが、相当に剛胆でもある。
日がかなり斜めに傾いた頃、遠くから数頭の馬の足音が聞こえてきた。
ジグムントは目を開けてフリードを見た。
「来たな」
やがて視界の中に山賊たちの姿が入った。フリードは目を凝らして人数を数えた。夕陽を受けて、馬に乗った男達の鎖帷子や頭の鉢金の金具が輝いている。その身なりや人相の悪さは、やはり山賊以外の何者でもない。
「十二名です。砦の中の留守番を加えたら十四名。どうします?」
「十四名か。迷うところだな。……フリード、お前、矢で何人倒せると思う」
「七名か八名。やるなら、今です」
「よし、一か八かだ。行け! 矢を射るんだ」
頷いて、フリードは矢を射た。
その矢は、群れの先頭にいた悪党面の男の胸に突き立った。
男は驚いたような顔をして、馬から落ちた。
続けてフリードは矢を射る。二人目、三人目がそれぞれ胸にあるいは首に矢を受ける。
山賊達は周章狼狽して、馬の首を反対方向に向けるのもいれば、崖の上のフリードたちを見つけてそこに近づこうとする者もいる。
四人目、五人目と狙ったが、さすがに上からの矢を防ごうと盾を構える者もいて、なかなか倒せない。だが、こちらに近づこうとする者は、いい的だった。百歩以上の距離では外しても、五十歩くらい先の的をフリードが外すことは決してない。
ジグムントに言ったとおり、八人の人間を倒したところで、山賊たちの残りが崖の背後の斜面からフリードたちの所に登ってきた。砦の中の留守番を除いて、残り四人である。
「おっと、お前たちの相手はこのわしだ。フランシアにその人ありと名を知られたジグムントの剣を受けるがよい」
ジグムントは時代がかった台詞を吐いて、その前に立ちふさがった。
完全装備の騎士の姿を見た山賊たちは戸惑ったが、相手がたった二人と知っていきりたった。
「この野郎、俺達を相手にたった二人で戦おうとはいい度胸だ。膾に切り刻んでやる!」
こちらも陳腐な台詞で掛かってくる。
ジグムントはむしろ緩慢にも見える動きでその攻撃を受け止める。時には受け損ねて体に剣が当たるが、板金の鎧に当たっても相手の手が痺れるだけである。
一方、ジグムントが振り下ろし、切り払う剣は、山賊たちの薄い革製の防具や鎖帷子を物ともせず、山賊たちは次々に血しぶきを上げて倒されていった。やはり、力任せに剣を振るだけの山賊とは違い、剣の刃先がちゃんと合っているから斬れるのだろう。
フリードはその見事な剣さばきに見とれるばかりである。
ジグムントは、とうとうフリードが援護をするまでもなく、四人の山賊を一人で片づけたのであった。
「ジグムント、あなたは素晴らしい剣士だ!」
感激したフリードは、ジグムントに声を掛けた。
「なあに、昔執った杵柄という奴さ。だが、正直言って、少々草臥れた。腕の立つ相手があと一人いたら、やられたかもしれん」
ジグムントは肩で大きく息をついて地面に座り込んだ。三十キロもあるプレートメイルを着て三十分近く戦うのは、かなり大変な事のようだ。
「さて、砦の中の二人を片づけるか」
一休みした後、ジグムントは先に立って崖を降りていった。